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「かすかな細い声」

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オリンピック半島にある海に突き... オリンピック半島にある海に突き出た砂州

ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。




「かすかな細い声」


列王記 第一 19章3~14節


"彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」
彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。
彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。
主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。
彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。
彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。
エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」
主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。
エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」"





⑴貴方だけに届けられる声


① 他者との比較の世界に生きているエリヤ〜先祖たちと比較(4)、モーセと比較(8、新約の変貌山)

②自負心と自己実現の陶酔にあっては聴こえない声(火と水を持って応えた神:18章))


⑵壊れた者に寄り添われる声


①エニシダの木の下で死を願うエリヤに2回顕現された主の使い(受肉前のイエス様)
説教ではなく食事を(5)
逃避行を勧める?(7)

② 「エリヤよ。ここで何をしているのか」
エリヤ自身のあり方(BEING)を振り返らせている。
エリヤの答えからDOINGに誇りと自負心を持っているのがわかる。


⑶新たな展望・ビジョンを与える声


①シャカイナ・グローリー(大風、地震、火)の中に主はおられなかった。これまでの民族歴史や個人経歴のスタイルや期待とも異なる方法で顕現された神。

②考えも及ばなかった展望
アラム王、イスラエル王、後継預言者の任命
7千人のレムナント(残りの者)


(結論)
自己の対する誇りと祝福の前提が葬り去られる時に聴こえて来る「かすかな細い声」がある。
その声を聴き分け新たな展望を得て指針に生きる者とされよう。



#メッセージ

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「普通の人、エリアの祈」

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SanRahaelの聖堂 SanRahaelの聖堂




「普通の人、エリヤの祈り」



列王記 第一 18章41~46節



"エリヤはアハブに言った。「上って行って、食べたり飲んだりしなさい。激しい大雨の音がするから。」
そこで、アハブは食べたり飲んだりするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた。
彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。
七回目に若い者は、「ご覧ください。人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上っています」と言った。エリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」
しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗って、イズレエルへ行った。
主の手がエリヤの上に下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入り口までアハブの前を走って行った。"


⑴先見者の確信〜大雨の音を聞いた(41)


① 3年と半年の間雨はなく土地はやせ細っていた(ヤコブ5:17)

②火を持って答える神、この方は祈りに応答される方であることをすでに体験していた(37-38)


⑵没頭した祈り〜自分の顔膝の間に埋めて(42)


①注意を分散させず祈りに沈潜していった

② 失望的な報告「何もありません」に耐え続けた祈り
見える変化は何もなくてもあくまで確信(1)が揺るがない
祈りながら夜を明かされた主の模範(ルカ6:13)
40日40夜断食して祈ったモーセ(出エジプト24:18)


⑶永遠者との合一〜手のひらほどの小さな雲が海から(44)


祈りが長時間にわたる理由
霊的な障害が取り除かれない、集中するのに時間がかかる、サタンが祈りを妨げる、肉体的弱さ、精神的低下、、、?

神と同じ立場、見地に立つまでに時間を要する



(結論)

祈りにおいて私たちには安息、刷新、充填が備えられる。主ご自身の御霊と1つとなれる世界がある。


k
#メッセージ

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「あなたのその力で」

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オリンピック半島はクレセントレ... オリンピック半島はクレセントレイクにある「トトロの木」

ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。





「あなたのその力で」


士師記 6章11~16節

"さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。
主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」
ギデオンは御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」
すると、主は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」
主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」"


〜救国の士師の召命〜


⑴その不屈さ


①不屈さ、堅忍
他者は洞穴や洞窟に隠れ潜んでいたが(2-3)
村に残り、酒船の中で小麦を打つギデオン(11)

②愛国の情熱
イスラエルの建国を掘り起こし、その栄誉が失墜いる現状を訴える。
自己と民族の同一化。


⑵その謙遜さ


①正しい現状把握 (15)

② 絶対他者なる方の評価
「勇士よ」(12)


⑶その力の源泉 (14)

自らの資質、所有している資源のままで良い
「あなたのその力で生き、救え」

派遣して同行される方がおられるから
「わたしがあなたを遣わす」(14)
「わたしはあなたといっしょにいる」(16)



(結論)
ペテロは、「私にあるものをあげよう」と物乞いの男に言い、彼の足はたちどころに癒された(使徒3:6)奉仕と生活の源泉となる力、期待を置き続ける対象、待望する源泉的な力を見出そう。
#メッセージ

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聖書研究のおすすめ

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藤本先生のeラーニングは過去数回受講して、大変有意義でした。

今回も!と思ったのですが、今回のは受講生からの投稿なし、との事で積極的になれませんでした。私は定説となっていることからはみ出して、講師を困らせることを楽しとしている悪趣味の男ですから。

