2週間ぶりにようやく、シアトルの夕日を見ることができました。
オリンピック山脈もくっきりと見えます。
気がついてみれば「中秋の名月」を超えたばかりの頃となっています。
夏至の頃はオリンピック山脈中央からさらに北側にあった日没地点は、ずっと南に移り山脈を外れたところとなっていました。
その名月は、細い三日月となって南の空に上っています。
山火事からの厚い煙に閉ざされたときには、夕日を再び見ることができるんだろうか、と不安になるほど堅く空は閉ざされていたのです。
目の前にある現実が重ければそれだけ、私たちの視野は狭くなるようです。
数日前、定例オーナー会にズーム参加した際、スクールバス・ドライバーの状況が懸念されていました。各学区には数十名のバスドライバーが公務員として正規に働いています。
この3月から学校はどこも休校ですから、仕事自体はありません。公務員として給料は支払われています。
ところが近い将来に予算が尽きると言うことで、大量解雇の可能性が噂されているのだそうです。ドライバーたちは、学校の修繕でも何でもするから、と申し出ているそうです。
もし解雇なると、やがて学校が再開されても必要なドライバーが確保できる保証はどこにもありません。そんなことで教育委員会としてもどうしたものかと、判断に迷っているようです。
オーナー会と同じ日、シアトル地区の定例牧師会も開かれました。
その牧師会に連なっている中にも2人の牧師・宣教師が正規のスクールバス・ドライバーとして勤めておられます。
学校も各事業も閉鎖が続けば、そのまま生活に響きます。
先行きの見えない苦しい中に置かれているのです。
しかし忘れてならない事は、やがてその霧も晴れる時が来ると言う事。
必ずやってきます。
必ずコロナの霧が晴れて、輝かしい夕日に照らされる時が来ます。
"あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。
神は真実な方です。
あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、
試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。"
コリント人への手紙 第一 10章13節
After two weeks, I finally got to see the sunset over Seattle.
The Olympic Mountains are clearly visible.
I noticed that we have just passed the "Mid-Autumn Moon".
At the time of the summer solstice, the sunset point, which was further north from the center of the Olympic Mountains, had moved farther south, off the mountain range.
The famous moon was a thin crescent in the southern sky.
The sky was so tightly closed that I wondered if I would ever be able to see the sunset again when the thick smoke from the wildfires closed in.
It seems that the heavier the reality is in front of us, the more limited our vision becomes.
A few days ago, when I zoomed into a regular owners' meeting, the situation for school bus drivers was a concern.Each school district has dozens of bus drivers working full-time as government employees.
All of the schools have been closed since this March, so there is no work itself. Still They are paid as public employees.
However, they are rumored to be running out of budget in the near future and there are rumors of mass layoffs.The drivers have offered to do whatever it takes even to repair the school, they said.
If they are laid off, there is no guarantee that the school will be able to get the drivers it needs when it eventually reopens.The school board is not sure what to do about it.
On the same day as the owner's meeting, the Seattle District's regular pastors' meeting was also held.
There are two from pastor and missionary in the group who are also serving as regular school bus drivers.
If the schools and businesses continue to close, it will affect our lives.
We are in the midst of a difficult situation where the future is uncertain.
However, what we must not forget is that there will come a time when the fog will be lifted.
It will come.
The time will surely come when the fog of the corona will be lifted and we will be bathed in the glorious sunset.
“No temptation has overtaken you except what is common to mankind.
And God is faithful; he will not let you be tempted beyond what you can bear. But when you are tempted, he will also provide a way out so that you can endure it.”
