中学校の長女の終業式。
「式」というには語弊がある。
日本のように神妙に校長先生の訓示を伺い 、
各クラスに帰ったあと、担任から通知表を受け取って
そのあと桜餅を食べて、、、、
こうした日本の習慣が懐かしい。
この国では
エンターテイナーにふんした教師が先ず壇上に立って
「どーしたことか。
予定の司会者が見つからないんだ。」
そんな見え透いた寸劇をしては
会場内に笑を誘う。
それで渋滞に巻き込まれた事になっている
司会者達8名ほどにバトンタッチしたあとは、
タレントショウが始まる。
完全なエンターテイメント( ^ω^ )
長女のバンドはトップバッターで登場。
このバンド練習を毎週友人宅で繰り返し、
昨夜は泊まり込んでの猛練習であったようだ。
楽しまなければ進級もできない、
そんな雰囲気のシアトルガールズ中学生白書であった。
イスラエル内務相は、テルアビブのスーパーなどの安息日(土曜日)の営業を禁じることを決定した。「安息日には休むべきというイスラエル国家の方向性に準じたもので、特別なものではない」と同相は述べているが、この決定は大きな波紋を呼んでいる。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/4455177
「主人から全財産を任される僕」
マタイ24章45~51節
~マタイ福音書連続講解説教77~
大艱難時代前に教会は携挙されることを先週確認しました。
1.そのとき信者は復活の体を与えられ
2.空中に引き上げられて主イエスと会い、天に凱旋する
① 二人の僕のたとえ話
ここから携挙に対する信者としての心構えを学ぼう。
1) 「忠実な思慮深いしもべ」(45~47)
1.主人に仕事を依頼され、きちんとそれをこなしている
2.主人が帰ってきたとき(携挙)もその忠実さを維持
3.主人は全財産を彼に任せる
4.主人の帰りとその言葉とを信じた僕=信者
2) 「悪いしもべ」(48~51)
1.仕事を放り出して遊んでいる
2.主人は思いがけないときに帰ってくる
3.厳しい断罪と報いとが待っている
4.主人の帰りもその言葉も信ぜず、主人への愛もなし=不信者
ここで大切なことは、「忠実な思慮深いしもべ」とは誰で、
「悪いしもべ」とは誰を意味しているのか、という点でありましょう。
それはしばしば
「まじめに教会の働きに参与・貢献している信者」
VS
「信じてはいても、伝道や教会への協力の少ない人」
というように区別・理解されてきたように思われる。
本当にそのわけ方で良いのであろうか?
聖書を理解するときには、
その用語が聖書の他の箇所でどのように通常用いられているかに
留意せねばならない。
「悪い」という形容詞は常に神に逆らう不信者に付けられているもので、
信者に形容された例はない。
これらは、不信者と信者との対比である。
② メシアの裁きの御座
「人の子の前に立つ」(ルカ21:36)とは、
携挙の後に天に引き上げられた信者が
イエス様の前に立って裁きを受けることを教えたものである。
その裁きのその特徴とは、
1.目に見えない教会=信者が裁きの対象
2.信仰の働きに応じた裁きが下される
3罪に定める裁きではなく、報酬を決定する評価である
4.信者が罪に定められることはない~ローマ8:1
その裁きの基準については、
1コリント3:10~15に詳しく教えられている。
1)「土台(イエス様)の上にどのような建物を建てたか」で計られる
A.土台とは主イエスである
B.信者となった後の、救いをいただいた上での信仰の働きが問われる
2)裁きで問われること
A.金、銀、宝石で家を建てたのか?
B.木、草、わらで家を建てたのか?
