ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「言葉を話したロバ」
民数記 22章21~35節
"バラムは朝起きて、自分のろばに鞍をつけ、モアブの長たちと一緒に行った。
しかし、彼が行こうとすると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちはだかった。バラムはろばに乗っていて、二人の若者がそばにいた。
ろばは、主の使いが抜き身の剣を手に持って、道に立ちはだかっているのを見た。ろばは道からそれて畑に入って行ったので、バラムはろばを打って道に戻そうとした。
すると主の使いは、両側に石垣のある、ぶどう畑の間の狭い道に立った。
ろばは主の使いを見て、石垣にからだを押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、バラムはさらにろばを打った。
主の使いはさらに進んで行って、狭くて、右にも左にもよける余地のない場所に立った。
ろばは主の使いを見て、バラムを乗せたまま、うずくまってしまった。バラムは怒りを燃やし、杖でろばを打った。
すると、主がろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」
バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」
ろばはバラムに言った。「私は、あなたが今日この日までずっと乗ってこられた、あなたのろばではありませんか。私がかつて、あなたにこのようなことをしたことがあったでしょうか。」バラムは答えた。「いや、なかった。」
そのとき、主はバラムの目の覆いを除かれた。すると彼は、主の使いが道に立ちはだかり、抜き身の剣を手に持っているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
主の使いは彼に言った。「何のために、あなたは自分のろばを三度も打ったのか。わたしが敵対者として出て来ていたのだ。あなたがわたしの道を踏み外していたからだ。
ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を避けた。もし、ろばがわたしから身を避けていなかったなら、わたしは今すでに、あなたを殺して、ろばを生かしていたことだろう。」
バラムは主の使いに言った。「私は罪を犯していました。あなたが私をとどめようと道に立ちはだかっておられたのを、私は知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」
主の使いはバラムに言った。「その人たちと一緒に行け。しかし、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクの長たちと一緒に行った。"
ロバの奇跡
①3回、意にそわないロバを打ち付けたバラム
ロバには「主の使いが抜き身の剣を手に持っている」のが見えていた。
②「主がロバの口を開かれた」ので抗議してバラムとの会話が始まった。
(2) 神の摂理
①バラムの目の覆いが取り除かれた。
事の真相を理解し、ロバが身を交わさなければ命がなかったことを告げられた。
②主の使いとは受肉前のキリストである。
バラムにとって行く手を阻む敵対者であったが、実のところ罪から救う救助者となっている。あらゆる道において神の摂理の御手を認めよう。
⑶許容される神
①バラムの悔い改めは表面的であり徹底したものではない(34)。もし本気なら条件をつけずに引き返したはず。
②「その人たちと一緒に行け」〜神の消極的で許容的な御心の表れ。私たちが頑なで強い自我があるなら、神がそれを許されるが喜ばれているわけではない。
(結論)
"彼らは正しい道を捨てて、さまよっています。ベオルの子バラムの道に従ったのです。バラムは不義の報酬を愛しましたが、
自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。"
ペテロの手紙 第二 2章15~16節
バラムの下心には、「不義の報酬を愛する」と言うものがあった。明確な神の御心が示されているのに、不純な動機でこれを曲解するなら悲劇的な結末につながる。
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「仰ぎ見れば生きる」
民数記 21章4~9節
"彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、
神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」
そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。
民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。"
燃える蛇による裁き
①遠回りによる疲労
エドムを迂回して約200キロの距離。
食料と水が尽きて人々からは不満。
②燃える蛇。毒蛇による死。かまれた傷口からは焼けるような痛みが広がった。
青銅の蛇による救い
仰ぎ見たものだけが肉体的な死を免れることができた。信仰義認のひな形。ヨハネ3:14-18。
②救いと恵みを受けよ〜どんな場合でも罪の赦しと逃れの道は用意されてある
⑶ネフシュタン
①この青銅の蛇が後になって偶像化される。Ⅱ列王18:2-4。人間の弱さの表れ。物事の本質を忘れ表面的な華やかさに惹かれてしまう。
②現在世界中でオンライン礼拝が進んでいる。
そこでは大会衆の威力、大音響の音楽、感動極まる説教などが不可能となった。もしこれらが主体となっていたのであれば偶像化の危険にある。
(結論)
「御霊と真理によって礼拝すべし」
聖霊様に導かれ聖霊様に従順な姿勢で、
御言葉を学び御言葉に応答する礼拝を志そう。
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「息に預言し、あなた方は生き返る」
エゼキエル書 37章1~10節
"主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。
主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」
主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。
神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」
私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」
私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。"
