内裏の後宮建物跡発掘@京都市上京区
11月
9日
建物跡や溝跡は中宮らが暮らした「登華殿」と「弘徽殿」に関わるとみられ、平安時代の内裏殿舎遺構が見つかるのは初めてのことです。
「登華殿」は平安中期、「一条天皇」の<中宮定子>が暮らしていました。関白の父<藤原道隆>らとの語らいが、『枕草子』に綴られています。
また、「弘徽殿」は『源氏物語』において「光源氏」が「朧月夜」に出会う場になっています。両殿とも内裏北西部にありました。
京都市埋蔵文化財研究所によりますと、登華殿跡では794年の遷都当初とみられる建物柱穴が5基見つかっています。柱はほぼ3メートルおきに立ち、この柱間や掘立柱の造りは、遷都前の長岡宮跡で見つかっている同殿の相当建物に似通っています。移築されたり、構造を受け継いだりした可能性を示しています。後に柱は全て抜き取られ、9~10世紀半ばに礎石建ちに変えられたといいます。
登華殿の南西角では、雨落溝とみられるL字形の石組溝も出ています。南北(長さ11メートル以上)、東西(同2.3メートル以上)で底石や縁石を並べていましたが、大半が抜き取られています。建物の礎石建ち化に伴い、同時期の京内にはない石組みの溝が備わったとみられています。
この南側に同年代の石2基が並び、より南の弘徽殿とつながる渡り廊下の礎石の可能性があります。近くに東西溝(同1.1メートル以上)と南北溝(同3.4メートル以上)もあり、平安中後期に同殿跡を囲った溝とされています。