《”2021夏富士(1)!?!” 》 “ダイヤモンド富士”“パール富士”どちらも富士獄あってのこと。 日本人にとって誇れる自慢できる山、独特の優美さがある。 偶然、そんなイメージとはちょっと趣の違う姿を夏に見た。 静岡県の身延山側、上空から見た姿、迫力があった。 令和参年(皇紀2681年)9月19日、記」
《”パール富士!?!” 》 “ダイヤモンド富士”ならぬ“パール富士”というのもある。 ダイヤモンドは、太陽を指す名前だが、パールは、月を表す名称。 どちらも幻想的だ。雑事にかまけて最近は、見ていない。 相模湾沿いからの富士姿を時折追いかけてみたく思う。 令和参年(皇紀2681年)9月18日、記」
《”ダイヤモンド富士!?!”2021/Aestas 》 夏の湘南海岸、三浦半島西側・・葉山~城ヶ島、ここからの富士獄の眺め!! 真夏の夕暮れ“黒富士”も絶景だが、今ひとつ長年見れていない光景がある。 僕の感覚の中で最も美しい姿、と思って止まない相模湾方面からの富士の雄壮。 而して数十年来、拝んでいない“ダイヤモンド富士”を今一度拝みたい!! 三浦半島からの“ダイヤモンド富士”を見たいと準備をしていたが、曇天で☓。 来年に期待したいが、相手は天気。。。!! ダイヤモンド富士。相模湾沿いからの富士姿、やっぱり好みだ。 令和参年(皇紀2681年)9月17日、記」
《ガレ場を好む楽しい花”米葉栂桜”!?!》 コメバツガザクラ(米葉栂桜); 北八ヶ岳・北横岳したの坪庭で観た花。6月初め(八ヶ岳南北各所で見れる)。 エゾノツガザクラ、アオノツガザクラ等と同じく砂礫地、岩礫地の地面を這うように育つ。 高山の岩場に生える「ツガザクラ」の仲間だが、葉が広く「コメバツガザクラ属」。 「コケモモ」に似ているが、花が丸っこく口がすぼまっている違いがある。 また、花が3輪1セットで咲く。花冠は、白色で長さ4-5mm、先端は浅く5裂し、雄蕊10本。 ハイマツ帯の風衝草原や雪田周辺にカーペット状に広がるようだ。 ツガザクラの様な針金状の葉ではなく當に米葉でである。 * * * 今、この坪庭と呼ばれるすぐ近くまで北八ヶ岳ロープウエイで行かれる。 麓の北山地区山麓駅(標高1,771m)から山頂駅(同2,237m)までを約7分で駆け上がる。 山岳パトロールのバイトをしていた1965~6年は建設中で見回りに時折参った場所。 この地の建設現場で黒曜石が見つかった事もあって調査に参加した。 このロープウエイ開設当初(1967年)は、「日本ピラタス横岳ロープウェイ」と呼んでいた。 令和参年(皇紀2681年)9月9日、記」
《稜線近くで観る黄色い花”三葉黄蓮”+α!?!》 ミツバオウレン(三葉黄蓮); 背丈が低く、他の植物の下になって名前由来の三葉を見ることは割りと少ない。 漢方薬の薬草の オウレン に似、葉が3枚あるのが名前の由来。 花びらのように見えるのはガク片で、黄色く小さなのが本物の花びら。 和名の由来は、オウレンに似て3小葉を持つ事。又、根茎を黄連ということから。 根茎は黄色~橙色。葉は根生し、3出複葉。小葉は、無柄で鋭い鋸歯縁、厚く光沢がある。 細い花茎の先に直径約1㎝の花を1個だけつける。萼片は5個、白色の花弁状で大きい。 花弁は長さ0.8~1.6㎜、棍棒状の黄色の蜜腺だけになっている。雄蕊は、長く30~60個。 オウレンは キクバオウレンやセリバオウレンを含めた広義の Coptis japonica を指し、 一般的にはキクバオウウレンを指す。小さな白色の花弁がある。 * * * * * 八ヶ岳連峰には、南八ヶ岳連山と北八ヶ岳連山がある。総じて八ヶ岳連峰と呼ぶ。 連峰の東側麓の小海線沿線は、観光開発が進み悪く云えば俗化してしまった。 初めて清里の駅に降り立った頃は、駅前に雑貨屋さんが一軒あるのみだった。 大きな建造物といえば、清泉寮と八ヶ岳ロッジ(国民宿舎・今はない)位だった。 