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ヘブル書聖書研究:4:1-11 「安息に進みなさい」

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ホサナキリスト教会HPから
http://hosannamin.org/jpn/page/home

ヘブル 4:1 こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
3 信じた私たちは安息に入るのです。 「わたしは、怒りをもって誓ったように、 決して彼らをわたしの安息に入らせない。」 と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。
5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。
6 こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、
7 神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、 「きょう、もし御声を聞くならば、 あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」 と語られたのです。
8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
10 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
11 ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。


「安息」…これは何とも得難い財産ではないでしょうか。
「平安」と言い換えた方がより一般的で分かりやすいかもしれません。
それはどんなにお金を出しても買うことができず、どれだけ高い地位についたからといっても得られるものでもありません。
今回の聖書箇所は、神様が私たちに安息を約束してくださっていることを教えています。

3章と4章に多くの安息ということばが出てきますが、このギリシャ語には二つの異なる言葉が使われています。
❶katapausinー行動の停止を意味する言葉です。
本書に9回使われていますが(3:11,18; 4:1,3(2回),5,8,10,11)、それ以外は新約聖書に1回出てくるだけのことば(使徒14:18)です。
なお、新改訳聖書では、3:19,4:6も「安息」と訳していますが原語にはなくて代名詞(it)が使われているに過ぎません。

❷sabbatismos(4:9)ー安息日の祭り、祝福を意味していて聖書全巻でここだけに使われていることばです。
日常の活動を停止することよりもむしろ、人生を支えている主なる神を誉め歌い、妨げられないもとでの祝いの機会を意味します。

これら「安息」が10回(代名詞を含めると12回)使用されている聖句を注意深く見てみると面白いことに気づきます。
その安息が何を意味するかで、動詞の時制が変わってくるのです。
3つの異なる時制が、それぞれ異なる安息を意味しています。

❶過去時制(アオリスト)の時には、個人的で霊的な救いを意味しています。
❷未来時制の時には、天の(メシア)王国を意味しています。
❸現在時制の時には、霊的な成熟を意味しています。

4:1
カデシュバルネアの先祖達のように、この手紙の読者たちには「神の安息に入るための約束はまだ残っているのです。」
この安息は救いではありません。読者達はすでに信者となった人たちです(3:1)。また将来の天にある王国でもありません。危急の迫害下にあって将来を論じても無益ですし、カデシュのイスラエル人の目前に横たわる約束の国のひな形は将来のメシア王国ではないのです。
これは現在所有できる信仰(生活)の安息を意味します。主を信じて従うものに楽しむようにと約束されている祝福です。

4:3
「わたしの安息」、つまり神様の安息ですからこれは天地創造のときの安息です。神様が創造の6日間働かれて、次の日に休息を楽しまれました。
「信じた私たちは」…これは過去時制であり著者と読者を言及。そして「安息に入るのです」と現在時制に変更してます。彼らは霊的な安息に入りつつあるのです。すでに信じたのですから、この創造の安息に入るのを始めたのです。進行形です。だからユダヤ人信者はこの安息が提供する楽しみを味わい尽くすために、信仰を発揮し続けなくてはならないのです。

4:4
創世記2:2から引用して創造の安息について教えているこのところは、仕事が完成した、という点を表しています。これはメシアの働きによって贖いの安息が完成したひな形となります。また信者にとってもやがての将来、地上での働きを終えて天の御国に帰ったら、この「創造の安息」を体験するのです。

4:5
ここでの安息は地理的な救いの意味です。ヨシュアによって導き入れられる約束の国のことです。そこではこれまでのような奴隷生活でも放浪生活でもなく、安定した自由の民としての定住生活があり、それを「安息」と呼んでいます。

4:6-7
ここでは適応しているのを見ます。
出エジプトの世代は安息に入ることになっていたにもかかわらず、失敗しました。でも神様は御自分の目的を放棄されないのです。そこでもう一つの招きを始めたのがダビデによる詩篇95篇で、それが「きょう」という日に備えられている安息に入るよう進めたものです。そこへは信仰によって入るものです。イスラエルは不信仰と不従順により入れなかった。にもかかわらずに神は再び招いている、それはあなた方を招いている、というのです。
信仰により霊的な成熟の安息へ入るようにとの招きです。