1 Cor. 10:13
いつもなら青い空に乾ききった風、地上の楽園を思わせるようなSacramentoですが、今回ばかりは異なります。
灰色と黄色の混ざったようなどんよりとした雲に世界は覆われ、常に吹き荒れる風には黄色い砂塵を巻き上げています。
カルフォルニアのあちこちで発生している山火事の煙が運悪く風に乗せられて此処にまで届いているのだそうです。
楽園から世の末を思わせるような豹変ぶり。
いつもシアトルの夕日を見て心洗われている者には、なんとも厳しい現実。しかしこれも現実世界の一端に過ぎません。
目の前の世界が楽園でも荒廃していても、私たち自身の命をそこに預けているのでは無いのです。
やがて受け継ぐ世界、そして確かな存在がわたし自身のうちにある限り、永遠の家へ向けられた足取りに狂いはありません。
今日はタイミングが合いませんでしたか、明日にはMikuniレストランに伺います。
この数ヶ月間暴徒によって何度もガラスが割られ、お店の中を破壊され、机や椅子まで盗まれた試練の中をくぐり抜けて来られたレストランです。
「Mikuni (御国)= Kingdom of God(神の王国)」
聖書予言によると世界はいよいよ混乱と自然災害により破滅の方向へ向かいます。その後、新しい世界の出現が、その統治の性格によってこのように名付けられているのです。
その御国の楽しさと安らぎ、おいしさを前味わいさせてくれるのがこのレストランです。
"時が満ちて計画が実行に移され、
天にあるものも地にあるものも、
一切のものが、キリストにあって、
一つに集められることです。
またキリストにあって、
私たちは御国を受け継ぐ者となりました。
すべてをみこころによる計画のままに
行う方の目的にしたがい、
あらかじめそのように定められていたのです。"
エペソ人への手紙 1章10~11節
Normally the Sacramento seems like a paradise on earth, with blue skies and dry winds, but this time it's different.
The world is shrouded in a cloudy mix of gray and yellow, and the constant winds blowing in a yellow dust.
The smoke from California's many wildfires is unluckily being carried by the wind to this place.
A change from paradise to the end of the world.
It's a harsh reality for me who have always been purified by watching the Seattle sunsets.But this is just one part of the real world.
Even if the world in front of us is a paradise or a desolation, we don't owe our own lives to it.
As long as I have the world to inherit and a certainty of existence within me, my steps will be consistent heading to my eternal home.
I'll be at Mikuni Restaurant tomorrow, for the timing isn't right today.
This is the restaurant that has gone through an ordeal of broken glass, vandalism, theft of desks and chairs, such many tribulations over the last few months by rioters.
Mikuni (Kingdom of God)
According to biblical prophecy, this world is finally headed for ruin through chaos and natural disasters.Then the emergence of a new world will come, which is named thus by the nature of its reign.
It is this restaurant that gives us a pre-taste of the fun, comfort and deliciousness fruit of that kingdom.
“to be put into effect when the times reach their fulfillment —to bring unity to all things in heaven and on earth under Christ.
In him we were also chosen, having been predestined according to the plan of him who works out everything in conformity with the purpose of his will,”
Ephesians 1:10-11
ワシントン州内にある山です
ペトラ遺跡
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「大雨の音がするから」
列王記 第一 18章41~46節
"エリヤはアハブに言った。「上って行って、食べたり飲んだりしなさい。激しい大雨の音がするから。」
そこで、アハブは食べたり飲んだりするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた。
彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。
七回目に若い者は、「ご覧ください。人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上っています」と言った。エリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」
しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗って、イズレエルへ行った。
主の手がエリヤの上に下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入り口までアハブの前を走って行った。"
(1)未だ見てないものを信じて〜「飲み食いしなさい」(41)
①飢饉の終焉を預言したことば
3年半の期間、降雨なく、国には作物が育たない。
イスラエルにとり毎年の降雨量は死活問題。
②大雨の音が聞こえるまでの信仰
神を求めるものは神の存在とまたその応答と信じていなくてはならない。
"信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。"
ヘブル人への手紙 11章6節
(2)その信仰に至ることが出来た理由
①主のことばを聞くことによる(18:1)=観念論
真実の信仰は人の空想やまた人の与えるフィクションから始まらない。
聖書の言葉に耳を傾けることによる
②主の言葉を行うことによる(17:2-5、17:8-9)=経験論
ヤコブ1:22-23
⑶信仰の祈りが事を成就させた秘密
①沈潜した祈り〜「自分の顔を膝の間にうずめた」
地上のユダヤ人の祈り姿勢とは異なる。
主イエスの教えに通じるものがある
「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい「(山上の垂訓)
②執拗な祈り〜「7度繰り返しなさい」(18:43)
「何もありません」との失望する報告にも耐え続けた祈りであった。
(結論)
祈りは嘆願、願望、執り成しから始まる。
やがて長時間の格闘を経て神との同じ立場や見地に至る。
そこは永遠者との合一の世界であり、祈りの極地である。
主イエスの夜を徹した祈り。
モーセのシナイ山での40日40夜の祈り。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
(序論)
既に達している恵みと、やがてもたらされる栄光の間の中で、私たちは「うめき」と言う苦しみの現実がある。
やがて実現する栄光の約束に比べると取るに足りないものではあるが、3つのうめきが現実にこの世界に存在している。先回は、全世界と私たち人間のうめきを学んだ。今回は御霊ご自身がうめいている箇所。
私たちを助ける御霊〜「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます」(26)
①肉体と言う制限された牢獄の中に魂は生きている
〜眠りに落ちるゲッセマネの園での弟子たち
②知性や霊性においても制限された中にいる
〜変貌山で眠りに落ちていた弟子たち
(2)私たちを執り成す御霊〜「深いうめきによって私たちのためにとりなしてくださいます」(26)
①祈りを知らない私たち
祈りは神とのコミニケーション。
1方向だけからの訴えではない。
②御霊ご自身が祈っておられる
深いうめきを持って〜言葉にはできないところの深さ
(3) 私たちの内におられる御霊
①私たちを変貌させ続ける人格である
(使徒25:23-24)
アグリッパとベルニケ夫妻は貴人たちを従え威儀を整え盛装して講堂に入る。一方のパウロには囚人服と鎖に繋がれたまま連れてこられた。
②私たちの必要と使命と最善とを知っておられる方である
幽閉の2年間において主との親しい関係を持つことができた〜獄中書簡の執筆へとつながる
(結論)
この世界には、そして人として生きている現実はうめかざるをえない困難なことに遭遇する時がある。
と同時に御霊ご自身が不明取られると言う現実は、次の28節にある信仰者の最終的勝利への約束へとつながる。
「神が全てのことを働かせて益としてくださる」
インターナショナル地下にある宇和島屋に久方ぶりに行ってみました。
改装工事中であり店内には至るところにベニア板で覆われた区域があります。ただ今までのレイアウトに比べると断然買い物しやすく変えられています。
隣接している紀伊国屋書店にも行ってみたのですが、店内からのアクセスは改装工事に阻まれて閉ざされています。
一旦外に出て大きくうかいしたのですが、既に閉店していました。
コロナ禍のゆえに短縮営業しているらしく、午後6時に閉店とはうかつでした。
ここ昨今、娘の日本語学習熱が上がってきたためその教材テキストを調達したかったのです。また改めて出直しです。
私個人の期待や願望に環境や他者が応えてくれないと、その時私自身が不機嫌になったり、他者批判をしたことが過去に何度もありました。
その時の私は、他者の言動によって自らの幸福が左右される自立してない人間だったのです。
英語では「責任」のことをレスポンスビリティー(Response + Ability)となります。つまり責任ある大人とは、環境や他者に運命を握られずに、自らの応答を対処しコントロールできる能力ある者のことを指す、穿った言葉です。
そしてそのような自立は、人間同士の相対的力関係の中からは生まれて来ません。どんな優れた知者や権者であったであったとしても、どんぐりの背比べに過ぎません。絶対的に超越した他者、つまり創造主との出会いが各人をして自立へと導くように思うのです。
今日のシアトル地区の空は、硬く雲に閉ざされて夕日も見えないほどでした。
その時は閉ざされていても、雲の向こう側には夕日が輝いていることには変わりありません。そしてやがて他日、美しい夕日を見せてくれる日もあるのです。
"光は心地よく、日を見ることは目に快い。
人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。
だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。
すべて、起こることは空しい。
若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。
あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。
しかし、神がこれらすべてのことにおいて、
あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。"
伝道者の書 11章7~9節
I went to Uwajimaya in the International District for the first time in a while.