野辺山は、国鉄(現JR)駅として最高高度の駅としては知られていたが。。。! 他方、八ヶ岳連峰の西側麓は、余り開発されておらず、緑が色濃く残っている。 硫黄岳稜線を北に下り夏沢峠を西に少し下った森林の中にオーレン小屋がある。 この山小屋名は、薄黄黄蓮に由来すると聞いた。 1965・6年の夏にオーレン小屋には大層お世話になった。 64年夏は、長野営林局の山岳パトロール(監視)のバイトでよく利用させて頂いた。 翌年は、厚生省の山岳指導員(国立公園関係)で数度寄らせて頂いた。 懐かしい。当時の小屋主さんが現役でご活躍に由。一度訪ねてみたい。 令和参年(皇紀2681年)9月8日、記」
《囈(30)“山のバイトで出会った高山植物(1)”》 ウルップソウ(得撫草) ; 高1の赤岳登山に始まり、高3の夏に北八ヶ岳を歩いた。色々な花と出会った。 大学に入学して山行資金を貯めるため山でのアルバイトができないか、と探していた。 山小屋の見習いアルバイトをしたが、一箇所にいるのが嫌で半月努めてやめた。 幸運な事に営林署の山岳パトロールのバイトを紹介して頂き、その夏は山中を歩き放題。 そこで最初に見つけたのが、南横岳~硫黄岳の間の砂礫地で見つけた、ウルップソウ。 長い花穂を伸ばし青紫色の花をつける。日本では横岳と白馬岳、礼文島でしか見れない。 1819年に発見された地が花名となった。かつては、北海道根室支庁得撫郡に属していた。 ウルップ島(得撫島)は北方領土4島のすぐ北側で現在はロシアが実効支配している。 日本政府は国際法上、帰属未定地であるとしている場所。 名前由来は、アイヌ語で「紅鱒」を意味する「ウルプ 」。古くはハマレンゲ(浜蓮華)と称していた。 葉は、卵円形または広楕円形で厚い肉質・縁が波状重鋸歯、表面は濃緑色で光沢が ある。 7月~8月になると花茎を伸ばし多数の花をびっしりと付け、下から咲き上がる。 花穂は円柱形で各花に苞葉がある。花は青紫色、雄蕊は花冠上唇基部に付き花弁より短い。 八ヶ岳では横岳のお花畑に群落がある。横岳から硫黄岳に向かい少し下がったところ。 環境省レッドリスト準絶滅危惧(NT)。 「令和参年(皇紀2681年)9月6日、記」
《”自然保護運動家が好んだ柳蘭”》 ヤナギラン(柳蘭); 尾瀬沼東の大江湿原、そこには、茎高3mもの柳蘭が見える。 あの光景をして、“柳蘭の丘”と命名された御仁がおられた。 ヤナギランという植物、花が下~上へと順次咲きあがっていく。 雄蕊だけの花が先に開き(熟して花粉を出し)花粉を出し終えると、 雌蕊の花先が熟して十字に開いて柱頭が現れ受粉する。 なんとも不思議な、自家受粉を避ける仕組み!?! 雄蕊が熟す間を雄性期、雌蕊が熟す間を雌性期という由。 こうした仕組みを雄性先熟と呼び、変った生態をみせる植物が柳蘭。 草名の由来は、葉が柳に似て、かつ花が蘭のように美しいことから。 北米では山火事跡に大発生することがあり、fireweedと呼ばれている由。 柳蘭、茎は直立し分枝しない。根茎は太く、長く伸びて群生する。 葉は互生で披針形、細かい鋸歯あり。葉柄はなく、裏面は帯白色。 紅紫色の花は、直径4㎝前後。花は、下から上へと咲きあがる。 花弁は4枚、長さ1~1.5cmの倒卵形で先は円く短い爪がある。 萼片4個、長さ1.5cmの線形で4個、外面に屈毛が生え、花と共に落ちる。 雄蕊は8個で雌蕊より先に熟して花粉を出す。雌蕊は1個。 初め曲がった雄蕊の葯が裂開したときに直立し、のちに4裂して反り返る。 園芸植物の様に艶やかな花、夏の高原を代表する花として登山者に人気だ。 欧州アルプスの標高2000m辺りで自生しているエピロビウム・フレイスケリ。 茎高20~40cmで日当たりの良い岩礫地や氷河の推積土の上などに群生。 その光景を若い時、実際に目にした。可憐な花、の一言だった、と思い出す。 