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つれづれなるままに

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  • ハッシュタグ「#歴史」の検索結果106件

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従軍慰安婦問題を斬る

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日本と韓国の国同士のお付き合いをする上で避けて通れないのが従軍慰安婦問題。

その慰安婦の記念碑建立運動が全米各地で韓国人によって広がっている今、
日本人として無関心ではいられない。

こういった微妙な歴史問題は専門家に任せるべきで、
市井のキリスト者が意見するべきでなく、
対立の構造を深めることにならないか?

そんな懸念を持っていたゆえに、あまり触れないようにして来た。

両国政府の歴史的見解がどうであろうと、
私の大切な韓国人への友情や尊敬にはいささかの変化も無いのは事実。

一方、国家の政治問題に一個人が無関係でいることが出来ないのもまた事実。

この問題を扱うにおいて、最も大切なこととは何か。

それは被害・加害感情を一先ず横に置いての、
冷静な歴史的事実を確認することからではないだろうか。

フィクションの上に友情や信頼関係を築き上げることは出来ない。

意思に反する強制的な性的虐待・奴隷搾取の蛮行が
歴史的事実としてあったのか、なかったのか?

竹島や北方領土、尖閣諸島は歴史的に見てどちらの領土に属しているのか、
つまり客観的に確証できる資料を根拠に論じなければ
どこまでも双方の言い分は平行線に終わるであろう。

この確認作業は
「信じるに値する宗教はあるのか」
という命題にも共通するものであると考える。

人はフィクションの上に、作り話や神話・おとぎ話の類の上に
己の信仰を築くことがあり得るのだろうか?

人はフィクションというウソのために殉教出来るだろうか。

私は聖書の全ての記述は、歴史的に起こった事実の記録であると考えている。

つまり聖書に記された教えも事物も「歴史」の上に乗かっている。

そうでなければ信じるに値しないし、キリスト者であることをやめるであろう。

話がそれてしまったが、
従軍慰安婦問題である。

その歴史的な検証のために、「テキサスおじさん」が活躍してくれているようだ。

その歴史性に立っての、
ウソを糾弾するための署名が10万人を突破したとのことである。

私はまだ署名をしていない。

これを機にしてみようかと思っている。



テキサス親父さんの動画、

http://www.youtube.com/watch?v=ggQaYD37Jm4

絶対証拠:米軍報告書1944年

http://texas-daddy.com/comfortwomen.html



#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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恐怖感は世代継承される?

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秀吉は棄教しなかった26名のキ... 秀吉は棄教しなかった26名のキリシタンを捕えて長崎に連行。
彼らの殉教の地は、長崎駅から歩... 彼らの殉教の地は、長崎駅から歩いて10分程の所にある。


今月4日付き朝日新聞に「恐怖の記憶・精子で子孫に継承」という記事が掲載された。

米国の研究チームが科学誌に発表した論文だそうだ。

オスのマウスにサクラの匂いを嗅がせると同時に脚に電気ショックで苦痛を与える。

やがてそのオスは、サクラの匂いだけで脅える仕草を見せるようになる。

その後メスとつがいにさせて子供を産ませる。

その子供マウスは父親が恐怖を感じたサクラの匂いをかいだ時に、
同様の脅えた反応があったという。

そして孫の世代にも同様の実験結果が得られた。

彼らの精子DNAを調べてみると、
嗅覚を刺激する遺伝子に変化の跡が認められたという。

我々一般の日本人は宗教に対し、特にキリスト教に対して警戒感や恐れの様なものを感じていないだろうか?

それはおそらく豊臣秀吉から始まったキリシタン迫害の277年間と関わりがあるんではないかと。。

先日長崎で出島を訪問して外国人に警戒した仕組み、
踏み絵や5人組制度と言った江戸幕府創出のキリシタン撲滅のための制度、
直視できない残酷極まる拷問から守るために隠れキリシタンとなって潜伏した五島列島、、、

これらに思いを馳せていると、この新聞記事が無関係でない様な気がしてくる。

我々日本人は江戸期の鎖国を通じて
キリスト教信仰に対する抵抗し難い恐怖感を醸成し続けたのだ。

その民族DNAは現代の世代にも引き継がれているのでなかろうか?

