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「愛から引き離すものあるか」

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「愛から引き離すものあるか」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
















「愛から引き離すものあるか」










ローマ人への手紙 8章31~39節










"では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、

高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。"










(1)  繋がっていた愛



①キリストの十字架において
  極限にふみにじられ、死の底に突き落とされたとき




②父と子との関係は揺るがなかった   
  父の愛がその時注がれていた。私のあの暗黒の時にも、イエス様の愛は注がれていた。







(2) 表された栄光







① 最も卑しめられた時に栄光が表されるのか?
  「この方は誠に神の子であった」と100人隊長の告白




②  神の愛と義、救いと裁きの交差~スパークによる遮光のように
 私のあの悲惨な屈辱と卑下された経験は、神の愛に気づくキッカケとなり得た







(3) 確定された勝利







 ① 「屠られる羊とみなされた」(36)ものが「圧倒的勝利者となる」(37)のは、
  先駆者キリストゆえ。







②  このキリストが復活され、神の右の座におられ、私たちのために執りなしておられる(34)。

 よって困難も迫害もどんな被造物も、キリストの愛から私たちを引き離すことはあり得ない(35、39)。










(結論)










1923年の関東大震災で、被災民の蚊帳にろうそくの火が十字架に光る。

その絶望した状況の中にキリストの愛を感じたマーチン宣教師の作詞作曲したのが、聖歌397番「遠き国や」だった。あなたのあの暗闇の瞬間にも、キリストの愛が輝いていた。
#メッセージ

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「聖書が教える信仰について」

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「聖書が教える信仰について」






ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。



















「聖書が教える信仰について」










創世記 15章1~6節










"これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」

さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」

すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。"










信じるとはどういう事か






自己努力による信仰の振起
  自分を説得しながら、対象(他者でも自己でも)を信じようと努める姿勢

  「我が子に限って」、試合前に自分を信じるとか。




暖かい体験を通じて説得でなくても喚起される心情
  幼児が無条件に母の胸に抱かれる光景







(2) Abrahamにとっての信仰







創世記12章から:「ウルからあなたを連れ出した主」(7)に対する信仰と従順は見事
 ~神の約束の言葉も、Abrahamには虚しく聞こえた(2-3)




創世記15章に至って: 満点の星々を見せられ、神の温かい御心に触れることができた      新しい意味での信仰を抱く (3) 誤解を生じやすい教え






(3) 神があなたに到来される時







①自己説得の信仰においては、平安も確信も与えられないのが私たち

15章以降においてもアブラハムはしばしばそのような現実の中をさまよう

16章で、ハガルを迎えて息子イシュマエルを得る

さらに17:17。




②私たちのところに訪れては懇ろに語り、温かく包む

18章で神とその使命ら3人の訪問を受けている







(結論)







"ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。"

イザヤ書 46章3~4節




私が気づく前から目を留め運んでこられた方がいた(私の誕生以前から)
 

「信じる」とは、この方の暖か眼差しを発見すること(人生の時点)



弱さと限界を迎えても神は背負い、運び、救い出す方(今後も)
#メッセージ

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「二通りの生き方」

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「二通りの生き方」
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「二通りの生き方」










マルコの福音書 8章31~38節










"それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。

自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」"







(1)  ペテロ流生き方









①  イエスを「諌めた」(32)
  苦しみ、捨てられること、殺されるのは、人が最も避けたい事柄

  人は苦難を避けて自らを楽しませ喜ばせることに注意を向けたいもの




② その理由
  イエスへの同情心~人間中心主義・ヒューマニズム

  その奥底には、自らの野心を満たしたいとの欲望~メシア王国での地位










(2) イエス流生き方










① ペテロを「叱って」(33)~原語では「諌めた」(32)と同語
 「サタンよ、しりぞけ」~ペテロのヒューマニズム的観点には悪魔の考えが潜む: 荒野での誘惑




② その理由 「神のことを思わないで、人のことを思っている」~ 個人の享楽的な生き方を否定して、神の国の前進とその強化のためには自己犠牲すべき時がある。






(3) 誤解を生じやすい教え










①イエスの弟子となる道は、自発性・自主性が土台

 「誰でも私についてきたいと思うなら」(34)~そこには他者の模倣や強制・期待は関与せず




②さらに、あなたへの個人的な使命に関わることである

 「自分の十字架を負って」イエスにとっては文字通りの十字架であり、ペトロにとって逆さ十字架であり、Abrahamにとって我が子の全身供養であった。










結論 ~ 近視と遠視










① ペテロ流行き方とは、近視眼的
 自分のこと、たった今の享楽だけを考えたら、割に合わない。

 死や十字架のどこに意味があるのか?




