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「エマオ途上の弟子たち」

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イズレエル平原 イズレエル平原

ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。




「エマオ途上の弟子たち」



ルカの福音書 24章13~33節


"ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、"


(1)無自覚な2人の弟子


①信仰に立てない信者
女性たちの証言(22-23)を信じることができず弟子集団から離れて入れていく2人。
その結果、論じ合うことができても暗い顔つき(17)

② 無自覚の2人に同行されたキリスト
「心の鈍い人たち」(25)と軽く叱責された後、彼らと同じ方向へ歩かれる主


(2)み言葉による語りかけ


①「聖書全体の中」からキリストに関する解き明かし〜人生の「なぜ」に対する究極の答え

②「一緒にお泊まりください」〜求める心(信仰)に応じて主は私たちを扱われる




⑶ 心は内にに燃えて


①目が開かれた(31)〜主イエスの祝福しパンを割くその仕草を見て
「分かった」の瞬間

②屈しない奉仕へ〜エルサレムへ帰還し弟子たちの集団へ
再度復活の主にお会いして内的保障を得た



(結論)
私たちは自覚なくても主は共に道を歩まれるお方。
不可解なことも無自覚なことも、み言葉の解き明かしの中から明らかにされて行く。
神学と生活とが結ばれた時、私たちの目は開かれていて行く。



#メッセージ

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「聖霊の働き」

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「聖霊の働き」 「聖霊の働き」



ホサナキリスト教会の日曜礼拝のメッセージアウトラインです。




「聖霊の働き」


ローマ人への手紙 8章1~11節


"こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。"


序論


・聖霊=御霊=キリストの御霊

・御霊の7つの働きが本日の聖書箇所に教えられている

①解放(2-3)
②完成(4)
③制御(5-6)
④内住(9-10)
⑤生かす(10-11)
⑥教導(14)
⑦保証(16)



(1)解放(2−3)


①束縛に繋がれて
「肉」によって無力になったため〜罪の性質を生来的に引き継いだ描写

② キリストイエスにあるいのちの御霊の原理
律法(ノモス)は、人に死をもたらす〜山上の垂訓の一般的な解釈例
御霊の原理(ノモス)は、人に命を与える〜ミケランジェロの天地創造


(2)統制(5-6)


①「もっぱら」肉的なことを考える人〜肉に属しているから
思考が実現する、という。
あなたのマインドがあなたの現実世界を造っている。
②「ひたすら」御霊に属することを考える〜御霊に従っているから
その結果は、いのちと平安をもたらす


⑶保証(15-16)


①神の子供とされたことを担保。
「お父ちゃん」と神を呼ぶことを得させた。

②そのことの確証を御霊が証してくださる
例・John Wesleyの父がその死の床で人にとって最も価値があることとして息子に伝えた教え


(結論)


御霊が私たち信者のうちにこれだけの働きをしてくださっておられる。
私たちは知的に整理するだけでなく、これをどれほど認知し自覚し
そして生活化しているだろうか。



#メッセージ

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イースターの朝

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イースターの朝 イースターの朝


ハッピーイースター!
イースターおめでとうございます。

2つのうさぎの置物と日本人形とを娘とともに受け取った帰り道、ある交差点で家族連れと思われる4-5人がプラカードを掲げていました。

そのサインボードには
「主イエスは蘇れた」と記されてあったのです。

娘とそれを見て大喜び。
クラクションを何度も鳴らして賛同を表明した次第です。

もし主イエスが死を克服されてよみがえられなければ、人生はなんと虚しいものでしょうか。人が死んだらそれっきりで、おしまい。

しかし実に主はよみがえられたのです。
私たちに死を克服する永遠の希望を与えられました。

Happy Easter!

On the way home from receiving the two rabbit figurines and a Japanese doll with my daughter, we saw 4-5 people, probably a family, holding up placards at an intersection.

The signboard read, "The Lord Jesus is Risen.”

My daughter and I were overjoyed to see it.
We honked our horn several times to show our support.

How empty life would be if the Lord Jesus had not overcome death and risen from the dead. When a person dies, that's it, everything is over.