そんなことも「日本人のキリスト教に対する一般認識」として
明日のオーナー会でお話することになりそうです。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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カナダの経済状況

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バンクーバーにある中華街入り口 バンクーバーにある中華街入り口 居酒屋風レストランでランチ。そ... 居酒屋風レストランでランチ。その名も「ちょっとずつ」
カナダドルとアメリカドルは、
1.07:1.00の割合で
アメリカドルが高くなっている。

リーマンショック後は、カナダドルが高くなっていたが。。

バンクーバーでは不動産の下落もなかった。
いまだに旺盛な食欲で高騰を続けている。

ガソリン価格はかつてから、アメリカのほうがずっと安く入手できる。

これは石油会社が親方アメリカと結びついているからくりがあるからだろう。

満タンにするのにアメリカでは$60ですむのに
この日のバンクーバーでは$78もかかってしまった。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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熊本

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1588年、加藤清正が3千石か... 1588年、加藤清正が3千石から19万5千石の大躍進を遂げて肥後北半国の領主として入城。 本天守閣と小天守閣とを併せ持つ... 本天守閣と小天守閣とを併せ持つ熊本城。 宇土櫓。 創建当時から残る唯一... 宇土櫓。
創建当時から残る唯一の多層櫓。
地上5階、地下1階で他の城郭では優に天守に匹敵する造り。
天守閣から宇土櫓を見下ろす 天守閣から宇土櫓を見下ろす 大天守閣から。 このイチョウは... 大天守閣から。
このイチョウは、加藤清正入城の際植えられたモノの子孫だそうです。
石垣でも有名な熊本城。算木積と... 石垣でも有名な熊本城。算木積という工法。
「二様の石垣」
天守閣を見上げて 天守閣を見上げて 「天下の名城」の名にふさわしい... 「天下の名城」の名にふさわしい広大な敷地
加藤清正が普請した名城、熊本城を訪れるためホテルを朝7時過ぎに出立。

長崎からは2時間を要する。

正味4時間の持ち時間があったが見所が多くありすぎて
城塞の半分ほどしか制覇出来ない。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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熊本(2)

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名残惜しい熊本城。 名残惜しい熊本城。 あま姫とチーズ あま姫とチーズ 本丸御殿にある「昭君の間」 本丸御殿にある「昭君の間」 昭君の間の天井 昭君の間の天井 宮元武蔵の書。 細川忠利の客分... 宮元武蔵の書。
細川忠利の客分として熊本城近くに居を構える。
あま姫よりも此方とのツーショッ... あま姫よりも此方とのツーショットの方が気が楽でした。
時間がたつのを忘れて城内にいると
気がつけばすでに熊本駅に戻らねばならない時刻となっている。

帰路に差し掛かったとき、美しい姫を発見。

曰く
「わらわは、加藤清正の妹、あまでござる」
とのたもうた。

写真をお願いしたが、その声まで紹介できないのが残念。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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長崎

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市街地に埋もれている出島は現在... 市街地に埋もれている出島は現在も発掘・修復作業中 出島の中にある、当時のままに復... 出島の中にある、当時のままに復元されたカピタン屋敷 大浦天主堂。 ここのフランス人... 大浦天主堂。
ここのフランス人神父のもとに隠れキリシタンが出現する
江戸鎖国政策の下に行われた踏み... 江戸鎖国政策の下に行われた踏み絵 キリシタンであることが分かると... キリシタンであることが分かると拷問による棄教を迫られた グラバー邸 グラバー邸 グラバー邸に隣接する旧三菱ドッ... グラバー邸に隣接する旧三菱ドックハウスのベランダから オランダ坂 オランダ坂

奈良から長崎へ移動。

新幹線と特急を乗り継いで6時間の旅。

必ずや訪問せねばならない街の一つであり
十数年来の夢がこの日かなったことになる。

長崎に特別な思い入れがある理由はおそらく、


①キリスト教受容と迫害の地

戦国時代、鉄砲と共に入ってきたキリスト教は九州で成果をあげ、
3名もキリシタン大名を排出。長崎も宣教の基地となる。

しかしやがて秀吉の九州征伐を境に雲行きは急変して
宣教師の追放や禁教令が発令される。
1597年、各地で捕縛されたキリシタン26名が
磔にされて虐殺されたのは長崎駅のすぐ近く。