「きょう」が幾度も強調されているのには理由があります。
この招きに直ちに応じなくてはならないのです。かつてカデシュバルネアが先祖達の限られた応答期限でした。読者にとり応答期限はAD70年です。もしかするとその当時、AD66年のユダヤ戦争がすでに始まっていたかも知れません。エルサレムがローマ軍によって包囲されつつあったかもしれません。本書がしばしば一度だけの、然も確固とした決断をして信仰の成熟段階に進むように読者を励ましているのは、そのような背景があります。撤回できない段階、回帰不能点に到達する前に前進しなくてはならないのです。

4:8
ここでは、現在神から提供されている安息は有効であるということです。なぜならヨシュアがイスラエルの子らに与えたのは成熟の安息でなかったからです。ヨシュアは敵からの安息を彼らに与えました(ヨシュア21:44,22:4,23:1)が、信仰により与えられる成熟の安息ではありません。
それはメシアによってのみ与えられる安息です。

4:9
先述してあるようにこの「安息」は、新約聖書でここだけに出現しているsabbatismosという語句です。祝祭的な意味を持ち、創造の7日目に起源を持ったものです。理想的な安息であり、神により備えられていて、きょう、信仰により所有できるものです。それは神の目的を十分に満たした後に獲得できるある特定のステージに達したことを意味します。
「ホーリネス」とか、「きよめ」とか言う神学的な言葉で表現されるものです。
神様は6日間で働きを終えられ、安息に入られました。その安息は霊的な成熟のタイプなのです。原始的にイスラエルのために定められたものです(出エジプト20:8-11)が、そのシンボルとしての意味は、イスラエル人でも異邦人でも、信仰者のために残されています。すべての信仰者にとって可能な安息なのです。もし信者が信仰を貫き通して、霊的な成熟に達するなら、基本的な教えの事柄の中でジタバタ・あたふたすることのない段階です。

4:10-11
これもまた信仰によって入った者の安息について教えています。
その者は神が御自分の業を終えて休まれたように、休止する(この節にあるkatapausinの意味)はずだと言うのです。自分の努力や働きに頼るのでなく、神が安息段階に導いてくださることを全面的に信頼する姿勢。
11節にある「この安息に入るよう力を尽くして努め」という語句の強調点は安息の将来的な側面にあります。それはイスラエル民族にとっては王国であり、個々の信者にとっては天国です。しかし同時に、信者がたった今ここで経験できることでもあります。
10節の「入った者ならば」ーアオリスト時制(完了した過去形)ですので、すでにある人々が霊的な安息に入り豊かな信仰生活を享受していることを表しています。その霊的な安息は、神様が備えられた安息を信仰により受け取ることから始まります。信者は現在の安息に入るのも、将来の安息に入るのにも、共通して神により頼まなくてはならないのです。
#救済

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坂の上の霧

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観光地のひとつ。この家も坂に建... 観光地のひとつ。この家も坂に建っています。 カトリック教会のカセドロウ。 カトリック教会のカセドロウ。 金融街の入り口に聳えています。 金融街の入り口に聳えています。
サンフランシスコは坂の街です。
かなりの遠隔地まで起伏に富んでいる地形です。

長所は坂の上に立つと見晴らしが良いことです。ブロードウエイとフィルモアあたりから水上に浮かぶ白いセールボートが湾に浮かんでいる様子は、どの角度から見ても絵となります。そこから左に向くとゴールデンゲイト・ブリッジです。夕方となると橋桁の上半分は濃い霧に包まれます。時にその丘の上でも霧に覆われることもあります。そんな時は「坂の上の霧」です。

短所は坂道に駐車する際に前輪タイヤを進行方向左側(下り坂の場合。上りでは逆の右側に切ります)に大きく切らなくてはいけないことです。これを知らずに、違反切符を2回ほど頂いてしまいました( ̄▽ ̄)
#旅行

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全身が凍てつきましたが、次の瞬間…

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サクラメントからサンフランシスコに移動途上でBeniciaという町に寄りました。ここにも友人たちが私を待っていてくれます。

