ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「私の名前を呼ばれる方」
イザヤ書 49章1~6節
"島々よ、私に聞け。遠い国々の民よ、耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた。
主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい、私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された。
そして、私に言われた。「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」
しかし私は言った。「私は無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは主とともにあり、私の報いは私の神とともにある。」
今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内で私をご自分のしもべとして形造った方が言われる。私は主の御目に重んじられ、私の神は私の力となられた。
主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」"
(1) 存在理由を尋ねて
①人が偶然に生まれてきたのなら、生きる価値を問う意味はない
進化論教育に人を生かす力はない
②あなたの存在する以前よりあなたを知り、あなたを価値あるものとして創造された方がいる
ここに初めて人は人生の生きる意味を見いだす
(2) あなたの名を呼ばれる方
①
名を呼ぶとは、他者と区別し、特別に価値あるものとして認識すること
「母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた」
②それはあなたと関わり、期待しあなたを通して何か目的を果たしたいとの思いゆえ
(3節、6節)
(3) 創造者の栄光を現すものとして
① すかし、それとは逆の人生のように思える~無駄な骨折りをして来た
それすら神の許しの中で起こった~「矢筒の中に私を隠した」(2節)
②神が力となられて
無駄だと思っていたが、報酬は神と共にある。神は見えないお方だ(4節)
(結論)
人は期待されて、愛を感じるときに生きる喜びを知る
あなたを創られ生かしている方と出会うときに、生きる意味と自身の尊さを知る
この方が、あなたの名を呼んでおられるのだから
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「生きるにしても、死ぬにしても」
ローマ人への手紙 14章1~8節
"信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。"
(1) 自分のとは一体誰のものか
①子供から大人になると自立し、自己を確立し、自己決定権を増して行く
すると私たちは自分自身の人生の全てをコントロールできると思いがちだ
②人生の決定的な事は何一つ選べない
生まれた日も、両親も、自己の能力や賜物までも選べていない
私たちは実は、主に属するものであると聖書は教えている
(2) こんな自分であったとしても
①自分自身を信じろと教えられてきた。「努力は裏切らない」とは本当か?
信じたくても緊急な時、危機的状況で重大決意をする時に、私たちの足はすくんでしまう。
②自分で自分を信じること、頼るには到底弱いものであるにを知っている私たち
何度失敗しても、そのだめな私を愛し私を支えてこられた方がおられた
(3) 主に対して生きるもの
①たとえ死に至ることがあったとしても
主は私を迎え入れてさらに深い交わりの輪に入れてくださる
② もし生きるとしたなら、恐れや失望に取り付かれることがあるかもしれない。
その中にあってさらに良いものを示してくださる。生きることで、さらに主にある生き方を学ぶのだ。それは今まで最高善と考えていた枠組みが再構築されること。
(結論)
「愛情、厚遇、栄誉。金メダルはもらえなかったけれど、代わりにもっと大切なものを日本で手にしました」~銀盤の妖精・ジャネット・リン(朝日新聞、1996年12月9日)
自分の望む成功を手にしなかったとしても、たとえ最悪の死に直面しても、私たちを所有しておられる主は私たちから離れず、その愛から私たちを引き裂くものはない。
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「誰を友と選ぶか」
ヨハネの福音書 15章13~16節
"人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。
あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。"
(1) チーム編成するときに選択する基準
①子供時代によく遊んだドロ(ドロボー)ジュン(巡査)鬼ごっこ
2つのチームに分かれ、最年長者の代表がチーム構成員を交互に選んでいく
②代表は有望な人員を優先して選ぶ
足が速いか、腕力が強いか、リスクを犯す勇気もあるか。
(2) 復活後の主イエスが選ばれたチーム(友)
①ペテロ: 全存在をかけてイエスを否定し、そんな自分に愛想がつき自分を見失っていた
②トマス: 弟子らの証言を信じずに何事も自分で確かめないと気の済まない懐疑心に富んだ実証主義者
③マグダラのマリヤ: 感性豊かで直感に優れるも、その感情に溺れ理性的判断に欠いた女性
(3) 選ばれた友のために命を捨てられた主イエス(13)
①友として選ばれた=ご自分を捨てられた=友を信じ抜かれた
②復活された主は、この私と共に歩き、声をかけ、お言葉を語ってくださっている
(結論)
我々がキリストを選んだのではない
キリストが私を選んでくださった。そしてこの私を信じ抜いてくださっている。
それなら自分自身ではなく、キリストを信じ抜き、キリストを見上げて行こう。
そしてキリストが友と選んでくださっている他のチームメンバーを信じて歩んでいこう。
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「人生は出会いで決まる」
ルカの福音書 19章1~10節
"それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」"
(1) 人はそれぞれがユニークな存在
①バルテマイ(ルカ18:35~)との比較
物乞い ・ 金持ち
個人事業主 ・ 税務署長官
盲人 ・ 背が低い
主イエスに叫ぶ ・ 隠れて主を見下ろす
②主のお取り扱いもそれぞれだった
