「将来と希望を与えるもの」
ヨハネの福音書 9章1~5節
"さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
(序論)
「前」=目の向かう先、見える方向。
空間においては進む方向が前となる。2「前方に学校がある」
時間においては過ぎ去った過去が前となる。「1週間前、3年前」
人間は過ぎ去った過去しか見ることができないので過去が前。
しかし神は将来も把握されていらっしゃる。
(1)生まれつきの盲人
①絵に描いたような不幸な人物
人は多くの情報は視覚から得ると言う。
「道の途中」で会ったこの人物は物乞いをしていた可能性が大きい。
生産力のない悲惨な人生ではなかろうか。
②因果応報を訪ねる人間性
「誰かが罪を犯した。この人か、その両親か。
それで(Hina•理由・原因)生まれて来た(Sub +Aorist)」< ギリシャ語構文>
弟子たちは不幸の原因が罪にあることを前提としている。
不幸が起きるのは、罪ゆえの神の裁きであると考えられていた。
(2)因果応報の原理を覆された主イエス
①「罪を犯したのはこの人のでもその両親でもない。
それは(Hina•理由・原因)神の業がこの人に現されて行く(Sub +Aorist)」<ギリシャ語構文>
②主イエスは私どもの未来を見つめそこから語られる
問題、挫折や不幸が起こることを許された。
その過去に原因があったからではなく、理由が将来にある。
⑶神の業が表されるとは
①「業」は原語で複数形
この男性にとって神の業は、いやしの奇跡に始まり、憐れみ、尋問、追放、迫害、自立、そして信仰と礼拝(9:38)
②最大の神の業は、神を知るに至り礼拝者へと変えられること。
"イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」"
ヨハネの福音書 6章29節
(結論)
"わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。"
エレミヤ書 29章11節
神は私どもの将来を見つめ、その計画を立てて平安と将来とを与えると約束される。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「自分へのこだわりからの解放」
マタイの福音書 9章9~13節
"イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
「わたしについて来なさい」
①思いがけないイエス様の招きの言葉だった。
ヨハネとヤコブの場合との類似と相違点。
② キリストの呼びかけには、私を「自分」から離れさせる力がある。
経済面社会面また倫理道徳面から人を値踏みする物差しを崩壊させてしまう。
(2) 「なぜ一緒に食事をするのか」
①イエス様は社会からの評価やラベル、その肩書きで人を判断されなかった。
到底パリサイ人には理解しようのないことだった。
両者の超えようのないその壁が、イエス様を十字架へと追いやった。
② 神の国はその虐げられているものたちの間に成就した
ユダヤ文化において共に食事をするとは親密な間柄にあってのみ許されること。
⑶ 「医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人」
①「丈夫なもの」「正しいもの」はイエス様の前から退けられた。
そのように自負するのは社会の評価に依存しているゆえ。
ここにに欺瞞がある。
②「憐れみは好むが生贄は好まない」(ホセア6:6)
「生贄」〜確立されている宗教儀式であり自己義を促すもの。
「憐れみ」〜社会通念として確立されてはいないが人のニーズに応えようとする本来の人情。
「行って学べ」〜新たな価値観は従来の所属社会にあって気づく事は困難ゆえに。
(結論)
このような私にさえも目を留め、声をかけ、食事を共にされると主イエスはおっしゃられる。その絶対的な呼びかけに応じる時、私たちはこだわりから離れて、主イエスの与える喜びに生きるものとされる。
古代紀元前3500年前からあると言う港町、ヤッホ。
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「わたしは背負って救い出そう」
イザヤ書 46章1~4節
"「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって運ばれる。
彼らはともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。
ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。"
(序論)
クリスマスおめでとうございます。
ヨセフの夢の中に現れたみ使いは次のように預言しました。
"「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。"
(マタイの福音書 1章23節)
主イエスが地上にお生まれになることで「神がともにおられる」事実は否定出来ない確かさとして我々の目の前に出現しました。
主イエス誕生以前の旧約時代にもイスラエルの歴史の中でその事実を確認することができます。
背負われたイスラエル
①「ベル」「ネボ」(1)とはバビロニアの神神。それらは荷車に乗せて運ばれて行く。
偶像との対比。神はイスラエルを担われ、運び、背負ってこられた。
② 「背負う」とは、一体となること。
その混乱の歴史の中で滅びることなく神の遺産を守り続けた。
(2) いつから背負われたのか
①「生まれる前から」(3)
つまり自覚できる前から。いや存在の始まる前から神の選びが私たちに働いていた。
② 「しらがになっても」(4)
弱さや限界を知った後も。病に倒れ自らを失い罪に汚れた者であったと気づいた時にも。
⑶ どうやって背負われるのか
①自らの背負っている荷物を主イエスの下に降ろせば良い。
自己が我執としているものからの解放される。
②主は私が担い切れなかった荷物ごと背負って下さる方。
(結論)
私たちにできることは、背負っていただいている主の背中で感激する他ない。
"すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。"
