藤本先生のeラーニングは過去数回受講して、大変有意義でした。
今回も!と思ったのですが、今回のは受講生からの投稿なし、との事で積極的になれませんでした。私は定説となっていることからはみ出して、講師を困らせることを楽しとしている悪趣味の男ですから。
ところが、既に神学校でこのコースを学んだ友人牧師が「人生が変わった」とコメントしてるのを見て受講を決めました。
ありきたりの聖書のお勉強ではなく、聖書の書かれた歴史文化を立体化し、掘り起こしての解き明かしのようで、再び目から鱗を何枚もはがせてもらえそうです。
ギリシャ語ではなく日本語の読解力がキーとなるコースと聞いてさらに興味がわきました。現代国語を得意とする生徒の方が、外国語の得意な生徒よりも深い理解に至るとか。
米国の神学校ではそれ故、「現代聖書」と言うコース名らしいですよ。
今からでも間に合う?
画期的?聖書読解法レクチャー
https://note.mu/mitsuru_fujimoto/m/md5239ed8822a
ホサナキリスト教会の日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「顔と顔とを合わせて神を見る」
創世記 32章24~32節
"ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。"
⑴死の縁に立つこと
①ある人との格闘
人の策略と知恵とを動員しても拭い去ることのできない不安と恐れ
②「祝福して下さるまではさらせません」
神を見る事は死を意味する。
死を賭してまで、己の存在に勝って求めるものがあった。
⑵自己の本性の告白
①「あなたの名は何と言うのか」
「ヤコブです」〜「押しのけるもの」
出生から今まで他者を押しのけ自己の利益拡大を諮ってきた
② 「イスラエル」と改名
「神の皇太子」「神が戦われる」
ここで本性が変えられた。
⑶新たな原理で生きる
①もものつがいがが外された
自己の力には頼らず、自己の砕かれた様子
②「太陽が彼の上に上った」
「義の太陽」である主イエスに照らされて歩む人生の始まり
(結論)
"しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。"
マラキ書 4章2節
神を見るとは、私を見ておられる方を自覚し認識すること。私の本性を知った上で受け入れてくださる方。そこでは不安が溶けて、癒しと喜びが湧く。
このワンチャンの寝顔になんだか癒されるなぁ。
「そんなにあくせくするなよ。
慌ててどうする?
ゆっくりと構えていたらいいんだ」
いつもこのチェアーでくつろいでいると言うワンチャンがそのように語っているように感じた。
いつもの日本食レストランでくつろぎながら。
「汝らしづまりて我の神たるを知れ。
我は諸々の国のうちに崇められ全地に崇めらるべし」
(詩篇46:10)
ホサナキリスト教会の日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「ともにおられる神」
マタイの福音書 28章18~20節
"イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」"
⑴信者に啓示されて来た神
①天地創造された方
仏教の輪廻転生世界観とは異なり、人はそれぞれが個体であり、死後は創造主なる神の前に生前の全ての言動が問われる。
②イスラエルの歴史において顕現された方
アブラハムとの契約、モーセの律法、そして預言者によるメシア的王国の預言など、、
⑵信者とともに歩まれた神
①OTにおいても人とともに歩まれた神。
エノク、ノア、ヨセフらとともに。
② 主イエスが人となってイスラエルの地を歩まれた。そこには自然災害、旅のための食物や住居の必要、人々の妬みと憎しみ、忖度する民衆の移ろいやすい感情など、ありとあらゆる人間模様の只中を歩まれた
⑶信者の味方・援助者・同情者としての神
「そこにある助け」(詩篇46:1)
OTの内容と意義がさらに圧倒的な現実として(カラー3D版)実現したのが聖霊降臨以後の経綸
「助け主」(パラクレートス)として私たちに寄り添ってくださる聖霊。"そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。"(ヨハネの福音書 14章16節)
(結論)
神が共におられるとは、聖霊様が私たちのうちに住まわれることと同義。
信仰者に今、実現していること。ヨハネ14:16では未来形時制であるが、使徒2章で成就。
「いつまでも」(ヨハネ14:16)=「世の終わりまでも」(マタイ28:20)
神が同行されるとは、理論的理解だけでなく経験的に捉えられてその事実に憩う事ができるように。
「アブラハムの懐で憩うラザロ」
ルカ16章19-31章
"ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」"
⑴与えられた機会
①金持ちは良いものを(25)
健康、友人、財産、さらにはユダヤ人として聖書を与えられていた
②ラザロは悪いものを
健康も財産もなく不運としか言えない境遇
両者ともにいくつかところは死である
⑵与えられた資産
①真の資産は継続するもの。死後それが明らかになった。
「アブラハムの懐」=「パラダイス」= 信者の行く憩の場
「ハデス」= 不信者の行く苦しみの場
