会津の悲劇
6月
28日
髪を切り、鳥羽伏見の戦いで戦死した弟の着物をきて
銃を構えて薩長政府軍と戦ったのは数年前の「八重の桜」でおなじみ。
無駄で意味も無い戦いに会津の家屋は破壊し尽くされ
前途有為な青年達を死へと追いやった会津戦争。
飯盛山で自決した19人の白虎隊員の肖像画が
鶴ヶ城内に大きなスペースを取って展示されてある。
その悲劇に想いを致していると
何らかの声が湧き上がってくるようにも感じた。
思いつくままの
雑感を少々、、、、
①イデオロギーの無用さ
会津の藩祖、
保科正之が定めた家訓に従順であらねばならないとするイデオロギーが
松平容保をして京都守護職を拝命させ、
時代の流れに逆行する
徳川幕府延命策や新兵器(鉄砲)軽視へと藩論を向かわせた。
②いけにえ探し
薩長新政府は徳川慶喜の恭順を受け入れ
勝海舟の説得もあり
江戸城総攻撃を思い留まった。
ところがそれだけでは物足りず
徳川数百年の世を終わらせ
革命を成功させたと世間を納得させる
みしるしが必要と考えた。
振り上げた拳の降ろし先を
徳川でないなら誰にすれば良いのか、、、?
同様に恭順を誓っている松平容保には
それを許さず徹底した会津攻撃を続けた。
いじめっ子はかつていじめられた経験を持ち、
再びいじめられるのを恐れていじめる側になるのだという。
南米のペルー文明では
神に豊穣を祈るために
人身供養がピラミッドで捧げられていた。
③教育の本懐
会津では国家百年の計を鑑みて藩士教育に力を注ぎ
当時では先端の日新館を設立させた。
文武両道の
その姿勢だけは見上げたものである。
ところがその背骨となるものは
朱子学という先述のイデオロギー。
教育が人を解放するのでなく、
既存の型枠に押し込める装置として、藩政維持に寄与したに過ぎない。
本来の教育は人を解放するものである。
自由を与えるものであるなら。
「真理はあなたがたを自由にする」
(ヨハネ8章32節)