“春爛漫(1)”《襍観 ・/・拈華微笑6》

エビネ(海老根) ラン科(自生種のエビネか否か??)
江戸中期には園芸種が沢山、作られたらしい。
『花壇地錦抄』(1695)巻四・五「草花 春之部」に、
他偷草(ゑひねさう) 末。花形鈴のごとくさがる、故ニ鈴ふり草共いふ。色うす黄、葉ハ白らんのごとし。近頃(さいつころ)相州の在郷へまかりしに農家に此草植てなり。名を問侍れハ、かまがミさうと申き。是も鈴ふりの心か。花黄色成ハなんきんゑびねといふ
カジイチゴ(梶苺) バラ科  別名;トウイチゴ、エドイチゴ
民家園に植栽されてる落葉低木。何故か好きで年中観察している。
日本産キイチゴの代表格、果実はさっぱりとした酸味^^)。
ヒトリシズカ(一人静) センリョウ科
別名;ヨシノシズカ(吉野静)、マユハキソウ(眉掃草)
ヒトリシズカには花びらがない。白いブラシに見えるのは雄しべ。
雌しべは雄しべの根元にある。花弁も萼もなく、蕊のみと変わった花。
『花壇地錦抄』(1695)巻四・五「草花 春之部」に、
「やゆはき草 中末。ちいさき草也。
花形ハ宛(あたか)女中化装の具のまいはきのごとし。色白し」
ジュウニヒトエ(十二単) シソ科
薄青紫の花が幾重にも重なったさまが十二単に似ているとか!?!
薄い青白い花とか環境によって花色が変化するのも探し街がある。
園芸種は良いとしても、困ったことがある。
同属のセイヨウキランソウをジュウニヒトエと称するので、花壇等で混同する。


早い、あっという間に皐月・5月に入ってしまった。
四月に出会った花々、毎年同じ種類だが趣が異なる。
時間の制約があって近間しか行けなかった。
それでも新鮮に・・初めて出会ったかの様に映る花々!!
煩雑な人間関係から離れて目の前にある野草。
只々見るだけで満足だ。

「2015・4.。。大和市泉の森周辺」

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“春うらら”《襍観 ・/・拈華微笑5》

ムラサキケマン(紫華鬘) ケシ科
別名: ヤブケマン(藪華鬘)
小野蘭山『本草綱目啓蒙』22(1806)紫菫に、
「ムラサキケマン ノゼリ大和本草 ヘビマクラ信州 ヂザウノマメ越後
マンダラゲ キツネノチヤブクロ筑後 ヤブニンジン江州 ヤブゼリ」
ジロボウエンゴサク(次郎坊延胡索) ケシ科
和名のジロボウは、伊勢地方でスミレを太郎坊、この仲間を次郎坊と呼ぶに由。
小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1806)延胡索に、
「和産、大葉・中葉・小葉ノ三種アリ。
中葉は紀州・勢州 田野路傍ニ多シ。
勢州粥見ニテ此花ヲ次郎坊ト云、
紫花地丁(スモトリグサ)花ヲ太郎坊ト云。
小児ノ戯ニ両草ノ花萼ヲ互ニ
ニリンソウ(二輪草) キンポウゲ科
別名; ガショウソウ(鵝掌草)、フクベラ・フクベライチゲ、セキナ
一つの茎に2つの花を付けることで名が付いた。
まれに一個しか咲かないものもある由。
だが画像のように三輪の花を見つけた。でも三輪草ではない。
サンリンソウは、花柄の根本に付いている葉に葉柄がある!?!
明らかに二輪草花柄に見えるが???
ハナイカダ(花筏) ミズキ科
別名; ママッコ、ヨメノナミダ、ツキデノキ
葉の真ん中に花が咲きいかだ(筏)に乗ったように見えることから付いた名前。
若葉は山菜として、テンプラなどで食べることができる。
雌花は、花は一つ。これは雄花。雄花は複数の花を付ける。

