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新しい皮袋を New Wine Skin

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2014年7月13日日曜日礼拝 音声はyoutube から、http://youtu.be/GHWr5owEYXE

聖書箇所
マルコ2章、3章から

中心聖句

マルコ2:22
また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」And no one puts new wine into old wineskins; or else the new wine bursts the wineskins, the wine is spilled, and the wineskins are ruined. But new wine must be put into new wineskins.”

●皮袋の説明

皆さん、ワインは発酵しますよね。前にも話しましたが、わたしもぶどうの汁でびっくりさせられた経験があります。日本に住んでいるとき、ぶどう畑をしている信徒の方が一升瓶に新鮮なぶどうジュースを入れて持ってきてくださいました。一人暮らしの私の小さな冷蔵庫には、一升瓶は縦にしても横にしても入りませんでした。それで、家にある入れ物に小分けにしていれて冷蔵庫にしまうことにしました。たくさんあったので早く飲みきることができません。そして一本ペットボトルに入ってるものが、しばらく冷蔵庫に残っていました。ある日、暑かったので、そういえば冷たく冷えたぶどうジュースが家にあると思い、わくわくして家に帰り、早速冷蔵庫から取り出して飲もうと思ったんです。きんきんに冷えたボトルを取り出しふたをひねろうとしたその時です、ばーーーんっっと言って、ふたがはじけとび、ふたが天上や窓に当たってまた激しくわたしに帰ってきました。ぶどうジュースはシューシュー泡となって勢い良く吹き出て半分以上なくなってしまいました。初めは何が起こったか分からないでいました。あれ、もしかして、発酵してたのかなと思い飲んで見ると、なんとお酒になっていました。
ぶどうジュースは、発酵するとこのように膨らむんですね。ですから、昔聖書の時代は、よく伸びる新しい皮袋に入れたのです。古い皮はもう伸びないので、このペットボトルのように、少しの衝撃ではじけて破れてしまうのです。マルコ2:18で、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちが来て「どうしてあなたの弟子たちは、他の人たちがしているように断食しないのか」と聞いたときに、答えたことばです。「どうして、みんなと同じように、古い習慣に従わないのですか」というのが質問の本質です。イエス様とイエス様の弟子たちは、彼らの目には、非常に新しく、非常に型破りに見えたのです。

●新しいワインのようなイエス様・御国の働き

イエス様の福音の働きは、新しいワインのようにどんどん膨らんで広まって行きました。ユダヤ人の当時の文化に新しいコンセプトをもっとチャレンジされました。

文化について。
文化とは、人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。
すなわち、文化とは、人間が作り上げてきた、その民族に染み付いた価値観と生活様式です。
そこに新しいコンセプトをもってイエス様は来られました。イエス様は天の御国のリアリティをもたらしました。御国とは、神の治めておられる場所。神のおられるところ、それが御国です。天には、悲しみも病もなく、痛みもありません。また悪魔・悪霊は住むことができません。愛、喜び、平安が満ちている場所です。イエス様は、この天のリアリティを地にもたらししてくださった。先週話しましたが、誰でも罪を悔い改める人は、このリアリティに入ることができるのです。

●イエス様の福音が新しくもたらしたもの

この二章三章で見るものをあげますが、どの記事も人々は大変驚きをもって受け取っている様子が読み取れます。

①  癒し 2:3-12 四人の友に運ばれた中風の人の癒し
 
v5イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。When Jesus saw their faith, he said to the paralyzed man, “Son, your sins are forgiven.”
ここで、律法学者。すなわち、聖書に精通してる宗教家たちが心の中で、「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」“Why does this fellow talk like that? He’s blaspheming! Who can forgive sins but God alone?”

罪と病気の関係について…病気は、どこから人類に入ったのでしょうか。それは、最初の人アダムとエバからです。彼らは、神様との約束を破り罪を犯しました。善悪の知識の木の実を食べると死ぬようになると言われた通り、彼らの命に死が入りました。死が入ったということは、死に至る病が入ったということです。以来、私たち人類は病と闘いながら生きるようになりました。
イエス様は、罪を赦されました。がそれと同時に、その中風の人は癒されました。

v12すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。He got up, took his mat and walked out in full view of them all. This amazed everyone and they praised God, saying, “We have never seen anything like this!”
そうです、人類、かつて見たことがないことがイエス様によって地上にもたらされたのです。私たちもこれを信じますか? 私たちは、もうこのリアリティに移されているのです。

②  安息日と礼拝 2:23-28-3:4

  安息日に弟子たちが麦の穂を摘んだ。また、イエス様が安息日に人を癒したことで、宗教家パリサイ人たちに責められます。当時も今も、ユダやの世界では安息日は非常に大切にされています。安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。という十戒がありますが、この目的は、すべての手の業、自分のための働きをやめて、神様を覚えて一日を過ごす、すなわち礼拝のために業をしないということでした。しかし、その意味がだんだん失われて来て、仕事をしないことが目的のようになってしまい、その律法に神様の心が失われてしまっていたのです。