But indeed, the Lord has risen.
He has given us eternal hope to overcome death.
#メッセージ #家族

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受難週の金曜日

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受難週の金曜日 受難週の金曜日 受難週の金曜日 受難週の金曜日
受難週の金曜日を迎えました。
主イエスがこの日の朝9時に十字架にかけられたのです。

言うまでもなく約2000年前のエルサレムでの出来事。
さらに遡ること約2000年前、同じ場所で同様な出来事が行われようとしていました。

創世記22章に見る父アブラハムが、一子イサクを全焼のいけにえとして神に捧げた場面です。
ちょうど今朝の聖書箇所がこの創世記22章でした。


①「お父さん。火と薪はありますが、全燒のいけにえのための羊はどこにあるのですか」(7)

神の意思に従っているつもりでもわからないことがある。
不条理としか見ない場面に出くわすこともある。
そしてあまりの痛みにそれを回避したいと自然に願う。
完璧な人間性を具備されたイエスは、「この杯(十字架)を取り除いてください」と、その前夜に祈られた。


②「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えて下さるのだ」(8)

父のこの言葉を聞いてイサクの理性は納得できただろうか。
尚もわからないまま彼は山道を登り続ける。
現在のエルサレムの神殿の丘に至る道を。
やがて祭壇の上で縛られてナイフを喉に突き刺されるに至っても、イサクは質問、反論、抵抗をしない。
そこにあったのは信頼のみ。

イエスはかつて弟子たちに言われた。
「わたしがしていることは、今はあなた方にわからないが、後でわかるようになります」(ヨハネ13:7)


③「主の山の上には備えがある」(14)

神のひとり子主イエスの犠牲によって、私の救いと全世界の回復のための備えが完成した。
それはまだ目に見える形では完成していない。

「備えがある」と信じたアブラハムには目に見えなくても現実であったように、神の御言葉に日々教えられているものには現実のことでもある。

イサクは父に信頼し、その意思に従うことを通じて新しく神を経験するに至っている。
アブラハムにとっての最大の試練は、彼に神の性質が知らされた最大の出来事でもあった。



神とは、どういうお方なのか。
私たちの生涯は、神のご性質に触れるための学科であり、
わからないことをの中を、信頼を持って登っていく道筋である。

We have reached the Friday of Passion Week.
The Lord Jesus was crucified at nine o'clock in the morning of this day.

Needless to say, it happened about 2000 years ago in Jerusalem.
About 2,000 years earlier, a similar event was about to take place in the same place.

This is the scene in Genesis 22 where Abraham, the father, offered his only son Isaac to God as a burnt sacrifice.
Just this morning's Bible verse for me was this Genesis 22.


1) "Father. We have fire and wood, but where are the sheep for the all-burnt sacrifice?(7)

There are times when we think we are following God's will, but we don't understand.
Sometimes we encounter situations that we see as absurd, and the pain is so great that we naturally wish to avoid it.
Jesus, in His perfect humanity, prayed the night before, "Remove this cup( cross) from me.”


(2) "God Himself will provide the sacrificial lamb for the whole burnt offering.(8)

I wonder if Isaac's reasoning was convincing when he heard these words of his father.
Still unsure, he continues to climb the mountain path.
He continued up the mountain road, which now led to the hill of the temple in Jerusalem.

Even when he is tied up on the altar and a knife is plunged into his throat, Isaac does not question, argue, or resist.
There was only trust.
Jesus once said to His disciples, "What I am doing, you do not understand now, but you will understand later" (John 13:7).



3) "There is provision on the mountain of the Lord" (14).

Through the sacrifice of God's only Son, the Lord Jesus, the provision for my salvation and the restoration of the whole world has been completed.
It is not yet completed in a visible way.
It is real to those who are taught daily in the Word of God, just as it was real to Abraham who believed that "provision is made," even though he could not see it.

Issac comes to experience God anew through trusting in his father and submitting to his will.
Abraham's greatest trial was also the greatest event in which the nature of God was made known to him.



