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父の日特別寄稿

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父の日特別寄稿


父の日おめでとうございます。

聖書は、世界の創造主のことを「父」と啓示します。
父はすべての生き物の源流です。

主イエスは神を「アバ」と呼ぶように教えられました。
それは当時使われていたアラム語で「お父ちゃん」です。

女性の地位向上や社会進出が進んでいるのが
ポストモダンの世界です。素晴らしいことです。
女性の持っている本来の特性と賜物を生かした場がもっと与えられて欲しいです。

この点日本は先進国の中でも最下位で、
まだまだ女性が抑圧されている社会環境と言えます。

女性解放の波はキリスト教会の中にも浸透しています。

少し前まではユダヤ教のラビであっても
キリスト教会の司祭・牧師であっても
宗教指導者に女性が立てられる事はありませんでした。

いや現在でもユダヤ教のラビでもイスラム教の教師でも
女性が立てられる事はあり得ません。

最近私が参加している勉強会で
そのことが取り上げられました。

曰く、「聖書には女性差別と男尊女卑を教えている」と。
「それは当時の文化に沿ったことであり、
当時の人々に対する教えであるので
それを今日まで持ってくることができない」と。

「当時の社会状況を踏ま得た上で
今日的適用を吟味しなくてはならない」と。

そうでしょうか?

聖書は当時の人々の考えや習慣、生き方を超越して
どの時代にも適応出来る普遍的な真理を伝えている
箇所もあるのではないでしょうか。

特にこの男女間の地位に関する教えは
注意深く見たならば
時代を超えた普遍性を伝えていないでしょうか。

「kyotaさん。
いつもリベラルなことを言って私たちを驚かせるのに
男女間のことについては保守的なんですか。
女性蔑視をしてるんですか?」

そんな事を言われてしまいそうです。

私はリベラルでも保守でもありません。

時代を超えた聖書の教えを今日に活かし
そこに生きようと試みるまでです。

例えば次の2つの聖句を紹介します。


"しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。
すべての男のかしらはキリストであり、
女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。"
コリント人への手紙 第一 11章3節

"男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、
頭にかぶり物を着けるべきではありません。
一方、女は男の栄光の現れです。"
コリント人への手紙 第一 11章7節

ここでは明らかに男性が女性の上にリーダーシップを取るべきであり、
男性の女性は男性の栄光の表れに過ぎないと、その補助的立場を伝えています。

その序列はキリストが私たち人間のかしらであるのと同様の確かさであると。

これはパウロがコリントの教会に書き送った手紙の中にある教えですが、
私たちクリスチャンはこれを神からの教えであると信じています。

さてこれはコリント教会特有の教えなのでしょうか。
それとも時代や国を越えて今日の日本のキリスト教会にも
適用すべき教えでしょうか。

賛同反論歓迎です。
皆さんのお考えをお伝えください。






Happy Father's Day!

The Bible reveals the Creator of the world as "Father".
The Father is the source of all living things.

The Lord Jesus taught us to call God "Abba".
That is "Father" in the Aramaic language used at that time.

Women are improving their status and advancing in society.
It is a postmodern world. It is wonderful.
I would like to see more opportunities for women to make use of their inherent characteristics and gifts.

In this respect, Japan is the lowest among the developed countries, and it can be said that women are still oppressed in our social environment.

The wave of women's liberation is also penetrating into the Christian church.

Until a while ago, even Jewish rabbis
Even priests and pastors of Christian churches,
there were no women in religious leadership positions.

Even today, there is no such thing as a Jewish rabbi or a Muslim teacher.

Recently, in a study group that I attend
This was brought up there.

One said, "The Bible teaches misogyny and chauvinism.
It is in line with the culture of the time, and it is a teaching for the people of the time.
You can't bring that up today.

"You have to take into account the social conditions of the time.
"We have to examine the application of the teachings to today based on the social conditions of the time.

Isn't that right?

The Bible is a universal text that can be adapted to any age, transcending the thoughts, customs, and lifestyles of the people of that time, I believe.

If you look carefully, this teaching on the status of men and women, in particular, conveys a timeless universality, don't you think?

“Hey Kyota,
You always surprise us by saying liberal things.
Are you conservative when it comes to gender issues?
Do you despise women?”

That's what you might say to me.

I am not a liberal or a conservative, but I am trying to apply the timeless teachings of the Bible to today.
I am just trying to live by them.

For example, here are two verses of Scripture.