息に預言せよ
①エゼキエルの時代、これからバビロン捕囚が始まりユダヤ民族はエルサレムから絶やされようとしている。その時の惨状はまさにひどく干からびた骨の集まり(1)。
②主イエスの時代、ヨハネ14:16。主が父なる神に願われることにより聖霊様が私たち人に注がれて教会の誕生を得た。
息は人を生き返らせる
2段階による復活。骨と骨が接続し筋と肉がを生じ皮膚がその上を被ったが命はなかった(8)。続いて息に命じることにより彼らは行き帰り足で立ち上がった(10) (ユダヤ民族の物理的な復興と聖霊による霊的な復興を預言)
②聖霊をいただいた私たちは新しい力を得て口が解けて主の証人となり、主の働きのために与えられた賜物で仕える
⑶「わたしが主であることを知ろう」(13、14)
①誰も成し得ないことが預言通りに実現するのを見て、生きたもう神がおられることを体験的に知るようになる。
②助け主なる聖霊様は私たちと共に、いつまでも共におられる(ヨハネ14:16-17)
(結論)
三位の神が共におられ、内に住んでおられるのを知ることほど幸いなことは無い。
朝目覚めた時に確認したいこと、
•聖霊様が今日も共にいて下さる
•私の内に住んでいてくださる
•主イエスと父なる神と共に住んでいて下さる
•その状態は永久までも継続される
• 三位の神の親しい交わりに私も入れていただいていること。
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「息に預言し、あなた方は生き返る」
エゼキエル書 37章1~10節
"主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。
主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」
主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。
神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」
私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」
私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。"
息に預言せよ
①エゼキエルの時代、これからバビロン捕囚が始まりユダヤ民族はエルサレムから絶やされようとしている。その時の惨状はまさにひどく干からびた骨の集まり(1)。
②主イエスの時代、ヨハネ14:16。主が父なる神に願われることにより聖霊様が私たち人に注がれて教会の誕生を得た。
息は人を生き返らせる
2段階による復活。骨と骨が接続し筋と肉がを生じ皮膚がその上を被ったが命はなかった(8)。続いて息に命じることにより彼らは行き帰り足で立ち上がった(10) (ユダヤ民族の物理的な復興と聖霊による霊的な復興を預言)
②聖霊をいただいた私たちは新しい力を得て口が解けて主の証人となり、主の働きのために与えられた賜物で仕える
⑶「わたしが主であることを知ろう」(13、14)
①誰も成し得ないことが預言通りに実現するのを見て、生きたもう神がおられることを体験的に知るようになる。
②助け主なる聖霊様は私たちと共に、いつまでも共におられる(ヨハネ14:16-17)
(結論)
三位の神が共におられ、内に住んでおられるのを知ることほど幸いなことは無い。
朝目覚めた時に確認したいこと、
•聖霊様が今日も共にいて下さる
•私の内に住んでいてくださる
•主イエスと父なる神と共に住んでいて下さる
•その状態は永久までも継続される
• 三位の神の親しい交わりに私も入れていただいていること。
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「もう一人の助け主」
ヨハネの福音書 14章16~24節
"そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」
イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。"
ヨハネの洞察力と理解力
①平易な言葉遣いに深遠な真理が記されている
深い洞察がなければありえないこと。
②イエスに最も愛されていたと自他共に承認されていた。
最後の晩餐での右側の席順と復活後ガリラヤ湖上での証言。
三位一体
三位の神にはそれぞれの位格がある
イエスがお願いする対象は父。父が助け主を送られる。その助け主とは真理の御霊であり、人格を持った人称代名詞「その方」。単なる影響力や力の発生する電源のようなものとは違う(エホバの証人の見解)
②その三位の位格が存在と実質において1つである
「その方があなた方と共に住む」(17)
=「わたしたちはその人のところに来てその人と共に住む」(23)
⑶「ともに住む」
①「あなたがたのうちにおられるようになる」(未来形)
「その人とともに住みます」(未来形)
ペンテコステの日の境界誕生の時に成就した。
現在では主を信じる者全ての者らに成就している。
②「住む」について
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなた方の中にとどまります」(15:4)と同じ語。同じ住居を共にするとは、交わりとくつろぎを意味する。
(結論)
主とともに生活することの安らぎとくつろぎは、確かな聖書理解を基とした「戒めを守る」(15)という実践にある。
すごーい東北弁。
姿、かっこうは西洋人なのに言葉も中身も東北人になりきっている人って不思議な感じ。
さりげなくシアトル地区の全牧師の名前を読み上げながら宮沢賢治の詩を歌いあげるだなんて、、、、
こんな牧師がシアトルにいるって皆さん信じられますか?
https://m.youtube.com/watch?v=w3BQVdTw_Ng&feature=youtu.be
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「平安があなた方に」
ルカの福音書 24章36~43節
"これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。"
イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた(36)
①弟子たちの罪や死に対する恐れ、思い煩いと戸惑い、疑問と混乱。少なくとも3名がこの時点で復活の主とお会いしている。
②「平安があるように」イエスを端っこに追いやる事はいつでもあり得る。真ん中にお迎えする時に黒い雲が晴れていく。
なぜ取り乱しているのか(38)
①彼らは驚き恐れて霊を見てるのだと思った
霊体の復活が肉体を伴っての復活か?