四月、新たなる出会い。現役を退いて久しいのに色々と!!
あちこちに出掛ける日々で元気を貰ってはいるが。。。
唯この季節、各地の温度差が激しくて一寸、くたびれていた。
それにしても気候が変わりつつあるのだろう。
今年は、弘前周辺、五所川原辺りでも連休には、完全な葉桜!?!
「お花見」を楽しみにしていたが・・・残念。

人との出会いもよろしいが、野に咲く花々、また会えたってたのしい。
早、皐月だが、、、四月に出会った花々、「春うらら」って感じ。
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“野の花達”《襍観 ・/・拈華微笑4》

フモトスミレ(麓菫)?? スミレ科 (Violaceae)
学名:Viola sieboldi
ハルリンドウ(春竜胆) リンドウ科(Gentianaceae)
学名:Gentiana thunbergii

「ふれあいの森」の隣が「泉の森」と呼ばれている里山。
泉の森からふれあいの森、その先は厚木飛行場の滑走路。
飛行場を思うと・・・飛行場を中心に半径500メートル、
こうした緑に囲まれていればよかったのに!!
「ふれあいの森」が人工的に植裁・整備された森とすれば、
隣の「泉の森」は昔からの里山、鎮守の森と映る。
しらかし林があったり、引地川の源泉があったり、と。
だが「泉の森」にはもうひとつの顔が存在する。
森の北西部分に「大和加圧ポンプ所と配水池」が設置されて、
ポンプ所の裏手に広葉樹の人工林がありその下に “配水池” がある。
その下、東側が引地川“水源地”で泉の森大池・小池には地下水が湧き出ている。
水質が悪くなった平成 4 年(1992 年)までは、近在の水道水に使っていた。
今は、相模川・酒匂川の水が供給されているが、平成12年(2000年)、
綾瀬浄水場からの水を貯え、災害時の飲料水確保目的に配水池が作られた。
貯水量は、50m四方、10m高の水槽に、水深8mで2万トンの水を貯えている。
非常災害時、近くに住んでる人々は、ポット持参で水を分けてもらえる。
ここの配水池は泉の森の一部の扱い、水源地の涵養林でもある。
大雨時の溜池機能、災害時の配水用、それでいて災害防止策が講じられてもいる。
森の仲には、散策路が設けられ自然林の中には入らないよう掲示されている。
植物観賞目的からすると、、、難儀なことだ。
花の向き等々、写真に取る位置関係に何とも苦慮する。何処も同じだが。。。!
森に接して民家が在ること等、林床・・伐採等の管理が必要。結構大変である。
贅沢な悩みは、林床を綺麗に刈ってしまい全きの自然植生では無い部分が在ること。
雑木林を宅地化、残った林は100年先を見て整備・保全。
10年目頃から自然植生的に草花が顔を見せ始めた。自然は、強い。。。





「大和市・泉の森4/19」


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“野生化しつつある花”《襍観 ・/・拈華微笑3》

キバナカタクリ(黄花片栗) ユリ科 (Liliaceae)
学名:Erythronium pagoda;別名: アメリカカタクリ

シャガ(射干) アヤメ科
学名:Iris japonica ;別名: 著莪
ミツバツツジ(三つ葉躑躅) ツツジ科(Ericaceae)
学名:Rhododendron dilatatum
別名: イチバンツツ(一番躑躅)、ムラサキツツジ(紫躑躅)

綺麗に植栽されてる「緑の見本園」。それでも園芸種的でない花を探す。
自分でもへそ曲がりって思うが、野草、一辺倒である。
ふれあいの森管理者・ボランティアによって植裁された植物。
多種に渡るがこの節は、野生化したシャガ・キバナカタクリを見た。
整備されて数十年経つと野生化してもおかしくなく、立派に映る。
見本園入り口アーチをくぐると立派なミツバツツジが咲き誇っていた。


「大和市・ふれあいの森4/09」


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“芝桜”《襍観 ・/・拈華微笑2》

ピンクの花をアップすると、数種類の花の形・色があることが分かった。
シバザクラ(芝桜) ハナシノブ科(Polemonioideae)
学名:Phlox subulata
白い花。
シロバナの蕾も趣があった。
開花始めも魅せてくれる。花弁の開く所を高速度カメラで觀察したくなる。
小さな世界にロマンが広がる。。。!
撮り方が悪くてうまく表現できていないが、
此の斜面全体が芝桜で覆われると壮観だ。

