ブログスレッド
- <グーグルロゴ>(153)「ベルリンの壁崩壊30周年」
本日の<グーグルロゴ>は、「)「ベルリンの壁崩壊30周年」です。1989年11月9日、東ドイツ政府の発表した出国の規制緩和案の誤解により、国民がベルリンの壁に殺到し、壁の崩壊が始まりました。この日から数えて30周年となります。
ドイツが「西ドイツ」と「東ドイツ」に分裂したのは、第2次世界大戦時のことです。ドイツは日本やイタリアと枢軸国陣営で、敗戦国となります。
降伏、敗戦後の1945年から1949年にかけて、勝利国である「アメリカ」、「イギリス」、「フランス」、「ソビエト連邦」の4ヶ国によって、ドイツの領土が4つに分割され、それぞれ統治されることになりました。
その後、アメリカを中心とした「資本主義・自由主義陣営」と、ソビエト連邦を中心とした「共産主義・社会主義陣営」との「冷戦」が始まります。
この結果、4ヶ国の統治地域を全て統合して以前の「ドイツ」に戻すということができず、「アメリカ」、「イギリス」、「フランス」が統治していた地区が「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」として「ソビエト連邦」の統治していた地区が「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」として設立されることとなりました。
社会主義側の「東ドイツ」も、戦後発展しましたが、自由主義側の「西ドイツ」は、もっと発展しました。
同じく敗戦国の「日本」も自由主義側の「アメリカ」の統治から独立し、大きく発展しましたので、社会主義側の「東ドイツ」の国民は面白くありません。元は同じドイツだったのに、戦後、「東」と「西」で格差が生じ、「東ドイツ」 から 「西ドイツ」へ移住を希望する人が増えていきます。それを抑止するために「ベルリンの壁」が作られました。
この壁のために、「東ドイツ」の国民は自由に「西ドイツ」に行くことができなくなりました。1989年になると、当時の「ソビエト連邦」で民主化の動きが活発化してきます。
この運動は近隣の社会主義国家に波及し、「東ドイツ」でも、民主化を望むデモ等が行われるようになります。民主化の波に押される形で「東ドイツ」政府は「西ドイツ」への出国の規制緩和を進めていました。
そんなさなかの、「1989年11月9日」、東ドイツの政治家<ギュンター・シャボフスキー>氏が、新しい出国の規制緩和案を勘違いして、以下のように発表してしまいます。
・ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる。
・発行時期は、私の認識では「直ちに、遅滞なく」です。
<ギュンター・シャボフスキー>氏は、出国の規制緩和案の内容を詳しく把握していませんでした。本来は、これまでと比べて、「出国の規制の緩和、手続きの簡略化」が行われ、それが「直ちに、遅滞なく」施行されるという内容でしたが、発表では「規制緩和」が抜け落ち、「直ちに、遅滞なく、出国が認められる。」という文言がクローズアップされ、この発表を、国民は「事実上の出国の自由化」と受け取りました。
その結果、翌日の「11月10日」、出国を求める国民がベルリンの壁に殺到して、壁を壊し始める事態に陥りました。こうしてベルリンの壁が崩壊しました。
壁の崩壊は、東西ドイツの統一の大きな足がかりとなり、翌年の「1990年10月3日」にドイツは統一することになります。
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