イエス様は、ここで形骸化した安息日に対するチャレンジをもたらしました。。安息日の本質をもたらした。究極的には、生き様を通しての礼拝が私たちの使命となることを示された。人を癒すことは神の御心です。神に従うことは、神への礼拝です。また、食べるものがなくてひもじい時に、何もしないでひもじいままでいることは、神様の望んでいることではありせん。イエス様は、v27また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。Then he said to them, “The Sabbath was made for man, not man for the Sabbath. 人間のための安息日です、人間の健康のたにあるべきです。

③  悪霊追い出し 3:15, 3:20-30 

イエス様は、悪霊を追い出す力を与えるために特に12弟子を近くにおいて訓練されました。というのも、悪霊が縛っている状況が神の御国の支配の外ではあったということです。そして、イエス様とその弟子には、悪霊を追い出す権威があったということです。人々の目には、あまりにも新しいので、「イエス様が気が狂っている」という人もいれば、「悪霊の力でやっているのだ」という人たちもいました。人々の考え方に、悪霊の力から解放されるというコンセプトが無かったからです。というのも、アダムとエバが、その権威をサタンに聞き従うことによって譲渡してしまったからです。それ以来、サタンがこの世の君として君臨していました。ですから、悪霊を追い出せるということ自体新鮮なことだったのです。
今、私たちにその働きが委ねられています。私たちも、神の御国を運ぶ者たちです。

バスターダッグとお友達の証し…サイキックのお店に入った。すると、その場で霊能をしている人が急に何も見えなくなった。

④ 神の家族のコンセプト 3:31-34

私が一番クリスチャンになって感動したことは、洗礼を受け教会という神の家族に加わって、本当に、信者同志が愛おしく、兄弟姉妹という気持ちでいっぱいになりました。自分の家族よりも何か深いつながりを感じたものです。また海外にいってクリスチャンの人に会うと、抱き合って喜びたいほどの喜びと何とも言えない、親近感をもったものでした。これは、神の子となってみないと分からないことです。v35に、違う言葉で言うならば、誰もが父なる神の子の身分を持つ取り戻すことができるということです。御国におけるSonship をイエス様は、この地にもたらしました。そして、ご自身の十字架の業によってそれを可能とされました。当時、ここにあなたの母、兄弟がいると言われてのイエス様の応答に人々は、は? とびっくりしたと思いますが、イエス様は、御国のコンセプトをもたらされたのです。誰でも、罪を悔い改め、キリストを信じるなら、神の子とされる。御国の王子、王女として養子縁組されるということです。

さて、私たちのマインドは、チャレンジされましたか。

もしかしたら、この中のいくつかが受け取りにくいという方がおられるかもしれません。新しい皮袋を求めましょう。御国は、ここに来ています。イエス様は、ここにおられます。受け入れることができるように。古い自分を神様に明け渡していきましょう。


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福音のはじめ The beginning of the gospel

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2014年7月5日日曜日礼拝 音声はyoutube よりhttp://youtu.be/5qHZGm0C0vY

聖書箇所
マルコ1章1-4, 14-15 

マルコ1章1-4 
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

マルコ1章14-15 
ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

●背景 

 四福音書にはそれぞれ、テーマと誰宛に書いているかが違いますが、マルコは、「しもべとしてのキリストが描かれている。」また、異邦人に向けられて書かれている。ですから、今までの律法や、神の知識なしに読む人が分かるようにかかれている。神の知識の無い異邦人、日本人もそうですが、何が彼らを信じるに至らしめるのでしょうか。それは、やはり、力。キリストが一体わたしに何をしたのか。私と個人的にどんな関係があるのか。わたしは、イエス様のされたことを見て、この方を好むか。さあ、一緒に読んでいきましょう。

●福音の初めは、信じることではなく、悔い改めることであった。

バプテスマのヨハネが悔い改めを説き、バプテスマを授けていた。また、イエス様も、「悔い改めて、福音を信じなさい。」と言われた。私たちは、福音と聞くとき、信じないと救われない、と思うのではないでしょうか。実のところ、悔い改めないと救いはない。福音を受け取ることはないのです。

●福音とは

キリストのついての啓示、教え。良い知らせ、救いのためのニュース、イエス・キリストのなさったこと
〇福音 evaggelion ユアンゲリオン ギリシャ語

●悔い改めとは

〇悔い改め メタノイア ギリシャ語  考えが変わること。悔い改めた人は、その人の行動の目的が変わるので、行動の変化が見れる。

罪から180度方向転換し、反対方向に歩み始めること。

私たちは、なぜ、悔い改めるのでしょうか。赦されるために悔い改めるのでしょうか。それても、救われたいから悔い改めるのでしょうか。
これは、神を恐れることを抜きには語れません。

○「神を恐れること」とは

それは、罪が示されたから、罪を徹底的に自分から話す必要があるからです。また、神を敬うがゆえに悔い改めるといってもいいでしょう。神が分からない人は、悔い改めが分かりません。人に迷惑をかけていないなら、また人に責められていないなら、自分の罪もあって仕方がないと思うのが人の考えです。しかし、神の存在を認め、神を敬う人は、「神の愛することを愛し、神の憎むことを憎む」のです。ですから、神の水準に合わせて、自分を吟味し、罪が認められたら、自分から手放したいと思うのです。
ですから、私たちは、悔い改めるのです。
そして、罪とは真逆の方向に歩みはじめるのです。