身近な「森」(里山公園)、大きく分けて異なった景観を楽しめる。
一つは、雑木林の荒れ地を整備してできた公園「ふれあいの森」。
野外宴(親水広場)もできる広場もあって4月始めは花見で盛り上がっていた。
植裁・整備されてるハーブ田、緑の見本園、四季折々花が咲いている。
桜が散って、植裁されたチュウリップ等の花が盛りを魅せる頃、
森入口の斜面に繰り広げられる芝桜が花を見せ始めた(4月9日)。
最近は、斜面一面に芝桜が敷き詰められていないようだ。
色々な土壌作りをしているのかもしれない。
一枝々々に魅せる花をアップで見ると可愛いものだ。
芝桜って花期がながぁ~いのか、2週間も咲き誇っている(4月24日)。

「大和市・ふれあいの森(4月9日)」

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“写真・写真機”《襍囈 ・/・叛逆のろれつ2015/4》


桜前線は、北上し今頃は東北・・盛岡・八戸・角館辺りが開花してるか??
今年は、身辺の桜めぐりをしなかった。5箇所ほどある桜並木。。。
その中の「千本桜」と呼ばれている並木を眺められなかった事は一寸心残り。
あの並木、、、治水工事・樹の寿命もあるか?今年を最後に伐採されてしまう。
最後の桜並木散歩、と思いながら・・・機を逃してしまった。
同様に鎌倉鶴ヶ岡八幡宮参道の段葛もリニューアル中。
愈々以って、人混みを嫌う傾向にある者の行き場が限られてきた??
縁あって訪れる所々でも人混みをさけてる。花を愛でるだけで良いのだが。

桜、樹々・草花・・植物全体で野生種(自生種)に出会いたいと強く思う。
自ずと目的地は限られ、そして訪れるには、時間をも要する。
而して人気の地は、カメラマンが多くじっくりと觀察できない。
そんなこんなで、焦り始めた昨今である。
先週、自室に監禁??されてしまった^^)。
それを良いことに、古き悪友が押し寄せてきた。