その町のインド料理のレストランで夕食。
食事を終えて路上駐車した車に戻った時、私の体も思考も凍りつきました。車のトランクが開いたままなのです。
おそらくロックするつもりでトランクボタンを押してしまい、そのままレストランへと立ち去ったのでしょう。

黒い幾つものトランクケースやPCのブリーフケースがむき出しのまま、暗闇の町に1時間ほどもさらされていたのです。
にもかかわらずに、すべて無事でした。

ありがたいことです。
主よ。今日もお守りくださり感謝します。

「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
   あなたの命を守られる。
   主はあなたを、行くにも帰るにも、
   今よりとこしえまでも守られる。」
                                         詩篇121:8
#旅行

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ヘブル書3章の学びです

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3:16-19「荒野放浪からのレッスン」
ホサナキリスト教会での聖書研究です。
http://hosannamin.org/jpn/page/home

3つの質問を投げかけることにより読者にレッスンを与えています。

①「み怒りを引き起こしたのは誰か」
それは「モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではないか。」
彼らは神に助けられて奴隷状態からの解放を受け、約束を信じて出発したのでした。その彼らが不信仰に陥ったため、約束の国を失い、安息を失ったのです。

②「罪を犯したのは誰か」
み怒りを引き起こした者たちと同じ者たちです。彼らは罪を犯し、その結果を刈り取らねばならなかったのです。その罪とは1回きりのものではなく、40年間何度も継続されたもの、不信仰の現れであったのです。
結果とはしかばねを荒野にさらすこと、つまり肉体的な死のさばきを受けたのです。彼ら全てが霊的な死を遂げたと考えるのは不自然です。
モーセも罪を犯したゆえに約束の国に入れず肉体の死をさばきとして受けています。でも霊的な死、つまり救いを失ったと考えるのは妥当でありません。変貌山で主イエスと会っていること(マタイ17:3)からして、彼が神の前を生きていたことを疑う人はいないでしょう。同様に大祭司のアロンやミリアムもまた約束の国に入れずに死を迎えますが、救いを失ったわけでありません。その他にも大勢の人が霊的には生かされつつも、さばきとしての肉体の死を遂げたのです。
本へブル書では、一貫して神の信者にもたらすさばきとは肉体的なものであり、救いを取り去るものではないことを教えています。

③「安息に入れないと言われたのは誰か」
ここでの安息とは約束の国のことであり、それはこれまで見てきた全く同じグループの人たちと重なります。不従順により、安息の祝福を失ってしまったのです。
ただ、イスラエルは贖われた民としてステータスを失ってはいないことに留意しなくてはなりません。罪を犯したからと言ってエジプトに帰って奴隷に戻ってはいないのです。彼らは尚も贖われた、選びの民なのです。にもかかわらずに、約束の国での安息の祝福には漏れてしまいました。

 出エジプト世代の人々は信仰に踏み止まらなかったため、約束の国にはいれなかったのです。3つの段階を経てさばきを招いたと言えます。
第一に、不信仰に陥った。
第二に、その不信仰が不従順を招いた。
第三に、その不従順がカデシュバルネアでの罪を誘発したのです。
それは撤回できないさばきをもたらし、40年間の荒野での彷徨による肉体の死に繫がったのです。

このへブル書が書かれた世代と共通する点があります。
メシアが十字架で死なれて(AD30)から、この時ですでに40年近くが経とうとしているのです。40年後とはAD70であり、それはローマによるエルサレムの崩壊とユダヤ人の大虐殺が神のさばきとして今や起ころうとしていた時でした。
もし当時の読者たちがユダヤ教に逆戻りしてしまうなら、そのローマ帝国を神が道具として用いるさばきによって彼らは肉体の死を受けねばならないのです。

AD66にローマ帝国の将軍ヴェスバシアヌスによりエルサレムは完全包囲されます。AD68に皇帝ネロは自殺。するとヴェスバシアヌスは包囲を解いてローマに帰国し、政変に乗じて自らが皇帝に即位します。
その時、主イエスの次の言葉を守ったメシアニックジューは全てエルサレムから逃れることができました。

