お昼間は開いていません。夕方からの開店ですが、これまた何時からか分かりません。
夜中の12時頃から朝方にかけてが、本格的なこの店の営業時間です。「また、午前様になるかな・・・」
お好み焼き屋として、グルメ雑誌に載ることはないと思います。鉄板の上でお客さんのお好みを焼いている時には、常連さんは追加注文を控えております。
注文でもしようものなら、焼いているお好み焼きはそのままで、新しい注文の材料の仕込みに裏方の台所に姿が消えてしまいます。
あわれお好み焼きは、焦げ出しはじめます。
ビールも勝手に取ってくれというようなお店に、どうして立ち寄るんだと思われますでしょう?
鹿児島出身の80歳を超えたおばちゃんですが、日本の軍歌を全部歌えます。おみ足の方は少し悪いんですが、お声は元気なおばちゃん。
「知らない軍歌はない」と言い切るほどの自信家で、お好みを焼きながら聞かせてくれます。
NHKも取材に来て、歌の録音依頼がありましたが、相手にもしません。
正調な歌詞ばかりではなく、猥褻な替え唄を朗々と聞かされますと、おばちゃんならではの芸当だなぁーと、聞き惚れてしまいます。
夜中を過ぎますと、水商売を終わったお姉さん方が顔出しされ、ヤンヤの状態と相成ります。
注文するタイミングを逃しますと、ビールと軍歌だけの世界に浸ることになる、恐ろしきお好み焼き屋さんです。
二年半ほど前、兵庫県相生市の、歩道のアスファルトの隙間から顔をを出して大きくなった「ど根性ダイコン」が有名になりました。
心もとない人に折られてしまいましたが、現在のバイオの技術で、子孫が栽培されていると聞き及んでおります。
写真の【クスノキ】も、なかなか根性があると思いませんか?
安定を保つために、精一杯根を石垣の隙間に喰い込ませながら、空に向かって伸びようとしています。
地面から5メートル程の高さの石垣の上部の為、間引きされることもなかったんでしょうね。
どこまで大きく育ってくれるのか、これからが楽しみです。
ある建築物の、裏通り側の顔です。どの配管が先で、どういう順番に施工されたのか、見ながら考え込んでしまいました。
各設備業者さんは施工図面で確認されているとはいえ、やりづらい工事だったと思います。
建築物は、建物そのものだけで、機能するものではありません。
雨樋にはじまり、電気・ガス・冷暖房・給排水と、多岐に亘り配管が建物に付いて回ります。
一般の方は、建築物の形だけを見て、デザインを判断される方が多いと思いますが、隠れた部分までもが行き届いているのは、バランスの取れた建物だと言っていいでしょう。
冒頭は、モーテルの浴室で男をナイフで刺殺する場面から始まりますが、これが本書の伏線として生きてくる場面でした。
寝ている男<冬樹>と一緒のベッドから目覚めた<私>は、自分が何者かの記憶を一切なくしていますが、男に恐怖を覚えた<私>は部屋から飛び出しますが、外は雪が降るクリスマスイブでした。
行先のない<私>は、仕方なしに<冬樹>の部屋に戻り、彼が「前向性健忘症」で、記憶をすぐに失くしてしまうことを知り、なんとか自分のことを探り出し、<辻好江>だということは突き止めていきますが、彼女自身も浴室の殺人場面と二人の男にレイプされる記憶と、子供<淳>の記憶とが交差、心因性による「解離性障害」を起こしていました。
<冬樹>との会話から、暴力団関係とのトラブルを抱えているのが分かり、真相を突き詰めていくのですが、複雑な<辻好江>の巡り合わせが読者を迷路に導いていきます。
記憶障害をテーマに、二転三転する<辻好江>の伏線が絡み合い、最後に<冬樹>の手記だとわかる回想録と合わせ、目まぐるしく展開するミステリーでした。
前回は、まだ笑えるバランスの報告でしたが、今回は笑えるバランスではありません。
長田区のある駐車場の石垣です。高さ約6メートルで、写真のごとく3段重ねの擁壁です。明らかな違法の造成工事です。
長屋の解体の職人さんは、拍手ものですが、この石垣の構成は技術面もさることながら、安全を無視した工事で、ゆるしがたい気分になりました。
この上の駐車場や下側に停められている乗用車の持主達が、怖くもなく利用されていることが信じられません。
町中を散歩いたしておりますと、いろんな場面に遭遇いたします。車での移動では、気が付かないものが発見できますので、散歩は止められませんね。
本来は、右側の酒屋さんが目的でしたが、微妙なバランスで、笑ってしまいました。
これぞまさしく「もちつもたれつ」の関係でしょう。
3軒長屋の真ん中で、梁や母屋を切り落としますとバランスが崩れて、共倒れになるんでしょうね。
解体された職人さんも、ヒヤヒヤものの作業だったと思います。
さてこの先、この長屋の運命はどうなるのか、今後の楽しみが一つ増えました。
いわゆる「業界物」の範疇に入ると思いますが、小さな工務店を舞台に繰り広げられる経済小説でもあり、建築士や職人たちの世界を鮮明に描き、また恋愛小説としても楽しめる内容でした。
主人公<山根梨央>は30歳、人材募集の出版社に勤めていましたが、編集長との不倫にも行き詰まり、ある日酔っぱらって工事現場に侵入、足場に登ったのはいいのですが降りることができずにとび職の<田所徹男>に助けられます。
<徹男>に一目ぼれした<梨央>は、夢を持てない出版社を退社、<徹男>の紹介で<鍵山工務店>に就職しますが、そこは離婚してやむなく社長になった<姫>こと47歳の<鍵山郷子>が分からない工務店の世界で奮闘していました。
建築設計を生業としているわたしとして、工務店の実情がわかるだけに、著者の取材に基づく細かい描写が手に取るようにわかるだけに、とても面白く読めた一冊でした。
本日は私も所属しておりました神戸青年会議所(神戸JC)の創立50周年の記念式典日です。役職の高い方には、楽しい式典でしょうが、私はあえて出席しようとは思っておりません。
ご存知でしょうか、青年会議所(JC)を?