The store is undergoing a renovation and there are veneer covered wall areas all over the store.However, compared to the old layout, it's definitely a lot easier to shop there.
I visited the Kinokuniya bookstore next door, but the access to it is blocked by the renovation work.
I went out and had a look around, but the bookstore was already closed.
It seemed to be open for shortened hours due to the corona crisis, and it was stupid of them to close at 6pm.
My daughter's fever for learning Japanese has been rising recently, so I wanted to get some textbooks for her.I'll have to come back again.
There have been many times in the past when my personal expectations and aspirations have not been met by the environment or others, and at those times I've been grumpy and critical to others.
I was not an independent person then whose happiness depended on what others said and did.
In English, the word of responsibility is made of two words (Response + Ability). In other words, a responsible adult is a perceptive term that refers to someone who is capable of dealing with and controlling his or her own responses, without the environment or others holding their fate in their hands.
And such self-reliance does not come from the relative power relations between human beings.No matter what kind of intellectuals and authorities they are, they are nothing more than an acorn comparison.It is the encounter with the other person who absolutely transcends, that is, the Creator, that leads each person to independence.
The sky in the Seattle area today was so cloudy that I couldn't even see the sunset.
The sun may be closed off at the time, but bright the sunset is still shining on the other side of the clouds.And eventually, other days in the future, the sun will show us a beautiful sunset.
“Light is sweet,
and it pleases the eyes to see the sun.
However many years anyone may live,
let them enjoy them all.
But let them remember the days of darkness,
for there will be many.
Everything to come is meaningless.
You who are young, be happy while you are young,
and let your heart give you joy in the days of your youth.
Follow the ways of your heart
and whatever your eyes see,
but know that for all these things
God will bring you into judgment.”
Ecclesiastical 12:7-9
Israel・カペナウムにあるシナゴーグ
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「希望へのうめき」
ローマ人への手紙 8章18~24節
"今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。"
(序論)
既に達している恵みと、やがてもたらされる栄光の間の中で、私たちは「うめき」と言う苦しみの現実がある。
やがて実現する栄光の約束に比べると取るに足りないものではあるが、3つのうめきが現実にこの世界に存在している。今回は1と2を取り上げる。
被造世界のうめき
①滅びの束縛の中にある
全世界での異常気象や天災、また日常的に目にしている花の美しさや動物の可愛さの中にも束縛を感じ取れる。
②「虚無に服した」瞬間とは
アダムの堕罪によって全世界に罪が入ったときにその全世界の様相も変わり罪の影響受けるている。
創世記3:17-18。
(2)私たちのうめき
①からだが贖われること=子にしていただくこと(23)
老、病、死と言う宿命を負っている私たちの肉体ではあるが、やがて朽ちない栄光の体をいただくことができる。
②「御霊の初穂をいただいている」ゆえの保証。
初穂の後に大収穫が約束されている。
その望みによって救われている=救いの保障を得て、現在の救いの確信となる。
今日も素晴らしい1日が与えられたことが感謝でなりません。
シアトルではこの夏一番の暑さを記録したことと思います。
91℉(摂氏33度)まで気温が上がりました。
初めて我が家にも扇風機だけでなくクーラーが欲しいなと思いました。
ですけど日本では梅雨が明けると30度前半はいつものことで、40度近くまで上がる日がいくつもあるんですよね。しかもすごい湿気。
この程度で暑いと不平を言っていては、日本の皆さんに申し訳ないです。
この暑さを吹き飛ばそうと、川まで浸かりに行きました。