 

② イエス流生き方とは、遠視眼的
 現世の霊的生活において、安全と豊かさが約束されている。

 やがてイエスの再臨のときには大きな報酬(千年王国での地位)が約束されている。
#メッセージ

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「お着物に触る事でもできれば、きっと」

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ヤッホの港 ヤッホの港
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「お着物に触る事でもできれば、きっと」










マルコの福音書 5章25~34節










"そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。

彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。

彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。

「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。

すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。

イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」

すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。

彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」"










(1) 希望を失った女性






①不治の病
  12年間の漏出を病む女性~体力を消耗するばかりか、社会的に大きな制約を受けた。

  レビ5:25




②悪くなる一方であった
  全財産をつぎ込んでも医者には解決できずに、症状は悪化するだけ

  これはまさに罪ある私たちの写し絵ではないか~ドラック、酒、快楽などに溺れて中毒になった挙句、健康と財産を失う。







(2) イエスのことを耳にして







①イエスをメシアであると信じて
  メシアにしかできない癒しの奇跡を、主が行っていることを耳にしたゆえ

  




② 「お着物に触る事でもできれば、きっと直る」

 ユダヤ人男性の着るガウンの四隅についているフサの事

自分に直していただく資格があると考えたのではない。癒し主にその権威があるとの確信。







(3) 病気にかからず、健やかで






①主のなされた「救い」=「直る」(28,29,34)の業は、瞬間の出来事
  私たちを赦し、命を与える主の業は瞬間的である
恐れ震えながらも、主がしてくださったことを告白して確証を得る




②その後の人生においても健やかであれとの継続される祝福
 主に対する感恩と感謝からの信頼関係が継続した








(結論)







時に私たちは重たい現実を前にしてどう祈ればよいのか、人々に説明したら良いのか分からないことがある。そんな私たちの罪や汚れ、恐れや戸惑う心を主はご存知だ。

主はそんな私をも拒絶されずに受け入れてくださる。礼拝に来たのは、御衣に触れるため。それだけでも良いのではないか。
#メッセージ

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「あなたの本質を見極めるキリスト」

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「あなたの本質を見極めるキリス... 「あなたの本質を見極めるキリスト」
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「あなたの本質を見極めるキリスト」



マルコの福音書 2章15~17節



"それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"



(1) キリストは、人をどう見たのか


①人の本質はどこに? 人は様々な物差しで他者をカテゴライズし、理解しようとしてきた。
  民族、国語、性別、家庭、学歴、職業など。

②キリストはあなたをどう見るか(聖書の人間観)。神の形に造られたた尊いものであり、善なるものである。罪によってこの事実に曇りが生じている。


(2) 人々は、人をどう見るのか


①病の人を見て(2:3) 。 非生産者であり、価値のないものであるとみなす。


②取税人と罪人たちを見て(2:16) 。 神に捨てられているが故に人の社会から阻害され無視されても当然だとし、その差別感情が優越意識を助長させた。


(3) キリストの見方に気づくとき


①私の真の価値に目覚める。罪と病の不健康な状態が真の私ではない。真の私はキリストが自らの命を捧げるほどに尊いものである。私の中に隠れている神の子としての姿をご覧になっておられる。


②他者の価値にも気付く。キリストの愛により癒され満たされたとき、あの人の為にも、キリストは命を捧げられたことに思いが及ぶ。



(結論)


私は自分自身を、そして他者をどのように見てきたであろうか。
キリストの視点でこの世界を見るために、今注がれている私に対するキリストの眼差しを受け入れよう。



#メッセージ

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「人は土を耕すものとなった」

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「人は土を耕すものとなった」

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「人は土を耕すものとなった」


創世記 3章21~24節


"神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。
神である主はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
神である主は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。"


(1) エデンの園から追放されたアダム


❶裁きの要素
果実・採集生活から労働による農耕生活(17-18)
やがて肉体的な死を迎え、ちりに帰る(19)