又、柳蘭似で茎高低く4~30cmで花が大きい姫柳蘭(キタダケヤナギラン)がある。 日本には自生していないと言われた昔だが、昭和61年に北岳で発見された。 葯が裂開する前から花柱は反り返っている。実際に見たものが同種か否か?? 僕にとって思い出深い大江湿原にある柳蘭の丘(初めて行った頃は無名だった)。 病弱だった小学3年生の夏、両親と大学生、総勢10名で尾瀬の植物観察に行った。 鳩待峠~山の鼻小屋泊~龍宮小屋泊~長蔵小屋泊~沼山峠。 植物観察が目的の山歩き、植物写真撮影が目的だった故、ゆっくりと歩けた。 長蔵小屋周辺で遊びまわった思い出はあるが、はっきりと覚えていない。 それにしても山行中、出会った登山者は、数名だった。今では!?! 長蔵小屋で親達が何か話をしていた間に大江湿原を小屋の人が案内してくれた。 そこは、長蔵小屋創設者の故平野長蔵さん一族の墓所がある神聖なる場所。 しっかり覚えていないが、大学生になっって親から聴いた事等、然と記憶にある。 故平野長蔵さんの御子息でもある故平野長英氏が命名した“柳蘭の丘”。 平野長英氏のご子息、長靖氏、このお二人は、自然保護運動の先駆者。 今ある尾瀬の環境保全に尽力されたが、長靖氏は、36歳の若さで遭難死。 環境庁が創設され初代長官が残した第一の功績に尾瀬の環境保全がある。。。! その保全に奔走されていた長靖氏の遭難死は、言葉をもてなかった。 令和参年(皇紀2681年)9月5日、記」
《南八ヶ岳・赤岳周辺の花!?!》 ツクモグサ(九十九草); 八ヶ岳で特筆される高山植物は、ツクモグサだろう。本州では八ヶ岳と白馬岳で自生する。 八ヶ岳の赤岳から硫黄岳間、特に「横岳」周辺の西斜面に集中して 自生している。 学名通り日本固有種。あとは北海道の数山にしか自生していない希少な植物。 八ヶ岳の稜線付近では、6月上旬から咲き始め7月頃まで花を見せてくれる。 北海道の利尻山、ポロヌプリ山、ニセイカウシュッペ山、ニペソツ山、芦別岳、ピパイロ岳、 そこから 東北の山々には存在せず、八ヶ岳・後立山連峰にのみ、不思議だ。 又、ツクモグサは梅雨時に咲くが、雨や曇りだと花は開かない。故に中々お目にかかれない。 草丈15cm。花の直径約3cmでニンジンのように細かく裂けた掌状の葉がある。 葉は3枚輪生、花弁状の萼の外側には軟毛が密生している。 花茎の先端に1個、上向 きに2.5~3cmの淡黄色の6弁花(花弁状の萼片)をみせる。 オキナグサより花は大きく、花茎も葉も咲き初めは長毛 に覆われるが、やがて無毛になる。 漢字名の「九十九草」、この花を八ケ岳で発見した山草愛好家の城数馬(じょう・かずま)が、 敬愛した父の名「九十九」を付けたと言われている。 城 数馬は1864(元治元)年に久留米藩士の家に生まれた。 司法省法学校を経て帝国大学法科大学仏法学科を卒業し弁護士として活躍した人物。 山・野草の愛好家で日本山岳会の創設(1905年)にも参加した山屋でもあった。 東京大学理学系研究科附属植物園日光分園(通称、日光植物園)の開設 にも参加している。 八ヶ岳では、ツクモグサを始めウルップソウ、ミヤマツメクサ、クモマナズナ等の新種を発見。 多くの植物愛好家が”花の山”八ヶ岳を登るき っかけをもたらしたと言われている。 八ヶ岳では、まだ沢筋に雪が残っている時期に稜線でひっそりと咲いている。 だが、麓から稜線(自生地)までは短時間で到達できる(登山自体難しくない)。 そんな利便性で心ない登山者・写真撮影者が増えていると聞く。 安易に登山道を離れ山中を歩きまわることはやめて欲しく希する。 九十九草開花頃は、多くの高山植物はまだ発芽していない。 高山植物は、繊細だ。一寸踏むだけで、成長直前の新芽には大きなダメージ。 登山道においても植物を踏まないように慎重であって欲しい。 「令和参年(皇紀2681年)9月4日、記」
