ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。 「万軍の主である王をこの目で見た」 イザヤ6章1〜7節 "ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、 セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、 互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」 その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。 私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」 すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。 彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」" (序論) 「見る」ことについて、ギリシャ語には3通りの深みがある。 ヨハネ福音書20章1から8節まで。 ①マグダラのマリヤの「見た」(1)〜「 ブレポ」 主に物理的に見る、観察する。5節の墓の内部を外からペテロが「見た」のも同じ語句。眺めた。 ②ペテロの「見た」(7)〜「セオレオー」 注目する、経験する、分析のために見つめる。英語のセアター(劇場)の語源。俳優が演じる背後にある意味を汲み取ろうとする。 ③ヨハネの「見た」(8)〜「エイドー」 その背後にある意味を理解、比喩から本質につながる昇華、精神的に見る。 “I see what you were saying” (1)王座の主を見た(1) ①ウジヤ王の死んだ年とは、BC740年。 アッシリアが超大国として勃興してくる国際情勢。 ② 優秀なウジヤ王のもとでユダはつかの間の繁栄を享受していた。 カリスマ的王を崇拝していた国民たち。 「経済的精神的自立なくして霊的自立はない」 (2)聖なる主を見た(3) ①セラフィムの姿から 2つの翼でそれぞれ顔(礼拝)、両足(謙遜)、飛んでいる(奉仕) 臨済される神に仕える天使。黙示4:8。 ② セラフィムの言葉から 3度繰り返された「聖なるかな」 聖とは、超越した絶対他者性の性質 ⑶ 贖い主を見た ①「私は既に滅んでしまっている」(6節・私訳) 「見たのだから」と同じ完了形。 神を見たと同時に自らの真相を見ることができた。 ②燃え盛る炭火が口びるに触れて 「不義は取り去られ」〜完了形 =キリストによる救いの完全性 「罪もあがなわれた」〜未完了形=キリストによる救いの継続性 (結論) 今日は76年目の終戦記念日。 広島はウラン型、長崎はプルトニウム型の原子爆弾が落とされ日本はポツダム宣言を受理するに至った。 長崎の爆心地は東洋最大の教会堂と言われた浦上天主堂。 そこの信者の方々は、この恐ろしい原爆の被害の中にあっても神の摂理を見ておられ、次のような告白をしている。 「信仰の自由なき日本において迫害の下四百年の殉教の血にまみれつつ信仰を守 り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こ そ、神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き羊ではなかったでしょうか。 この羊の犠牲によって、今後さらに戦禍を被るはずであった幾千万の人々が救 われたのであります・・・ 主与えたまい、主取りたもう。主の御名は賛美せられよかし。この貴い犠牲に よりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝します」