I can’t wait beauty salon reopen, so my lovely stylist cut my hair again.
理容店が再開されるまで待てなかったので、素敵な美容師さんが再びヘアカットしてくれました。
すごーい東北弁。
姿、かっこうは西洋人なのに言葉も中身も東北人になりきっている人って不思議な感じ。
さりげなくシアトル地区の全牧師の名前を読み上げながら宮沢賢治の詩を歌いあげるだなんて、、、、
こんな牧師がシアトルにいるって皆さん信じられますか?
https://m.youtube.com/watch?v=w3BQVdTw_Ng&feature=youtu.be
「年に1ギルダー(70円)ほどです。借地料として政府に納めています」
司馬遼太郎が1989年にオランダ•ライデンを訪問し、そこにある日本人小学校の校舎使用料について聞いたときの返答。
時に日本はバブルの真っ只中で、土地ころがしの狂騒が日本中に沸いていた頃。
当時65歳だった司馬さんは、その旅でヨーロッパ観が修正されたと言う。さらに、
「文明とは人が心地よく日々を生活でき、社会から受ける害が少ないほどに生活できるシステムのこと。そういう意味で日本は未だ未だだと思う」と書いている。
江戸の200年間を通じ長崎の出島でオランダから世界の文明を学んだ我々であるが、今なお学ぶべきことがありそう。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「平安があなた方に」
ルカの福音書 24章36~43節
"これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。"
イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた(36)
①弟子たちの罪や死に対する恐れ、思い煩いと戸惑い、疑問と混乱。少なくとも3名がこの時点で復活の主とお会いしている。
②「平安があるように」イエスを端っこに追いやる事はいつでもあり得る。真ん中にお迎えする時に黒い雲が晴れていく。
なぜ取り乱しているのか(38)
①彼らは驚き恐れて霊を見てるのだと思った
霊体の復活が肉体を伴っての復活か?
②焼き魚を召し上がった
人間としての完璧な肉体を持っての生涯あり死であり復活であった。グノーシス主義・仮現論への反証。
わたしの手やわたしの足を見なさい
①そこには鉄杭で打たれた傷跡がある
パリサイ人、弟子たち、群衆らの罪ゆえの傷
②「彼の打ち傷によって私たちは癒された」(イザヤ53:5)
主が完璧な人間の肉体を持たれたがゆえにその傷を受けられた。この事実にこそ私たちへの癒しの道が開かれている。
(結論)
死は全てを解決するものでは無い。ここに生存している世界にあって、私の精神的・肉体的な病と傷は、主の肉体に刻まれた傷によって癒される。
今日は珍しく雲もなく、落日がオリンピック半島の山々に入るのが見ることができた。ときに午後8時22分。
広大なオリンピック半島は、米国の北西部にある角ともいうべき太平洋に突き出た部分。
昨日はこの辺一帯は雨雲に覆われ雷鳴と稲光に見舞われたが今日はいたって平穏な夕刻。
日本ほどの激しさはありませんが、こちらの天候にも起伏があり毎日楽しませてもらってます。
私たちの人間関係には3種類のパターンがあるそうです。
①出来る限り力になりたい
困ってるのを見て親身になって相談に乗ったり世話をしてくれるあなたの協力者。年が若いほど私たちはこの手の協力者を必要とする。
②出来る限り避けておこう
あなたへの協力を惜しんだり、無視したり、あるいは故意に邪魔をしようとする人たち。どうしてその様な反感を買われるのか、自分自身を吟味する機会を得て、実は①タイプの人からよりも得るものが大きい。
③出来る限り密かに助けたい
あなたのことを①ように助けたいと考えているが、直接的な助けを控える人たち。立場や職業や時間など、様々な制約の中で実行はできないものの、影であなたを応援しようとしている。
どのパターンの人が身近にいようとも得るものはあることになる。私の人生を振り返ると、教師や家族や仲間など多くの③の人々に囲まれてきた。そして今日も私は愛されている。愛を表す相手がいることに感謝します。
今日も交流していただいてありがとうございます。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「クリスチャンとは誰か」
コリント人への手紙 第一 1章1~3節
"神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。"
(序論)
シリア・アンティオキアで異邦人のキリスト信者達が「クリスチャン」と呼ばれるようになった。クリスチャンとは、神からのコール(召し)を受けたものであるとするのが聖書の基本的立場。
天職としての召し
①パウロは使徒としてコール・召された
「使徒」とは特別の称号。イエスの直接の弟子で復活の目撃者である十二使徒の次の範中に属する。自身の使徒職を弁明する必要があった。
②私たちの各人の職業への召し
宗教改革の功績の1つ。天職意識を教会と修道院から持ち出してすべての経済活動へ適応した。
聖徒としてコール・召された
①それは立場的な聖である