《南八ヶ岳・赤岳周辺の花!?!》 ミヤマオダマキ(深山苧環); ヤマオダマキ や オオヤマオダマキ の高山種。園芸種としても低地で栽培されている。 草丈10~25cm。茎は直立し分枝しないか、上部で分枝する。 根元から出る葉は数個で2回3出複葉。小葉は扇形で先は浅く裂ける。 葉柄は長さ3.9~19㎝。葉表は無毛、葉裏は無毛~わずかに有毛。 側小葉は斜めにつき扇状~倒卵形。中央の小葉は広倒卵形~扇状で3裂し鈍い歯がある。 花序は1~3個の花をつけ、苞は線状披針形、長さ4~7㎜、1~3裂する。 花は直径4㎝前後。小花柄は長さ1~2.5㎝。萼片は傘上に広がり青紫色で楕円状倒卵形。 花弁は青紫色~白色~黄白色、ほぼ直立し、広惰円形、長さ0.7~1.2㎝、先は鈍い。 距は紫色、広長惰円形、先は鉤状に内側へ巻き、蜜をためる。。 雄蕊は花弁とほぼ同長。仮雄蕊は白色、長さ約8㎜。雌蕊5個、無毛。子房は長さ約6㎜。 和名は花の形を、昔、麻糸を巻いた苧環に例えた。高山・夏山を彩ってくれる花。 礼文島では海の近くに群落を作って咲いている。本州高山ではここまで群落にならない。 ヤマオダマキ Aquilegia buergeriana は萼片が紫褐色。距があまり曲がらない。 山に生えるオダマキにはもう一つヤマオダマキがあり、山地の草原や林縁に生えている。 花色は赤紫色で丈も大きい。どちらもキンポウゲ科の例に漏れず有毒。 ※ ※ ※ ※ ※ 高校1年の夏、林間学校??で八ヶ岳山麓の清里に滞在したおり赤岳登山をした。 引率主任の先生は、物理学校(現東京理科大で山岳部のキャプテンを務めた山男だった。 その先生に高山植物を教えて頂いた。更には、卒業するまで色々とご指導頂けた。 八ヶ岳は、高山植物の宝庫。出かける前に両親から資料等、色々教わり出掛けた。 「令和参年(皇紀2681年)9月3日、記」
《”PARIS・BREST”ホールケーキと横須賀市!?!》 暑い夏も終わるか???こんな季節感、若い頃を思い出す。 1964年、東京オリンピックを目前にした夏から秋の出来事。 湘南の海、江ノ島は、オリンピックヨット会場として活気に満ち溢れ。 24吋ランドナー(自転車)に乗ってあちこち、写真を撮りに回っていた。 わくわく・・35mm、50mm、135mm、生意気にも携えて(総て親のを拝借)。 高校写真部での活動。三浦半島の自然は、よか場所だった。 交通費は、ゼロ。己の足で懸命に稼いで、、鎌倉から4~50kmは楽々。。。! おかげで、ミヤタ(自転車製造・茅ヶ崎市)の工場にも出入りさせてもらえた。 そこで知ったのが世界の自転車レース。当時は、強く関心を持たなかったが。 自転車は、交通手段。ロードなんて、高価で手がでなかったし非実用的で。 大学生になっても時折、自転車通学。身体トレーニングも兼ねて一石二鳥だった。 自転車ロードレースに関心を持ったのは、ケーキ屋さんでの会話からだ。 六本木に開店したばかりの仏蘭西菓子店オーナー、A.ルコントさんに聴いた。 お店の2階は、サロン・ド・テ(喫茶店!?!)でお菓子を食べながら、 ツール・ド・フランス(自転車ロードレース)の事も詳しく教えてもらった。 今年もツール・ド・フランス(ロードレース)が行われた(2021/06/26~07/18)。 初日の出発地は、フランス西端フィニステール県(地の果て県)ブレスト。 出発点が、ここブレストなのは、大会史上4回目、前回は2008年だった。 仏蘭西菓子のおかげでレースに関心を持ち始め、こんにちがある。 1968年12月六本木にフランス菓子専門店「A.ルコント」が開店した。 日本で初めてのフランス人パティシエの仏蘭西菓子専門店。 このお店のオーナーシェフパティシエが、“Andre Lecomte”さん。 この方に菓子「パリ・ブレスト」や「ツール・ド・フランス」を教えていただいた。 