3月
27日,
2024年
《 雅羅・/・襍囈〝備忘録 '24-9〟❖ ’24-87❖ 》
《 里山緑地で探したい樹、冬芽〝3月花XX〟》
ミヤマガマズミ(深山莢蒾);(花期は5〜6月)
ミヤマガマズミ(深山莢蒾);(花期は5〜6月)
北海道〜九州(日本海側)の山地の樹林内や林縁に生える。
よく分枝して茂り、高さ5mほどになり、灰褐色樹皮。若い枝は紫褐色。
葉は対生、葉身は倒卵形〜広倒卵形。
先は急に細くなってとがり、基部は広いくさび形〜円形〜切形。
縁には浅い三角形の鋸歯があり表面は、無毛か、長い毛を散生する。
裏面は脈に沿って長い毛があり、脈腋には星状毛の毛叢がある。
裏面全体に腺点。葉柄は赤みを帯び、長毛が少し生え、托葉はない。
茎頂に幅6~10㎝の散房花序を出し、白色の花を多数つける。
花序軸には長毛があり、まばらに星状毛がある。花冠は、先が5裂する。
雄蕊5個花冠より長くつきでる。花柱1個でごく短い。萼片は5個、ごく小さい。
果実は、広卵形の核果で9~10月頃に赤く熟す。核は、卵円形で5個の稜がある。
* * *
冬芽は、長さ5〜7mmの卵形。芽鱗は2対あり、外側の1対は小さい。
冬芽は、長さ5〜7mmの卵形。芽鱗は2対あり、外側の1対は小さい。
表面は無毛または粗い毛が生える。
* * *
コバノガマズミは毛が多く、葉の幅が狭く、托葉がある。
オトコヨウズメは、コバノガマズミに似て、葉の幅が狭く、托葉がない。
ガマズミは毛が多く、葉の幅が広く、葉先がややにぶい。
オトコヨウズメは、コバノガマズミに似て、葉の幅が狭く、托葉がない。
ガマズミは毛が多く、葉の幅が広く、葉先がややにぶい。
*** 以上は、自宅のメモから抜粋 ***
「令和陸年(皇紀2684年)3月27日、記」
3月
25日,
2024年
《 雅羅・/・襍囈〝備忘録 '24-7〟❖ ’24-85❖ 》
《里山緑地に見られるだろう野草だが、小さい。〝3月花XVIII〟》
カテンソウ(花点草);
本州~四国~九州に分布、山野の木陰に群生する多年草。
カテンソウ(花点草);
本州~四国~九州に分布、山野の木陰に群生する多年草。
4~5月頃開花、雄花・雌花を同じ株につける(雌雄同株)。
雄花は葉腋から長い柄を伸ばし、その先につくので目立つ。
雌花は葉腋のところにかたまってつくので目立たない。
雄蕊は1本ずつ順番に外側へはじけ、その勢いで花粉を飛ばす。
名前の由来は「花が小さく点のようだから」等々諸説ある。
山地や丘陵地の日陰、湿った林床に見えるようだが、自生地は限定的。
神奈川・三浦半島にも群生している所はあるが、最近は出会っていない。
昔、鎌倉の浄智寺谷戸で群落を見た。かつて鎌倉が緑濃かった証だろう。
茎高は10〜30cm、多少の上向きの毛がある。
葉は互生、葉身は扇状卵形で先は円い。
葉の縁に4〜8対の深い鈍歯牙があり、基部は切形。
葉柄は葉身より少し長いか同長。托葉は小型の卵形で長さ1〜2mmと小さい。
花は上部の葉腋に付く。雄花は、集散状で葉よりも長い柄があって目立つ。
雌花は、頭状でほとんど無柄のため目立たない。
雄花の花弁は5枚。雄蕊は5個。
雄蕊は、内側に曲がる花糸状で次々に伸び葯が破れ花粉を散らす。
雌花の花弁は4枚、披針形で薄紅色。
花弁の先端に1個の小剛毛があり、外側のものは背面に竜骨がある。
雄花、雌花、いずれも小さく数ミリ。肉眼では、構造が分らない。
*** 以上、手持ち資料・メモから ***
「令和陸年(皇紀2684年)3月25日、記」
3月
22日,
2024年
《 雅羅・/・ 襍魂〝壹佰壹歳〟❖ ’24-82❖ 》
《 知人の誕生した年“関東大震災” 》
1923年(大正12年)9月1日11時58分頃、
神奈川県西部から相模湾にかけてを震源とする
マグニチュード7.9の関東大震災が発生した。
死者・行方不明者100,000人以上、
死者・行方不明者100,000人以上、
全壊家屋100,000棟以上にのぼった。
近代日本において首都圏を襲った最大規模の震災。
建物の倒壊に加え、地震発生が昼食時だったことで、
大規模な火災も発生し被害を拡大させた、と記録にある。
1960年(昭和35年)にこの9月1日を「防災の日」に制定。
地震・台風の来襲等を踏まえて防災訓練の啓蒙をおこなっている。
* * *
もう一世紀を以ってしまった、関東大震災から。
そんな未曾有の震災があった日の1ヶ月後に誕生された知人。
ご主人は、作家の故神吉拓郎さん。葉山で我が妻がお世話になったご夫妻。
前の東京オリンピックの後、1970年代始めの頃からのお付き合い(我が妻)。
夏の葉山~秋谷の海岸は、若者達の町と化していた’70年代。
葉山は、御用邸ある町として知られていたが良き海岸町である。
僕個人としても、葉山は思い出が沢山ある場所だ。
当時、まだ一般的ではなかった“彫金”を妻(当時大学生)が習っていた。
その彫金の先生が、神吉夫人(当時神吉夫妻は葉山に住まわれていた)。
以来、半世紀に渡って色々とご指導頂きお世話になった。
夫人と我が妻は、親しく親しくお付き合いさせて頂いていた。
拓郎さんは、60代なかばで天星されてしまった(早逝に絶句だった)。
夫人は、お元気で百歳を以っても意気軒高だった。
コロナ禍で、お祝いごとは伸ばし今年のお花見を計画していたのだが・・。
3月22日昼前に天星された。余りにも突然のことで言葉を持てない。
生前のご厚情に感謝、深くこうべをたれたい。
大正人、身近には居なくなってしまった。寂しい限り。
関東大震災の年に誕生、能登大震災の年に逝去されたが・・・。
夫人の人生は、実に優美に過ごされた、と感慨を持つ。
深く哀悼の意を、 合掌。
「令和陸年(皇紀2684年)3月22日、記」