"But I want you to know that
The head of every man is Christ, and the head of every woman is man, and the head of Christ is God."
1 Corinthians 11:3

"For the man is the image of God, and the manifestation of his glory.
He should not wear a headgear.
The woman, on the other hand, is a manifestation of the glory of the man."
1 Corinthians 11:7

It's clear here that men are to take leadership over women and woman is merely a manifestation of the glory of the man, and conveys his auxiliary position.

That the pecking order is as certain as Christ being the head of us humans.

This is the teaching of Paul in his letter to the church at Corinth.
We Christians believe this to be a teaching from God.

Is this a teaching that is unique to the Corinthian church only , or is it a teaching that should be applied to the Christian church in Japan today, transcending time and country?


I welcome your support and opposition opinions
Please let me know what you think.
#メッセージ

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「仕えられるためではなく仕えるため」

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「仕えられるためではなく仕える...
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。


「仕えられるためではなく仕えるため」


マタイの福音書 20章17~28節


"さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、
異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。
イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」
ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」"


(1)ゼベダイの子らの願い


①血縁関係を利用しての出世願望
ゼベダイの子らの母とイエスの母マリアは姉妹
「1人を左大臣に、1人を左大臣に」

② 聞きたいことだけを選り好みする聖書の読み方
エルサレムでの苦難と死刑の予言であり、
王国樹立ではない(18-19)


(2)逆転された価値観


①支配者はその領民を支配し、権力者は権力を持つ
ローマにされ支配されていたユダヤ社会では納税や労役の義務が課された

②主は仕えられるためでなく、仕えるために来られた
「大臣」の英語名はMINISTER(奉仕者)
仕えるものが最も偉大、人の先に立つものは僕となるべしとの聖書的価値観の反映


⑶ 父なる神の聖定


①イエスの杯を飲むことができるか。
ここで杯とは、神のゆえに甘受する苦難や迫害。
彼らの分からないままでの返答と、イエスの予言。
ヤコブに成就とは?
ヨハネに成就とは?

②「それに備えられた人々が既にある」
この動詞は完了形。
将来のことが既に父なる神によって規定=聖定。


(結論)


"曲げられたものを、まっすぐにはできない。
欠けているものを、数えることはできない。"
伝道者の書 1章15節

①神が既に定められたことがある。
・支配者や権力者の存在。
・女性に対する男性の地位
〜秩序や順序がある

"しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。
すべての男のかしらはキリストであり、
女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。"
コリント人への手紙 第一 11章3節
"男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、
頭にかぶり物を着けるべきではありません。
一方、女は男の栄光の現れです。"
コリント人への手紙 第一 11章7節

②世界は異なる(誤った)解釈をしてきた。
・支配者が支配横暴を極める
・男性の方が上だ。聖書は男尊女卑を認めているのか?
「"女は、よく従う心をもって静かに学びなさい。
私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。
むしろ、静かにしていなさい。
アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。
そして、アダムはだまされませんでしたが、
女はだまされて過ちを犯したのです。"
テモテへの手紙 第一 2章11~14節

③聖書の価値観に帰ろう
・男女の地位関係は特定文化に寄り添ったものでなく、
創造の秩序が土台となっている。
・上位の立場にあるものが仕えるもの、命を与えるもの
低いものとされるのが聖書の価値〜その模範をキリストに見る。


#メッセージ

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「神と格闘する宗教家」

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「神と格闘する宗教家」



「神と格闘する宗教家」


創世記 32章24~32節


"ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。"


(1)宗教が現実味を帯びる時


1人になれた時〜思いがけない神からの接近(ベテル経験:創世記28章)
家族の元を離れざるを得なかった。
叔父ラバンの元での生活は未知数で不安。

② 1人となったとき〜神を求めざるを得ない苦境(ペヌエル経験)
家族を先に旅立たせ自分は1人残った。
兄エサウとの再会は想像するも、激しい恐れ。


(2)宗教の核心に迫る時


①神の顕現〜夜明けまで格闘した相手
神についての知識や思想、想念することとは違う。
「どうかあなたの名を教えてください」-実存する存在の実質を会得せんとの願い。

②神との会話
「わたしを去らせよ。夜が明けるから」
「去らせません。私を祝福してくださらなければ」
「あなたの名は何と言うのか」
「ヤコブです」


⑶ 宗教の源泉が変革をもたらす時


①そこには命をかけたやりとりがあった
「顔と顔と合わせて神を見たのに、私の命は救われた」
死線を超えた戦いを終えた今、彼の人生は変革された。

②「ペヌエルを通り過ぎた頃、太陽は彼の上に上ったが
彼はそのもものためにびっこひいていた」
彼の恐れと不安の雲は過ぎ去り、エサウと対峙する勇気が与えられた。
それは自己信頼からの蛮勇ではなく、謙遜を知り太陽に照らされた委任と静寂さ。