多くの方は、商工会議所の青年部会みたいな感じを持たれておりますが、独立した青年経済人の集まりです。
ジャリンコクラブなどと揶揄されて、2代目のボンの団体とみられる方も多いみたいですが、あえて否定はいたしません。
「青年として、英知と勇気と情熱をもって明るいゆたかな社会を築きあげよう」との綱領のもと、社会活動を続けて来ております。
私の入会の頃は25歳から40歳でした。
現在は、会員数の減少も影響しているのか、20歳からの入会が認められているようです。
12年間お世話になり、一番の思い出は、淡路・阪神大震災の前年に行われた世界会議です。多くの裏方を束ねる委員長をしておりました。
総合案内所の責任者、同時通訳、ボランティアの指導、会議室の采配、雨天対策、神戸クイーンの対応・・・。
1週間、神戸ポートピアホテルを貸し切りましたが、部屋に戻るのは着替えとシャワーだけ。
一度もベッドを使うことなく、走り回っておりました。
警備員さんからは、「わしがおらんでも、大丈夫やな」とからかわれておりました。
賑やかな式典、豪華な食事などに接することもなく、ただただ問題が起こらないかのチェックで、大変でした。
そんなわたしにも、嬉しいことがありました。
毎日総合案内所で、レシーバー片手に指示を出していましたから、各国のJCマンからは信頼され、会議の終了時にお礼の言葉と共にお国のバッチをいただきました。
それが写真のバッチです。
はでなパーティーは経験できませんでしたが、何よりの思い出です。
歩き通しで、疲れた足を癒すために、一杯呑もうと考えても、これまた酒屋での暖簾をくぐり立ち呑みで呑みたくなる不思議さ。
ゆっくり座われる居酒屋で休めばいいようなものですが、たわいもない周りの会話に溶け込みながらの一杯は、居酒屋では味わえない雰囲気があります。
以前にも【横山商店】さんの、りっぱな木製の看板をご紹介しました。
この木製のたぐいのある酒屋さんは、かなりの歴史があるといっていいでしょう。
見つけました、いつも乗る山陽東須磨駅の東よりの場所です。素晴らしお店が足元にありました。
お店の正面には、風雪に耐えた「菊正宗」の木製看板。しばし眺めていたら、店主が出て来られ、「写真いいですか?」とききますと、「ええでぇ。こんなん興味あるんかいな?」で話は進み、そして疲れた足の為に一杯と店内に入りますと、目の前に驚きのすごい看板。
金色に輝く文字、もう感動もの、涙もの、デジカメ持つ手もあせりものでした。
小さな写真では、伝わりにくいかもしれませんが、ふるえモノの看板です。たたみ1枚分弱の大きさで、「これは文化財ですね」と言えば、店主さんは笑っておられました。
営業も相当に古いようで、「わしが70超えているからぁー」とのご返事。残念ながら、次世代への跡取りは、難しいとのことでした。
お話の途中に、店先での話声がするとのことで、奥さまも出て来られ、3人で歓談。
昔は店の上に三菱の独身寮があり、賑やかだったそうです。
酒屋の店先といえども、おでんや缶詰などのアテを出す店が多い中、あるのは小さなおかきの袋菓子のみ。わたしも話に夢中で、アテのことなど忘れて、ただただ感動しながらお話を伺っておりました。
「何も取らなくてすいませんねぇ」と言えば、「これしかないんですよ」と、奥さんが袋菓子がのせてあるザルを指さされました。
いいですねぇ。本当に酒だけのお店というのも。
近いうちに、また感動ものの看板を味わいながら呑みたいと思います。
タイトルと写真を見て、これがなんだかすぐに分かる、若い人は少ないでしょうね。
年配の方は、すぐに医院の電灯だと理解されたと思います。
生家の斜め前に、この医院があります。医院の建物は木造平屋建て。大きな敷地ですので、先生が亡くなられたあとでも、解体する必要がないのでしょう。いまだに当時の面影のまま、ひっそりと残されています。
現在は、少子高齢化の影響、医療裁判の訴訟の増加がからみ、なかなか小児科や産科を目指す医師が少なくなってきていると聞き及びます。
「ドクターコトー」のような気慨ある医師を探すのは、無理な時代なんでしょうね。
昔の町医は、医院と住居を兼ねるのが一般的で、24時間体制でした。色々と、大変だったと思います。だからこそ、医師としての尊敬を受けたんだと思います。
医は算術、医療の世界ばかりではありませんが経済優先社会。医師として、一人の人間として尊敬を受ける先生が町の中から消えてしまったのには、私たち側にも問題があるんだろうな?
久しぶりに生家の前を歩き、赤い電灯を見ながら、そんな事を考えておりました。
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