20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都に入ってはいけません。
22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
23 その日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
(ルカ21:20-24 )

やがてAD70年、ティトスが将軍として再び遣わされるとエルサレムは陥落し徹底的に破壊され尽くされます。城壁内の全ての住民は虐殺されたのでした。その数は百万人とも言われます。主の警告のことばに従わないところからのさばきとなりました。


#ブログ

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MIKUNIとは御国のことです

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賑わいを見せるMikuni R... 賑わいを見せるMikuni Roseville店 2階のあるMikuni ダウン... 2階のあるMikuni ダウンタウン店
サクラメントに来たら見逃してならない寿司屋を紹介しましょう。

MIKUNI レストランです。

荒井牧師ご夫妻が渡米されてサクラメントの日本語教会に赴任して見たもの、少ない会員数の教会からは家族5人を支える謝儀がでません。
そこで仕方なく寿司屋を細々と始められたのがきっかけでした。

お二人のご子息がそのお店を事業として受け継がれてから大ブレーク。
寿司を握りながら米国人の舌にマッチした巻き寿司を次々と考案。
クリームチーズまでネタに使い、寿司の常識を覆す型破りなレシピを創出して行きます。そのようにして生み出されたオリジナル巻き寿司の種類は百を超えます。

メニューブックにある百以上の商品から一つを選ぶのは至難の業。
お勧めは? と聞いてカウンターの向こうのシェフから帰ってきた答えが「ジャパニーズ・マフィア・ロール」。
以後私のお気に入りとなりました。

消費者の選ぶ「サクラメントのベスト日本食レストラン」に毎年連続して選ばれ続けています。
わずか十数年間で8を超えるチェーン店をサクラメントに展開するまでに成長されておられます。

この日も入店するなり、「いらっしゃいーまーせー」と全従業員が声を揃えて独特な哀調を帯びた呼び声で歓迎してくます。
請求書を頼んだ時には「おーあーいそー」( ´ ▽ ` )ノ

カウンターに立っているシェフの方々は日本人の顔はされていますが、私のジャパニーズ・イングリッシュを解せないほどに完璧な米国人です。次回くる時は醤油を何と呼んでいるのか探ってみようか知らん。

あっ、味のほどですか?
もちろん申し分ないほどGoodでしたo(^▽^)o
#グルメ #バー #レストラン

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和洋折衷

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サーフィンに乗る相撲取り。 サーフィンに乗る相撲取り。 モトクロスの侍、こういった発想... モトクロスの侍、こういった発想は西海岸ならではのもの。
カルフォニアは寿司が浸透した場所です。

最初に渡米した寿司職人が作った海苔巻きを見た米国人は、「何それ?( ̄^ ̄)」
米国人の目には「ブラックペーパーが巻きついている」ものにしか映らなかったそうです。
そこで海苔を内側に巻き込ませ、ライスを外側にもってくるカリフォルニア・ロールが誕生しました。
和洋折衷と言いますか、米国型アンパンと言いますか、、

この日訪れた寿司屋では、壁にある絵まで和洋折衷でした。
さすがカリフォルニアン!
#ブログ

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長男と討論して負けてしまいました

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 今朝も長男を学校まで送っていく。
最近、彼は私に送ってもらうのをひどく嫌うようになった。
その理由を論理立てて列挙し、審査役の母親から勝敗の判定を仰ぐゲームを何度繰り返したことか。
大統領選挙のTV討論会を見て真似るようになった。

「ダディに送ってもらいたくない、その論拠は3つあるんだ。まずその第一は、、、、、」そう威勢良く切り出してからも蕩々としたスピーチが続く。

❶歩きながらダディは歌を歌い出すんだ! 恥ずかしい!