❷恵みの要素
労働は、人を堕落から守るようになる
悪を知った人が、そのままの状態で永遠に生きることの苦悩
「いのちの木への道」(24)は一時的に閉ざされていても、やがて開かれるのが暗示されている
「皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」ー動物による はじめての生贄 、贖罪の原初タイプ



(2) 創造の業に参与するアダム


❶土地から取り出された地を耕すことで、生命を維持する生業が始まった
その土地と降水は、植物を成長させ、結実させると言う神の業に他ならない

❷主イエスの4つの種類の土地の例え話から
①道端に落ちた種、
②岩地の上の薄い土壌に落ちた種、
③棘によって塞がれてしまう土地、
④手入れされ耕された土地
〜結実に至るには、人手による耕作が必要である


(3) 自分自身を耕し、また耕して頂くアダム


❶農耕には季節を学び、種の種類を選り分け、品種を改良し、他者との共同作業が必要
〜人は自らが頑固な思いを捨てて、自らを耕す者とされねばならない

「culture」は「耕す」を意味するラテン語「colere」に由来初めは土地を耕す意味で用いられていたが、英語に入って「心を耕すこと」の意味で用いられるようになり、そこから「教養」「文化」も意味するようになった


❷その不従順でわがままな人の心を耕す方がおられる

"わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。"
(ヨハネの福音書 15章1~2節)

「刈り込み」という修正作業を通じて私たちを教導される父なる神



(結論)



私たちは、失楽園の子孫としての肉体的死と霊的死の状態で生まれてきた。
神の子イエスが究極の生贄として、自らの命を捧げられたことにより、神の前に立てるものとされた。今置かれている世界で神と共に働き、耕すものとされたのである。
#メッセージ

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「いつかは知らなくとも良い」

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「いつかは知らなくとも良い」
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「いつかは知らなくとも良い」



使徒の働き 1章10~11節



"使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
使徒の働き 1章4~8節
"イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」"


(1) 弟子たちの悲願


①「イスラエルに王国を復興してくださるのは、今ですか」
かつてエルサレム中の人がその強烈な悲願に期待をかけたが、主は十字架へ向かい、
人々の失望は、怒と憎しみに変えられた

②聖霊の中へバプタイズされることへの言及。新しく画された時代への言及は、弟子たちへ勘違いを産んだ


(2)イエス様の肩透かしな応え


①「いつとかどんな時とかは、あなた方の知るところではない」
イエス様のおられるこの時に、自分が活躍できるこの時代に、生きている目で悲願の成就を見たいとの彼らの熱い願いは聞け届けられない

②私の期待通りの時に、祈りの応答のない時
祈り自体が間違っていたのか、信仰が足りないのか、神は聞いてくださらないのか、
祈ることを信じることを諦めてしまいやすいのが私たち。


(3) 時について権威を持って定めておられる方がおられる


①弟子たちの悲願は、聖書の約束に基づくもの
神がアブラハムに約束されたものは、神の誓いを経て永遠に不変である

②その約束の実現時期については、父なる神のみが知っておられる
驚くべきことは御子イエスでさえ、御使いさえ関知されていない
父なる神に属する排他的専権事項



(結論)



あなたの願い通りに今ことが運ばなくても、信仰の祈りを捨ててはならない。
神はご自身の御心の時にその祈りに答えを与えられるから。

①アブラハムに子供が与えられたのは、約束の時だった(創世18:14)
②ユダヤ人の希求していたメシアは、運命の時に来た(ガラ4:4)
③祈りは、運命のとき(Due to time)にきかれる(1ペテロ5:6)
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「いつかは知らなくとも良い」

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「いつかは知らなくとも良い」



使徒の働き 1章10~11節



"使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
使徒の働き 1章4~8節
"イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」"


(1) 弟子たちの悲願


①「イスラエルに王国を復興してくださるのは、今ですか」
かつてエルサレム中の人がその強烈な悲願に期待をかけたが、主は十字架へ向かい、
人々の失望は、怒と憎しみに変えられた

②聖霊の中へバプタイズされることへの言及。新しく画された時代への言及は、弟子たちへ勘違いを産んだ


(2)イエス様の肩透かしな応え


①「いつとかどんな時とかは、あなた方の知るところではない」
イエス様のおられるこの時に、自分が活躍できるこの時代に、生きている目で悲願の成就を見たいとの彼らの熱い願いは聞け届けられない

