今日の夕日は、この年見た中で最も美しかった。
空に浮かぶ雲が、いくつか階層になっていて、その階層ごとに夕日が反射する色合いを作り、多くのグランデーションを空に引き伸ばしている。絵の具をキャンパスに撒き散らしたかのように。
無言のうちに息子としばらく見とれていると、自然と以下の聖歌が去来して来ました。
(1)
夕べ雲焼くる 空を見れば
主の来たり給う 日のしのばる
(繰り返し)
ああ神の前に われ勤しまん
業やむる時の 間近き今
(3)
その日をば待てる 我らなれば
悩みも涙も など避くべき
2000年前、オリーブ山近郊から天へと引き上げられて行かれたイエスは、再び地上に帰って来られるとの約束を残されました。
その日の様子をゼカリヤ書が以下のように予言しています。
"これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。"
ゼカリヤ書 14章7節
夕暮れどきの美しい光を見ると、この聖書のお言葉ゆえに主の再臨を想起したのでしょう。
そしてコロナ渦中にあって、今までの私たち全世界が経験したことのない社会の変革を迎えようとしています。
聖書が予言する主の再臨前の大艱難時代の様相に近づいているのを見るにつけ、この御言葉と聖歌が想起したのでしょう。
「われ勤しまん」
今までと同じような働きはできないですが、現在できることを勤しむ者でありたいと願ったのでした。
隣にいる息子は何を願ったのだろう?
今年も変わらずに端午の節句がやってきた。
この時期日本ではゴールデンウィークである。
風薫る5月。
誰もが新芽に新しい命を感じ、新緑のまぶしさに心踊らせる。
昨年の5月1日はどんな日であったろうか。
30年続いた平成の世が終わり、令和元年、新しい世に入った時であった。あの時は日本の国中がお祝いムードの華やかさにあり、現在の自粛ムードからすれば異次元の世界だった。
浮世の興奮や沈痛さとは無縁の様に季節は巡り、我が家にも兜のお飾りを据える時が来た。
戦国や江戸時代にも人口の大半を失うような疫病の蔓延がかつてあった。
その都度、我々の先祖たちは乗り越えてきたのだった。
我々にだってできないはずはない。
侍の文化を受け継いでいるのだし。
エイヤ〜。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「あなたの立っている場所は聖なる地」
出エジプト記 3章1~6節
"モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。
神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。"
(序論)
聖書の「聖」と言う意味について。
qodesh.......分離、専用、特別な
Sacred Farm
縁切寺・東慶寺は、Sacred temple for wives desiring divorces
あなたの今立つ場が「聖」
①「この大いなる光景」(3)〜時に自然発火する現象であるがこの時は柴が燃え尽きないのが不思議。ありふれた日常生活の場面が「聖」となり得ることがある。
②ペテロにとってガリラヤ湖上の自らの舟上・仕事場であり、ペテロにとってダマスコ途上の街道であった。
そこが生涯を一変させる特別な場となった。
あなたの前に立つ方は「聖」
①「あなたの足の靴を脱げ」
聖なる方との関係が、出会いがその場所を聖なる場所するのであり、場所自体に意味がない。この方との関係において人は僕としての立場でしかあり得ない。
②「私はあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」ー民族の歴史に刻まれた契約のことであり、その物語が前提。
あなたのすることが「聖」
①何のために神はここでモーセに命じておられるのか。
80年間の教育期間を終えて、いまや契約を「思い起こ」(2:24)す時が満ちたのである。
②イスラエル人をエジプトの手から救いだし、約束の地に上らせるため(3:8)
困難はあったとしても神が計画された規定路線は必ず成就する。
(結論)
あなたの今いる場所、そして成すことが聖なるものとなるため、聖なる方を見上げよう。
ようやく散髪ができました。素敵な美容師さんに感謝します。
Finally I got haircut. Thank you for this great stylist.
ホサナキリスト教会ではLineを用いてのオンライン日曜礼拝を行います。
以下のQRコードで検索してライブビデオ礼拝に参加してください。
YouTubeでのライブ発信を試みたのですが制約があってこれは無理なようです。LINEではグループでのビデオ通信が出来ると聞いていますが、不確かなところもあります。礼拝開始時間前にテストのためにこちらにまでビデオ通信をお寄せくださっても結構です。
なお礼拝は全て日本語で行います。
日曜礼拝開始時間・米国西部時間午後5時から(日本時間の午前9時から)。本日米国時間では4月19日(日曜)、日本時間では4月20日(月曜)となります。
パンデミックの不安と不自由さの中、神様の御守りと平安とが行き渡りますように!