建設の大きさ(量)ではなく、建材(質)が問われている
3) 裁きの手段:火
A建材なら、さらに清められ精錬させられる
B建材なら、燃えてなくなり灰となる
4) 裁きの結果
A建築家はその働きに応じた報酬を受ける
B建築家には報酬はない
ただし、救いが取り消されることではない
Will be saved (v.15)
結論 さばき合わないことついて
私たち信者を罪に定める裁きはすでに終了・完了した。
それは主イエスの十字架の上ですでに終わっている。
信仰生活をどのように忠実に全うしたかの裁きについては将来に属することである。
また、どれだけの良い働きを現在しているかの評価については、
「量」を査定基準とした人間的な評価は
必ずしも永遠的なものではないことを教えられる。
教会成長論の中で
「礼拝出席人数」
「年間受洗者数」
などを目標に掲げて数的増量が注目されるが、
メシアの裁きの御座においては、
その働きの質が問われることを銘記したい。
クレープ店の店先で、音楽を楽しむ人たち。
感覚としてシアトルよりも50%ほどゆっくりと
時計が回っている感じにさせられます。
再びベーリンハムへ。
長女にクレープを
その隣の店で長男にはバーガーを
夕食に買うために立ち寄った。
チェーン店には出せない
ホームメイドだから出来る
こだわりの味と
くつろいだ雰囲気があった。
カナダ・米国の国境、米国側の入国管理局。
週末の日中は40分ほどの待ち時間です。
どうして反旗となっているかは不明。
カナダ・ヴァンクーバーの日本&日系人は
シアトルのを一桁大きくした程の規模がある。
この日、Wカップ日本対ギリシア戦があり
しかも試合開始が3時という応援には理想的な時間帯。
コンビニ屋の2階で巨大モニターが設置されて
大勢の日本人がその時間に応援するからどうですか、
と友人から招かれていた。
もちろん時間が許されれば応援に駆けつけたかったが
事情が許さない。
ホテルに帰って家族に電話してから
始めて分かった試合結果。
頑張れ、日本。
親切だった郵便配達人
手に持っている切手を無料提供してくれた
大きな封書には二つの切手を貼って
ベリンハムの街でのことをもう一つ。
小さな町ほど人情にも厚く、親切さが身にしみることに出くわすことも多い。
一つの封書を出すために郵便局に並んだ。
先頭の女性が窓口でねばっていてすでに5分が経過。
もちろん行列は動かないまま。
痺れを切らして、その場を離れた。
隣のブロックで郵便配達人とすれ違う際に
声をかけた。
「、、、ところで、切手は販売しないのですか?」
「それはしていないね。
切手ならすぐそこの郵便局で売っているよ。」
「今行ってきたばかりなんです。
長い行列にあきらめて出て来たんですよ。」
「、、、、切手は一つだけか?
それなら、こっちに。」
彼は大きく手を振って私を招く。
そこまで行くと何やら切手を探し出している。
私の封書はかなり大きめだから
切手代もそれなりになるはず。
「いくらになりますか。支払わせてくださいよ。」
「いいんだ、本当に気にしないで」
30歳ほどのお兄さん、
決して代金も受け取ろうとせずに
切手を貼ってくれた。
その後、こころが湯たんぽを抱いたように暖かくなった。
運転も優しくなった様な気がした。
珍しく日本食でないランチをいただく。
ここはシアトルから高速で1時間以上北上したところにあるべリンハムの街。
家内の大好きなベーグルショップにて。
彼女が大学時代を過ごした街であり、そのころからのお気に入りの店。
その実況を彼女に中継し「いいだろう」メッセージ送ったところ、
すかさず折り返しメールが来た。
隣にあるクレープ店でお土産を買ってこいとの長女の注文だった( ^ω^ )
このベリンハム中心街のRail通りには
彼女たちの最愛の店が並んでいる。
イスラエルの若者3名が誘拐される事件が発生。
エルサレムの西の壁では、
彼らが無事に戻ってくるよう、数千人が祈り続けている。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
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「教会の携挙」②
マタイ24章36~42節、Ⅰテサロニケ5:1~10
~マタイ福音書連続講解説教76~
Ⅰ 聖書の教える「教会」
先回、教会はペンテコステの日に歴史上誕生したことを確認した。
また私たちは「聖霊のバプテスマ」により
教会に属する者とされ(Ⅰコリント12:13)、
主イエスにつながる者となったことを学んだ。
「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、
奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、
一つの御霊によってバプテスマを受け、
そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
(1コリント12:13)
さらにその点を確証する聖句を学んで補強してみよう。
メシアが教会の頭であり信者がその肢体であるという、
そのポジションにメシアが就任するのには
条件・方法・時があるという。
メシアの十字架に続く復活と昇天である。
「 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、
キリストを死者の中からよみがえらせ、
天上においてご自分の右の座に着かせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、
