画像:戦艦「大和」最後の語り部 開戦70年目の真実 八杉康夫講演会(2011年11月27日ポスターより)
世界最大、最強の戦艦とうたわれた旧日本海軍の巨大戦艦「大和」でしたが、沖縄に上陸した米軍に突入攻撃を試みる途上、鹿児島県坊ノ岬沖で多数の米軍機の攻撃を受けて沈没してから4月7日で78年となります。
戦艦「大和」は1945(昭和20)年4月6日夕、徳山沖から出撃しますが、米軍は旧日本海軍の暗号解読から、大和を旗艦とする第二艦隊10隻の突入作戦を把握。同日午後8時、艦隊が豊後水道を通過する頃には、米潜水艦の追尾を受け、その動向は完全に察知されていました。
翌7日の米空母艦載機との激闘では、対空戦闘中に直撃弾を受けて爆煙と巨大な水柱に包まれる「大和」は、左舷側に傾斜しながらなおも沖縄を目指し、爆発・沈没します。護衛の軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」や駆逐艦も、被弾して炎と煙に包まれてしまいます。
戦艦「大和」は、米海軍との艦隊決戦を想定し、旧日本海軍が技術の粋を集めて建造した巨大戦艦でした。太平洋戦争開戦直後の1941(昭和16)年12月16日に竣工。全長263メートル、最大幅38.9メートル、基準排水量6万5000トン。世界最大の46センチ主砲9門を搭載していました。二号艦の「武蔵」は翌年8月5日竣工しています。
急きょ出撃が決定した沖縄海上特攻で「大和」は、米空母群の艦載機300機以上との2時間にわたる激闘の末、多数の魚雷、爆弾を受けて転覆。前部弾火薬庫の大爆発を起こして海底に沈んでいます。乗組員3332人のうち生存者は276人といわれています。
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