復活の主にあってシャローム。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「聖書の伝える信仰」
ヘブル人への手紙 11章23~27節
"信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。
信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、
はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。"
(序論)
ヘブル書11章は「信仰の章」とも呼ばれていて信仰者の列伝が紹介されている箇所。「信仰によって」のフレーズが22回も見出される(新改訳)。
理解する信仰
①「大きな富と思った」(26)〜キリストのゆえに受けるそしりとエジプトの宝とを天秤にかけて理性的に判断した
②その理由〜報酬を計算に入れたから
やがていただく報酬はエジプトの宝に勝るもの。
永遠的な尺度での価値判断があった。
行動する信仰
①習ったこと理解したことを実践した。
エジプトの宮殿を離れイスラエル人と共に生活をした(25)
王の反対を受けながらも出エジプトを断行(27)
②次の展開として反対と後悔がやってくる。それを乗り越えるアドバイスや助言が必要。
恐れや不安、反対や迫害。無理と思われることや後悔にも直面する。
その時にコーチや助言者を得よ。アロン、レウエル(イテロ)やホバブなどがモーセに与えられた。
憩いの信仰
①王の命令を恐れなかったモーセ(27)やその両親(23)。
命令に背く事は命をかけることであり、彼らに恐れがなかったはずはない。
②反対勢力や、逆境の局面において真の意味で守りや平安を体験できる。
(例)巨大な反対勢力に囲まれた時、ルターは神が力であり砦あることを見出した(詩篇46:1)
(結論)
よりよく信仰理解するために聖書学び、学んだことを実生活で実践し、この嵐のような疫病の中でも平安をいただこう。
昨日のレニア山。
昨日の夕日。日没は7時50分でした。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「見て、信じた」
ヨハネの福音書 20章1~10節
"さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。"
マグダラのマリヤの「見た」(1)〜「 ブレポ」
①主に物理的に見る、観察する。5節の墓の内部を外からペテロが「見た」のも同じ語句。眺めた。
②その結果は、これまでの自らが積み上げてきた経験による判断と思い込み。そして悲観と絶望(2)。
ペテロの「見た」(7)〜「セオレオー」
①注目する、経験する、分析のために見つめる。
英語のセアター(劇場)の語源。俳優が演じる背後にある意味を汲み取ろうとする。
②事もなく見える福音書記事の中から驚くべき卓越性を把握することができる。
2人の弟子たちの走力、性格、洞察力の相違が分かる。
頭に巻かれた布と、体を包んだ亜麻布の配置位置と様子。
ヨハネの「見た」(8)〜「エイドー」
①その背後にある意味を理解、比喩から本質につながる昇華、精神的に見る。 “I see what you were saying”
②後に墓の中に入ったヨハネは、その内部の様子を「見て」、信じるに至る。
聖書を知的に理解したまま、自らの常識にとどまり続ける所の自由主義神学においては、暗闇と失望の中に留まる。
「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」(9)
(結論)
聖書の伝えるイエスの復活が、単なる神学ではなく生活の実態でなくては意味を持たない。
復活の
過去的ー弟子たちの証言する歴史的事件
現在的ー今も生きたもう主が私を支えている
永遠的ーやがて復活の主とお会いする
事実を「見よ」(エイドー)。
往復6マイルのハイキングに息子と行ってきました。
ゴールは岩伝いに流れる50メートルほどの滝です。
旅は人生の縮図だなぁ、とこの時も教えられました。
ハイキングの途中、幾多の困難と出会いました。
息子が蛇を発見すると、その前の晩に蛇に噛まれた夢を見たことから必要以上に彼が恐れたこと。
登山道にはゴツゴツとした岩の急斜面があって、かなりの体力が消耗されたこと。
頂上に残る万年雪からの雪解け水はかなり冷たく、悲鳴を喚きながらの滝ごりとなったことなど。
これらを乗り越えてみると、その困難が大きいほど達成した時の成果や喜びも大きいことに気づきました。
その夜は疲労困憊のため発熱したほどの喜ばしい成果がありました。
本日の午後ワシントン州知事からの指令があって3月中旬からすでに休校になっている小中高の全公立学校が夏休みの終わる9月まで休校が継続されることになりました。
高校生の息子にとってはこの膨大な自由時間をどのように管理するかが大きな課題となります。と、人ごとのように言ってますが、私自身にとっても外出が許されていない今、自己管理と言う点での課題に直面しているところです。
教師の仕事を始めた初年度のキャッシーにとって、その担当する学年の子供たちには年度末まで会えないことが寂しくてならないようです。
大きなインパクトを社会に与え今後少しずつ変わっていくようです。
ホサナキリスト教会での日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「はっきり分かりました」
使徒の働き 10章34~43節
"そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです。
それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、すべてのことの証人です。人々はこのイエスを木にかけて殺しましたが、
神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
民全体にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちに現れたのです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられた後、一緒に食べたり飲んだりしました。
そしてイエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。
預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。」"
⑴ “気づき”が確信に変わった
①ユダヤ人としてのそれまでの生き方がパラダイムシフトされる〜食物規定に厳格であった(14)
②「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」(15節)〜こんなことが3回あった。
それまでの行き方が崩壊しつつあった。
⑵天的な裏付けのある確信であった
①神ご自身のご性格と調和がある(35-36)
「このイエス・キリストはすべての人の主です」
②聖書の御言葉の裏付け(43)
"主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」"
イザヤ書 49章6節
⑶信仰生活が内的確信に導かれる条件
健全な信仰生活に留まり続けること
神への畏れ(35)、罪悪感からの自由(35)、他者からの評判(22)
②祈りの習慣と営み(9)
③時の状況や摂理(17)
(結論)
内なるものが永遠者に結びつけられた時、そこから受ける納得を「わかる」と言う。この内的確証こそ聖書の宗教の主座である。samel Wesleyが臨終の床でその内的保証の重要さを繰り返した。
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