What kind of person is God?
Our life is a lesson to get in touch with the nature of God, and a path to climb up with trust in the midst of what we don't know.
#メッセージ

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「大祭司キリスト」

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「大祭司キリスト」 「大祭司キリスト」 「大祭司キリスト」



ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージ・アウトラインです。




「大祭司キリスト」


ヘブル人への手紙 5章1~10節


"大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。
大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。
また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。
また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。
同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と語りかけた方が、それをお与えになったのです。
別の箇所でも、「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」と言っておられるとおりです。
キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、
メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。"


(1)召された大祭司


①Israelにあった祭司制度
全人類>イスラエル>レビ人>アロン家系>アロン個人
召されてなくては祭壇に近づくことは出来ない

② キリストの召し(5)
「生んだ」とは生存の始まりを意味する言葉ではなく、祭司としての職務を開始せられたこと。
死、復活、昇天、着座を完成させることによる。


(2)受肉された大祭司


①「人としてこの世におられた」= 100%の肉体をもたれた人間
叫び声と涙を持って祈らなくてはならない苦しみを通られた

②キリストが受けられたたった1つの学科=「従順」
7段階の謙卑の後(ピリピ3:6-8)、最後は十字架の死。


⑶完成された大祭司


①キリストにあるすべてのものを救う大祭司
イエスの名は、霊界人間界外界(ピリピ2:9-10)のあらゆる存在の上にある

②メルキぜデクの位に等しい=永久に祭司職を遂行できる方(ヘブル7:3)


(結論)


キリストが完全な救いを与える大祭司であると聞いて、私たちの耳にどのように響いているか。
もし試練や苦しみを通っているとしたならば、それは主からの訓練と従順を学ぶ機会であろう。
その先には、高揚と栄光とを備えて下さっておられる。


















#メッセージ

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「神がともに」

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「神がともに」


ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。


「神がともに」


ヨハネの福音書 3章1~8節


"さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」"


(1)ニコデモの関心(2)


イエスご自身に向けられた関心
その崇高な教えや奇跡の業に惹かれたものではない

人々の関心ー「イエスの行われたしるしを見て御名をを信じた」(2:23)
そのしるしや教え(ヨハネ7:46)に惹きつけられていた。

イエスの人々への扱い
「イエスはご自身を彼らにお任せ(信じ・原語)にならなかった」


(2) ニコデモの運命


①イエスの弟子へと道を深めていく
サンへドリン議会でイエス擁護の正論(7:50)
イエスの遺体を埋葬(19:39)

②人々は反比例してイエスから離れていった
その原因はどこにあるのか〜ヨハネ5:43-44
人々からの栄誉を求める vs. 唯一の神からの栄誉を求める


⑶神がともにいる人生


①その始まり〜御霊により新しく生まれることによる(3:5)
それは主の贖いの事実を受け止めることから始まる(3:14)

②その進展〜神との交わりの深まり(1:51)=自覚に至るまで
聖書の言葉を通じて、信仰の友との交わりを通じて、祈りを通じて

③日常の課題への適応〜「神がともにおられるのでなければ」(2)と
自他共に納得できるまでの日常生活への信仰の顕現


(結論)


私たちの信仰生活の核はどこにあるだろうか。
一体何を求めて信仰生活を続けているのか。
人々からの栄誉か、神からの栄誉か。
御霊によって始められた信仰生活は、御霊によって成し遂げられるものです。




#メッセージ

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「この人に神のわざが現れるため」

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「この人に神のわざが現れるため...



ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。




「この人に神のわざが現れるため」


ヨハネの福音書 9章1~12節


"さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。"


(1)イエスの個人に向けた眼差し


弟子たちの一般論〜病の神学的理由を尋ねて
「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。両親ですか。」

イエスはカテゴライズせず、その当人自身に情熱を注いでいる。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」


(2) 男に与えられた機会


①「道の途中で」(1)の偶然の出来事か
生まれつきの盲人や他に病を持った人は多くいたであろう。

②宗教的であっても信仰的な家庭環境出身ではなかった(20-23)
私たちに与えられている機会をどう生かすか。


⑶神の栄光が現されるため


①目の見えるものは盲目とされる(39)
パリサイ人らは「私たちは目が見える」と言っている。
罪の認罪なく、救いを必要としない人たち。

②目の見えないものが見えるようになった
真理について、まっさらな心で求道している(30-33)男の姿勢。
人には成し得ないことが実現する時、人々は神が生きたもう事を知る。


(結論)


神の奇跡のわざは、特定の選ばれし人にしか現わされないのだろうか。
その恩寵に与る機会は、全ての人に、この私にも与えられているはずである。
真理を探り求めるものに神は応えられる。




#メッセージ

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「いのちの神の御言葉」

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日本の霊峰富士山 日本の霊峰富士山 エルサレム旧市街にあるダビデの... エルサレム旧市街にあるダビデの街

ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです




「いのちの神の御言葉」


使徒の働き 13章42~49節


"二人が会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。
会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちがパウロとバルナバについて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みにとどまるように説得した。
次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。
しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった。
そこで、パウロとバルナバは大胆に語った。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます。
主が私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。』」
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った。
こうして主のことばは、この地方全体に広まった。"


(1)汲み取られたみことば


①「人々は次の安息日にも同じ言葉を話してくれるように頼んだ」(42)
オウム返しに同じ事柄を聞きたいと言うのではない

②依頼した「人々」とは信仰を抱いて聞きたいと言う姿勢の人々(43)
彼らには人たちの言葉が単なる知識教養伝達ではなく神の言葉=メッセージとして受け取った


(2) 2つの結果をもたらしたみことば


①信仰の応答(44)
「神の言葉を聞きに集まってきた」〜説教に内在している神のメッセージを聞き取ろうとの姿勢

②不信仰の応答(45)
「ねたみに燃えた」ユダヤ人たち〜神の御言葉がいのちを持って人々にせまらる時、常にこの両極端の対応が生まれる


⑶神ご自身を体現するみことば


①「主の言葉=神を賛美した」(48)
異本で同意語として翻訳されていることがわかる。
御言葉を通じて上と出会い、神と交流し、神に至るのである。

②「主のみ言葉は、この地方全体に広まった」(49)
主ご自身が広められていたことと同意。
信仰に入るのは各位の決意であるが、同時に主の選びという神秘性がある(48)


(結論)


聖書を開くときに、ここから神ご自身を体験する触媒としてのみ言葉に聞き入ろう
#メッセージ

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恐れることはない

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恐れることはない 恐れることはない 恐れることはない 恐れることはない 恐れることはない



今朝のシアトル地方は一段と寒さがつのり、外は厚い靄に包まれました。
日本列島では半日前にやはり寒波に覆われていたこととつながってるのかなぁ、などとその関連性に思いを寄せました。

太陽が上がるにつれ晴間が広がり、夕刻にはきれいな夕焼け空を眺めることができました。

「アメリカは今大変でしょう。大丈夫?そちらは平和ですか」
先ほど日本に住むある牧師から電話でこんなことを聞かれました。

明日1月20日がバイデン新大統領の就任式であることを日本の報道機関がかなり取り上げているようです。

「少しも大変さなんて感じてません。大騒ぎしてるのはテレビだけではないんですか。いつもと変わらない平和な日常ですよ」なんて事を答えておきました。

何を騒いだり不安に思ったりすることがあるでしょうか?

特に日本人のみなさん、私たちはこんなことよりももっと不確かで急激な変化にも対応してきた歴史があることを思い出そうではありませんか。

唐突な事例を持ち出すようですが、1582年、本能寺の変による織田信長の横死です。あの段階で一体誰が信長のいない世を考えられたでしょうか。その直後、豊臣秀吉による中国大返しの離れ業があって、光秀の天下は13日間しか続かなかったわけです。

一寸先は闇。
翌日にはどのような世界となってるかも、自らの命そのものさえもわからないあの不確かな戦国時代を駆け抜けてきた歴史を抱いているのが私たち日本人です。

大河ドラマ「麒麟が来る」は、その最終回まであと数回を残すまでとなりました。最終回があの本能寺の変の場面なのだそうです。
それに向けて信長と光秀の関係が徐々に亀裂が入り、断絶していく物語の展開に見ごたえがあります。直近のドラマでは松永久秀が残した茶器の平蜘蛛をめぐる両者の価値観の違いを描くとは、これまでにはない画期的な脚本でした。

時代考証を担当している静岡大学教授の小和田さんが良い。
彼によれば日本史最大の謎とされる本能寺の変を、光秀による「信長暴走阻止説」にあるとしていて、脚本家は今のところ忠実にそのストーリーを紡ぎ出しています。

大河ドラマから米国の現実に話を戻せば、

明日には今や予定された就任式があり、その後の政権移行があり、どんな暴動が起こったとしてもこれを抑える警察力があり、たとい外国が攻めてきたとしてもはね返すだけの強力な軍事力のある国にいて何を恐れることがありましょう。

聖書には、「恐れるな」と言う言葉が356回出てくるそうです。
聞いた話でして、自ら数えた事はありません。
それによるとまるで1年365日、毎日神が私たちに「恐れるな」と語っておられるようだと言うことです。