(結論)

1人となれる時とは、特別な技術が必要とされる。
私たちは神と相撲を取るほどに、聖霊様との折衝に生きることが少ないのではないか。
聖霊様も主イエスも神の言葉も、父なる神との交流に私たちを導く手段である。




#メッセージ

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「その方が来ると」

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「その方が来ると」


「その方が来ると」


ヨハネの福音書 16章5~16節


"しかし今、わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。けれども、あなたがたのうちだれも、『どこに行くのですか』と尋ねません。
むしろ、わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。
しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」"


(1)あなたとの人格的関係を築かれる方


①主イエスとの人格的関係の中にいた12使徒たち
主が離れ去ることを聞いて心は悲しみでいっぱいとなった(5-6)

② 「その方」(8)〜“HE” 男性人称代名詞
主イエスに代わられる方、「イエスの御霊」(使徒16:7)とも呼ばれている


(2)あなたのうちに内住される方


①「助け主」(7)が来られる方が「益」であると言う
弟子らと内住されるため。
常時同行できるため。

②私たちをうちから支えて教導する
罪について〜キリストを信じないこと(ヨハネ15:24)
義について〜復活と昇天によってキリストが義であられた
裁きについて〜悪魔とその力が最終的に敗北すること


⑶ 恒久的にあなたにとどまる方


①「すべての真理に導き入れる」(13)
初歩的な教えからさらに霊的な事柄にも目が開かれていく
霊のことは、御霊によってしかわきまえることができない。

②三位一体の神があなたを栄光に導き入れる
御霊は主イエスの全てを啓示し、イエスの栄光を表す
主イエスは父なる神の全てを任されておられる。


(結論)


ペンテコステ礼拝の日。
主イエスの約束された聖霊が今、
私たちに注がれ、うちに生きておられる。
この方が、主の栄光に私たちを預からせてくださる。
#メッセージ

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「大祭司であられるイエス」

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「大祭司であられるイエス」 「大祭司であられるイエス」

「大祭司であられるイエス」


ヘブル人への手紙 4章14~16節


"さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"


(1)接近しよう〜御座に


①父なる神の御前に
かつてきよい神の前で人は生きていられないとされた。
旧約時代のイザヤの例。

② 大祭司がおられるゆえにその道が開かれた
イエスは神の右の座に座しておられる


(2)確信を持って〜あなたをとりなすイエスがおられる


①あなたのそのままを受け入れられる
「弱さに同情できない方ではない」

②完全な人となられ、人の通られるすべての試練を通過された
罪を犯されなかったが、あらゆる試みに遭われた


⑶ 待望しよう〜おりにかなった助けが得られる


①大祭司の地位と権威
「もろもろの天を通られた」
ユダヤ思想にある3つの天

②あらゆる権威と権力の上におられる主が
私たちの味方である。
"この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、
キリストを死者の中からよみがえらせ、
天上でご自分の右の座に着かせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、
また、今の世だけでなく、次に来る世においても、
となえられるすべての名の上に置かれました。"
エペソ人への手紙 1章20~21節


(結論)
今日は母の日です。
母こそ神が人間に与えられた祭司です。
その存在にも勝るお方がその背後におられ、
私たちのために執り成しをしておられます。
待望しつつ確信を持って近づきましょう。
#メッセージ

ワオ!と言っているユーザー

「エマオ途上の弟子たち」

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イズレエル平原 イズレエル平原

ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。




「エマオ途上の弟子たち」



ルカの福音書 24章13~33節


"ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、"


(1)無自覚な2人の弟子


①信仰に立てない信者
女性たちの証言(22-23)を信じることができず弟子集団から離れて入れていく2人。
その結果、論じ合うことができても暗い顔つき(17)

② 無自覚の2人に同行されたキリスト
「心の鈍い人たち」(25)と軽く叱責された後、彼らと同じ方向へ歩かれる主


(2)み言葉による語りかけ


①「聖書全体の中」からキリストに関する解き明かし〜人生の「なぜ」に対する究極の答え

②「一緒にお泊まりください」〜求める心(信仰)に応じて主は私たちを扱われる




⑶ 心は内にに燃えて


①目が開かれた(31)〜主イエスの祝福しパンを割くその仕草を見て
「分かった」の瞬間

②屈しない奉仕へ〜エルサレムへ帰還し弟子たちの集団へ
再度復活の主にお会いして内的保障を得た



(結論)
私たちは自覚なくても主は共に道を歩まれるお方。
不可解なことも無自覚なことも、み言葉の解き明かしの中から明らかにされて行く。
神学と生活とが結ばれた時、私たちの目は開かれていて行く。