当初、そっけない対応 ・ イエス自ら近づかれた
「何をして欲しいのか」 ・ 「今夜泊まらせてもらいたい」
「見えるようになれ」 ・ 宿泊客となった
(2) 人は霊的な盲目である
①霊の目が開かれていくザアカイ
背が低いことからの劣等感
才覚と努力による金銭的な成功~それでも孤独と挫折を経験
主イエスへの好奇心とつながりを求めた
②人の霊の目が開かれるために
正しい自己の理解~変えられない運命を持ち、自分尺度の成功を得ても、空虚や孤独に陥る
あきらめない求道心~障害は常にあるが、求めるものには応えてくださるとの信念を持て
主イエスは、振り向き、近づいて声をかけられる
(3) 人の目が開かれるために
① 主イエスはあなたの名を呼ばれる
ザアカイとは初対面のはずだが~すでにあなたのすべてを、その虚無と孤独とをご存知だ
客人として迎え入れるなら、さらに深いつながりが始まる
「私の財産の半分を貧しい人に施し」~彼の価値観の大変革
② これらは契約関係が土台 ~「Abrahamの子なのですから」
「子」とは「契約の下にある」という意味であろう
アブラハム契約締結の場面(創世記15章)
アブラハム契約の更新が主が成就された「新しい契約」
神とのつながりが回復できる保証のもとに私たちは置かれている
(結論)
かつては盲目であったが、主イエスによって目が開かれた
そこに至る経緯やその後の歩みは、人それぞれ異なる
しかし同じアブラハム契約の下にあるものとして、その救いの保証を受けている
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「あとでわかるようになる」
ヨハネの福音書 13章1~10節
"さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」"
(1) ペテロの困惑~「あなたが私の足を洗ってくださるのですか」(6)
①ユダヤの食事様式と洗足の必要性~どうしても必要な作業であり、僕の役割であった。
②時間の使い方も、生活も人生も私のものであり、幸福追求は、近代的自由人の権利である
(2) 主イエスが手ぬぐいを取られた~“イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。”(5)
①それでは主は自由のない僕だったのか~いや、他者のために自らを使い果たすことを選んでおられた
②父なる神の御心を行うことを喜びとされたゆえ(1)
〜人は存在の理由や目的、生きる役割を理解して初めて力を得る
(3) 今はわからなくても、あとでわかるようになる
①この数日後、主イエスは十字架で命果てることになる~私のような汚れた心を持つもの、卑しいもの、自分さえ良ければと思うような者の罪を洗い流すことに。
② やがて聖霊をいただく時、ペテロはイエスの足跡を辿るものとされる~(13:36)
(結論)
私の仕えているものは誰だろう。
私自身だろうか、主イエスだろうか。
主は私の過去と現在と未来をすべて知られた上で、愛を現された。
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「この鎖は別として、私のように」
使徒の働き 26章24~29節
"パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている。」
パウロは言った。「フェストゥス閣下、私は頭がおかしくはありません。私は、真実で理にかなったことばを話しています。
王様はこれらのことをよくご存じですので、その王様に対して私は率直に申し上げているのです。このことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも、王様がお気づきにならなかったことはない、と確信しています。
アグリッパ王よ、王様は預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」
するとアグリッパはパウロに、「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」と言った。
しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」"
⑴パウロの置かれていた現状~鎖に繋がれている
① 2年間の囚人生活~ユダヤ人からの暗殺陰謀があり、彼らに媚びているフェスト。
②私たちの現状も思わぬ病や気がかりを持っていて、それがいつまで続くのか解決の見通しさえないときに希望を失いかけることがある
(2) パウロの内的な実情~確信と希望に満ちていた
①復活されたキリストは今も生きておられると宣教。それは予言の成就であり、アグリッパ自身が見聞したもので、歴史的事件に根ざしているもの
②キリストと出会ったパウロは、このキリストが彼の内に彼と共に生きる生涯が始まった。
(3) パウロの願い~「私のようになってください」
①小さなものにも大きなものにも(22)、最も必要なことがあると確信していた。
生けるキリストと出会い、その方にある希望と平安に満たされること。
② それは彼の絶望的な状況をも覆すほどに大きな現実。
(結論)
パウロにとって事実であったように、私にとりあなたにとり、最も大切な事は、外的な制約から解放されることではない。「私のようになってください」と証言できるほど力と確信に満たす方が生きておられることを知ることである。キリストに満たされることである。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「銀を精錬するものが来る」
マラキ書 3章1~4節
"「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」
だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。
この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。
ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。"
(1) 銀を精錬する
❶ 精錬と研磨の違い ~「艱難、汝を玉にする」=試練が人格を磨き、輝く玉とするとの格言
精錬とは、純粋な金属を取り出すために、不純物を高温の炉の中で溶解させる
❷ 人はその試練の中で、罪や汚れ、高慢さや貪欲、そして自己中心の罪が取り除かれる
(2) すぐ側に侍る精錬工
❶「これをきよめるものとして座に着き」(3)
温度調整や炎の当たる角度など、経験豊かな職人技による精錬がそこにある
❷ 高温自体が目的ではない。苦しみや試練は、私たちを卑しめる事は出来ない