私の証し…

教会に来るまで、漠然と私は罪ある人間だとは分かってた。悪い人間だと。しかし、警察に捕まるようなことはしていないので、罪人だとは思ってなかった。教会に行きはじめ、神様のことを信じるようになった。神様の愛に触れられて、もっと神様に近づきたいと思った。また、一方で、今まで分からなかった私の罪、というより、罪の根源、根っこのようなものに悩むようになった。教会の人たちと接したり、聖書の話を聞くたびに、心がちくちく痛んだ。そして、完全にそれらを手放したいと思うところまで至った。

しかし、ある人たちは、心がちくちくするので、教会に行くのをやめて、前の生活、心の痛まない生活に戻る人たちもいます。心がちくちくすることは、よいことなのです。それが無ければ悔い改めに導かれないからです。もしも、心が罪を示されてちくちくするなら、手放すことをすればいいのです。それが悔い改めです。

それでは、質問します。あなたは、悔い改めましたか。あなたは、悔い改めの経験を持ちますか。今も悔い改めていますか?

神を恐れることの正反対が宗教です。

宗教とは、自分の力で神に到達しようとする努力です。宗教には神への怖れがありません。自分の力で到達しようとしているのですから。宗教は、人を変えません。自分の精進のための努力が増すだけです。しかし、神を恐れるところからくる、啓示、そして、その啓示への応答、すなわち、悔い改めは人を全く変えます。
あなたの考え方が変わるからです。考えが変わると私たちの態度が変わり、私たちの態度が変わると私たちの行動が変わるからです。また、素晴らしいことは、神様は、心で悔い改めた人には、それを真逆の行動に移す時、それができるように助けて下さるのです。それが、キリスト者のもっとも身近な奇跡です。

私たちの行動が変わっているでしょうか。もしも、教会に通っていない人と、同じことで悩んだり文句を言っているのだったら、私たちの行動は変わっていません。ということは、私たちの考えが変わっていないのでしょう。すなわち、悔い改めに導く啓示がない。ひいては、神を恐れていないといえるでしょう。

●「時が満ち、神の国は近くなった。」神の国に入ること

神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさいとイエスは言われました。すなわち、悔い改めなければ、神の国には入れないということです。神の国とは何でしょうか。国ですから、王である神が完全に支配されている場所であり、病もなく悲しみもなく、涙はすべて完全に慰め主なる神にぬぐってもらえる場所です。

イエス様は、ヨハネの三章でニコデモにこう言っています。ヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」3 Jesus replied, “Very truly I tell you, no one can see the kingdom of God unless they are born again.”

新しく生まれなければ、神の国は見ることができない。見えないというのです。私たちは、悔い改めるとき、何が起きるかというと、Mind/考え/心の刷新が起きます。考えが180度変革します。そして、この世の領域から、神の領域に考えが移されるのです。そして、今まで見えなかったものが見えるようになるのです。まるで新しい人になったかのようです。考えというものは、私たちの行動を支配しているからです。

例: 文化の例。ある文化の中に生きていたら、その文化の範囲を超えてみるということはなかなかできない。アメリカに来た頃、自己主張をすることが本当に難しかった。自分でなくなるような感じがした。文化の殻を破っていく必要があった。私たちのマインドも、調度そのようです。考え方を変えるというのは、本当は非常な労力がいるものなのです。

ですから、神の国というのは、古い人・古い文化しか分からない人にはには見えないというのです。

そして、神の国に入ること、これこそが神様の私たちに提供している生き方なのです。イエス様も言われました。「神の国が近づいた」と。世の文化から、神の国の文化に入りましょう。と招かれている。

イエス様の意図している悔い改めは、罪から離れるだけではなく、神の国に入る、神の国を見ることができる両方の意味を持っているのです。

これが、福音のはじめだとしてマルコ書に記されています。マルコ書は、仕える姿で来られたイエスキリストの業が多く記されています。これらは、神の国を表しています。

私たちも、神を恐れ、日々、形だけでの信仰ではなく、悔い改め、考え方が刷新され、神の国の業をイエス様とともにこの世にもたらすものとなりましょう。


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こうしてわたしを試してみよ

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2014年6月29日日曜日礼拝 音声は、youtube から http://youtu.be/r0BXKaegaGc

マラキ1:2,マラキ3:7-12

不従順な民に与える旧約最後のメッセージ

マラキは、「わが使者」という意味。時代は、捕囚後。ハガイ、ゼカリヤの時代。ハガイが預言したように、神殿を建てた彼らに神の祝福が臨まなかった。民は幻滅していた。マラキは、このような時代に神の言葉を預言した。彼は、その理由に、捧げ物に問題があると指摘している。当時、一部の特権階級を除いては、人々は依然として、貧窮の中にあった。(ネヘミヤ5:13)礼拝は空虚な形式と化し、神への捧げ物、律法の遵守は軽視されていた。彼らはまた、異教の女を娶るなどして神への背信行為を繰り返していた。

1章 宮の犠牲の軽視。
2章 祭司の腐敗。
異教の燐邦人との結婚。民は、異教の民と結婚したいがために、自分の妻と離婚したのだそう。神は、離婚を憎むと言われている。
3章 立ち返れ。神を信頼せよ。と神は言われる。

☆どのようにして。。。In what way  マラキ書によく出てくる言葉

神に罪が示されても、「どのようにして私たちがあなたの名を蔑みましたか。」‘In what way have we despised Your name?’「どのようにして私たちは煩わしたのか」“In what way have we wearied Him?”などと、自分たちの犯している罪に全く気がついていない。民の姿を見てとれる。

マラキ書の初めにあるとおり、自分たちの罪の姿に気がつかないのは、神の愛を見失ったことにはじまる。全ての“ずれ”は、ここから始まっている。

マラキ1:2 

「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。2 “I have loved you,” says the Lord. “Yet you say, ‘In what way have You loved us?’