日本製カメラの技術性能水準・高さは、世界を圧巻している。
悪友達も“デジイチ・コンデジ”が主流になった。
以前のフィルムカメラを使う面々は極めて少ない。
モノクロームしか使わなかった偏重人もフィルムは使わなくなった。
デジカメ & ソフト、かつての煩雑かつ熟練を要した現像技術。
暗室にこもった時代が懐かしく感じられる。
カラー写真・・・僕の子供の頃は「天然色写真!?!」と言っていた。
そんな昔を知る、仲間諸氏、それぞれが曲者だ。
忌憚のない意見で喧々囂々だが、長いことお付き合い願っている。
来訪、最長老のT氏は、クラシック音楽家のプロフィール写真を撮り続けて。
写真家と言えるが、主職は、音楽プロモーターであった。
仲間の中で唯一現役だったS君も3月で引退した。
彼は、我々にデジカメ進化を示しに来たと言えるかもしれない。
体調不良の見舞いに来たのではなかったのか??
否、カメラを見せて元気づけようと連れ立ってくれたか、感謝せねばなるまい。
持参したユニークなカメラ、その性能に一同感嘆のため息。
試写に出かけたいが、生憎の雨。写真機^^)談義に花が咲いた(^O^)/!!
目の前のデジカメ・・・酔狂なカメラだ。単焦点レンズであるのに??
一連のシリーズは、「スゴイね、でも扱いづらい」って印象だったのだが!?!
AF性能・JPEG画質でも精緻な描写、JPEG撮って出しの安定感は!!!溜息ものだ。
操作性も改善され何とも“凄い”としか言いようがない。
デジタル臭くないソフトなイメージに撮れる。
超高精細と立体感を生み出す3層センサー搭載。
そのセンサーの為に専用設計された50mm F2.8のレンズを搭載している。
1画素単位で色表現が出来る、サビとか影の微妙な色合いを見事に表現してた。
立体感、淡い中間色の表現、シャドウのトーン階調も豊かで、滑らか。
更には、コンバージョンレンズの性能、立体感・シャドウ部の階調も豊か。
最短撮影距離と最大撮影倍率が(22.6cm/1:3 → 29.4cm/1:3.6)へ変わるが!!
マクロ倍率は下がるが、深いボケ味がこれまたいい。
日頃うるさい事を曰わる面々の感想だから驚きであった。
しかし、よくよく考え見れば撮りての技量でもあろうに。
古きレンズも面白い効果を出すことは、分かる。
画質表現の素晴らしさ、デジカメの進化だろう。じっくりと被写体と向き合えばよい。
色や解像力だけでないその場の空気・雰囲気を誠実に魅せる。
昨今、愛好家が好んで使う古き良き「玉」もよろしかろうが、それを超越している。
何より面倒を排除できる。感動の機材の出現だ。
改めて思うは、撮り手の技量。
世に溢れる写真の見苦しさ、よくもまぁ・・・掲載するものだと!?!
コンペとか写真サイト。。しかし・・・日本経済の底力を担っていようか。
大砲が並ぶ姿は圧巻だが異様だ。好きになれない鳥撮影軍団(単に僕のこのみだが)。
機材を駆使することもさることながら、表現力に神経をとがらせない短絡思考。
ある種のデジカメ成熟期に入ったのを実感する機材の出現。
元気に被写体と対峙せねば・・・、
s君、ありがとう・・・・紫陽花めぐりが更に楽しくなった、と脳裏をかすめた。


『SIGMA dp3 Quattro』

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“再び・ヴリーツェンの桜!!”《襍囈 ・/・拈華微笑1》

部屋の窓から見ゆる桜も葉桜になり緑が清々しい、が。。。
戦後70年にして、未だバッシングを受けてる敗戦国!!日本。
更には、政争を仕掛けられてる現状・現況、何とも忍びがたい。
海を挟んだ隣国(2国)だけに悪しき日本軍人が居留していたのか???
而して現今を思うと沖縄に関する報道が偏向してるのでは、と危惧する。

ブログルを使わせて頂きはじめた頃に記した「ヴリーツェンの桜」、
今のブログル仲間、そして若き友たちに新年度^^)始めのブログとして、
再度、紹介し、現況の日本、日本人を深慮したい。

      ※  ※  ※  ※2005/04/21;bloguru投稿※  ※  ※  ※
例年この頃になるとある事を思い出す。
ドイツ北部旧東ドイツ・ポーランド国境近くの町ヴリーツェン(Wriezen)の桜の事だ。

