この週末の日曜日にご奉仕をさせていただくペニンシュラホープ教会の位置しているレッドウッドcity。
そのダウンタウンで来てみると市制開始150周年をお祝いしているノボリがあちこちに見えました。
日本の明治維新が来年で150周年を迎えますのでほぼ現在日本と同じ年齢と言うことですか。
先週カナダバンクーバーに行きましたが、ある方からカナダも建国150周年であると聞きました。
米国大陸の西海岸に国や街の創立と日本の近代の幕開けが同時期。
太平洋を挟んだ両端にありながらやはり隣同士だったようで、激しく影響しあっていたようですね。
この日バンクーバーでお会いした友人が伝えてくれたところによると、今年でカナダ建国150周年とのことです。
調べてみるとこの7月1日がその記念日となっていて、いろいろなお祝いが予定されているようです。
日本の現代の幕開けとほぼ同時期の建国なのですね。
来年、明治維新から150周年です。
その前年にあたる150年前の1867年は、大政奉還があったり坂本龍馬の暗殺があったり、日本はまさに激動の時代を追加してました。
150年なんて私の歳を3つほど重ねればお釣りが来るほどの数値です。
すごく近い歴史のように感じるのは歳をとったせいでしょうか。
鳥羽伏見の戦いが勃発したという地点は、簡素な住宅街の小さな交差点に位置していた。
そのすぐ近所に薩摩軍が駐屯したと言う城南宮がある。
花の名所となっているここの庭園は広くよく整備されていて散歩しても飽きることはない。
義母ならきっと喜び、彼女の京都の名所となったはず。
この日は京都の近く伏見にて神学校同期卒の友人宅に宿泊。
久方ぶりの再会に話が弾み、楽しい話は夜が更けても尽きることがない。
伏見と言えば秀吉が一時住居を構えた伏見城があり、そして戊辰戦争勃発の契機となった鳥羽伏見の戦いが有名。
伏見城の本丸後は現在天皇陵となっているがその少し離れたところに石垣も含めて再建された伏見城が建立されている。
あいにくの雨であったが、そのお城と満開の桜とかよくマッチしている。
しかし井伊直弼が信長と大きく異なる点がある。
15年間、14男の故に捨て扶持の微禄に甘んじた不遇時代である。
彦根城内堀沿にある小さな庵に住居を構え、
「埋木舎」(うもれぎのや)と名付けた。
直弼の詠んだ和歌を紹介。
〜世の中をよそに見つつも埋れ木の
埋もれておらむ心なき身は〜
実際は埋もれる暇もなく文武両道に励み、後の大老の大任を果たす見識と覚悟とはこの冬の時代に培われたものだという。
信長が天才的直感に負うところが大きかったのに対して
直弼は長年の蓄積された教養から救国のための一打を打ち出していった。
どちらも官僚制度を突き抜けた独裁だったことには変わりはない。
日本の風土に独裁はどうも似合わないらしい。
井伊直弼
安政の大獄を首謀した赤鬼か、
鎖国から開国への未知の時代を切り開いた先駆者か。
日本史上で彼ほどに評価の割れる人物はいないと思う。
ペリー来航後右往左往の幕閣の中でも明確に開国路線を打ち出して日米通商友好条約を勅諚を得ないまま締結し、さらに反対派を徹底的に弾圧してしまう。
彼もまた信長同様に日本史にあっては特異な独裁者だった。
信長の夢破れたり
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」
(人間の一生は所詮五十年に過ぎない。天上世界の時間の流れてくれべたらまるで夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものなのだ。)
絢爛豪華な安土城を築き、その琵琶湖に面した交通の要所を抑える戦略眼を持ち、
さらに宣教師を通じて世界情勢にまで視野を広げていた異端児信長。
その急進的な独裁体制は「和をもって貴しとなす」古来の日本体制と馴染まず、
明智光秀の謀反がなかったとしてもいつかは暗殺の憂き目に遭ったと考えられます。
完成からわずか3年ほどで炎上し廃城となった安土城には信長の夢が凝縮されているようです。
「夏草や兵どもが夢のあと」とは松尾芭蕉の有名な句ですが、
これを文字ってこの時の私の心境を一句。