#メッセージ

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「聖霊の働き」

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「聖霊の働き」 「聖霊の働き」



ホサナキリスト教会の日曜礼拝のメッセージアウトラインです。




「聖霊の働き」


ローマ人への手紙 8章1~11節


"こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。"


序論


・聖霊=御霊=キリストの御霊

・御霊の7つの働きが本日の聖書箇所に教えられている

①解放(2-3)
②完成(4)
③制御(5-6)
④内住(9-10)
⑤生かす(10-11)
⑥教導(14)
⑦保証(16)



(1)解放(2−3)


①束縛に繋がれて
「肉」によって無力になったため〜罪の性質を生来的に引き継いだ描写

② キリストイエスにあるいのちの御霊の原理
律法(ノモス)は、人に死をもたらす〜山上の垂訓の一般的な解釈例
御霊の原理(ノモス)は、人に命を与える〜ミケランジェロの天地創造


(2)統制(5-6)


①「もっぱら」肉的なことを考える人〜肉に属しているから
思考が実現する、という。
あなたのマインドがあなたの現実世界を造っている。
②「ひたすら」御霊に属することを考える〜御霊に従っているから
その結果は、いのちと平安をもたらす


⑶保証(15-16)


①神の子供とされたことを担保。
「お父ちゃん」と神を呼ぶことを得させた。

②そのことの確証を御霊が証してくださる
例・John Wesleyの父がその死の床で人にとって最も価値があることとして息子に伝えた教え


(結論)


御霊が私たち信者のうちにこれだけの働きをしてくださっておられる。
私たちは知的に整理するだけでなく、これをどれほど認知し自覚し
そして生活化しているだろうか。



#メッセージ

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イースターの朝

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イースターの朝 イースターの朝


ハッピーイースター!
イースターおめでとうございます。

2つのうさぎの置物と日本人形とを娘とともに受け取った帰り道、ある交差点で家族連れと思われる4-5人がプラカードを掲げていました。

そのサインボードには
「主イエスは蘇れた」と記されてあったのです。

娘とそれを見て大喜び。
クラクションを何度も鳴らして賛同を表明した次第です。

もし主イエスが死を克服されてよみがえられなければ、人生はなんと虚しいものでしょうか。人が死んだらそれっきりで、おしまい。

しかし実に主はよみがえられたのです。
私たちに死を克服する永遠の希望を与えられました。

Happy Easter!

On the way home from receiving the two rabbit figurines and a Japanese doll with my daughter, we saw 4-5 people, probably a family, holding up placards at an intersection.

The signboard read, "The Lord Jesus is Risen.”

My daughter and I were overjoyed to see it.
We honked our horn several times to show our support.

How empty life would be if the Lord Jesus had not overcome death and risen from the dead. When a person dies, that's it, everything is over.

But indeed, the Lord has risen.
He has given us eternal hope to overcome death.
#メッセージ #家族

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受難週の金曜日

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受難週の金曜日 受難週の金曜日 受難週の金曜日 受難週の金曜日
受難週の金曜日を迎えました。
主イエスがこの日の朝9時に十字架にかけられたのです。

言うまでもなく約2000年前のエルサレムでの出来事。
さらに遡ること約2000年前、同じ場所で同様な出来事が行われようとしていました。

創世記22章に見る父アブラハムが、一子イサクを全焼のいけにえとして神に捧げた場面です。
ちょうど今朝の聖書箇所がこの創世記22章でした。


①「お父さん。火と薪はありますが、全燒のいけにえのための羊はどこにあるのですか」(7)

神の意思に従っているつもりでもわからないことがある。
不条理としか見ない場面に出くわすこともある。
そしてあまりの痛みにそれを回避したいと自然に願う。
完璧な人間性を具備されたイエスは、「この杯(十字架)を取り除いてください」と、その前夜に祈られた。


②「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えて下さるのだ」(8)

父のこの言葉を聞いてイサクの理性は納得できただろうか。
尚もわからないまま彼は山道を登り続ける。
現在のエルサレムの神殿の丘に至る道を。
やがて祭壇の上で縛られてナイフを喉に突き刺されるに至っても、イサクは質問、反論、抵抗をしない。
そこにあったのは信頼のみ。

