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聖書の中心テーマについて

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聖書の中心テーマについて
聖書を字義通りに解釈し熟読していく中でその全体像を把握していくと、膨大な聖書全巻も1つの統一性・調和性を持った書物であることに気がつくようになる。

福音派が聖書全巻を整理する神学体系には、主に2つのものがある。

*契約神学〜主流派であり、ほとんどの教派・教団が採用している。
*ディスペンセイション〜少数派であり、お気づきのように著者の立場である。

❶契約神学の理解する聖書の中心テーマ

*それは人間の救いであるとする。
人間の救いを神の栄光が現れる唯一の方法だとする。
そして神の国の広がりを教会キリスト教会勢力の広がりであると理解する。アウグスティヌスの「神の国」はその時点で世俗権力との抗争を書いたもの。よって贖いの計画が聖書全体を調和統合する原則としている。

*その解釈学
人間の救いが中心でなくてはならないので贖いを完成したキリストの十字架を中心に旧約聖書を読み込もうとする。
旧約聖書を理解するために新約聖書を用いるのが正しいことである。しかし新約聖書を旧約聖書に押し付けるのは間違っている。新約聖書の啓示を持って旧約聖書に当てはめ、読み込もうと言う作用が働いている。
結果、聖書の比喩的解釈が行われ、その意味するところは比喩的解釈者によって決定させられている。

*その教会論
ある人はアダムから教会が始まり、またある人はアブラハムから教会が始まったとされている。神の民とは教会であると言う「1つの神の民論」を採用した結果の無理な解釈である。よって、現在のイスラエルは「選ばれた民族」から既に除外されていることになっている。旧約から新約時代の変遷において、神の民がイスラエルから教会に置き換わったと言う置換神学を採用している。

*その救済論
信仰の内容は1つで同じだとしている。
つまり旧約時代の聖徒たちもキリストの十字架と復活によって救われたのだとする。何らかの神的な方法で彼らは知っていたとみなす。
「旧約時代の聖徒たちは十字架を待ち望み、新約時代の聖徒たちは十字架を振り返って救いを得ている」と説明している。

❷ディスペンセイションの理解する聖書の中心テーマ。

*それは神の栄光であるとする。
人間の救いも確かに中心的なテーマではあるが、そればかりではない。人間が創造の6日目につくられる前にすでに創造世界は完成していた。アダムの堕落によって罪と死の悪影響が全被造物に及んだが、その全被造物の贖い、そこに輝く神の栄光が聖書のテーマである。
"被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。"
ローマ人への手紙 8章21~22節

*「神の栄光」を聖書中心テーマであると認識する利点
旧約聖書と新約聖書の継続性と調和が生まれる。
キリストによる十全な贖いとその啓示を、旧約聖書に読み込む必要は全くなくなる。

緒契約の間の継続性と調和が生まれる。

*ライリーによるディスペンセイショナリズムの3大基本柱。
①一貫した字義通りの解釈
「一貫した」が大切な点。契約神学ではイスラエルや終末論のある部分を比喩的に解釈する。ディスペセイションでは聖書のどの部分も字義通りに解釈する。

② Israelと教会の区別。
聖書は明確にこの両者を区別している。つまり神の民にはイスラエルと教会の2つがあり、それぞれに別個の神の救いの計画がある。

③聖書の中心テーマは神の栄光である。
つまり全世界が堕罪の影響受け滅び行くものとなっているが、創造当初のエデンの園の状態に回復されて神の栄光が全世界に満ちることが聖書の最終ゴールであるとする。人間の救いはその中の1部に過ぎない。キリスト教会の勢力拡大が世界を救うのではなく、キリストが再臨してエルサレムの王座に座し、全世界を統治することにおいて救い(自然界の回復)が完成する。
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