また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、
すべての名の上に高く置かれました。
また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、
いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、
教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、、」
(エペソ 1:20-23)
さらに、教会が世界に広がりその活動をするには
賜物を持った人達が起こされなくてはならない。
その賜物を人々に与えるのが天におられるメシアであるが、
これを可能とするのもまた
メシアが復活と昇天を経なくてはならないと聖書は教える。
「しかし、私たちはひとりひとり、
キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
そこで、こう言われています。
「高い所に上られたとき、 彼は多くの捕虜を引き連れ、
人々に賜物を分け与えられた。」
--この「上られた」ということばは、
彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、
もろもろの天よりも高く上られた方なのです--
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、
ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、
キリストのからだを建て上げるためであり、
(エペソ 4:7-13)
Ⅲ 携挙の時期:艱難時代前である
1) 黙示録の構成から
*黙示録6~18章は艱難時代を扱っていて
そこに「聖徒」が存在するが、教会の存在証拠にはならない
*その艱難時代にそこに教会という語は一つもない
*教会の重要性、黙示録の構成からしてそれには大きな意味がある
*つまり、艱難時代に地上に教会は存在しないということである
2) ルカ21:31~34
*地上に住む全ての人に艱難が襲うとのユダヤ表記である
*それから免れるためには地上以外のところに居なくてはならない
*「人のこの前に立つ」とは天においてなされることである(35)
*つまり、その時代に教会は天に存在し続ける
3) Ⅰテサロニケ1:10にある「御怒り」
*一般的な意味の「御怒り」:ローマ1:18
*艱難時代の「御怒り」:黙示録6:17、14:10,19、15:1
*この文脈では将来に関することなので、艱難時代のことである
*メシアは教会を艱難から救い出すという特定の目的のために来られるのである
4) Ⅰテサロニケ5:1~10
*神の御怒りに教会は予定されていない(4)
*携挙(4:14~18)直後に論じられている文脈である
*5章の冒頭・「しかし」:peri de (1)
: コントラストを強調する接続詞があるはずであるが、
新改訳聖書は訳出していない
携挙の慰めに対して、主の日とは神の御怒りの日である
*マタイ24:36「ただし」もperi de、
本来は「ところが一方で」と訳出されるべきものである。
前後の対照を示す接続詞だから
*Ⅰテサロニケ5:8節、9節の「救い」は未来形であり、
それは終末的なものでありからだの購われるとき、
つまり携挙のときを指している
5) 黙示3:10
*「試み」とは文脈から艱難時代である
*教会はその艱難時代から保護される
結論として
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)
と言われた主イエスの言葉に注視しよう。
聖書のこのような精緻な学びは私たちをして主イエスに結びつけるものとなる。
そうでないならその学びは異質なものだ。
神に至る道、絶対的な真理、とこしえのいのちを見出すのは聖書の学びから。
なぜなら、学ぶほど主イエスを鮮明に見出すからである。
「わたしを見た者は、父を見たのです」と、
納得できない弟子たちに語られた主。
当時の弟子たちには
私たちがここで学んだような神学知識(携挙、奥義としての教会など)
は持ち合わせていなかった。
彼らは3年半の間、主イエスと生活し、共同の体験を重ねていた。
主イエスを経験することが即ち神に至る道であり、
それは我らとも変わらない原則である。
私たちは直接この目で主を見ることはなくとも、
主のお言葉によって主とお会いし、経験を重ねることができる。
聖書研究の意義はここにある。
逆さになってしまいました
水平線に沈む太陽のようです
帰宅すると長女が父の日のギフトを用意していてくれた。
私の机の上で夕日をイメージしたのだという。
海に沈む夕日かな?
ここまで手間や時間をかけてくれて
父親への想いを形にしてくれたのか。。
アビス
・ギリシア語の「アブソス」で、「底なし」「地下の世界」といった意味がある。
・堕天使の留まっている場所
・例外的に反キリストのみが人間ではそこにとどまる
・シオールの中の堕天使のための場所
それらはある期間を経て解放される。
サタンも千年王国の間はそこに幽閉されているが、その後解放せられる。
・聖書箇所
ルカ8:31
ローマ10:7
黙示録9:1,9:2,9:11,11:7,17:8,20:1,20:3
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