“黒い物体!?!”《襍観 ・/・古往今来316》


一般的には、余り見かけない艦艇だろう(画像)。
横須賀線・横須賀駅脇の公園でしょっちゅう見れる光景。
この辺りもずいぶんと様変わりしたが、
対岸に係留されてる潜水艦は、昔と変わらず定位置に見えた。
日本の潜水艦技術は、高く評価されてるとか!!
向かいの岸壁にみえる潜水艦・・・日米どちらのか??
それ程に日米の関係は蜜なのだろう!!

横須賀線は、軍港のために敷かれた。
それ故か??横須賀駅はゆったりとした広さを持っている。
その昔は、1等・2等・3等車とランクがあった。
それほどVIPな人が使っていたのだろう。


2月12日誌「横須賀線横須賀駅前」

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“段葛”《襍観 ・/・古往今来315》



久し振りに来客を案内して鎌倉の中心部を歩いた。
段葛(だんかずら)が全面改修の為、2016年3月まで通行できない。
画像に見える八幡宮の裏山の緑濃い事。。。!
半世紀前にあそこは、開発されそうになった。が阻止出来た。
感慨深い。新たな段葛になった姿、1年後に報告しましょう。

2月11日誌「鎌倉市・若宮大路」


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“夕陽”《襍観 ・/・古往今来314》



のんびりと散歩をしてると西田幾多郎師の石碑の前に。。。
見上げればやわらかな夕陽が・・・!
PC画面とニラメッコをしてた後だ。ほっとした一瞬であった。

2月10日誌「鎌倉市・稲村ヶ崎」

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“慰霊碑”《襍観 ・/・古往今来313》



夕暮れ迫る稲村ヶ崎に建つ慰霊碑。
1世紀も昔の逗子開成中学校のボート遭難事故の碑である。
1910年1月23日、休日に無断で学校所有のボートを海に出した生徒ら12人。
七里ヶ浜沖で遭難し、全員死亡するという悲惨な事故であった。
追悼法会で鎌倉女学校生徒により「七里ヶ浜の哀歌」が歌われたとある。
この歌は、後に「真白き富士の根」として今なお歌われているので御存知かもしれない。
この石碑は、1964(昭和39)年、東京オリンピックの年に建立された。
記念像の台座に以下の文言が記されている。

≪みぞれまじりの氷雨が降りしきるこの七里ヶ浜の沖合いでボート箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒ら十二名が遭難転覆したのは一九一〇年(明治四十三年)一月二十三日のひるさがりのことでした。
前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は当時世間をさわがせましたがその遺体が発見されるにおよんでさらに世の人々を感動させたのは彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした。
友は友をかばい合い、兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです。
死にのぞんでもなお友を愛しはらからをいつくしむその友愛と犠牲の精神は生きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか。
この像は「真白き富士の嶺」の歌詞とともに永久にその美しく尊い人間愛の精神を賞美するために建立したものです≫


実を言うと、この碑が建立された時より、美談であってはいけないって思ってきました。
「英霊」「悲劇」「美談」。。。一寸疑問に感じます。
先般の異国で起きた事件にしても事の本質を踏まえての論評が少なかった。
同時に、隣国都の諸問題にして然りです。
こんなことを記してる爺!! 偏見・偏屈でありましょうか??
碑の向こうに映る夕焼け、余りにも綺麗。 それだけに何かわびしく感じます「碑」が。


2/09日誌「鎌倉市・稲村ヶ崎」

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“海岸の主!?!”《襍観 ・/・古往今来312》


昔も今も変わらない(ぼくにとっての)海岸の主(鳥)。
精悍な面構えである。
トビ(トンビ)(鳶)(学名:Milvus migrans  英名:Black Kite)
「ピーヒョロロロロ…」という鳴き声。最も身近な猛禽類。
関東でトビ. 関西ではトンビと呼ばれるとか!?!

古い話だが、長男を散歩させるため浜辺の砂浜をよく歩いた。
その頃、海岸で脂身(肉の切り落とし)を撒いていた老女が居られた。
野生の生き物に餌を与えるのはやめましょう、そのうち襲ってきますよ!!
って話をすると、大声で、この人「親切に餌を上げてるのに、ケチをつける」??
周りの人に自分の行為を正当化して居られた。
その後3~4年は、その行為を続けておられたらしい(不在で見ていない)。
その方が餌撒きをやめた(逝去されたらしい)2年後位から、
浜辺付近で観光客の弁当等を急襲する鳶が出てきて、
今や警告文掲示板まである。
動物界での「掟」があることの証だろう。弱肉強食の。。。!
「掟」を破っているのは人間たちである。我々は、真摯に反省すべきだ。

2月8日誌「稲村ヶ崎」

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“広告!!”《襍観 ・/・古往今来311》


最近は、余り人混みの中にいかなくなった。
現役引退すると、こうも自由な気分で歩き回れるものか??
都会に出ても周りを見る余裕がある。
偶然見かけた2階建てバス、車体にある広告!!
2階建てバスも珍しくなくなり、ましてやこんな広告も珍しくない。
半世紀ほど前に西欧の町に初めて降り立った時、
町中を走る路面電車、その側面車体に大きな広告が見えた。
異国、未知なる・・知らない環境にいる実感、
驚きと楽しみが脳裏を交差したのを今でも覚えている。
とおい昔の思い出、感慨ある。