神に愛されてる実感の中からでると、人間と言うものは自分のしていることが分からない。愛から離れるなら、礼拝に意味がなくなる。

礼拝とは、神の愛に応答することである。

先週のメッセージでも習いましたが、私たちの礼拝の土台は、贖いです。新約のわたしたちにはイエス・キリストです。すなわち神の愛です。土台が失われるなら、礼拝は、当然形式的な宗教行事となってしまうのです。
私たちは、いつも神の愛に留まっているでしょうか。

☆どのようにして、主に帰ろうか    神に帰れといわれた民の言葉。。。

マラキ3:7

7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところへ帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。―万軍の主は仰せられる―しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか』と言う。Yet from the days of your fathers You have gone away from My ordinances And have not kept them. Return to Me, and I will return to you,” Says the Lord of hosts. “But you said, ‘In what way shall we return?’

まず、わたしのところへ帰れ。そうすればわたしもあなたがたのところに帰ろう。
自分から、自発的に神様を選ぶ必要がある。神の愛は、いつもそこにある。そんなに腐敗していても、なおも神は愛している。だから、神に自分から帰れというのである。

☆十分の一献金をもって神を試す … 神との信頼関係を養うため

マラキ3:8-12

人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉献物によってである。9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。―万軍の主は仰せられる― 12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の主は仰せられる。“Will a man rob God? Yet you have robbed Me! But you say, ‘In what way have we robbed You?’ In tithes and offerings. 9 You are cursed with a curse, For you have robbed Me, Even this whole nation. 10 Bring all the tithes into the storehouse, That there may be food in My house, And try Me now in this,” Says the Lord of hosts, “If I will not open for you the windows of heaven And pour out for you such blessing That there will not be room enough to receive it. 11 “And I will rebuke the devourer for your sakes, So that he will not destroy the fruit of your ground, Nor shall the vine fail to bear fruit for you in the field,”Says the Lord of hosts; 12 “And all nations will call you blessed, For you will be a delightful land,” Says the Lord of hosts.

神の愛から離れてしまい、神に愛されること、愛すること、罪の意識が鈍ってしまった。もう一度、信頼関係を築くために、もう一度神様を試せという。どのようにして神に帰るのかと問う民に対する答えである。

聖書の中で、主を試していいと言っているのはこの箇所のみ。あとは、主を試すことは禁じられている。

神に十分の一を捧げて必ず、神に養われるというのは、確実な法則であり、誰もが体験できる奇跡。神を感じられる方法です。新約の中にも、「与えよ、そうすれば与えられる」との通り、与えるものには必ず与えられるのです。

なぜ、十分の一献金なのか。

私たちのお金との関係が如実に私たちの心の状態を照らしだします。

Ⅰテモテ6:10 
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。For the love of money is a root of all kinds of evil, for which some have strayed from the faith in their greediness, and pierced themselves through with many sorrows.

マタイ6:21
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」 For where your treasure is, there your heart will be also.

マタイ6: 24
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 “No one can serve two masters; for either he will hate the one and love the other, or else he will be loyal to the one and despise the other. You cannot serve God and mammon.

◎私の証し。
神様を信じたばかりのころ、あまり聖書も読めなく。なかなか、霊的に成長しなかった。信じて初めの三ヶ月か五ヶ月くらいだったと思う。なかなか十分の一献金ができなかった。大学をローンで行ったので、それを返さなければならず、家にもお金を入れ、わずかなおこずかいしかもともとなかったからです。十分の一献金を強制されたことはありません。でも、心の中でもやもやしていました。何か、十分の一献金をするように心が向いた。また、霊的にも成長したかった。十分の一献金をして見た。そして、いつもお金が月末に足りなくって心配するのに、なぜか、足りた。次の月も大丈夫だった。どころか、いつもより多く貯金できた。そして、ますます神様に対する飢え渇きが増し加えられていった。そして、洗礼を信じて六ヶ月後、聖霊のバプテスマを受けるようになり、信仰が劇的に変わった。そればかりでなく、人生の目的、神様からの召しをはっきりと受け取ることになった。以来、十分の一は必ず捧げている。今まで、何一つ足りなかったことはなかった。
食べ物がなくなっても、誰かが私のその時食べたいものを持ってきてくれたり。必要なもののために祈って、祈り終わったときに、部屋のドアがノックされ、必要なものが必要をはるかに超えて与えられたり。たくさん奇跡を体験した。

神様を信頼するということは、奇跡の始まりです。それは、唯一つ、神様がわたしをこれを通して試して良いといわれている、十分の一献金からです。ここから、祝福のドアが開かれるのです。

とすれば、十分の一は、信仰の基本ともいえますね。

この小さなステップが、後にいかに大きな祝福になるか皆さんも驚くでしょう。

マラキ3:11, 12
 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。―万軍の主は仰せられる― 11 “And I will rebuke the devourer for your sakes, So that he will not destroy the fruit of your ground, Nor shall the vine fail to bear fruit for you in the field,”Says the Lord of hosts; 12 “And all nations will call you blessed, For you will be a delightful land,” Says the Lord of hosts.

