ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「生きるにしても、死ぬにしても」
ローマ人への手紙 14章1~8節
"信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。"
(1) 自分のとは一体誰のものか
①子供から大人になると自立し、自己を確立し、自己決定権を増して行く
すると私たちは自分自身の人生の全てをコントロールできると思いがちだ
②人生の決定的な事は何一つ選べない
生まれた日も、両親も、自己の能力や賜物までも選べていない
私たちは実は、主に属するものであると聖書は教えている
(2) こんな自分であったとしても
①自分自身を信じろと教えられてきた。「努力は裏切らない」とは本当か?
信じたくても緊急な時、危機的状況で重大決意をする時に、私たちの足はすくんでしまう。
②自分で自分を信じること、頼るには到底弱いものであるにを知っている私たち
何度失敗しても、そのだめな私を愛し私を支えてこられた方がおられた
(3) 主に対して生きるもの
①たとえ死に至ることがあったとしても
主は私を迎え入れてさらに深い交わりの輪に入れてくださる
② もし生きるとしたなら、恐れや失望に取り付かれることがあるかもしれない。
その中にあってさらに良いものを示してくださる。生きることで、さらに主にある生き方を学ぶのだ。それは今まで最高善と考えていた枠組みが再構築されること。
(結論)
「愛情、厚遇、栄誉。金メダルはもらえなかったけれど、代わりにもっと大切なものを日本で手にしました」~銀盤の妖精・ジャネット・リン(朝日新聞、1996年12月9日)
自分の望む成功を手にしなかったとしても、たとえ最悪の死に直面しても、私たちを所有しておられる主は私たちから離れず、その愛から私たちを引き裂くものはない。
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