「イエスにあって聖なるものとされた」完了形の動詞。すなわち現在、聖であると見なされている。
②ある特定の目的のために分別され、分けられたもの
"大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。
ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。"
テモテへの手紙 第二 2章20~21節
イエスの名を呼び求めている(コールしている)者たち
①神のコールに応答した者達のこと。
神が全ての人に呼びかけ(コール)手を伸ばしておられるのであり、そこにえこひいきや差別はない。
②「恵と平安がありますように」
常に恵が先に届けられ、それゆえに私たちは平安を得ることができる。
(結論)
「嗤われずに生き、疎まれずに死ねば、その人の人生はそれだけで偉大である」(武田鉄矢)
そのような人生を歩むのに必要なものが平安である。
平安を得ることができればその人は成功者であると言える(ある伝道者)
今日の夕日は、この年見た中で最も美しかった。
空に浮かぶ雲が、いくつか階層になっていて、その階層ごとに夕日が反射する色合いを作り、多くのグランデーションを空に引き伸ばしている。絵の具をキャンパスに撒き散らしたかのように。
無言のうちに息子としばらく見とれていると、自然と以下の聖歌が去来して来ました。
(1)
夕べ雲焼くる 空を見れば
主の来たり給う 日のしのばる
(繰り返し)
ああ神の前に われ勤しまん
業やむる時の 間近き今
(3)
その日をば待てる 我らなれば
悩みも涙も など避くべき
2000年前、オリーブ山近郊から天へと引き上げられて行かれたイエスは、再び地上に帰って来られるとの約束を残されました。
その日の様子をゼカリヤ書が以下のように予言しています。
"これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。"
ゼカリヤ書 14章7節
夕暮れどきの美しい光を見ると、この聖書のお言葉ゆえに主の再臨を想起したのでしょう。
そしてコロナ渦中にあって、今までの私たち全世界が経験したことのない社会の変革を迎えようとしています。
聖書が予言する主の再臨前の大艱難時代の様相に近づいているのを見るにつけ、この御言葉と聖歌が想起したのでしょう。
「われ勤しまん」
今までと同じような働きはできないですが、現在できることを勤しむ者でありたいと願ったのでした。
隣にいる息子は何を願ったのだろう?
今年も変わらずに端午の節句がやってきた。
この時期日本ではゴールデンウィークである。
風薫る5月。
誰もが新芽に新しい命を感じ、新緑のまぶしさに心踊らせる。
昨年の5月1日はどんな日であったろうか。
30年続いた平成の世が終わり、令和元年、新しい世に入った時であった。あの時は日本の国中がお祝いムードの華やかさにあり、現在の自粛ムードからすれば異次元の世界だった。
浮世の興奮や沈痛さとは無縁の様に季節は巡り、我が家にも兜のお飾りを据える時が来た。
戦国や江戸時代にも人口の大半を失うような疫病の蔓延がかつてあった。
その都度、我々の先祖たちは乗り越えてきたのだった。
我々にだってできないはずはない。
侍の文化を受け継いでいるのだし。
エイヤ〜。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「あなたの立っている場所は聖なる地」
出エジプト記 3章1~6節
"モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。
神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。"
(序論)
聖書の「聖」と言う意味について。
qodesh.......分離、専用、特別な
Sacred Farm
縁切寺・東慶寺は、Sacred temple for wives desiring divorces
あなたの今立つ場が「聖」
①「この大いなる光景」(3)〜時に自然発火する現象であるがこの時は柴が燃え尽きないのが不思議。ありふれた日常生活の場面が「聖」となり得ることがある。
②ペテロにとってガリラヤ湖上の自らの舟上・仕事場であり、ペテロにとってダマスコ途上の街道であった。
そこが生涯を一変させる特別な場となった。
あなたの前に立つ方は「聖」
①「あなたの足の靴を脱げ」
聖なる方との関係が、出会いがその場所を聖なる場所するのであり、場所自体に意味がない。この方との関係において人は僕としての立場でしかあり得ない。
②「私はあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」ー民族の歴史に刻まれた契約のことであり、その物語が前提。
あなたのすることが「聖」
①何のために神はここでモーセに命じておられるのか。
80年間の教育期間を終えて、いまや契約を「思い起こ」(2:24)す時が満ちたのである。
②イスラエル人をエジプトの手から救いだし、約束の地に上らせるため(3:8)
困難はあったとしても神が計画された規定路線は必ず成就する。
(結論)
あなたの今いる場所、そして成すことが聖なるものとなるため、聖なる方を見上げよう。
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