マラキ3:17
 「彼らは、わたしのものとなる。―万軍の主は仰せられる―わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。“They shall be Mine,” says the LORD of hosts, “On the day that I make them My jewels. And I will spare them As a man spares his own son who serves him.”

神に信頼するものは、その日、神の宝となる。

☆ 幼児の例
みなさん、幼児が両親と信頼関係を築く方法を知っていますか。それは、いないいないばあ、を通してです。あれは、単なる遊びのようですが、幼児にとっては大切なものです。大好きなお母さんがいなくなった。どうしよう。ばあ、ああ、出できた。何回も何回も繰り返すことによって、あの手の向こうに見えないけど、大好きなお母さんの笑顔があるんだ。いつもそこにあるんだということを学ぶ大切な行程の一つなのです。親と子の信頼をいうものを確信させるものなのです。
また、一歳くらいになった子どもは、よくテーブルから箸をわざとおとしたり、物を落とします。お母さんが何度ひろってもすぐにわざと落とします。お母さんたちは、いらいらしてもうやめてと、怒ってしまうことも多いですが、実は、これも子どもたちは、何回落としても、やっぱり私のお母さんは拾ってくれる。私のお母さんは、いつも自分のためにいてくれる。という信頼を習っているんです。何回も何回も。

神様は今日言われます。その最初の一歩を私のほうに踏み出して見ないか? と。私は、必ず、あなたのために現れるよ。必ずひろってあげる。必ず、養うよ。必ず、守るよ。と、今日私たちは、もう一度始めの愛に帰りましょう。そして、神様との信頼を築きましょう。


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アメリカは理論主義、日本は心情主義

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先日、日本のテレビを見ていたら、国際関係についての議論がされていた。ある評論家が、「日本は心情主義だが、アメリカは論理主義である」とし、双方の意見の解釈についての見解を述べていました。

私は、ああ、本当だ。これだー。と思わされました。

日本の文化は、conforming 他者と一体になろうとする、右へ習え文化です。悪く言うと、共依存を生みやすく、自分の領域が一体どこまでなのか非常に分かりにくいということになります。どこからどこまでが、自分の権利なのか、自分の責任範囲はどこまでなのか。

たぶん、日本に住んでいる日本人なら、めったにこんなことすら考えないのだと思います。それが自然なのですから。

この他者とどこまでも一体化していくために、「空気を読む」という能力が発達していきました。空気を読んで何でも先回りして物事を判断して動きます。また、相手の心情を察することが最大の美徳とされ、また他人にそれを無言で要求する文化があると思います。

また、流暢に話す人よりは、朴訥としている方が信用されるというのです。

ですから、日本の裁判では、論が立つ弁護士よりも朴訥としている方が、勝訴するのだそうです。とつとつと話す裏にある心情を読み取っていただけるからなんでしょうか。日本では、日本語のたどたどしい宣教師も喜んで受け入れられます。ありがたくそのお話しも聞きます。ただし、何を言っているか理解していなくても、ありがたく聞き、日本語的に論が成り立っていなくても、受け取ります。それは、話し手のの心情を巧みに読み取りわずかに伝達された話の論説と一緒に受け取っているからです。

一方アメリカは、違います。

論理ありきです。同じ例で行くと、英語がたどたどしくて、パブリックスピーチをしても、受け取ってもらえるかどうか、疑問です。
よく知っている関係なら必死で聞いていただけると思いますが。この人が何を考え、何を思っているのかということを伝えられなければ意味がないのです。ですから、朴訥としている弁護士が有利だなんていう考えは全くありません。

どころか、その人の論点がどこにあるのかの方が重要ですし。その人の言論を聞いて信用できるかどうかを判断します。流暢でも朴訥でも言っていることが`論説が薄っぺらくては受け入れられませんね。

また、アメリカは、自分の身は、自分で守るという個人主義の国でもありますから、他人との境界線がはっきりしています。自分の責任、他人の責任の持ち分がはっきり分かれています。

日本のように、まだ先輩が働いているから、仕事はきりあげられるけれど、残業するというような、後輩に先に帰られる先輩の心情を察して意味の無い残業をするというようなことはないのです。

さて、私はアメリカで牧師をしていますが、この二つの文化をどう自分の中でも、人に対しても適用して行くかが、駆け出しの8年前は難しかったことでした。

よく、アメリカ人の先輩牧師から、「あなたは、聖霊様の役割をしようとして、神と人の間に割って入っている」と言われました。「あなたは、神ではなく、人なのよ。それ以上その人の問題の中に入ってはダメ」と境界線を引かれました。
「それは、ミニスターとしてのあなたの驕り」「罪よ」とまで指摘されたことでした。

私は、日本の文化をミニストリーに持ち込んでいたことに全く気がつきませんでした。

今となったら、よーく分かります。
具体例が書けないので、読んでいる人にはわかりづらいかもしれませんが。。。

アメリカの文化が良い、とか、アメリカの教会文化の方が聖書的だと言っているのではありません。ある分野においては、日本の教会の方がよく優れている分野もあります。

私の言いたいことは、私がどんな文化の中に生きているか気がつくことがミニストリーをする上で非常に役に立ち、個人の霊的成長、個人の信仰の成熟に役に立つということです。ひいては、他人の信仰を助けるためにもなります。