ある時、この町に第二次大戦終焉前後時期に一人の日本人が、活躍していたと知った。
「肥沼信次医学博士」 昭和9年日本医科大学卒業後、東京帝国大学医学部放射線教室を経て1937年ドイツのベルリン大学(正式名フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学。現フンボルト大学)の医学部放射線研究所に入り、数々の研究成果をあげ東洋人として初めて教授資格を取得した偉人の足跡。
日本では余り知られていないが、ドイツの小中学校の教科書にも載る医学博士である。
1998年ごろ日本の新聞紙上やテレビのドキュメンタリーでも取り上げられていたが、一般的には知られていない偉人ではないか。
旧制中学時代、アインシュタイン博士に憧れ、キューリー夫人を尊敬しドイツに憧れていた。数学が好きで東京帝大医学部時代「数学の鬼」と言われてた。
1937年春にドイツに向かい、伝染病研究所(初代所長は結核菌発見者のコッホ)に入所した。フンボルト奨学生としてベルリン大学(現フンボルト大学)の放射線研究所で研鑚しその後研究員となった。
博士は、ナチスドイツへの宣誓書を提出させられるが、
「私はフリーメーソン結社に所属したことないことを、ここに宣誓します。」
「私は純潔な日本人であり、日本国籍を有する事をここに宣誓します。」と、
ヒットラー総統への忠誠を示すものではなかった。
当時のドイツではドイツ人でも4代前までユダヤ人の血が混じってないドイツ人であることを証明しなければならなかった。
増してや日本人である。この宣誓文は、博士の意志の強さと勇気を示したものだろう。
 1945年3月18日にベルリン在留日本人に帰国指示がくだったが、博士はドイツ残留を選択した。戦時下で、ベルリンの住居が壊れエバースヴェルデに疎開していた博士は腸チフスが蔓延し、医師のいないヴリーツェンに向かう。
チフスを恐れ誰も行きたがらない地にである。
当時の病院職員の言では、「肥沼先生は、疲れを知らず、いつも笑みをたたえ、
ドイツ語がそれほど流暢なわけではなかった(これは方言の強い事から)が、患者に絶えず話しかけていた。
7人いた看護婦も、5人が死んだ。町にはチフスが蔓延し、近くの難民キャンプでは性病も広がった。
生活物資も薬も不足していたが、博士は多くの人を救った。」
「子供が起きて、何か食べれば、もう大丈夫ですよ。」と親達に言ったものだった、と。」
寝る間も惜しみ医療活動を続けていたのである。献身的な対応が伝えられている。
「ある日、5キロ離れた緊急難民収容所にチフス、マラリア、赤痢患者の往診に出かけたが、若い准看護婦がこの世の光景とは思えぬ惨状に入ることができずにたたずんでいるのをよそに、博士は、自分の身の危険もかえりみずに診察を始め、彼女の方をふりかえり「君の使命感はどうしたんだ。」とやさしく言ったという。
准看護婦は、その言葉に、躊躇していた自分を恥じるとともに、気の遠くなるような感動にうたれ、医療の何たるかを教えられたと語っている。父親の発疹チフスを治療してもらった子供の言では、近在の村にまで何度も往診をしてくれたと、。
一人の婦人の言では「家に来てくれるお医者さんなどいなかった。先生は診察したあと持ってきた薬を全部置いていってくれました。また、肥沼先生は診察料のことを口にしませんでした。うちだけでなく、他の家ででもです。人を慰め、握手を求め、薬を運んで救助を急いでくれて……。すべてが狂乱・興奮状態であった時代にですよ。本当にそういう先生がいたのかと、今の人には信じられないでしょうけど、大変素晴しい尊敬できる方なんです。」
博士が治療した部屋が、まだそのまま残っていて、婦人は、肥沼博士のことを、子々孫々伝えていくという。
異国の地で伝染病センター医師として、働き、薬が不足すれば、荷馬車を繰り、すし詰めの鉄道に乗り、または徒歩で、分断べルリンの危険地域や米軍駐屯地から命からがら薬を入手してきた。
ヴリーツェンの人々は肥沼博士が異国の地におりながら家族の事を全く話さなかった事で、家族が居ないものと思っていた。
病魔に倒れた博士は、最後に「日本の桜は大変綺麗です。みんなに見せてあげたいな。」であった由。
肥沼博士自身もチフスに感染したのだが、博士は、看護や薬を使う事さえも拒みヴリーツェンにて1946年3月8日に死去された。
旧東ドイツ時代は秘密警察の問題も有り公に賞賛する事は出来なかったが、
その墓は病院の同僚や村民によってずっと大切にひっそりと守られてきた。
80年代以降、肥沼博士に対する関心が高まり、1993年には、市役所の顕彰版にその名前が彫られ、1994年には名誉市民号が贈られ、日本の遺族にも連絡が取れたのである。
1994年7月1日には、肥沼博士の記念碑の除幕式が行われた。
ドイツの代表的新聞FAZ紙で13面の4分の1ほどを割いて紹介している。
統一ドイツになって肥沼博士の話は知られるようになり、肥沼博士の兄弟が墓参した折、日本の桜の苗木の送呈、寄付で桜の樹が増え、今や、町中に桜が見られる。これらのことにはヴリーツェン近郊在住、画家の横尾龍彦氏の尽力が大きい。更には、博士の功績を称えて1991年より記念柔道大会「肥沼杯」が命日の3月にあわせて開催されている。参加国はドイツ、ポーランド、日本、10歳から12歳の自由参加で、大会初日には博士の墓前に献花し、詣でている。
肥沼信次博士はヴリーツェンの人々の心の中に生きているのである。
前途有望な若い医師が、37歳で生涯を閉じた。戦争禍の悲惨さを思うのです。
今の季節になると、当地を今一度、訪れたいと思うが機会を持てずもどかしい。
今でも独逸の大学教授資格は、厳格であり、その資格たるや威厳ある。
博士の研鑽された時代は、現在と比較には成らないほど教授資格は崇高な地位であった。30代なかばで教授資格取得、とてつもない業績だった事がわかる。
博士の人間性・・・日本人として誇り、将来に向けても語り継ぐべきであると再度、掲載した。