ところが、既に神学校でこのコースを学んだ友人牧師が「人生が変わった」とコメントしてるのを見て受講を決めました。

ありきたりの聖書のお勉強ではなく、聖書の書かれた歴史文化を立体化し、掘り起こしての解き明かしのようで、再び目から鱗を何枚もはがせてもらえそうです。

ギリシャ語ではなく日本語の読解力がキーとなるコースと聞いてさらに興味がわきました。現代国語を得意とする生徒の方が、外国語の得意な生徒よりも深い理解に至るとか。

米国の神学校ではそれ故、「現代聖書」と言うコース名らしいですよ。




今からでも間に合う?
画期的?聖書読解法レクチャー

https://note.mu/mitsuru_fujimoto/m/md5239ed8822a


#メッセージ

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「顔と顔合わせて神を見る」

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「顔と顔合わせて神を見る」
ホサナキリスト教会の日曜礼拝のメッセージアウトラインです。


「顔と顔とを合わせて神を見る」


創世記 32章24~32節



"ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。"



⑴死の縁に立つこと


①ある人との格闘
人の策略と知恵とを動員しても拭い去ることのできない不安と恐れ

②「祝福して下さるまではさらせません」
神を見る事は死を意味する。
死を賭してまで、己の存在に勝って求めるものがあった。


⑵自己の本性の告白


①「あなたの名は何と言うのか」
「ヤコブです」〜「押しのけるもの」
出生から今まで他者を押しのけ自己の利益拡大を諮ってきた

② 「イスラエル」と改名
「神の皇太子」「神が戦われる」
ここで本性が変えられた。


⑶新たな原理で生きる

①もものつがいがが外された
自己の力には頼らず、自己の砕かれた様子

②「太陽が彼の上に上った」
「義の太陽」である主イエスに照らされて歩む人生の始まり


(結論)
"しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。"
マラキ書 4章2節

神を見るとは、私を見ておられる方を自覚し認識すること。私の本性を知った上で受け入れてくださる方。そこでは不安が溶けて、癒しと喜びが湧く。
#メッセージ

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天啓をワンちゃんから

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天啓をワンちゃんから 天啓をワンちゃんから



このワンチャンの寝顔になんだか癒されるなぁ。

「そんなにあくせくするなよ。
慌ててどうする?
ゆっくりと構えていたらいいんだ」

いつもこのチェアーでくつろいでいると言うワンチャンがそのように語っているように感じた。

いつもの日本食レストランでくつろぎながら。

「汝らしづまりて我の神たるを知れ。
我は諸々の国のうちに崇められ全地に崇めらるべし」
(詩篇46:10)

#メッセージ

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「ともにおられる神」

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「ともにおられる神」
ホサナキリスト教会の日曜礼拝のメッセージアウトラインです。



「ともにおられる神」


マタイの福音書 28章18~20節


"イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」"



⑴信者に啓示されて来た神


①天地創造された方
仏教の輪廻転生世界観とは異なり、人はそれぞれが個体であり、死後は創造主なる神の前に生前の全ての言動が問われる。

②イスラエルの歴史において顕現された方
アブラハムとの契約、モーセの律法、そして預言者によるメシア的王国の預言など、、


⑵信者とともに歩まれた神


①OTにおいても人とともに歩まれた神。
エノク、ノア、ヨセフらとともに。

② 主イエスが人となってイスラエルの地を歩まれた。そこには自然災害、旅のための食物や住居の必要、人々の妬みと憎しみ、忖度する民衆の移ろいやすい感情など、ありとあらゆる人間模様の只中を歩まれた


⑶信者の味方・援助者・同情者としての神



「そこにある助け」(詩篇46:1)
OTの内容と意義がさらに圧倒的な現実として(カラー3D版)実現したのが聖霊降臨以後の経綸

「助け主」(パラクレートス)として私たちに寄り添ってくださる聖霊。"そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。"(ヨハネの福音書 14章16節)


(結論)
神が共におられるとは、聖霊様が私たちのうちに住まわれることと同義。
信仰者に今、実現していること。ヨハネ14:16では未来形時制であるが、使徒2章で成就。
「いつまでも」(ヨハネ14:16)=「世の終わりまでも」(マタイ28:20)
神が同行されるとは、理論的理解だけでなく経験的に捉えられてその事実に憩う事ができるように。
#メッセージ

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ラザロと金持ち

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ラザロと金持ち




「アブラハムの懐で憩うラザロ」


ルカ16章19-31章


"ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」"



