前回から中一週あいてのジョギング。
先週は仕事だったのか走れなかった・・・。
l今日は頑張ってとにかく仕事を済ませて、
なんとかジョギングに出発。
それにしても足り始めはやはり足が重い。
コンスタントに走れてない影響です。
それでもしばらく走ってると足も軽くなってきて、
ゆっくりながら調子よく走ることができるようになる。
往路はなかなか調子がよく、
30分ながら前回より一つバス停を伸ばして、
「虹ヶ丘小学校前」まで25分で到達。
ひとつ遠いバス停までで25分は、
スピードが結構出いたということだ。
しかし、その反動かどうなのか、
復路では結構苦しくなってしまって、
長~~い「極楽坂」の登りでは結構苦しかった。
この坂は坂の終わりが見えないので余計厳しい・・・。
この坂をすぐ下ると「地獄坂」
この坂はかなりの急坂だが終わりが見えるので、
結構な急坂ではあるが苦しくても登り切れる・・・。
この二つの坂を上るとほとんどスタミナは残っていず、
最後はかなりヘロヘロになってしまった。
バテたね・・・(*_*;
往路 「虹ヶ丘小学校」バス停まで 25分
復路 35分
最後の「だまし坂」の往復はなし・・・。
これも痛みが激しいですね。
石碑のほうは判読できなくなってます・・・。
パンフレットに載ってなく、
行ってみないと分からないところですね・・・。
松尾芭蕉の「奥の細道」有名な句がありますね。
中尊寺にちなんだこの句が有名で、
句碑になってました。
>五月雨の降り残してや光堂<
俳句を少しかじってるわたくしも、
一句ひねってみたいのですが、
もう一つ才能がなくダメですね・・・。
陛下が昭和45年、岩手国体の時に、
金色堂をお尋ねになった時に、
読まれたお歌が歌碑になってました。
これらはパンフレットにも載ってないところです・・・。
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書かれてる文字もかなり判読は厳しいです。
タイトルだけはかろうじて分かりました。
文字は賢治自筆の文字ということです。
詩碑をアップしてみましたが、
やはり文字の判読は難しいですね。
金色堂の周辺にはいろいろあるんですね。
写真に写したものを少しアップしていきます。
宮沢賢治の詩碑があります。
タイトルは「中尊寺」と書いてありますが、
内容は難しいです。
とりあえず書かれてる詩をアップしておきます。
>七重の舎利の小塔(ことう)に 蓋(がい)なすや緑の燐光
大盗はぎんのかたびら おろがむとまづ膝だてば 赭(しゃ)のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映(ば)えかゞやけり 手(た)触(ふ)れ得ね舎利の宝塔 大盗は禮(らい)して没(き)ゆる<
詩碑の文字は宮沢賢治自筆のものを、
約二十倍に拡大して謝したもので、
金色堂建立八百五十年を記念し、
昭和三十四年に建てられたものです。
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品数豊富。
いろんな味わいを楽しみました。
「毛越寺」を回ってきてちょうどお昼になった。
お昼を食べようと、
この料理を食べた・・・。
場所が場所だけに精進料理のようでした。
美味しかったですが・・・。
歩き回って空いたお腹を満たしてから、
「中尊寺」へ出発。
>クリックで大きくなります<
物凄い規模だったということが分かります。
道を挟んで右側の泉は失われてますね。
毛越寺伽藍の復元図・・・。
今まで歩いてきた道に立っていた伽藍の規模の大きさが分かりますね。
今は礎石しか残ってないのですが、
この復元図を見てると、
往時の風景が想像できますね。
東北の地にあって、
これだけの建物と文化を育んだ藤原氏三代の時代。
非常に豊かな時代だっと思いますね。
戦争もなく100年の間栄えた平泉。
源頼朝によって滅ぼされたわけですが、
頼朝の居た関東よりもはるかに文化が栄えていたと察せられます。
頼朝に破壊されたり年月とともに崩壊したりで、
ほとんどが失われてしまいましたが、
そのあとに立ってみると、
>夏草や兵どもが夢の後<
芭蕉の句がぴったりかも・・・。
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