2月7日誌「東京・新宿」

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“春近し!!”《襍観 ・/・古往今来310》


どことなく春をかんじるようになってきた海岸近く。
散歩をしてる人、自転車に乗っている人も軽やかだ。

2月6日誌「片瀬海岸」

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“霊峰!!”《襍観 ・/・古往今来309》

Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29、ポスト印象派(後期印象派)の画家。
タンギー爺さん( Le Pere Tanguy)1887年。

一昨年世界遺産に登録された「富士山」登録に値することは明白だが、
昨今の觀察・検証資料では、「大噴火」が懸念されてる。
自然のちからの凄さを思い知らされている事象、一寸心配だ。
遺産登録に「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」とある。
相模湾中心だが、富士山が見せてくれる表情は、癒やしそのもの。
芸術の源泉か??オランダの画家、フィンセント・ファン・ゴッホの油彩の絵画。
「タンギー爺さん」の画の背景は、日本が占めてるではないか!!
パリのロダン美術館で観た時、我が子が富士山!!ってさけんだ思いでがある。
背景に描かれている浮世絵は東京文京区千駄木の「いせ辰」の版画が基だとか!
背景の浮世絵、、、「ジャポニスム」が当時の欧州の芸術に影響を与えていた。
そんな画人に感化され更なる芸術を生み出した「板画」。
巨匠棟方志功師は、富士山が好きで鎌倉山のアトリエ先から遠望され??
「つよいですねぇ、かてない」って語って居られた。
師は、晩年視力が極度に落ちていて心の中で見て居られたか。



2月5日誌「富士山」

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“霊樹!!”《襍観 ・/・古往今来308》

宝城坊境内の霊樹に収まる虚空蔵菩薩小堂。
門番の丑・寅。


「神奈川の屋根」と呼ばれる丹沢山地、県土面積の約6分の1を占める山塊。
山岳信仰(山伏)の修験道場でもある(現在でも修験者は居り修験道もある)。
中でも登山・観光として名を馳せている「大山(おおやま)」。
その麓の名刹「宝城坊さん」、正しくは、高野山真言宗日向山宝城坊日向薬師。
奈良時代初頭の霊亀2年(西暦716年)、僧行基により開山された。
僧「行基」が熊野を旅していた際、薬師如来のお告げで、
相模国(現在の伊勢原市)に、日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)を開山。
本尊、薬師瑠璃光如来(鉈彫り国重文)真言「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」。
奈良時代に盛んになり、全国に広がっていった「薬師信仰」。
薬師如来は、東方瑠璃山(とうほうるりせん)に在って現世のご利益を願う尊(ほとけ)。
日向山霊山寺は、勅願寺とされていたが民衆の篤い信仰を受け今日まで法燈が受け継がれてきた。
人々の心の安らぎ、和やかさ、健やかさのご加護を願う尊(ほとけ)として信仰を篤くしている。
日向薬師としての歴史はふるく、鎌倉期には将軍頼朝や北条政子も参詣しているとある(吾妻鏡)。
この名刹ヘは、若い頃文化財等の収集と記録保存で参加させて頂いていた。
本堂の裏手より30分ほど登った所に洞穴があり、日向薬師奥の院と称されていた。
奥の院にまっすぐ上がる道は、現在通行禁止になっている。
以前は、この奥の院(洞穴の奥)に虚空蔵(こくうぞう)菩薩が祀られていたが、
現在は本堂脇の霊樹のなかに祀られている。以前にも増して霊験あらたかになった!
虚空蔵菩薩は、丑・寅年生まれの人の守り本尊とされ牛・虎一対の像が社の入り口を守っている。 
「虚空蔵」とは、アーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、
広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味。
そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。
その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、
これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。
京都嵐山の法輪寺では、13歳の少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かる「十三詣り」なる行事が行われている。


***ウィキペディア***より引用。
近世の地誌『新編相模風土記稿』によれば、近世の日向薬師には別当坊の宝城坊を含め13坊があり、それ以外にすでに廃絶した坊もいくつかあったと記載されていることから、往時の規模がしのばれる。また、山内には七所権現社や東照宮などがあり、神仏習合の信仰が行われていた。
明治時代初期の廃仏毀釈によって多くの坊舎が失われ、本堂(薬師堂)、鐘堂、仁王門などをわずかに残すのみとなった。現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊が寺籍を継いでいる(別当坊とは、山内の最高位の僧が住む坊のこと)。21世紀の現在も「日向薬師」として病気平癒、特に眼病に霊験ありとして信仰を集める。また、山内の自然環境が良好に保持されていることから、ハイキングコース、健康保持増進や心の安らぎの場として人気を集めている。



2月4日誌「丹沢山地・宝城坊」


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“庚申塔”《襍観 ・/・古往今来307》


 今時、「庚申(コウシン)信仰、庚申さん」等と言ってもピンと来ないだろう。
信仰の由来を語れば長くなる、で略。
簡単に言えば道端信仰で、江戸期にはかなり盛んであったらしい。
“庚申”干支(エト)でいう“カノエサル”、60年周期で巡ってくる。
それ故、還暦・・めでたい日でもあった。
今でも様々な所で石仏として目にすることはあるだろう。
集落の外れ、街道沿い等々、道しるべでもあったと思える。
山懐・裾の奥深くにも存在する。
おもしろいことに、石仏の碑文等を見ると、神仏混交であったことが伺える。
庚申信仰の礼拝対象、仏教では『青面金剛』、神道系は『猿田彦』。
こんな名称が使われている。どちらにしても「猿」が楽しい。
遊び心と猿・・信仰!?!チョット不謹慎か?

2月3日誌「丹沢山地・日向裏道」
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