なぜなら、アメリカ文化に疑問を感じるとき、自分の持って生まれた日本の文化に疑問を感じるとき、戻るところは、聖書の文化になるからです。

真理が何と言っているか。

イエス様なら、こういうとき、どうされるか。ということに帰るからです。

如何せん、文化と言うものは、自分の身体や考えに染み付いているものですから、身体が自然に動いてしまいます。頭が自然にそっちの方向に動いてしまうものです。

ですからこそ、聖書に
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ロマ書12章2節) とあるのですね。

心と言うのは、原語では、Mindマインド、すなわち、私たちの考え、決断を下す場所です。そこを一新しないと、神様の御心は分からないというのです。

今日も、新しい気持ちで神様の御前に行きます。神様、どうぞ、私の考え方を変えてくださいと。神様のものの見方で、天の御国のやり方で、今日もミニストリーができますように。私の考え方を拡げて下さい。と、お祈りするものです。

皆さんは、自分の育った文化の中や、異文化の中で葛藤することはありませんか?


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東京都議会セクハラ野次☆日本の文化?

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私は、アメリカにいますが、日本のニュースは毎日チェックしています。

日本を知るため、日本のために祈るためです。

最近、残念なニュースがありました。それは、東京都議会で女性議員が質問中、男性議員からひどい野次が飛んだことです。

少子化や不妊治療などについての支援に関する質問でしたが、そこへ、「早く結婚した方がいいんじゃないか」「(子どもを)産めないのか」などという内容の野次でした。また、その野次につられてどっと他議員からの笑い声も聞かれました。

アメリカ生活も長くなってきた私には、本当に驚きすぎて、理解に苦しむ野次でした。

海外から記者たちのコメントに、これが日本社会の女性差別を端的に現しているとあった。

私もそれに同意します。

私は、異文化の中で宣教、牧会しています。日本人、アメリカ人を対称にミニストリーをしています。すると、アメリカ文化、日本文化にキリスト教に相反する文化があることに気づきます。また日本文化をただしていかないと、御国的な考え方がなかなか信徒の心に入らないことを体験しています。
文化と言うものは、人と、歴史が作り上げたものです。良い面もあれば、悪い面もあります。良い面は、その国、国民の長所として大切にすればいいと思いますが、悪い面すなわち神様の真理、ご性質にあわないものは手放したらいいと思います。

ミニストリーの中で真理に対する一番の障害がその人の来た国の文化だったりするのです。

と、すれば、このセクハラ野次問題。私たちクリスチャンにとっても人事ではありません。ただ一人のこころない野次を飛ばした一人の人の問題でもなさそうです。

日本人のものの考え方の根底に流れているものがあるのではないでしょうか。

それが、もしかしたら、信仰に影響してはいないでしょうか。それが、もしかしたら聖書の読み方に影響してはいないでしょうか。それが、牧会に影響していないでしょうか。

聖書の中には、たくさんの信仰の女性たちが出てきます。中でも、新約聖書ではイエス様も、直接大きく賞賛した人たちがいました。高価な香油のつぼを割った女性や、子犬でもテーブルから落ちたパンくずはいただきますと言った信仰ある異邦人女性ではなかったか。
イエス様は、井戸のそばで、サマリヤの女に話しかけたのではなかったか。
それらは、全て、現代の日本以上に女性が低く見られている時代の中での出来事だったのではないですか。

とすれば、イエス様は、私たちのお手本ですから、
私たちもこの世の流れに流されてはいけません。この世に住んでも、この世に属してはいけません。神の御国に属するにふさわしい行動をとって行きたいと思います。

この時代になっても、このような言動を公にする人がいるのか。。。とあきれる野次騒動である一方、日本人クリスチャンとして、神様の前に日本のために悔い改めて祈りたいと思います。



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礼拝/神殿の土台

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2014年6月22日日曜日礼拝

音声はyoutubeから、http://youtu.be/ON7It-HH2O0

聖書箇所
Ⅱサムエル24章,Ⅰペテロ2章9節, ロマ12:1

Ⅱサムエル24:1-2
さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。2 王は側近の軍隊の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、その民を登録し、私に、民の数を知らせなさい。」Again the anger of the LORD was aroused against Israel, and He moved David against them to say, “Go, number Israel and Judah.”2 So the king said to Joab the commander of the army who was with him, “Now go throughout all the tribes of Israel, from Dan to Beersheba, and count the people, that I may know the number of the people.”