**参考HP**
Home ホームページ - Lebensbilder 日独交流の群像 - Ko(y)enuma, Dr. Nobutsugu 肥沼信次博士(1908-1946), Arzt 医師
http://www.das-japanische-gedaechtnis.de/lebensbilder-a-z/koyenuma-dr-nobutsugu1908-1946-arzt.html
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“草花童戯”《襍囈 ・/・古往今来363》

草花童戯・・・なんと素朴なことか。心もかくありたい。
はるか昔のひな人形遊び。
こうした遊び心、孫世代でも継いでほしい。


里山・公園と呼ばれる所では、植物を摘むことは禁止されている。
それがゆえか??僕等の子供時代にあった遊びが姿を消した。
遠ぉ~~~い昔のこと
童子達は、野山を駆けずり回り、池・小川で小動物を捕まえては観察してた。
童女達は、草花を使って色々な造形ぶつを作って遊んだものである。
童謡と呼ばれてる歌の歌詞にその光景が浮かび上がる。
童謡自体、今では聞く子供も少ないか??

本土より遠く離れた島々、八重山諸島。
中に小さな竹富島がある。その地に伝わる葉っぱ遊びは、素朴そのもの。
ワラミゴで作った鶴と亀、アダンの葉で作った魚、星ッコロ(星形の玩具)、
土産物になったと聞く「ハブグワー」・・アダン葉で編んだハブの口に指を入れ、
ハブのしっぽをひっぱると!!指が抜けない。いたずら玩具。
今でもつくられているだろうか??

ひな祭りが終わって、桜の花見も盛りを迎えた。
各地から桜の便りが届く、ブログルでも賑いでいる。
そんな時、昔知った「草花童戯」を思い出した。
身近な里山事務所においてある亀をも思い出した。

八重山諸島・・与那国島、素朴な「和の感覚」を思える地。
僕の生まれる少し前、日本は敗戦国として再出発をした。
あれから半世紀を以って、一人前の国になった!?!
軍国主義になど間違っても成らないと信じきっている。
国土最西端の八重山諸島、日本国土であってほしい!!
こんなことを思うのは、首都圏人の身勝手な考えか??
沖縄県を傍観していて思うこと。


3月31日誌「懐古」

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“野草・春に思う”《襍囈 ・/・古往今来362》

《浦島草》

《鶯神楽》

《紅葉苺》


《黄砂が来る頃の海岸風景!?!・・風の強い昼下がり》



里山に春が来た。かわいい花諸君に学ぶ。
気候の変化、寒暖の変化、己にあっては、何か落ち着かない。
「古往今来」等と称して昨年の4月より植物日誌をつけてみた。
途中、紆余曲折あるもほぼ日誌を書くことができた,が内容はパクリ??
極力園芸種を避けたは、人間の都合で消えいく自生種を危惧した故。
ちょっと、いただけない。寂しい等と言っておれない。
温暖化、環境の悪化、地球内での人間の驕り、もっと謙虚に自然と対峙すべきだ。
文明も良いが。。。しかし野の植物に見習う、否、教えられることが沢山ある。
咲くも無心、散るも無心、花は嘆かず、今を生きる。
癒され、教えられ、自然を見ていると・・人間界の争いに呆然とする。