「霧雨や先覚者の夢もかすみ」
ハハ、凡庸すぎますねぇ。
❷徳川300年間の屈折
毛利家は関ヶ原で敗れ、36万9千石の約3分の1の石高の領地に押し込まれた。
殿様を慕う家臣たちはそれでも新しい領地について行き、家禄なくリストラされた彼らは百姓に身をやつして家を守ったという。
破産集団でありながらこうして能動性に富んだ毛利家のは、
共通のものがあった。
〜常に飢えと隣り合わせと言う、恐怖観念である〜
これこそがこの藩に大きなエネルギーをもたらし、
さらに経済観念を研ぎ澄ましていく原動力となったと言っていい。
①絶えざる開墾。
干拓し、開墾し、灌漑しては田地を広げて行き、
幕末では100万石を超えるようになったと言う。
②長州の3白。
蝋、塩、紙の商品を生産し、これによる現金収入は米中心の幕藩経済が行き詰まる天保年間になっても藩収入の主軸として支え続けた。
③商港・下関の隆盛。
商品経済に目覚め、流通により国内の物産が下関を通じて大量に出回るようになると、そこに目をつけた者に幕末の坂本龍馬がいる。
慶応2年11月、龍馬の斡旋で薩長の要人が下関で会合し、
「商社示談箇条書」という定款を作り上げている。
要は独立経済圏を作り上げて幕府を圧倒しようと言う協定である。
一方で幕府はでくのぼうといってもいいほどの鈍感さで米中心経済の体制から動こうとしない。
長州が幕末、維新改革の一大勢力となりえた大きな理由には、
この銭と言う裏づけがあった事は確かだった。
吉川広家
❶怨恨は関ヶ原から始まった
徳川幕府を揺さぶり、最大の革命勢力となったのは長州藩でした。
長州の毛利藩は戦国期には瀬戸内海沿岸の交通の要所であった広島を覇府として、
山陰山陽10カ国を従えた大大名でした。
関ヶ原の戦いで敗れ一朝にして没落してしまったのです。
家康はこの大家臣団をわずかに防長(周防・長門2カ国)に閉じ込め、城を置く場所までも日本海側に追い込み、萩に押しやったのでした。
百万国を超えていた藩が30余万石で生計が成り立つはずがなく、多くの家臣団は農民へ没落して行かざるを得ず、徳川に対する恨みは以来、江戸時代を通じて伝承されて行きます。
「長州藩の藩士は、代々足を江戸に向けて寝る」
これは幕末の頃に流布されていた話だそうです。
もっとも家康は当初、西軍総大将であった毛利輝元の家を潰そうと考えたのです。
領地を全て召し上げるとしたのですがその時に弁護者が出ました。
毛利の分家の当主、吉川広家です。
広家は関ヶ原の時に徳川に内通し、南宮山に陣取る毛利軍を動かさないようにしたことで大きな功績がありました。
家康はその功績により防長2州を広家に与えます。
ところが広家は、本家取りつぶしについての哀訴が聞き入れられないと知った時、
その頂戴すべき防長2州を本家の毛利家に与えることを家康に認めさせたのです。
そこで徳川期の250年間、毛利の恨みは代々継承され、やがて徳川家を死滅させる中心勢力となって行きます。
……………………………………………
長州の革命勢力たちがヨーロッパの市民革命のそれと異なる点は、
思想やイデオロギーに押されてと言うよりも、私的な怨念をその内燃機関のエネルギーとして持っていたところにあると言えるでしょう。
タコマでガスを給油する際、
価格がこんなにも低いのに驚きです。
少し前はガロン5ドルに迫る勢いだったのに、
今や2ドル少々!
消費者にはうれしくとも、デフレが懸念されます。
近くOPEC総会で石油の減産か据え置きかが決められるそうです。
原油価格の低迷は、産油国の経済にもマイナスに働いているようでして、
先回のように米国のシェールオイル産業を潰すための政策をとるのを難しくしていると伝えられます。
中国の景気の陰り、
米国シェールオイル革命、
欧州の金融政策、
経済制裁の解除されたイランからの原油供給、
などなど、需要に対して供給過剰要因が幾重にも続いているんですね。
かつて60ドルでも足りなかった満タン価格はこの日、
30ドルで事足りてしまいました。
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