②外国貿易の窓口

戦国時代、長崎が 南蛮貿易の主要な交易港となり
江戸時代には出島が設けられ
世界の動静と産物はオランダを通じて日本にもたらされることになった。


③進取新鋭の精神

鎖国が解かれた最初の街の一つが長崎だった。

1859年、幕府と主要な欧州国家との間に通商条約が結ばれて、
横浜、札幌とともにいち早く開港する。

以来、外来ものが怒涛のように長崎を通じて日本に流通する。
ここに目を付けた坂本龍馬は長崎を拠点に維新回転のプロジェクトを進めて行く。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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長崎(2)

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1865年、薩摩藩の出資によっ... 1865年、薩摩藩の出資によって組織された日本発の商社。
坂本竜馬が中心となって神戸海軍操練所出身のものたちで結成。航海技術を生かしての物資運搬や貿易仲介によって、薩長連合の下慣らしをしたとされる。
記念館でポーズ 記念館でポーズ 記念館隣に位置する竜馬のブーツ 記念館隣に位置する竜馬のブーツ 風頭公園の竜馬の視線は長崎港の... 風頭公園の竜馬の視線は長崎港の出入り口にある。
つまり太平洋を見つめていた。
四角い台座から片足が突き出ている。士農工商の四つの身分制を破棄しようとの意気込みを表しているのだそうです。
司馬遼太郎が竜馬の生みの親。 司馬遼太郎が竜馬の生みの親。 川面に反映する半円とあわせてメ... 川面に反映する半円とあわせてメガネの形に見える? 平和記念公園 平和記念公園 26聖人殉教の碑 26聖人殉教の碑
午前中は出島、大浦天主堂、グラバー邸を訪問。

新地中華街で長崎ちゃんぽんをランチに。

午後は亀山社中記念館、めがね橋、
そして路面電車に乗って
浦上天主堂、平和記念館、26聖人殉教地へ。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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飛鳥時代へタイムスリップ

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大化の改新の談合があった山奥の... 大化の改新の談合があった山奥の場所 石舞台。 築造は7世紀始め頃と... 石舞台。
築造は7世紀始め頃とされる
かつてはこの入り口をはじめ、全... かつてはこの入り口をはじめ、全体が表土に覆われていました 石室内部から入り口を眺めて 石室内部から入り口を眺めて 飛鳥時代へタイムスリップ 順序が入れ替わるが、談山神社境... 順序が入れ替わるが、談山神社境内にて。
世界で唯一の十三重塔。
藤原鎌足の追福のため息子たちによって建てられました(678年)
大兼久先生ご夫妻に奈良盆地にある名所を案内していただきました。

先ず向かった先は、談山(タンザン)神社。

別名「談(かたら)い山(やま)」とも呼ばれているその場所は、
読んでその字の如く、ある談合が行われた場所。

権勢を欲しいままに壟断している蘇我氏を撃つべく
中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足が神社境内裏山で密かに密会したのだそうです。

この談合により、645年、天皇の御前で中大兄皇子が刀を持って蘇我入鹿を打ち首にしました。

世にいう大化の改新で、中央統一国家や文治政治の完成という日本史の新しいページを開いたとされます。


続いて行ったのは、
そこから約4キロの所にある「石舞台」と呼ばれている
横穴式石室のある飛鳥時代の古墳。

被葬者は不明とされるが、
6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子という説が有力らしい。
先ほどの大化の改新で粛清された豪族だ。

石室に入って見ると、周囲を覆う石の巨大さに圧倒される。

特に天井部にある二つの巨石は南側が77t、北側が64tもあるそうな。

飛鳥時代の日本人もエジプトのピラミッド建造に負けてなかった。

#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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関ヶ原