(3) 精錬後の純粋な輝き
❶ 「レビの子らをきよめ、彼らを金のように銀のように純粋にする」(3)
私たちのうちに眠っていた神の子としての実質が立ち上がる
❷ 偉大な精錬工に私自身をお任せしよう
この方は契約の使者であり、あなたをとらえて離さない方。遅い見えても必ず来られる方だ(1)
(結論)
"そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。
今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、
イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。"
(ペテロの手紙 第一 1章6~7節)
この地上で試練に会う事は避けられない。それは私たちの信仰を揺さぶる火の試練の時もある。
神はそのことをご存知の上で、やがてあなたに正当な報いを持って望まれる。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「宝は土の器の中に」
コリント人への手紙 第二 4章6~16節
"「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。
こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。
「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。
主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。
すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。
ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。"
(1) 私たちは土の器
① 当時イスラエルでの食器は粘土で作られていた。割れやすく、すぐに壊されてしまう。
② 私たちの体も、心も傷つき壊れやすいもの
(2) 宝が土の器の中に入って
① 「宝」とはキリストご自身のこと。啓示の光を照らされた心に、その神の栄光を知る者にされた(6)。
②宝が器の中に注入されて居住した経験が、ペンテコステの日に起こった。
主イエスの霊が各自に注がれて、その方と共に生きるものとされた。
(3) 神の栄光の表れ~計り知れない神の力が明らかとされる
①死にゆく体に対し、主イエスのいのちが明らかとされる(10)
② 信仰の霊を抱いているが故に宣教する(13)
③ すべてのことを感謝に至らせる~苦しみ(8)、迫害や躓き(9)さえも
④ 日々新とされる内なる人(16)
⑤今の艱難をテコとして計測不可能な重たい栄光へ至らせる(17)
(結論)
本日は、ペンテコステ記念日です。
神の霊が注がれて、今、私たちの内に主イエスが生きておられます。
私たちは日々衰えていく土の器に過ぎなくても、この尊い宝をいただいて永遠の栄光に至るものとされています。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「愛から引き離すものあるか」
ローマ人への手紙 8章31~39節
"では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。"
(1) 繋がっていた愛
①キリストの十字架において
極限にふみにじられ、死の底に突き落とされたとき
②父と子との関係は揺るがなかった
父の愛がその時注がれていた。私のあの暗黒の時にも、イエス様の愛は注がれていた。
(2) 表された栄光
① 最も卑しめられた時に栄光が表されるのか?
「この方は誠に神の子であった」と100人隊長の告白
② 神の愛と義、救いと裁きの交差~スパークによる遮光のように
私のあの悲惨な屈辱と卑下された経験は、神の愛に気づくキッカケとなり得た
(3) 確定された勝利
① 「屠られる羊とみなされた」(36)ものが「圧倒的勝利者となる」(37)のは、
先駆者キリストゆえ。
② このキリストが復活され、神の右の座におられ、私たちのために執りなしておられる(34)。
よって困難も迫害もどんな被造物も、キリストの愛から私たちを引き離すことはあり得ない(35、39)。
(結論)
1923年の関東大震災で、被災民の蚊帳にろうそくの火が十字架に光る。
その絶望した状況の中にキリストの愛を感じたマーチン宣教師の作詞作曲したのが、聖歌397番「遠き国や」だった。あなたのあの暗闇の瞬間にも、キリストの愛が輝いていた。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「聖書が教える信仰について」
創世記 15章1~6節
"これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」
すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。"
信じるとはどういう事か
自己努力による信仰の振起
自分を説得しながら、対象(他者でも自己でも)を信じようと努める姿勢
「我が子に限って」、試合前に自分を信じるとか。
暖かい体験を通じて説得でなくても喚起される心情
幼児が無条件に母の胸に抱かれる光景
(2) Abrahamにとっての信仰
創世記12章から:「ウルからあなたを連れ出した主」(7)に対する信仰と従順は見事
~神の約束の言葉も、Abrahamには虚しく聞こえた(2-3)
創世記15章に至って: 満点の星々を見せられ、神の温かい御心に触れることができた 新しい意味での信仰を抱く (3) 誤解を生じやすい教え
(3) 神があなたに到来される時
①自己説得の信仰においては、平安も確信も与えられないのが私たち
15章以降においてもアブラハムはしばしばそのような現実の中をさまよう
16章で、ハガルを迎えて息子イシュマエルを得る
さらに17:17。
②私たちのところに訪れては懇ろに語り、温かく包む
18章で神とその使命ら3人の訪問を受けている
(結論)
"ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。"
イザヤ書 46章3~4節
私が気づく前から目を留め運んでこられた方がいた(私の誕生以前から)
「信じる」とは、この方の暖か眼差しを発見すること(人生の時点)
弱さと限界を迎えても神は背負い、運び、救い出す方(今後も)
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