万年雪から流出てくる水は確かに冷たく、10秒以上は入っていることができません。その冷たさにもうこれでおしまい、と決めるのですが暑さのため、また飛び込みを繰り返します。
天然クーラーで暑気払いが一時出来たことが感謝でした。
室内にては、先日の誕生プレゼントにもらった風鈴の音の音を聞きながら涼んでいます。
今日の夕日は少々変わっていて、味な演出を見ることができました。
山際に沈んだ太陽の真上に、薄い雲が小さくかかっているのです。
すると夕日の赤い光線がその雲に反射して、辺り一面をさらに赤く染めてくれていました。
毎日の夕日の鑑賞ですが、その沈む位置は言うまでもなく、その時の雲の配置もまた色合いも二つとして同じものはなく、すべて異なるユニークなものです。
そして私たちの毎日も人々のとの出会いや出来事によって、それぞれの日々に異なる色合いを脚色してくれています。
そしてこれらのすべて、気温も人々も事象も経済も、私たち人間を離れた創造者による作品です。
"主が命じられたのでなければ、だれが語って、このようなことが起きたのか。
わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。
生きている人間は、なぜ不平を言い続けるのか。自分自身の罪のゆえにか。
自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。"
哀歌 3章37~40節
この詩は、エレミヤと言う人がバビロニアによってエルサレムが徹底的に破壊し尽くされ、母国イスラエルが滅亡したことを悲しんで読んだものです。おぞましい殺戮と強制移住が起こっているその中で、この悲劇もまた神の御手(許可)の中にあることとして受け止めました。
その上で自分たちがとるべき決断を促しています。
I can't be thankful enough for being given us another great day.
I think we recorded the hottest day of the summer this season in Seattle.
The temperature rose to 91℉ (33 degrees Celsius).
It was the first time I thought we need an air conditioner as well as a fan in our house.
But in Japan, after the rainy season over, we usually have days when the temperature goes up to the lower half of 30 degrees Celsius and sometimes it goes up to 40 degrees Celsius. And it's also soooooo humid.
I feel bad for the Japanese people if I complain about how hot it is in this degree in Seattle.
To blow off the heat, we went to the river to take a dip.
The water running off from the perennial snow is indeed cold and you can't stay in it for more than 10 seconds. The coldness of the water makes me decide to call it a done deal, but the heat makes me jump back in.
I was grateful to be able to get rid of the heat with the natural air conditioner for a while.
Inside my house, I'm cooling off listening to the sound of the wind chimes I got as a birthday present the other day.
Today's sunset was a bit different, and we got to see a tasteful performance.
The sun was setting over the mountainside with a thin layer of clouds hanging directly above the sun, and the red rays of the sun setting over the clouds.
Then the red rays of the sunset were reflected in the clouds and made the whole area even redder.
Every day's sunset is unique, no two sunsets are the same, not to mention the position of the sunset, the placement of the clouds, and the color of the clouds, etc....
And our days are also different, each day a different hue, depending on our encounters and events.
And all of these elements, the temperature, the people, the events, the economy, are the work of a creator apart from us humans.
“Who can speak and have it happen
if the Lord has not decreed it?
Is it not from the mouth of the Most High
that both calamities and good things come?
Why should the living complain
when punished for their sins?”
Lamentations 3:37-40.
This verse was read by a man named Jeremiah, who was saddened by the utter destruction of Jerusalem by the Babylonians and the destruction of his homeland, Israel. In the midst of the horrible slaughter and forced emigration, this tragedy was also accepted as being in the hand (permission) of God.
He then urged them to make their own decisions.