② 2つの場の間には大きな淵があり行き来ができない。セカンドチャンスや煉獄の教理は聖書にそぐわない。意識や認知が保たれている場所。
⑶与えられたテスト
神のメッセージを聴くテスト(29-31)
「モーセと預言者」は聖書を意味している。
復活の奇跡と言う驚きは悔い改めに人を導かない。
金持ちは不信者ゆえに聖書の教えに従うことをしなかった(20-21)
(結論)
私たちに与えられている最大の資産は聖書であり祈りであり信じるチャンスである。
聖書の教えを実行するチャンスは今日も与えられている。目の前にいる必要としている方のためにアクションを。
横浜みなとみらいの夜景
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「伝道者ピリポ」
使徒8章26-40節
"さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。
そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。
するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
彼が読んでいた聖書の箇所には、こうあった。「屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている子羊のように、彼は口を開かない。
彼は卑しめられ、さばきは行われなかった。彼の時代のことを、だれが語れるだろう。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
宦官はピリポに向かって言った。「お尋ねしますが、預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。
道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」"
"そして、馬車を止めるように命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。
二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。
それからピリポはアゾトに現れた。そして、すべての町を通って福音を宣べ伝え、カイサリアに行った。"
⑴聖霊との共同作業の出来る人
①耳を済まし心を覚まして小さな声を聴こう
「主の使いが、、、こう言った」(26)
「御霊、、、言われた」(29)
②サマリヤでの働きの最中
それは成功や喜びを放り出すこととなる
荒野のガザに下る道まで行って見なければ次の展開は開けてこない
⑵聖書に通暁した人
①「この聖句から始めて、、」(35)
どの聖句を取り上げても説明ができるだけの聖書全体の知識を持ち合わせていた
②「イエスのことを、、、」
旧約聖書を含めて聖書全巻は主イエスを中心とする理解と解釈とに至らなくてはならない。
主イエスが最後で最大の啓示者であるから(ヘブル1:1-2)
⑶謙遜な人
自らの役割を理解しそれに徹することができた人。
サマリアの町のリバイバルの導火線はピリポ自身の活躍に寄ったが、聖霊が降り教会が誕生するには使徒達がエルサレムから来るのを待たねばならなかった(16-17)。
任地や仕事形態に固執しなかった人。
サマリヤ、ガザ、アゾト、カイザリヤへと聖霊に導かれるままに、また自らの理性を用いて仕事を進めていった。
(結論)
神のために用いられる伝道者の資質は当時も今も変わりがない。聖書に通じ聖霊様の声に耳を傾ける人であり、その特徴として謙遜の実を結んでいる人である。
ホサナ・キリスト教会日曜礼拝のメッセージ・アウトラインです。
「わたしに来る者を」
ヨハネの福音書 6章34~44節
"そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。
父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。
彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」
イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。"
⑴「来る」-その困難さ
①主がチャレンジされている中心点、キリスト教信仰の全てであると言っていい。
主のもとに来ることについて何度も語られている(35、37、44、45、65)。
②信仰の世界でこれほど難しいこともない。
群衆は小舟で湖を渡りイエスを探し出したが。
物理的な距離を縮めたとしてもそれは来たことにはならない。
24-26節。教会堂に来ても、牧師に相談できても、洗礼を受けたとしても、、、、
⑵「来る」-それは「信じる」「食べる」と同義語
①「信じる」ヘブル的並列表記法(35)
食糧経済問題解決のためのメシアを探していた人々にとって「しるし」を見ても見ていない(26)
②「食べる」ヘブル的物理比喩的表記法(50、53、56、57、58)
主の言葉は霊でありいのちである(63)。この言葉に信頼を置くのもには命を支える食物となる。
⑶「来る」-そのカラクリ
父なる神がイエスに与えられたものである
父が引き寄せ(44)、父から聞いて学んだもの(45)、父によらない限り誰もイエスのところには来れない(65)。
②来るものを決して捨てないとのイエスによる永久保存(39)