❷松ぼっくりをキックするが、うまく蹴らないで横にそらすか空振りする。遊び相手にもならない。

❸tornado creation (ninjago に出て来る必殺技) を真似るが、回転中に転落して尻もちをついたんだ。恥ずかしい。

それぞれに私にも反論があり、討論する。
だが視聴者(家内)による判定は、長男に軍配。

今朝もこの3点は御法度との約束をさせられた上で同行を許可していただいた。
#受験 #外国語 #学校 #教育 #科学

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野良猫軍団の快走

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野良猫軍団の快走
カナダから帰宅すると、大仕事が待っていました。

週末、子供たちのサッカー観戦です。
何度見てもつくづくと感じるのは、国土が広いっていいことだなぁ、ってことです。
いつも彼らは芝生の上のサッカー専用グランドでプレーしています。
そのグランドは多くの場合、週末しか利用されていません。

日本の事情と比較して、なんとも恵まれている子供たちよ。
われわれの時は埃の舞う凸凹のグランド。しかも空いているときはほとんどなく、他者との共存がいつも頭痛の種でした。

そのためでしょうか、彼らは実にのびのびとプレーしています。
観戦している親たちからは絶えず励ましのエールをもらい、お互いも支えあっていて、見ていて楽しそう。誰が下手とか、上手いとか、そんなこと気にしている様子なく楽しんでます。

長女のチーム名はWild Catsと言いますが、無理に訳せば「野良猫軍団」となるでしょうか。この日の試合にも3-1で快勝して、さらに爪を研ぎました。

かわいさとたくましさをあわせ持った猫たちです。
#スポーツ

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米国とカナダの違い

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バラード通りにあるキリスト教会 バラード通りにあるキリスト教会 ダウンタウンペンダー通りにある... ダウンタウンペンダー通りにある中国人街
カナダとの国境を越え、USに戻ってきました。

安堵感。
同じ西洋の英語圏の国、距離にしても数時間しか離れていないのに、カナダと米国は大変違います。

う~ん、同違うのかうまく説明できないのですが、文化が似て異なります。

①先ず、人種・民族構成からして違います。シアトルでは良く見かけるメキシコ系、アフリカ系の方々をバンクーバーで見かけることはめったにありません。彼らへの移民政策が厳しいのでしょう。それに対して中国系が圧倒的に多いのがバンクーバー。しかもリッチモンドという街は、中国の国かと思うほど中国語の看板で埋め尽くされた街です。

②交通事情も違います。バンクーバーとその郊外は渋滞が多いです。都市部に住居と産業がシアトルよりもよほど集中しているように見受けられます。その周囲に見事で広大な自然があるのに、なぜバンクーバーの皆さんは広がって住まないのでしょう?おかげでダウンタウンの不動産価格は停滞の米国を尻目に今も上昇中。
さらにすぐ気づくのは、制限速度に変わりなくとも車幅がカナダは狭いです。国境を越えUSに入ると、気持ちに余裕を持って走れます。
あと、黄色信号から赤信号への変更時間が短い。そのため、これまで2回も赤信号違反で反則チケットをいただいちゃいました。米国のタイミングなら違反にならなかったはずです。これもカナダ社会への貢献だと思ってあきらめましたが、$160は痛すぎます。

③言葉も違います。同じ英語です。でもカナダはブリティッシュ・イングリッシュが生きています。トイレをUSでは Restroomと呼ぶのに対して、カナダでは Washroomとなります。Center は Centreとなります。ATMでの第二外国語のチョイスがUSではスペイン語なのに、カナダではフランス語です。レストランで食事するとカード支払いのチップは米国のレシート書き込み型に対して、カナダではターミナルに客が直接キーインします。これは広く行き渡っていて、どのレストランでも同じようなターミナルを使っていました。それも英語でなく、フランス語での表示。NONというフランス語だけ意味が分かりましたので、何とか自力で決済できました。

④政治的規範も違います。バンクーバーはよりリベラルです。同性愛者の司祭があちこちに登場した聖公会ではその問題で真っ二つに分裂しました。米国ではシアトルがリベラルで知られており、今回の大統領選でも民主党が優勢となるはずですが、さらにその先を行ってしまっています。南部バイブルベルトの家庭では師弟をカナダに留学させたくないでしょう。

もう15年も住んでいる米国の水が私には合っています。
国境を越えるとホッとしてしまいます。
#旅行

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「回帰不能点に到達する前に」

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{ホサナキリスト教会でのへブル書聖書研究からの引用です}
http://www.hosannamin.org/jpn/page/home