イエスはかつて弟子たちに言われた。
「わたしがしていることは、今はあなた方にわからないが、後でわかるようになります」(ヨハネ13:7)


③「主の山の上には備えがある」(14)

神のひとり子主イエスの犠牲によって、私の救いと全世界の回復のための備えが完成した。
それはまだ目に見える形では完成していない。

「備えがある」と信じたアブラハムには目に見えなくても現実であったように、神の御言葉に日々教えられているものには現実のことでもある。

イサクは父に信頼し、その意思に従うことを通じて新しく神を経験するに至っている。
アブラハムにとっての最大の試練は、彼に神の性質が知らされた最大の出来事でもあった。



神とは、どういうお方なのか。
私たちの生涯は、神のご性質に触れるための学科であり、
わからないことをの中を、信頼を持って登っていく道筋である。

We have reached the Friday of Passion Week.
The Lord Jesus was crucified at nine o'clock in the morning of this day.

Needless to say, it happened about 2000 years ago in Jerusalem.
About 2,000 years earlier, a similar event was about to take place in the same place.

This is the scene in Genesis 22 where Abraham, the father, offered his only son Isaac to God as a burnt sacrifice.
Just this morning's Bible verse for me was this Genesis 22.


1) "Father. We have fire and wood, but where are the sheep for the all-burnt sacrifice?(7)

There are times when we think we are following God's will, but we don't understand.
Sometimes we encounter situations that we see as absurd, and the pain is so great that we naturally wish to avoid it.
Jesus, in His perfect humanity, prayed the night before, "Remove this cup( cross) from me.”


(2) "God Himself will provide the sacrificial lamb for the whole burnt offering.(8)

I wonder if Isaac's reasoning was convincing when he heard these words of his father.
Still unsure, he continues to climb the mountain path.
He continued up the mountain road, which now led to the hill of the temple in Jerusalem.

Even when he is tied up on the altar and a knife is plunged into his throat, Isaac does not question, argue, or resist.
There was only trust.
Jesus once said to His disciples, "What I am doing, you do not understand now, but you will understand later" (John 13:7).



3) "There is provision on the mountain of the Lord" (14).

Through the sacrifice of God's only Son, the Lord Jesus, the provision for my salvation and the restoration of the whole world has been completed.
It is not yet completed in a visible way.
It is real to those who are taught daily in the Word of God, just as it was real to Abraham who believed that "provision is made," even though he could not see it.

Issac comes to experience God anew through trusting in his father and submitting to his will.
Abraham's greatest trial was also the greatest event in which the nature of God was made known to him.



What kind of person is God?
Our life is a lesson to get in touch with the nature of God, and a path to climb up with trust in the midst of what we don't know.
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「大祭司キリスト」

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「大祭司キリスト」 「大祭司キリスト」 「大祭司キリスト」



ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージ・アウトラインです。




「大祭司キリスト」


ヘブル人への手紙 5章1~10節


"大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。
大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。
また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。
また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。
同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と語りかけた方が、それをお与えになったのです。
別の箇所でも、「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」と言っておられるとおりです。
キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、
メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。"


(1)召された大祭司


①Israelにあった祭司制度
全人類>イスラエル>レビ人>アロン家系>アロン個人
召されてなくては祭壇に近づくことは出来ない

② キリストの召し(5)
「生んだ」とは生存の始まりを意味する言葉ではなく、祭司としての職務を開始せられたこと。
死、復活、昇天、着座を完成させることによる。


(2)受肉された大祭司


①「人としてこの世におられた」= 100%の肉体をもたれた人間
叫び声と涙を持って祈らなくてはならない苦しみを通られた

②キリストが受けられたたった1つの学科=「従順」
7段階の謙卑の後(ピリピ3:6-8)、最後は十字架の死。


⑶完成された大祭司


①キリストにあるすべてのものを救う大祭司
イエスの名は、霊界人間界外界(ピリピ2:9-10)のあらゆる存在の上にある

②メルキぜデクの位に等しい=永久に祭司職を遂行できる方(ヘブル7:3)


(結論)


キリストが完全な救いを与える大祭司であると聞いて、私たちの耳にどのように響いているか。
もし試練や苦しみを通っているとしたならば、それは主からの訓練と従順を学ぶ機会であろう。
その先には、高揚と栄光とを備えて下さっておられる。


















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