(マタイの福音書 11章28~29節)
・主イエスのところへ行くこと
・主とくびきを共にすること
・主から生き方を学ぶこと
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「私の平安を与えます」
ヨハネの福音書 14章25~31節
"これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。
わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。
それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。"
世が与える平安
①「世」(コスモス)とは神なき世界でありその原理でありその惨状。
② 世にあって平安を得る方法
・パリサイ派〜厳格な宗教実践による民衆からの評価と支持(名誉)
・サドカイ派〜祭司階級が神殿で行っている集金ビジネス(金銭)
・ヘロデ党〜ローマ総督に寄り添う政治的既得権保持者(地位)
(2) イエスの与える平安
①時にイエスの現状は死に至る逮捕直前であり、金銭名誉地位も全て失っている状態。
しかしイエスには満ち足りた平安があり、焦燥や恐れとは無縁であった。
② 弟子たちに残されるイエスの平安
それはこの時には実現していなかった〜この直後弟子たちは恐れから皆逃げ出してしまう。
「そのことの起こる前にあなた方に話しました」(29)とある様に、ある歴史的事件直後に実現すること。
⑶ 「助け主」(パラクレートス)が遣わされる故の平安
①「傍ら」「呼ばれたもの」の意味で、同じ側にあってあなたを弁護し慰め執り成し助けるために呼ばれたもの。聖霊の名称。
②イエスの言葉の全てを教え、思い起こさせてくださる方(26)
イエスと共にいるときの弟子たちには理解できないことであった(25)
イエスの言葉は父なる神の言葉でもある(24)
イエスのご自身の運命とその結果を理解させ、私らにも体現してくださる方。
イエスの死•復活•昇天(28)
(結論)
心騒がせ恐れにとらわれやすい世に生きる私たち。
今こそ主イエスが遣わされている聖霊様に満たされ、主イエスの平安をいただこう。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「主の足元に座って」
ルカの福音書 10章38~42節
"さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」"
千々に乱れる心
①平凡な日常生活に押し寄せる問題の波
戦争のない平和な世の中であったとしても
心が騒ぎ、聖書の言葉が響いてこない時
② マルタの例
一家の長としての責任の重圧〜13人の訪問客のもてなし
食事と宿泊の手配
(2) 主イエスの呼び掛け
①個人的でそのTPOにマッチした呼び掛け〜「マルタ、マルタ」
聖書で名前が2度繰り返し呼ばれている例〜モーセ、サムエル、シモンなど。
② パニックに陥っているマルタに寄り添ったもの
単刀直入でありながら彼女を理解し包んだおことば〜彼女自身の本質が呼び覚まされた
⑶ 主の足元にて
①たった1つの必要なこととは何か
必要な事は多々ある。食事もベッド作りも。しかし本来の自分自身を取り戻す程に大切なことが他にあろうか。
②そこで語られるみことば〜そこで私自身が何者であり、何が期待されているのか、私の行くべき最善の道を語っていただこう。
(結論)
エルサレム郊外ベタニア村の3姉妹の家は、主イエスにとっての憩いの家であった。
心尽しの食事と暖かな寝具で疲れを癒いやされ、さらにみことばに傾聴するマリアに大いに慰められたに違いない。エルサレムで死を遂げられるミッションを理解したのは彼女のみであった(マルコ14:1-9)。主イエスとの人格的な交際とは、仕え仕えられる双方向によるものと言える。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「銀を精錬する主」
マラキ書 3章1~5節
"「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」
だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。
この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。
ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。
「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。──万軍の主は言われる──"
試練の受け止め方
①日本にも古来から伝わる道徳律
「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」(山中鹿之助)
「艱難 汝を玉にする」
②同様の教えが聖書にも。
"私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。
あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、
成熟した、完全な者となります。"
ヤコブの手紙 1章2~4節
(2) 試練にある役割
①玉を磨く〜物事に動じない精神昇華 統一。克己による精神修養。
「滅却心頭火自涼」(心頭滅却せば火も自づと涼し)快川紹喜が1582年(天正10年)に恵林寺において焼死した時の辞世。
② 銀を精錬する〜苦しみや悩みの中で自らの内にある高慢や貪欲、自己愛や偶像礼拝の罪を取り除く神の働き。銀鉱石には鉛やマンガンなどの不純物が含有しているが炉の中で精錬され純粋な銀が抽出されると言うもの。
⑶ 試練の側にあって
①精錬工=突然神殿に現れる方=契約の仲介者〜(初臨の主)
=「この方」(2)3回=精錬しきよめる方〜(再臨の主)
②王座に着座されておられるこの方は、私たちのすぐ側に、内におられる方。
支えて下さるこの方は、脱出の道も備えておられる(Ⅰコリント10:13)
(結論)
私たちが出会うどんな困難も苦しみも、私たち自身を卑しめる事は無い。
その悩みの中で私たちは純化され、より神の栄光を映し出す者される。
