<グーグルロゴ>(136)杉原千畝を称えて
7月
29日
現在の岐阜県美濃市に生まれます。父親は税務官で、その仕事の都合で、幼い頃は様々な土地を転勤する生活を送りました。その後、早稲田大学へと進学。ですが、親の希望に反しての進学だったため、学費が続かず中退することになります。その時に、外務省の留学生の試験があることを知り、受験、合格します。
留学生として、ロシア語を学び、中華民国、ハルビン総領事館などを経て、満洲の外務事務官となりました。そこで、ロシア語のスキルを活かして、ロシアとの交渉を担当。
1937年に、フィンランドのヘルシンキの日本領事館、1939年には、リトアニアのカウナス日本領事館へ赴任します。カウナスに赴任したのは、「1939年8月末」のことでした。
赴任直後の「1939年9月1日」、ナチスドイツがポーランドの西側に侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。
この時、ナチスドイツとソビエト連邦はこっそり不可侵条約を結んでおり、直後にポーランドの東側にはソビエト連邦が侵攻を開始しました。
リトアニアを始めとするバルト三国は、ソビエト連邦と相互に援助するという関係で、ソビエト連邦軍の駐屯だけは認めていましたが、中立の立場でした。
ナチスドイツはユダヤ人を迫害していました。そのため、ポーランドを追われたユダヤ人たちが隣国で中立の立場のリトアニアに殺到することとなりました。
そんな状況下の「1940年6月」に状況が一変します。ソビエト連邦は相互に援助するという約束を破り、リトアニアに侵攻。中立の立場だったリトアニアは、ソビエト連邦に併合されることになりました。この時に、リトアニアに避難していたユダヤ人たちが、併合される前に日本を通して他の国に逃れようと、領事館にビザの発行を求めて押しかけてくる自体に陥りました。
そのほとんどの避難民が、政府の定める外国人入国令による通過ビザの要件を満たしていませんでした。彼は、人道的な観点から、ビザの発給を認めるよう日本本国へ打診をしますが、認められませんでした。
「本国の規律」と「人道的な立場」で葛藤し、彼は、ビザを発給することを選びました。
戦争の拡大により、領事館からの退去も決まっていましたが、その直前までビザを発給し続けました。その結果、「6000人」ものユダヤ系の人々を救うことになりました。
戦後、日本へと帰国した彼を待っていたのは、無断でビザを発給したことへの退職通告でした。彼の行動が知られるようになるのは、1969年のことです。
彼のビザにより命を救われたイスラエルの政府高官が、人道的な観点から独断でビザを発給した経緯を知り、その行為を賞賛、イスラエルで表彰されました。これにより、彼の行動が広く世間に知られることとなりました。
日本で彼の名誉が政府により正式に回復されるのは、更に月日を経た2000年のことです。彼の発給したビザは、現在では「命のビザ」と呼ばれています。葛藤の後に、「命のビザ」の発給の発行を宣言したのが「1940年7月29日」だったそうです。その日を記念して本日の<グーグルロゴ>が変更されています
その直後の「1940年8月3日」にリトアニアはソビエト連邦に併合されてしまいます。すぐに日本やソビエト連政から退去命令が出ましたが、無視し、自身が退去する「8月末」までビザを発給し続けました。