へブル3:7~11

7 ですから、聖霊が言われるとおりです。 「きょう、もし御声を聞くならば、
8 荒野での試みの日に 御怒りを引き起こしたときのように、 心をかたくなにしてはならない。
9 あなたがたの父祖たちは、 そこでわたしを試みて証拠を求め、 四十年の間、わたしのわざを見た。
10 だから、わたしはその時代を憤って言った。 彼らは常に心が迷い、 わたしの道を悟らなかった。
11 わたしは、怒りをもって誓ったように、 決して彼らをわたしの安息に入らせない。」

不従順の危険に対する警告ーその2回目(3:7-4:13)

①旧約聖書からのレッスン(3:7-11)

 この聖句は聖霊によって書かれた詩篇95:7-11からの引用で、エジプトを脱出したイスラエルの民が神の「み怒り」を引き起こしたような過ちをしないように警告されています。
ギリシア語の「み怒り」は、新約聖書全体で3回だけしか使われてなく、そのすべてがこの3章にあります(8,15,16)。
モーセはイスラエルの子たちが10度も不従順を重ねたと記録してますが(民数14:22)、この「み怒り」を引き起こしたカデシュバルネアという場所は他とは違うターニングポイントとなったのです。

 9節の荒野をさまよった「40年間」とは、読者にとり重要な意味を持ちます。それは主の十字架からすでに40年が過ぎようとしている時に本書が書かれたからです。
神は出エジプト世代の者たちを「常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった」としていかられたのです。著者と同世代の者たちと並行させた書き方です。
その神の怒りの結果は「決して彼らを安息に入らせない」(11)、つまり約束の国カナンには誰もが入れなくなりました。入れたのは子供たちと信仰を貫いたヨシュアとカレブのみなのです。

  「約束の国」とは、英語圏の讃美歌では死後に行く天国であると多くの場合歌われてきました。しかし聖書的にはそこは「安息の国」であると理解されるべきものです。
イスラエルの民は、エジプトでの奴隷状態から贖い出されたにもかかわらずに約束の国での祝福を受けることに失敗しました。信仰に踏み止まらずに不従順を続けたからです。
カナン安息を失ったということです。それはきよめられた者が与る安息であると旧約聖書からも教えられているものです(申命記1:34-36,12:9-10)。
その安息とは、神の力に、貴方の心も思いも意思も全てを従わせることから来るもので、罪を征服させるものです。ヨシュアは民を約束の国に導いた時、先住民を征服して安息を彼らに与えました。それがモチーフとされて霊的なレッスンが語られるのです。

 ただそのカナン入国世代は出エジプト世代とは異なります。
入れたのは荒野で産まれた新しい世代なのです。
一度贖われた民であっても信仰に留まらないなら、楽しめたはずであろう祝福を失うことがあります。不従順の出エジプト世代は失敗の後に悔い改め、神から赦されていると明瞭です(民数14:20)。
しかしながら肉体的な結果を刈り取らねばならなかったのです。
この点が、本書の十字架の40年後世代に適応されている点です。
彼らは回帰不能点に到達し、肉体の死を招く危険にさらされている状態だと指摘されているのです。

 一度回帰不能点に到達したなら神のさばきを受けなくてはならないというのが聖書の原理です。
そのさばきは肉体的なもので、霊的なものではありません。つまり救いを失うことではないのです。民数14:20で人々が悔い改め、神が罪を赦されたとあります。個人の救いまでは影響力を及ばせずとも、肉体の死という結果を払わなくてはならなかったのです。
回 帰不能点に達したなら、どれだけ熱心に悔い改めようとも肉体的なさばきを逃れることはできません。モーセでさえもこの点から漏れることはなかったのです。 彼はたった一つの罪によって約束の国の外で死ななくてはならなかった。彼の救いが取り去られたわけでないのですが、肉体の裁きを刈り取ったのでした。

 不従順の結果は永遠の救いを失うことではなく、一時的で肉体的なさばきを招きます。それは肉体の死であり、本来楽しめたはずの祝福を経験できないことにあります。
#救済

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