Ⅱサムエル24:18-25
その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、主のために祭壇を築きなさい。」19 そこでダビデは、ガドのことばのとおりに、主が命じられたとおりに、上って行った。
20 アラウナが見おろすと、王とその家来たちが自分のほうに進んで来るのが見えた。それで、アラウナは出て来て、地にひれ伏して、王に礼をした。
21アラウナは言った。「なぜ、王さまは、このしもべのところにおいでになるのですか。」そこでダビデは言った。「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を建てるためです。神罰が民に及ばないようにになるためです。」アラウナはダビデに言った。「王さま。お気に召す物を取って、おささげください。ご覧ください。ここに全焼のいけにえのための牛がいます。たきぎにできる脱穀機や牛の用具もあります。王さま。このアラウナはすべてを王に差し上げます。」アラウナはさらに王に言った。「あなたの神、主が、あなたのささげ物を受け入れてくださいますように。」
24しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた、主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。18 And Gad came that day to David and said to him, “Go up, erect an altar to the LORD on the threshing floor of Araunah the Jebusite.” 19 So David, according to the word of Gad, went up as the LORD commanded. 20 Now Araunah looked, and saw the king and his servants coming toward him. So Araunah went out and bowed before the king with his face to the ground.21 Then Araunah said, “Why has my lord the king come to his servant?” And David said, “To buy the threshing floor from you, to build an altar to the LORD, that the plague may be withdrawn from the people.” 22 Now Araunah said to David, “Let my lord the king take and offer up whatever seems good to him. Look, here are oxen for burnt sacrifice, and threshing implements and the yokes of the oxen for wood. 23 All these, O king, Araunah has given to the king.” And Araunah said to the king, “May the LORD your God accept you.” 24 Then the king said to Araunah, “No, but I will surely buy it from you for a price; nor will I offer burnt offerings to the LORD my God with that which costs me nothing.” So David bought the threshing floor and the oxen for fifty shekels of silver. 25 And David built there an altar to the LORD, and offered burnt offerings and peace offerings. So the LORD heeded the prayers for the land, and the plague was withdrawn from Israel.

Ⅰペテロ2:9 
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるたるためなのです。But you are a chosen generation, a royal priesthood, a holy nation, His own special people, that you may proclaim the praises of Him who called you out of darkness into His marvelous light;

☆ 神の怒り

V1 さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。Again the anger of the LORD was aroused against Israel, and He moved David against them to say, “Go, number Israel and Judah.
再び主の怒りが燃え上っていたとあります。そして、主がダビデを動かして。。。と書かれていますが、同じ記事が、Ⅰ歴代誌21章にありますが、そこでは、サタンがダビデを誘惑したとかいてあります。聖書には神は人を罪に誘惑されないとはっきり書いています。ですから、ここでの解釈は、主の許しのもとでそれが行われたということです。しかし、すでに主の怒りがあったと言いますから、主は、ダビデの心の中のおごり、人々の高慢さを見て取ってすでに怒っておられたのです。私たちの心というものは、御しにくいものです。私たちの信じていることが態度になり、私たちの態度が結局行動になります。私たちの心で信じていることが神様からずれていたら、態度がずれ、行動が変わります。そして、それは、行動のみを正そうとしても、なかなか難しいのです。ダビデは、誘惑される前から、心が罪に向かっていたのでしょう。
私たちもそういうことはありませんか。自分の心にあることをまっしぐらに追い求め、神様をそっちのけにしているとき。そのような時は、人から止められても諭されても、気が変わることはありません。現に、ダビデは、v3で、ヨワブになぜそのようなことをするのかと問われますが、気を変えることなく、聞く耳もたず、ヨワブを説き伏せます。

(私の証し)

☆ ダビデの罪

ダビデの罪は、心の中に信じているものから始まりました。それが、罪の行動に向かわせたのです。ここで、なぜ国民を数えることが罪深いことだったのか説明します。
それは、当時、人口調査をするということは、数えられた人は、数えた人の所有となることを意味しました。ですから、本当なら、イスラエルは、主の民であって、イスラエルの王は、主の民を任されている羊飼いであるはずですから、主の民だとして、一人ひとり数えた人に対して贖いをしなければいけませんでした。(出エジプト30章)しかし、ダビデはそれをしませんでした。
これは、大変な高慢を意味しています。

私たちも、功績や成功を重ねるときに、神様の力でここまで来たのに、あたかも自分がすごいからここまで来たと、勘違いしていまうことがあります。成功すればするほど、ダビデのような過ちに陥りやすいのではないでしょうか。

しかし、ダビデの心の柔らかいのは、数えた後で、良心のとがめを感じたところです。悪いことをしたと悟ったのです。

However, ダビデは、この罪の結果として、国民70万人が病気で死ぬことになりました。
王であるダビデの罪の影響力は、70万人の死であった。新約の私たちも王である祭司(Ⅰペテロ2:9)と呼ばれている。私たちの影響力も小さくないことを自覚したい。

ダビデは、自分のしたことで民が死んでいくのを見て更に悔いました。

☆ 悔い改めと代価
 
… 預言者ガドが送られて、エブス人アラウナの土地に主のための祭壇を築きなさいと導かれる。アラウナは、V22 自分の持ち物をそのためにただで使ってくださいとダビデに差し出した。しかし、ダビデは、v24 「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」“No, but I will surely buy it from you for a price; nor will I offer burnt offerings to the LORD my God with that which costs me nothing.”
と答え、代価を払って祭壇を築いた。