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関ヶ原 犬山城。 江戸時代以前の現存天... 犬山城。
江戸時代以前の現存天守閣四つのうちの一つです。
天守閣から東を見渡します。 目... 天守閣から東を見渡します。
目の前の木曽川が伊勢(左側)と美濃(右側)の国境となります。
丸山(黒田隊)と笹尾山(石田隊... 丸山(黒田隊)と笹尾山(石田隊)の前面の平野部が最も激しい死闘が繰り返された激戦地です。 石田三成の布陣地。 目前の平地... 石田三成の布陣地。
目前の平地に両軍10万を越える段軍勢が乱闘を繰り広げたのです。
午前8時頃濃霧が晴れて視界が開... 午前8時頃濃霧が晴れて視界が開けてきた。
井伊直政率いる赤備え一団が抜け駆けをして南天満山前方に展開する宇喜多秀家軍に突然発砲を開始して決戦の火蓋は切られた。同時に戦闘開始を告げる狼煙が丸山(黒田隊)、笹尾山(石田隊)、北天満山(小西隊)から立ち上る。
南天満山の大谷吉継の墓。 小早... 南天満山の大谷吉継の墓。
小早川秀秋の裏切りに呼応した松尾山麓の赤座隊、小川隊、朽木隊、脇坂隊の大群を支えきられずに自害した。


犬山城を立ち名鉄線で岐阜までの間、計画通りには進軍出来なかった。

長良川鉄橋上で信号待ち、次の駅で乗り換えとなり、
このままの進軍速度では関ヶ原のボランティア・ガイドとの
待合せ時間に間に合わなくなる。

大垣駅でも乗り換えの立ち往生があった。

この駅から徒歩15分の所に位置する大垣城は数年前に訪れている。

その大垣城を石田三成を頭とする西軍が
関ヶ原に向けて進発したのが
1600年9月14日午後7時頃と言われている。

今日JRなら14分で終わってしまうも、
当時は東軍に気づかれまいと、
灯火統制や
馬にもくつわを喰わせて静粛統制された
数万の人員が粛々と雨の中を進んだ。

ようやく関ヶ原に到着したのが翌日の午前1時頃。

列車の左手前方に南宮山が見えてくる。
西軍はこの南宮山の南麓を大きく迂回したが、
列車は関ヶ原を東西に貫いている当時の東山道をなぞりながら直行を続ける。

西軍の動きを探知した徳川家康は15日午前2時頃に進軍命令を発して、
先鋒部隊が関ヶ原に達した世の明け方頃には
すでに西軍は布陣を完了していた。

南の南宮山が北側に広がる伊吹山山系に接しようとしている狭隘部が
関ヶ原の東側入り口となっている。

その入り口に達して直ぐに左手に見える低い丘陵が桃配山で、
家康が合戦初期に本陣を構えた場所。

既に列車は東軍の4人の武将たちの陣地を通り過ぎている。
関ヶ原から大垣城方面に有馬富、山内一豊、浅野幸長、池田輝政らの諸隊である。

これら諸隊は最後まで合戦に参加していない。

南宮山頂上に陣を構える西軍の毛利秀元・1万5千の大部隊に備えるためだ。

さらに南宮山の北麓には吸い付くようにして
西軍の安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親らが睨みを効かせている。

関ヶ原に入って周囲を見渡してみると
なるほどそこは四方を小高い山や丘陵地に囲まれた盆地である。

この盆地の東西を東山道が貫いていることは先ほど述べた。
さらにその中央部で北西に北陸街道が、東南に伊勢街道が伸びている。

諸国への街道の交差点であるそこには、
往古の時代、不破の関が置かれていたのは頷ける。

さて、予定よりも1時間ほど遅れて(もちろんその旨はお伝えしている)
歴史民浴資料館へ行って見るとガイドのN氏は待っておられた。

先ず私たちが向かったのは、
合戦の開始を告げる狼煙が上がった関ヶ原北端の丘陵地点である丸山。

そこには東軍の黒田長政と吉田重勝が布陣した。
東軍で唯一の丘陵の上に陣を構えた部隊である。

そこの直ぐ目の前が関ヶ原の激戦地となる。

四方を山に囲まれた関ヶ原全容を見渡して言えることは
明らかに西軍の布陣は圧倒的に有利な地理条件にあるということ。

山の麓に鶴翼の体勢に陣営を広げる西軍に対して
東軍は何れもその下方部に位置する平野に陣を構えた格好となっている。

東軍は言わば、
なだらかな丘陵を下から登山しながら刀や槍捌きをせねばならない。

明治政府のお雇い軍事顧問にドイツ人のクレメンス・メッケル少佐が
関ヶ原に立ち、両軍配置図の説明を受けた時、
即座に西軍の勝利を断言したとの逸話が伝わるが、
素人でもその判断はできる。