今も主の御手の中にあるのだから。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「あなたの心をわたしに」
箴言 23章26節
"わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。
あなたの目が、わたしの道を喜ぶようにせよ。"
心とは尊いもの
①私たちの所有する中で最も尊いもの。「魂」と聖書で言及されているもの。
心で喜び、心で愛を受け取り、他者の善意を知る。
②心を通じて私たちは人との関係を結ぶことができる。
(2) 心とは壊れやすいもの
①簡単にダメージを受けやすく、修復にも長い月日がかかる。
(例)戦地で悲惨な光景を見た兵士よる心的後遺症
② 自己の心の扱い方を知らない
自己を受けられずに苦しむ〜他者を傷つけた自己が許せない、
他者に傷つけられたことが許せないで煩悶。
⑶ 心とは捧げられるもの
①体を造られた創造者は、心をも造られた方。
私のことを私たち以上に知っておられる方。
②愛と喜びだけでなく、
苦しく悲しんでる心も、汚れた卑しい心も神は受け取ってくださる。
(主イエスの地上生涯に見られるその根拠)
・家畜小屋に降誕された主イエス
・ツアラットの患部に手を触れて癒された主
・最も卑しめられ尊厳が奪われた十字架での刑死
(結論)
自分自身のものだと思っていたこの心でさえも、
創造された本来の所有者にお返しすることができますように。
神のものは神がお守りになり、支えられるから。
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ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「人の価値はどこに見出せるか」
エペソ人への手紙 2章18~22節
"このキリストを通して、私たち二つのものが、
一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、
聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、
キリスト・イエスご自身がその要の石です。
このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、
主にある聖なる宮となります。
あなたがたも、このキリストにあって、
ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。"
人は自分自身の価値を追求する存在
①そのために著名人と知り合いであることや家族の成功を誇りとする私たち
だが、他者との比較によって得られるもの、いつか過ぎ去って行くものに真の価値はない。
②実存的な価値はどこにあるか〜「父のみもとに近づくこと」(18)
そこには絶対的で色あせない価値を私に見いだして評価された方がおられる
(2) 神の家族とされた私たち
①血縁関係者とされた
主イエスの血によって罪を洗い清められた者たちは、
イエスの血の流れる家族に加えられた(13)
② 一つの建物の中に生きるものとされた
礎石ーキリスト・イエス(信仰の創始者であり完成者)v
土台ー使徒と預言者(聖書)
建材ー私たち一人ひとり
⑶聖徒と同じ国民とされた私たち
①同じ原理原則で生きるものとされた
族長たちやモーセ、ダニエルたちらそれぞれ異なる生涯も、一つのテーマに収斂出来る。
「なぜ俺の人生にこんなことが起こるのか」ではなく、
「人生からお前はこれからどうするんだ」と問われ、これに応答した生涯であった。
②自分を待ってくれている存在があるこを知った
逆境や試練に会うときに私たちは人生から試されている。
絶望から免れ未来を期待できるのは、ゴールを知っている走者だけでである
(結論)
この絶対の価値を私自らが獲得するのでなく、「与える」と約束された方がおられる。
その価値を与えられた今、私の人生と賜物とを用いてどのように応答したら良いだろうか。
ホサナ教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「生きるにしても、死ぬにしても」
"ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。"
ローマ人への手紙 14章5~9節
(1) Ownership(所有権)を各自が保持する場合〜生まれつきの状態
①選択や考え方自体に意義を見出す
日や食べ物の守り方にフォーカス(5)せざるを得ない
②ワクチン接種の是非で2分化されていく社会
どのような情報により多く接しているかで、
そしてその情報が誰によって与えられたかで判断が変わって行く
(2) Ownership(所有権)はキリストにあると認めた場合〜信者
①選択や考え方の前に生き方の根本が変革される
「主のために」3回も言及(6)
「食べる」「食べない」はたいしイシューとならない
②「生きること」「死ぬこと」の抜本的な変革である(7)
それは状況に支配されない「感謝している」(6)生き方であり
人生の所有権がキリストに明け渡されたものである(8)
⑶Ownership(所有権)がキリストに移管されるために
①キリストは死を体験され、よみ(死者の世界)へ降り、そして復活された
"そのため、こう言われています。
「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、
人々に贈り物を与えられた。」"
エペソ人への手紙 4章8節
②「死んだ人にとって」(9)〜肉体的死と解釈できる
福音に接することのなかった旧約時代や福音を聞かずに亡くなった方々
③「死んだ人にとって」(9)〜霊的死と解釈できる
神を認めず反抗していたとき、人に忘れられ絶望の中でもがいていた私にも
主は顕れてくださった
(結論)
世界の有り様や人々の価値観が常に揺れ動いていく中にあって
私たちには揺るがされないものを受け継いでいる。
主が私のために命を捨てられたと言う愛。
その愛に生かされるとき、自分自身をあきらめない生き方が始まる。
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