「和を以って貴しとなす」(聖徳太子、十七条憲法より)
戦後70年の節目に思うた。平和を尊ぶ日本国家基本法の冒頭に、
大和の国・伝統に根ざす「和」を尊ぶことを序に示すべきと希したい。
こんな事を思い、せめて身近な所から訴え、標榜したい。
主義主張は、良としても、物事の道理を真摯に思考すべきだ。
誹謗・中傷、道理に乖離することはすまい。
負の財産!?!が、、、見えて来た。
「勝てば官軍、負ければ賊軍。」
半世紀の間、己に問うてきた事だが、「道理に非ず」と勝手に結語した。
「喧嘩両成敗」である。
昨今の国家間の争いを眺めてのことでもある。
「大虐殺」「慰安婦」
「原爆投下」「東京大空襲」・・「大東亜戦争」
「・・・・国」
以上のもんごんを真摯に思うと、
そろそろ日本の意思・意向をはっきりと他国に示す時と思って止まない。
「星辰の如く、急がず休まず人は皆、己が負い目の周りを回れ。」
ゲ-テの言葉は、深淵だ。。

na.tu.ra non fa.cit sal.tus
自然は、飛躍せず。こんな哲理をも思う。

良知良能・・・これで決まりだろう。

ブログルを使わせて頂き始めた頃、投稿文の中に記した事。
『襍は、雑の旧字体。崋は、山の花の意。
雑花とは天台仏教教義にもある、
雑な花と言うなかれ、真摯に生きるものとしれ。
たれも、おごりたかぶることなかれ。』

また一つ歳を重ねる。そんな時を前に脳裏をかすめる事々。


3月30日誌「泉の森 & 鵠沼海岸」

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“石菖”《襍草 ・/・古往今来361》


セキショウ(石菖)  ショウブ科(Acoraceae)
分類:草 学名:Acorus gramineus Soland.

クロンキスト体系ではショウブ科(新エングラー体系ではサトイモ科ショウブ属)に属する。
小川の縁などの水辺に自生するが、常緑なので庭などに植えられることも多い。
この根を乾燥したものは石菖根と呼ばれ、漢方薬として利用される。
葉は平滑で長さ30-50cm、幅2-8mm。花は3-5月に見られ、花茎は10-30cm、
花序は花時には長さ5-10cm、斜上または直立する。果被片は広倒卵形で淡黄緑色。
本州・四国・九州などで見られる。
低地~山地の渓流畔、小河川、水路、湧水地、山間の溜池畔に生育する。
セキショウ群集の標徴種。
根茎ははぼ円柱状、径5~10mm、丈夫で硬く、香気を持ち多節、
分枝して横走し群生をつくる。
葉は根茎の先端から2列に十数個はかま状に剣状葉を根生し、
長さ20~60cm、幅5~10mm、特有の香気がある。
葉身基部は淡紅紫色を帯び、上方は両面ともに中央脈がなく平滑、
光沢があり濃緑色、全縁、鋭尖頭である。
花期になると葉間から扁3稜形の花茎を出し、上方に肉穂花序をつける。
苞葉は剣状で葉と同形、花序の基部から斜出する。
肉穂花序は狭円柱形、淡黄色で長さ10mm程度、
表面に小花を密生し下方から順次開花する。
小花は両性花で小さく、径約2mm。花被片6個、外花被片は扁円形、
内花被片はやや方形、長さ約1mm、円頭。
雄蕊6個、葯は黄色。雌蕊1個、子房は六角扁円形で、高さ葯.2mm。
セキショウにはアリスガワセキショウ、マサムネセキショウ(斑入り)など、
古来から園芸品種がある。
また、根茎は鎮静、健胃、腹痛、婦人病の薬用として利用される。
古くは「しょうぶ湯」はセキショウの葉を使ったが、
ショウブ栽培が普及した為ショウブにとって変わられた。


3月29日誌「大和市・ふれあいの森」

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