②焼き魚を召し上がった
人間としての完璧な肉体を持っての生涯あり死であり復活であった。グノーシス主義・仮現論への反証。
わたしの手やわたしの足を見なさい
①そこには鉄杭で打たれた傷跡がある
パリサイ人、弟子たち、群衆らの罪ゆえの傷
②「彼の打ち傷によって私たちは癒された」(イザヤ53:5)
主が完璧な人間の肉体を持たれたがゆえにその傷を受けられた。この事実にこそ私たちへの癒しの道が開かれている。
(結論)
死は全てを解決するものでは無い。ここに生存している世界にあって、私の精神的・肉体的な病と傷は、主の肉体に刻まれた傷によって癒される。
私たちの人間関係には3種類のパターンがあるそうです。
①出来る限り力になりたい
困ってるのを見て親身になって相談に乗ったり世話をしてくれるあなたの協力者。年が若いほど私たちはこの手の協力者を必要とする。
②出来る限り避けておこう
あなたへの協力を惜しんだり、無視したり、あるいは故意に邪魔をしようとする人たち。どうしてその様な反感を買われるのか、自分自身を吟味する機会を得て、実は①タイプの人からよりも得るものが大きい。
③出来る限り密かに助けたい
あなたのことを①ように助けたいと考えているが、直接的な助けを控える人たち。立場や職業や時間など、様々な制約の中で実行はできないものの、影であなたを応援しようとしている。
どのパターンの人が身近にいようとも得るものはあることになる。私の人生を振り返ると、教師や家族や仲間など多くの③の人々に囲まれてきた。そして今日も私は愛されている。愛を表す相手がいることに感謝します。
今日も交流していただいてありがとうございます。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「クリスチャンとは誰か」
コリント人への手紙 第一 1章1~3節
"神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。"
(序論)
シリア・アンティオキアで異邦人のキリスト信者達が「クリスチャン」と呼ばれるようになった。クリスチャンとは、神からのコール(召し)を受けたものであるとするのが聖書の基本的立場。
天職としての召し
①パウロは使徒としてコール・召された
「使徒」とは特別の称号。イエスの直接の弟子で復活の目撃者である十二使徒の次の範中に属する。自身の使徒職を弁明する必要があった。
②私たちの各人の職業への召し
宗教改革の功績の1つ。天職意識を教会と修道院から持ち出してすべての経済活動へ適応した。
聖徒としてコール・召された
①それは立場的な聖である
「イエスにあって聖なるものとされた」完了形の動詞。すなわち現在、聖であると見なされている。
②ある特定の目的のために分別され、分けられたもの
"大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。
ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。"
テモテへの手紙 第二 2章20~21節
イエスの名を呼び求めている(コールしている)者たち
①神のコールに応答した者達のこと。
神が全ての人に呼びかけ(コール)手を伸ばしておられるのであり、そこにえこひいきや差別はない。
②「恵と平安がありますように」
常に恵が先に届けられ、それゆえに私たちは平安を得ることができる。
(結論)
「嗤われずに生き、疎まれずに死ねば、その人の人生はそれだけで偉大である」(武田鉄矢)
そのような人生を歩むのに必要なものが平安である。
平安を得ることができればその人は成功者であると言える(ある伝道者)
今日の夕日は、この年見た中で最も美しかった。
空に浮かぶ雲が、いくつか階層になっていて、その階層ごとに夕日が反射する色合いを作り、多くのグランデーションを空に引き伸ばしている。絵の具をキャンパスに撒き散らしたかのように。
無言のうちに息子としばらく見とれていると、自然と以下の聖歌が去来して来ました。
(1)
夕べ雲焼くる 空を見れば
主の来たり給う 日のしのばる
(繰り返し)
ああ神の前に われ勤しまん
業やむる時の 間近き今
(3)
その日をば待てる 我らなれば
悩みも涙も など避くべき
2000年前、オリーブ山近郊から天へと引き上げられて行かれたイエスは、再び地上に帰って来られるとの約束を残されました。
その日の様子をゼカリヤ書が以下のように予言しています。
"これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。"
ゼカリヤ書 14章7節
夕暮れどきの美しい光を見ると、この聖書のお言葉ゆえに主の再臨を想起したのでしょう。
そしてコロナ渦中にあって、今までの私たち全世界が経験したことのない社会の変革を迎えようとしています。
聖書が予言する主の再臨前の大艱難時代の様相に近づいているのを見るにつけ、この御言葉と聖歌が想起したのでしょう。
「われ勤しまん」
今までと同じような働きはできないですが、現在できることを勤しむ者でありたいと願ったのでした。
隣にいる息子は何を願ったのだろう?
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