②私の期待通りの時に、祈りの応答のない時
祈り自体が間違っていたのか、信仰が足りないのか、神は聞いてくださらないのか、
祈ることを信じることを諦めてしまいやすいのが私たち。


(3) 時について権威を持って定めておられる方がおられる


①弟子たちの悲願は、聖書の約束に基づくもの
神がアブラハムに約束されたものは、神の誓いを経て永遠に不変である

②その約束の実現時期については、父なる神のみが知っておられる
驚くべきことは御子イエスでさえ、御使いさえ関知されていない
父なる神に属する排他的専権事項



(結論)



あなたの願い通りに今ことが運ばなくても、信仰の祈りを捨ててはならない。
神はご自身の御心の時にその祈りに答えを与えられるから。

①アブラハムに子供が与えられたのは、約束の時だった(創世18:14)
②ユダヤ人の希求していたメシアは、運命の時に来た(ガラ4:4)
③祈りは、運命のとき(Due to time)にきかれる(1ペテロ5:6)
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「内なる人が強められるように」

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「内なる人が強められるように」
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「内なる人が強められるように」


エペソ人への手紙 3章14~21節

"こういうわけで、私は膝をかがめて、
天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。"
"どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。"



(序論)



「内なる人」とは近代的自我のことと一般的に理解され安い。
「強められるように」とはつまり健全な自己愛や自尊心を持てとのことか。

動詞の時制と様相に注目すれば、その共通した用法から何を意味しているかが明らかとなる。


それは何を意味するのか


愛を理解する力を得られるように(18) Aorist + Subjunctive
愛こそがキリストの教えの要約であり最高峰のものであり全て

神の満ちている様にまで満たされるように(19) Aorist + Subjunctive
どこまでも制限のない神の満ちている様相にまで


(2) それを求める根底は何か(17)


キリストが心の内に住んでおられるのだから
「住まわせてくださいますように」と希求形で訳すのは疑問
Aorist + 不定詞〜「心に住んでおられるキリスト」と本来訳すべきもの

愛に根ざし(完了形・受動態)、基礎を置いている(完了形・受動態)ゆえ
植物を支える根と建物を支える基礎工事が背景に


そこに至る方法は何か


人知を超えたキリストの愛を体験し続けることによる(19)

「知ることができますように」と希求形で訳すのは疑問
Aorist + 不定詞〜「(既に)知っている」と本来訳すべきもの
「超えている」は現在形+動名詞ゆえに、知ることが絶えず更新され続けるように勧められる

すべての聖徒と共に生きることによる(18)
その長さ〜年齢差や時代差
その広さ〜人間性の幅の大きさ
その高さ〜山よりも高い気高さ
そに深さ〜人の罪の深淵さ


(結論)


目に見える即物的で実現可能な事は祈らなくても努力で実現可能。
パウロの祈りは人間のできることを超えたもの。
私たちに働いている聖霊の力によってキリストが期待していることである(20)。
#メッセージ

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「私たちの国籍は天に」

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「私たちの国籍は天に」
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「私たちの国籍は天に」



ピリピ人への手紙 3章17~21節

"兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。"


(1)人の帰属先(ID)


①人が何者であるかを決定するもの
住居地、職業、家系、所属教会など。
自己紹介等に用いるし、おおよそ客観的に人を類型化出来る便利さがある

②人の本質はどこで決まるか
住居は移動するし、仕事や教会も変わることがある
この世界に私自身の本質に関わる帰属先を預けるとなると永続的な基盤はなくなる


(2) 失われた帰属先


①表面でなく本質的な意味で帰属先が失われてしまった
  〜失楽園以後の人の姿

②その結果の混乱と錯綜
  彼らの神〜欲望
  彼らの栄光〜恥
  彼らの最後〜滅び


(3) 回復された帰属先


①帰属先=国籍が天にある生き方とは何か
  キリストは最終ゴールであり永続する継続的な世界に私たちを招かれておられる

②キリストはやがて来られる
  天(神)によって地上の営みは統制されているが、その天がやがて地上に投入される
  その時にはこの滅びる体も栄光の体に変えられる


(結論)


キリスト者とは、キリストに所有された者の事。
この世にあっては異質かもしれない。異なる原理で生きているからである。
しかしその原理こそ普遍的で永続する天からの生き方であろう。



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