明治維新の震源地・長州
11月
22日
❶怨恨は関ヶ原から始まった
徳川幕府を揺さぶり、最大の革命勢力となったのは長州藩でした。
長州の毛利藩は戦国期には瀬戸内海沿岸の交通の要所であった広島を覇府として、
山陰山陽10カ国を従えた大大名でした。
関ヶ原の戦いで敗れ一朝にして没落してしまったのです。
家康はこの大家臣団をわずかに防長(周防・長門2カ国)に閉じ込め、城を置く場所までも日本海側に追い込み、萩に押しやったのでした。
百万国を超えていた藩が30余万石で生計が成り立つはずがなく、多くの家臣団は農民へ没落して行かざるを得ず、徳川に対する恨みは以来、江戸時代を通じて伝承されて行きます。
「長州藩の藩士は、代々足を江戸に向けて寝る」
これは幕末の頃に流布されていた話だそうです。
もっとも家康は当初、西軍総大将であった毛利輝元の家を潰そうと考えたのです。
領地を全て召し上げるとしたのですがその時に弁護者が出ました。
毛利の分家の当主、吉川広家です。
広家は関ヶ原の時に徳川に内通し、南宮山に陣取る毛利軍を動かさないようにしたことで大きな功績がありました。
家康はその功績により防長2州を広家に与えます。
ところが広家は、本家取りつぶしについての哀訴が聞き入れられないと知った時、
その頂戴すべき防長2州を本家の毛利家に与えることを家康に認めさせたのです。
そこで徳川期の250年間、毛利の恨みは代々継承され、やがて徳川家を死滅させる中心勢力となって行きます。
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長州の革命勢力たちがヨーロッパの市民革命のそれと異なる点は、
思想やイデオロギーに押されてと言うよりも、私的な怨念をその内燃機関のエネルギーとして持っていたところにあると言えるでしょう。