初のサンセットヨガに挑戦しました。
インストラクターはAkemi。
彼女の言う通りに足を出したり、手をのばしたり、片足で立ったり.......私は片足でのバランスが取れずに、2秒後には体制を崩してしいました。しかし彼女は何秒であろうとも平気。
しかも片足を高く上げる。私は途中まで上げると、太ももをつってしまった。
その直前の懸垂では、私はまだ彼女には負けていないと安心したのですが、ヨガでは完全に敗北です。こんなにも体が固かったり、バランス感覚が欠如していたとは知らず、驚きとともにがっかりしました。
「自分はまだ大丈夫」と思っていても、それは独りよがりなものになりやすいものです。
他者の目で、他者のスタンダードと比較されて自分の位置づけが分かります。
ところで世界に存在している最大で絶対の他者とは、創造主なるお方です。この方からの視線や評価、それに価値観に照らされて自分自身を保つなら、あら不思議!
それ以外の小さな他者の評価や言葉に踊らされず、一喜一憂しない自立できる世界が開かれて来ます。
"いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。"
イザヤ書 57章15節
I tried Sunset Yoga for the first time.
The instructor was Akemi.
I did as she told me, legs outstretched, hands outstretched, and standing on one leg.... I couldn't balance on one leg and after two seconds I was out of alignment. But she didn't care how many seconds it took.
And she raises one leg high. When I was halfway up, I pinched my thigh.
Just before yoga, we did pull-ups, I was reassured that I hadn't been defeated by her, but in yoga, I was completely defeated.
I was both surprised and disappointed, not realizing that I was so stiff and lacking in balance.
It's easy to become complacent, even when you think, "I'm still okay.
You can understand your position in the eyes of others, compared to their standards.
By the way, the greatest and absolute other person in the world is the Creator. If you keep yourself in the light of this person's gaze, evaluation, and values, oh my goodness!
The world where you can be independent and not be swayed by the evaluations and words of others, and not be happy or sad all at once, will open up to you.
“For this is what the high and exalted One says—
he who lives forever, whose name is holy:
“I live in a high and holy place,
but also with the one who is contrite and lowly in spirit,
to revive the spirit of the lowly
and to revive the heart of the contrite.”
Isaiah 57:15
月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。
船の上に生涯を浮かべ、
馬の口とらへて老いを迎ふる者は、
日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
古人も多く旅に死せるあり。
現代語訳(口語訳)
月日は永遠に(終わることのない旅をする)旅人(のようなもの)であって、去ってはまたやって来る年もまた旅人(のようなもの)である。船頭として船の上で生涯を過ごす人や、馬子として馬のくつわを引いて老いるのを待ち受ける人は、毎日が旅であって旅を住処としているのだ。昔の人も多くが旅をしながら亡くなっている。
松尾芭蕉による「奥の細道」の冒頭部分です。
それが記されている額縁は、長年物置に眠ったままになっていたのですが、今日になってようやく壁に設置しました。
これは日本のある地方教会の敷地の隣に立つ民家のおじいさまの作品です。
ところで皆さん、本日の私の誕生日には多くのお祝いのお言葉を賜りありがとうございました。ついこの前緊張したまま小学校に入学したと思っていたら、既に半世紀を優に超える歳月を食ってしまいました。
私は40代の頃、年を聞かれるのが嫌でこのFacebookにも誕生日登録をあえてしませんでした。家族にもお祝いとか、おめでとうとか、何もしなくて良いと言っていたのです。おそらくその年に至っても、何も世の中に貢献していない我が身を恥じての事だったと思います。
50代を過ぎると、そんな心境にも変化がありました。
織田信長が本能寺の変で非業に倒れたのが49歳です。
敦盛の歌にあるように、「人間50年」であるなら、既に私はおまけの余生を過ごしていることになります。
無駄に歳だけ食って何事もなし得ていない自分自身を恥じるのではなく、その我が身をそのまま受け入れるようになったようです。もはや自己満足や他者の賞賛には動じない死人の境地に至ったのかもしれません。
松尾芭蕉は時の流れ自体を、変わらずに過ぎ行く旅人だとしました。
私の人生、その生きている事自体は旅人のように思えます。
それは短かろうと長かろうと仮の姿に過ぎません。
旅を終えた時、硬い基礎の上に立つ永遠の家に招かれ住むようになるのです。
そしてどんな旅であったかを評価・採点するのは、自己でも他者でもなく、その永遠の住まいに招いてくださるお方、時間と命の創造者であるお方のみです。この方からの報酬だけを当てにしたなら、今を生きること自体を肯定的に受け取ることができるようになった気がします。
本日の夕日は、地平線に沈む10分ぐらい前には既に厚い雲の中に隠れてしまいました。その雲から漏れる光線が辺の雲を赤く染めるのを子供らと楽しむことができました。
"私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。
そのほとんどは労苦とわざわいです。
瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。
だれが御怒りの力をあなたの激しい怒りの力を知っているでしょう。ふさわしい恐れを持つほどに。
どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