このケーキ、”パリ・ブレスト”は、ツール・ド・フランス(Tour de France)縁のお菓子。 ツールの前身(モデル)レースが、1891年に「パリ・ブレスト・パリ」(PBP)で行われた。 パリ~ブレストの往復、約1200kmを90時間以内に往復する。 伝統菓子の名称由来は、諸説あるがこのレースの開催を記念して作られたが有力な説。 パリのロングイユ通り(コース沿道)にあった「メゾン・ラフィット」という菓子店の職人、 ルイ・デュラン氏が考案したと伝えられている。 ※ ※ ※ ツール・ド・フランスは、スポーツ新聞ロト(L'Auto・今のレキップ紙)が、 ライバル紙に対抗して企画されたのが始まり。 自転車レースを企画していた他社とは、ル・プティ・ジュルナルがパリ~ブレスト往復、 ヴェロ紙がボルドーパリを主催していた。 この中で最も古いのが”パリ・ブレスト・パリ(Paris-Brest-Paris,PBP)”、 1891年に第一回大会が開催されている。 このレースをモデルに出来たのがツール・ド・フランス、つまりは、フランス一周レース。 ※ ※ ※ ”A.ルコント”さんは、東京オリンピックの仏蘭西菓子シェフとして来日された方。 以後、終生、日本で仏蘭西菓子発展に寄与された方である。 当時、自転車で訪れ2階のサロン・ド・テで飲食する者などいなかった?? 頂いているケーキに色々と解説をしてくださった。その一つが「パリ・ブレスト」だ。 リング状に絞ったシュー生地にクレーム・プラリネを挟んだリング状ホールケーキ。 その姿は、自転車の車輪をイメージしている(直径30cmはあっただろう)!?! 上には、アーモンドスライスをたっぷりとあしらって。。。 又、上にアーモンドが無く中にクレーム・シブーストを使ったものはパリ・ニースと呼ぶ由。 中に挟むクリームにもイタリアンメレンゲを加えた軽いバタークリームを使ったり、 カスタードを加えたり、シャンティを加えて軽やかにしたり。。。 お店によって、シェフによって少しずつアレンジされて楽しい。 *パリ・ブレストそしてパリ・ニース・・共に現役のロードレ-ス* (パリ・ブレストは、今はブルベ(Brevets)スタイルで開催されている。 タイムや順位ではなく、制限時間内での完走を認定するアマチュアレース!?!) A.ルコントさんは、正統派の菓子職人。こだわりも凄かった!! バースデーケーキをお願いすると、四角いケーキが常、マジパンを使ったものとか。 また、バタークリームを多用されていたと記憶する。実に美味だった。 そして僕の最も好きだったものにルコント特製??のクロワッサン、絶品だった。 懐かしく思いだすが、淋しい限りだ(年老いた証かもしれない)。。 前話が長過ぎたが、今年のツール・出発点がブレストということでパリ・ブレストケーキを。 思い立って、ルコントさんのお弟子さん蛭町裕司(コム・アン・プロバンス)さんに注文した。 氏のイメージで作ってくださったホールケーキ、パリ・ニース的で美味のひとこと!! ブレスト市と云えば、横須賀市が姉妹都市として交流している。 日本の近代化に貢献した横須賀製鉄所。その創設に尽力した二人の偉人。 幕末の勘定奉行小栗上野介忠順と仏海軍造船技師フランソワ・レオンス・ヴェルニー。 ヴェルニーが勤務した仏蘭西海軍工廠があるブレスト市と横須賀市は姉妹都市となった。 提携して50周年以上になるが、ヴェルニーを記念してJR横須賀駅前に公園ができている。 戦後、臨海公園と呼ばれていた所を整備して、ヴェルニー公園と謳っている。 海上自衛隊基地、在日米海軍基地、そして国防の要、防衛大学校もある横須賀市。 我が青春時代の東京オリンピック、老人としての今回の東京オリンピック。 2大会を見る経験!!と楽しみにしていた異国の友だが、再会は延期。 オリンピックに関係なく機会を持ちたいと祈り希しているところ。 「令和参年(皇紀2681年)9月1日、記」