⑴与えられた機会


①金持ちは良いものを(25)
健康、友人、財産、さらにはユダヤ人として聖書を与えられていた

②ラザロは悪いものを
健康も財産もなく不運としか言えない境遇
両者ともにいくつかところは死である


⑵与えられた資産


①真の資産は継続するもの。死後それが明らかになった。
「アブラハムの懐」=「パラダイス」= 信者の行く憩の場
「ハデス」= 不信者の行く苦しみの場

② 2つの場の間には大きな淵があり行き来ができない。セカンドチャンスや煉獄の教理は聖書にそぐわない。意識や認知が保たれている場所。


⑶与えられたテスト


神のメッセージを聴くテスト(29-31)
「モーセと預言者」は聖書を意味している。
復活の奇跡と言う驚きは悔い改めに人を導かない。



金持ちは不信者ゆえに聖書の教えに従うことをしなかった(20-21)


(結論)
私たちに与えられている最大の資産は聖書であり祈りであり信じるチャンスである。
聖書の教えを実行するチャンスは今日も与えられている。目の前にいる必要としている方のためにアクションを。


#メッセージ

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「伝道者ピリポ」

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横浜みなとみらいの夜景 横浜みなとみらいの夜景
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。


「伝道者ピリポ」


使徒8章26-40節


"さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。
そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。
するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
彼が読んでいた聖書の箇所には、こうあった。「屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている子羊のように、彼は口を開かない。
彼は卑しめられ、さばきは行われなかった。彼の時代のことを、だれが語れるだろう。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
宦官はピリポに向かって言った。「お尋ねしますが、預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。
道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」"

"そして、馬車を止めるように命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。
二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。
それからピリポはアゾトに現れた。そして、すべての町を通って福音を宣べ伝え、カイサリアに行った。"


⑴聖霊との共同作業の出来る人


①耳を済まし心を覚まして小さな声を聴こう
「主の使いが、、、こう言った」(26)
「御霊、、、言われた」(29)

②サマリヤでの働きの最中
それは成功や喜びを放り出すこととなる
荒野のガザに下る道まで行って見なければ次の展開は開けてこない


⑵聖書に通暁した人


①「この聖句から始めて、、」(35)
どの聖句を取り上げても説明ができるだけの聖書全体の知識を持ち合わせていた

②「イエスのことを、、、」
旧約聖書を含めて聖書全巻は主イエスを中心とする理解と解釈とに至らなくてはならない。
主イエスが最後で最大の啓示者であるから(ヘブル1:1-2)


⑶謙遜な人


自らの役割を理解しそれに徹することができた人。
サマリアの町のリバイバルの導火線はピリポ自身の活躍に寄ったが、聖霊が降り教会が誕生するには使徒達がエルサレムから来るのを待たねばならなかった(16-17)。

任地や仕事形態に固執しなかった人。
サマリヤ、ガザ、アゾト、カイザリヤへと聖霊に導かれるままに、また自らの理性を用いて仕事を進めていった。


(結論)
神のために用いられる伝道者の資質は当時も今も変わりがない。聖書に通じ聖霊様の声に耳を傾ける人であり、その特徴として謙遜の実を結んでいる人である。
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「わたしに来る者を」

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「わたしに来る者を」



ホサナ・キリスト教会日曜礼拝のメッセージ・アウトラインです。



「わたしに来る者を」



ヨハネの福音書 6章34~44節



"そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。
父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。
彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」
イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。"



⑴「来る」-その困難さ


①主がチャレンジされている中心点、キリスト教信仰の全てであると言っていい。
主のもとに来ることについて何度も語られている(35、37、44、45、65)。

②信仰の世界でこれほど難しいこともない。
群衆は小舟で湖を渡りイエスを探し出したが。
物理的な距離を縮めたとしてもそれは来たことにはならない。
24-26節。教会堂に来ても、牧師に相談できても、洗礼を受けたとしても、、、、



⑵「来る」-それは「信じる」「食べる」と同義語



①「信じる」ヘブル的並列表記法(35)
食糧経済問題解決のためのメシアを探していた人々にとって「しるし」を見ても見ていない(26)

②「食べる」ヘブル的物理比喩的表記法(50、53、56、57、58)
主の言葉は霊でありいのちである(63)。この言葉に信頼を置くのもには命を支える食物となる。


⑶「来る」-そのカラクリ

父なる神がイエスに与えられたものである
父が引き寄せ(44)、父から聞いて学んだもの(45)、父によらない限り誰もイエスのところには来れない(65)。


②来るものを決して捨てないとのイエスによる永久保存(39)
「ひとりも失うことなく」と強調され、蘇りの日までの保護が保証されている。



(結論)
「来る」とは、簡単でありながら最も難しい信仰の行為である。対面や格式にこだわる者には不可能である。自分自身に確信を置かない者だけ許される特権であり、謙遜な行為である。
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