帰って来てください。主よいつまでなのですか。あなたのしもべたちをあわれんでください。
朝ごとにあなたの恵みで私たちを満ち足らせてください。私たちのすべての日に喜び歌い楽しむことができるように。
どうか喜ばせてください。私たちが苦しめられた日々とわざわいにあった年月に応じて。"
詩篇 90篇10~15節
The days are like a traveler, and the years that come and go are also like a traveler. Those who spend their lives on board as boatmen, or those who wait for their time to grow old pulling horses are traveling every day, and they make their home in the journey. Many people in the past also died while traveling.
This is the first part of "The Narrow Road to the Tohoku" by Matsuo Basho.
The frame in which it is written has been lying dormant in a storage room for many years, but today I finally installed it on the wall.
It is the work of an old man in a house standing next to the property of a local church in Japan
By the way, thank you all for the many words of congratulations on my birthday today. It was as if a few days ago I had entered elementary school with a nervous breakdown, but it has already been over half a century since I then.
When I was in my 40s, I didn't even register my birthday on Facebook because I didn't want people to ask me how old I was. I told my family that they didn't have to congratulate me or anything. I think I was probably ashamed of myself for not having contributed anything to the world even at that age.
When I passed my 50s, my mind changed.
Oda Nobunaga was 49 years old when he was killed in the Honnoji Incident.
If I am a "human being of 50 years" as in Atsumori written, I have already lived my life and lest of it is just a bonus.
Instead of being ashamed of myself for wasting my years and not getting anything done, I have come to accept myself as I am. I may have reached the state of a dead man who is no longer moved by self-satisfaction or the praise of others.
Matsuo Basho regarded the flow of time itself as a traveler who passes on unchanged.
My life, that living itself seems to be a traveler.
It is only a temporary figure, no matter how short or long it is.
At the end of the journey, we are invited to live in our eternal home, which stands on a solid foundation.
And the only the Person who will evaluate and grade what kind of journey it has been is the One who invites us into that eternal dwelling, the One who is the Creator of time and life, not myself or others. If I only rely on the rewards from this One, I feel that we can now receive the affirmation of living in the present moment itself.
Today's sunset was already hidden by thick clouds about 10 minutes before it set on the horizon. My children and I enjoyed watching the rays of light leaking out of those clouds and turning the clouds on the edges red.
“Our days may come to seventy years,
or eighty, if our strength endures;
yet the best of them are but trouble and sorrow,
for they quickly pass, and we fly away.
If only we knew the power of your anger!
Your wrath is as great as the fear that is your due.
Teach us to number our days,
that we may gain a heart of wisdom.
Relent, LORD! How long will it be?
Have compassion on your servants.
Satisfy us in the morning with your unfailing love,
that we may sing for joy and be glad all our days.
Make us glad for as many days as you have afflicted us,
Psalm 90:10-15
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