「ひとりも失うことなく」と強調され、蘇りの日までの保護が保証されている。
(結論)
「来る」とは、簡単でありながら最も難しい信仰の行為である。対面や格式にこだわる者には不可能である。自分自身に確信を置かない者だけ許される特権であり、謙遜な行為である。
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「人はパンだけで生きるのか」
マタイ4章1-4節
"それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」"
⑴勝利から勝利への主イエスの生涯
①受洗とその際の天からの声
イザヤ書43:1に見るメシア預言の成就
メシアとしての公生涯デビューは父なる神によって是認された
②勝利の理由
「御霊に導かれて」〜荒野という試練にも従い、神様の御心にジャスト・ミートされた主イエス。
⑵悪魔からの試み
①その必然性〜第二のアダムとして最初のアダムが敗北した敗者復活戦を戦う必要があった
②肉体を備えた完全なる人間ゆえの試練
40日40夜の断食の後での激しい空腹
申命記8:2
⑶神の口から出る一つ一つの言葉
能力を示すことへの誘惑
誰にも迷惑をかけず自分にも都合が良いなら良いではないか? アダムはこの悪魔の言葉を優先した優先した。
②「〜と書いてある」(4、7、10)
律法の付与者であるメシアご自身はご自分の権威ではなく聖書の権威を用いて回答して誘惑に勝利された。
(結論)
私たちは日頃どれぐらい聖書の言葉に接しているだろうか。その言葉に力づけられ活かされて主の御心を知ることを学んでいこう。
ヨルダンにある古代ローマ遺跡
ホサナキリスト教会・日曜礼拝メッセージアウトラインです。
「からし種一粒ほどの信仰」
マルコの福音書 9章14~29節
"さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」"
⑴イエス様のみを凝視した信仰
①山頂での高揚した喜び
特別に選ばれた3人には主イエスの変貌の姿を見せられた。
②山麓での問題の不毛さ
弟子たちには解決できない難問題を持っている父親の嘆き(18)
⑵己の不信仰を悟った信仰
①「不信仰な時代だ」との主の嘆き
治療の前に正確な病名を診断しなくてはならない
問題の究極的な原因がここにあるとの看破
②「この子がこんなになってからどのくらいになりますか」 この子の責任能力の限界。家庭環境と社会がこの惨状をもたらした
③「不信仰の私をお助け下さい」
問題の所在は息子にではなく己自身の不信仰にあったとの気づき。「できるものなら」と言う疑念しかない自身の限界を認めた。
⑶徹底された祈りの姿勢に見られる信仰
メシア的奇跡
耳も聞こえず口もきけなくする悪霊からの解放はメシア以外には誰にも不可能な奇跡と認識されていた。ここでメシアの代理人である弟子たちには土台無理なこと。
②聖霊様が与えられて主イエスと一つとされた私たちには祈りによって主の業を進めることができる(ヨハネ14:13)
(結論)
厳しいお手上げ状態の現実を前に私たちは途方に暮れるばかり。憐れみと理解と力とにおいて優った主に、永遠に変わらない主ご自身にいける信仰で結ばれよう。そして人の常識を超えた技を見せていただこう。
エルサレムのダマスコ門
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「五旬節の日になって」
使徒の働き 2章1~13節
"五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。"
⑴聖霊様の傾注ー「時代」の転換点であった
①突然の出来事〜弟子や近所の人々の視点
「すると天から突然」
神ご自身の特別な顕現に伴う自然現象=シャカイナ・グローリー。
風、響、地震、炎などの出現。アブラハムが契約を締結した時、モーセのシナイ山で、またイエス様の昇天の時など
②必然の出来事〜主イエスの預言の成就であった(使徒1:8)
これは復活後40日後の遺言でありその後いつ成就するかは弟子たちには知らされていない。
10日間の熱心な祈り(1:14)
さらにイスラエルの祭りにはこの予言的な意味が隠されている。
⑵他国の言葉で話し出したーさらに古い「時代」からの回復を意味する
①その特異性
15の国言葉、ネイティブスピーカーとなった
学習し習得したものとは違う。異言とも異なる。
②その預言的意味
バベルの塔以来の言葉の混乱、連帯の崩壊からの回復の時代が到来した。
さらにそれは「教会時代」の始まりを意味している。民族を貫いたあらゆる隔ての壁を取り除いた組織体である
⑶ヨエル書預言の成就ーやがて到来する新しい「時代」を見据えて
1部分の成就であった(2:16-21)
旧約聖書のラビ的引用法の4つのうちの1つ。
数ある預言項目のうち1つが適用出来たらそれで成就とみなされる。ここでは聖霊が激しく傾注されたことであり、その他の天変地異はまだ起こっていない。
全体の成就は終末時代の最終段階に成就される
それが主の再臨前、世界帝国軍がイスラエルに侵入しユダヤの民を全滅させんとする戦争時に起こる。
(結論)
私たちが今生きている時代を正しく認識しよう。
どういった時代経て次にどういう時代が来るのか。私たちのするべき事は主の証人(1:8)として生きることである。
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