シアトルに向かう戦艦
2月
10日
どう見ても戦艦である。
シアトルのダウンタウンの港に向かっている。
何用で?
通常航海ならまだしも、作戦行動ならその行き先や目的については一部司令官たちしか知らされていないはず。
とは思ってみたものの自国のシアトルで作戦行動起こすはずもないか。
重大な作戦についてはたとえ自軍隊内であっても秘匿性は高まる。
ロシアがウクライナに侵攻するか否かは一般ロシア兵ですら知らされていない。プーチンの胸の内三寸にのみ存している。
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主イエスは弟子たちに、
父から聞いたことをの全てを話したので、
あなた方はもはや僕ではなく「友」であると言われた。
僕は主人がすることを知らない、と言う。
主人の心にある深いところや仕事の目的、その動機・感情面など知らなくとも良い。
ただ言われた通りに手足を動かしていれば良いのが僕であり、その役割に徹するのが本来の使命であり、それは兵士に通底する。
ところが、「友」は異なる。
主人の心にあること、彼の物事についての評価や判断をつぶさに知って同様の重荷や感情を共有するのが「友」。
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"わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。”(ヨハネの福音書 15章15節)
ここで主イエスが使われた「全てのことを知らせた」にある動詞は過去形。この時点で弟子たちにはすべての天にある真理をすでに伝えた、と。
しかし弟子たちが咀嚼できたものは主が語られたうちの100分の1にも満たない。
彼らにはジーザスのスピリット(聖霊)がそのうちに与えられていなかったからだ。
同様に神の啓示の書としての聖書は多くの言語に訳されて、ほぼすべての人がアクセス出来る。この私にさえも。
しかしそこにある真理を理解・咀嚼するには聖霊様の導きがあって初めて可能となる。
私個人の人生の意味や世界歴史のからくりから、世界と宇宙に見る神秘やその行く末について、、、私はどの程度任されているだろう。
知識の伝達量としてではなく主人の心にある秘め事を。
アブラハムはかつて神の心にあった痛みと重荷を打ち明けていただいたことから「神の友」と呼ばれた。
"主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。"(創世記 18章17節)
"だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。”(イザヤ書 41章8節)
私が自分自身を友として受け入れている度合いは、
ジーザスを友としてどれほど信頼関係を築けているかに正比例しているように思えて来た昨今。
それが他者を友として受け入れることと正の相関があるように思える。