恐れなくて良い確かな理由と、恐れるなというのが神の命令であることだけは確かなことです。


十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の席上で、主イエスが弟子たちにに言われた言葉があります。


"わたしはあなたがたに平安を残します。
わたしの平安を与えます。
わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。
あなたがたは心を騒がせてはなりません。
ひるんではなりません。"
ヨハネの福音書 14章27節

当時の弟子たちには、警察力などの物理的な力があって安全が確保されていたのではありません。
主イエスがやがて与えてくださるスピリットが、恐れを乗り越えさせて下さるのです。







It was even colder in the Seattle area this morning, and a thick haze enveloped us outside.
I wondered if it was related to the cold wave that covered the Japanese archipelago half a day ago.

As the sun rose, the sky became clearer, and in the evening we could see a beautiful sunset.


“Are you okay? Is there peace there?”

A pastor who lives in Japan just called me and asked me this question.

The Japanese press seems to be covering the inauguration of the new President Biden tomorrow, January 20th.

“I don't feel it's a big deal at all. Isn't it just the TV that is making a big deal out of it? “ I answered, "I don't feel any difficulty at all.”

What is there to fuss about or worry about?

Let's remember, especially Japanese people, that we have a history of coping with more uncertain and sudden changes than this.

At the risk of bringing up an abrupt example, in 1582, Oda Nobunaga was killed in the Honnoji Incident. At that stage, who could have imagined a world without Nobunaga? Immediately after that, Toyotomi Hideyoshi carried out the Great Return of Chuugoku and Mitsuhide's reign lasted only 13 days.

The future was dark then.
We Japanese have a history of running through the uncertain Warring States Period, not knowing what the world would be like or your life would be the next day.

We are now only a few episodes away from the final episode of the historical drama "Kirin ga Kuru". The final episode is said to be the scene of the Honnoji Incident.
Toward that point, the relationship between Nobunaga and Mitsuhide is gradually cracking and breaking down, and it is a story worth watching.
The most recent drama depicted the difference in values between the two over a tea instrument the Hiragumo, left by Hisahide Matsunaga, which was a groundbreaking script never told before.

Mr. Owada, a professor at Shizuoka University who is in charge of historical research, is good.
According to him, the Honnoji Incident, which is regarded as the greatest mystery in Japanese history, lies in the "theory of stopping Nobunaga from running amok" by Mitsuhide, and the scriptwriter has so far faithfully spun out the story.

Let’s Moving from the historical drama back to reality in the United States.

What is there to fear in a country that now has a scheduled inauguration tomorrow, a transition of power after that, a police force capable of containing any riots, and a military strong enough to repel any foreign invasion?

The Bible says, "Do not be afraid" is mentioned 356 times.
I've never counted it myself, but I've heard it.
It seems as if God is saying to us, "Don't be afraid" every day, 365 days a year.

The only thing we know for sure is that there is a good reason not to be afraid and that it is God's command not to be afraid.


At the Last Supper, the night before His crucifixion, the Lord Jesus said to His disciples.


"I leave you peace.
I give you my peace.
I do not give in the same way that the world gives.
Do not let your hearts be troubled.
Do not be dismayed."
John 14:27

The disciples at that time did not have a police force or any other physical force to keep them safe.
The Spirit that the Lord Jesus would eventually give them would help them overcome their fears.

#メッセージ #日常

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「私はなおも神をほめたたえる」

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「私はなおも神をほめたたえる」

ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。




「私はなおも神をほめたたえる」


詩篇42:1-11


(1)たましいの絶望


①自問「なぜあなたは私をお忘れになったのですか」(9)

②他問「お前の神はどこにいるのか」(3,10)


(2)「なおも」食い下がって(42:5,11,43:5)


①過去の神体験を思い出して(4)

②想像を絶し忍耐を超える試練に翻弄(7)


⑶いのちであられる神ご自身


①自己の内にはいのちがない(1)
コロサイ3:3-4

②私のできる事はただ1つ〜神を待ち望む


(結論)


誰もいない、誰も分かってもらえないと言う孤独の中で、
八方塞がりの時に唯一、空だけは開いている。
神を待ち望もう。

"あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。"
コリント人への手紙 第一 10章13節
#メッセージ

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