関ヶ原を覆う濃霧が晴れ渡った午後8時頃から開戦となり、
西軍有利のまま、一進一退の攻防が約4時間も続く。

正午過ぎ、決戦を決定的に方向付ける異変が起こった。

それまで松尾山山頂でだんまりを決め込んでいた小早川秀秋の裏切りである。

西軍有利に進展していたこれまでの戦いが、
一気に形成逆転となる。

松尾山を駆け下りた小早川隊1万5千6百は、
南天満山に隣接している大谷吉継、
その北の宇喜多秀家、小西行長らを壊滅させながら
鶴翼の最左翼に位置する石田三成に迫る。

迫ったその手前には島津義弘、豊久らがいたが、
彼らは夜明け前の奇襲作戦を石田三成に採用されなかったことに
腹を立てて戦いには参加せず、
傍観を決め込んでいた。

彼らは迫り来る津波のような東軍を前に退却せねばならないのだが、
ここで薩摩隼人の意地を見せるべく無謀にも家康本陣前の敵前突破を敢行。

1千5百の島津隊が伊勢街道を敗走して薩摩まで達したとき、
義弘の手勢は80騎余りとなっていたという。


さて、関ヶ原のガイド案内のことである。

黒田陣地の後、激戦地に立ち、それから
石田三成陣地の北天満山の山麓まで登った。

その後、西軍が崩壊して行った逆のコース、
つまり鶴翼の左端から大谷吉継陣地までを
3時間程かけて歩きながら説明を受けた。

ガイドと一緒に半日で鶴翼に広がる西軍陣地を踏破したことになる。

次回訪問の時には、
1日じっくりかけて東軍陣地をご案内いただきたく願っている。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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岐阜城

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何やら新しいデザインとなってい... 何やら新しいデザインとなっていた新幹線 金華山の山頂に立つ岐阜城 金華山の山頂に立つ岐阜城 岐阜城から長良川を見下ろします 岐阜城から長良川を見下ろします 岐阜駅前に立つ、織田信長像。 岐阜駅前に立つ、織田信長像。 ビジネス関係の工場見学と研修の... ビジネス関係の工場見学と研修の貴重なときも持たせてもらいました。
金華山に頂上に立つ岐阜城。

その裾野を長良川が洗っている。

宿舎はその長良川に面している。
部屋の窓から目の前に岐阜城も、鵜飼いの船着場が見える。

朝一番の入浴と朝食を終えて友人が迎えに来てくれるまでの小1時間ほどを利用して
岐阜城を侵攻?することにする。

金華山山麓、織田信長の住居跡から頂上までの山路が
ハイキングコースとして整備されている。

「瞑想の小道」と洒落た名の付けられた本道は
城まで所要時間が60分と案内板にあり、
その本道から脇道が最短距離で頂上まで突き抜けているのが
「馬の背道」で所要時間は40分。

もちろんその「馬の背道」を選ぶ。
なるほどその名の通り馬の背ほどの狭い幅の断崖を
胸が岩地に接せるほどの急勾配の難所が続く道であった。

時間に追われていた私は、45分ほどで往復したことになる。


友人が経営しているビジネスの社屋で丸一日を過ごした後、
美濃国から木曽川を渡って伊勢国まで友人に送ってもらう。

その夜は木曽川のほとりに構えている
犬山城の近くに宿を取っているためである。

ここで岐阜県でなく美濃、
愛知県でなく伊勢と
あえて旧分国名を使うのには理由がある。

戦国時代の史跡巡りを意識していて、
そのため私の視界の中ではビルや自動車といった近代的な所産は消えて行き、
5百年ほど前の情景を目にしているからである。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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