忘れられないあの日
3月
11日
週2の頻度で、福島市にある福島工場と配送センターに通っていただが、たまたまなのか、その日(3/11)は赤坂本社の自分の部屋で会議をしていた
だだならない揺れ、隣のビルが揺れてしなっているのを初めてみた
当時オペレーションの責任者だった私は、福島工場と配送センターを傘下にもっており、その直後から福島と連絡を取り合った
当時オペレーションの責任者だった私は、福島工場と配送センターを傘下にもっており、その直後から福島と連絡を取り合った
工場も配送センターもぐちゃぐちゃ、でも幸運なことに怪我人はなかった
そして、ここから怒涛の3か月が始まるとは、知る由もなかった
そして、ここから怒涛の3か月が始まるとは、知る由もなかった
社員のみんなを家に帰し、その直後から海外からモーレツな数の問い合わせと連絡に忙殺された
医療機器メーカーで製品の一部には人の生死に関わるものがあり、それが出荷出来なくなる影響のデカさは尋常ではなく、その課題を解決するために奔走した
当時しっかりとしたBCP事業継続計画が無く、ひとつひとつ整理し裁きながら、そして学習しながら前に進んでいくしかなかった
また福島なので、放射能にも悩まされた
地震から2週間、東京から福島へ車で8時間、みんなに会えたことは今でも忘れられない
地震から3か月間、全く土日の休みもなく連続で働き続け、なんとか暫定的に事業を復旧させることができた
最終的に全部元に戻ったのは、2年ぐらいかかったんじゃないか
これが入社5か月目の、最初の大仕事となった
被災し、お亡くなりになった方々に黙祷を捧げます