そして、この場所が後に、ソロモンが神殿を建てる場所となった。この場所はモリヤの山だった。この出来事が、のちの神殿の霊的な土台となった。

☆ 新約の私たちが学ぶことは、礼拝の土台とは何か。

祭壇…神への捧げ物を置く場所。礼拝の場所。贖いの場所。罪あるものは、神に近づけない。動物の死による罪の贖いがあってこそ、神に近づける。そこで初めて礼拝ができる。

礼拝…仕える、仰ぐ、捧げるなどの意味がある。土台は、贖い。 
高価なものを捧げることが含まれていた。アブラハムはイサクを。また、ダビデも費用をかけずに礼拝を捧げたくないと言った。

ダビデが祭壇を築いたのは、モリヤの山であった。ここは、アブラハムがイサクを捧げるよう命じられたところであった。アブラハムがその神の声を聞いたときに、アブラハムは、それが最高の礼拝を意味することを悟った。なぜなら、犠牲が大きい。最善の最高の、唯一の最愛の者を神のために捧げることであったからです。しかし、アブラハムがイサクに手をかけようとしたとき、神が供え物の雄羊を備えて下ったことから、「主の山に備えあり」アドナイ・イルエと呼ばれた。この意味するところは、主を礼拝するつまり、罪を解決するためには、供え物が必要だ、そしてそれは、私たちに払いきれない大きなものである。神ご自身が、その供え物を用意してくださるというメセージが込められていたのである。全人類にとって、それは、イエス・キリストを意味するのである。

ダビデのこの祭壇の場所が、後の神殿の場所となった。神への祭壇が礼拝の土台となった。その土台は、自ら費用を出した、自分にとって価値のある自分の犠牲を伴うものであった。
その土台は、自分の罪を悔いたところからであった。神と和解するために、犠牲を払った捧げ物が必要となった。

私たちは、神にとって、最高の捧げ物をもって贖われた。買い戻された者たちです。イエス・キリストの十字架の贖いによって、いつでも自由に神様に近づくことができる。
そして、この旧約新約に共通しているのは、この土台、価値のある犠牲、キリストに向かわせる、悔いた砕かれた心である。神は、この悔いた心を非常に尊んで下さる。

ダビデの時代は、旧約、私たちは新約の時代に生きている。私たちの礼拝の質というものは劇的に変わった。罪のための贖いをし続ける行為はもう終わった。私たちにとっての礼拝というのは、ロマ12:1生きた供え物として、神の前に捧げられたものとして生きるということである。礼拝の土台は、イエス・キリストである。

我々は、贖いを土台に礼拝する。贖われるために最高のものを捧げるのではなく、最高の者によって贖われたから、最高のものを捧げる、最高の生き方をするのです。ですから、我々は、イエス・キリストの価値を見失ったら、礼拝のライフスタイルを失ってしまう。何が私たちのために捧げられたかが、礼拝の土台であるから。

ロマ12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。Therefore, I urge you, brothers and sisters, in view of God’s mercy, to offer your bodies as a living sacrifice, holy and pleasing to God—this is your true and proper worship.

私たちは、ダビデのように王である祭司です。日々礼拝することが私たちの特徴です。

皆さんは、礼拝の土台がありますか。罪の問題が解決されていますか。また、罪の問題を自分で解決しようともがいていますか。イエス・キリストに解決があります。イエス・キリストを罪の解決者、解放者、救い主として受け入れませんか。あなたには、生きるべき生き方があります。生きていること自体が神への礼拝だと言える人生が待っています。

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真理 ☆

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今日、私の師匠。クリスチャンカウンセラーK先生とおしゃべりをしているとき、
彼女が下記のような深遠な言葉をシェアしてくれた。

"Truth always appears negative at it's first appearance". by Bob Mumford

真理というものは、常に、初めにきいた時は否定的に聞こえるものである。という言葉。
わー、本当だ。

特に、自分自身に関わることは、特にそう。自分の話し方、物事のやり方、癖など、人に指摘されるととってもいやな感じを持ったりするものだ。

しかし、よくよく考えてみると、当たっている。つまり、真理だということが分かる。

ならば、今度は、どう受け止めるか、ということが重要になる。

そして、受け取ったならば、今度は感謝するようになる。言ってもらってよかった。

気がつくことができて良かった、と。それは、その言葉を受け取ることによって、自分が良いように変わったからだ。

人から、言われる言葉もありがたい。第三者にしか見えない自分と言うものは、必ずある。

そして、聖書の言葉もありがたい。何かと自分自身に気づきを与えてくれる。それは、聖書を読んで、自分の心に照らすとき初めて起こることだ。

例えば、次のような言葉を読んだとする。

また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ人への手紙 5:2)

私の心を照らしてみる。私は愛に歩んでいるか。。。いや、自分のことばかりを大切にして、愛の出し惜しみをして歩んでいる。と言うことに気づく。ああ、イエス様のように、愛するために生きたいと思う。
そして、今日の一日の行動が変わってくる。

真理は、心を照らさなければ、意味がない。

私たちは、何気なく、人の話しを聞き、聖書の言葉さえ何気なく読んでいるかもしれない。けれども、それを心に照らさなければ、自分は変わらない。

みみざわりなめんどくさい言葉を私たちの心の耳は、避けているのかもしれない。
だから、ずいぶん長い間真理が聞こえなくなってしまっているのかもしれない。

今日、また神様に祈ろう。どうぞ、私の耳を開いてください。
私は、真理の言葉が聞きたいのです。
私の本当の姿を知りたいのです。
そして、イエス・キリストの似姿に変わりたいのです。

今日の真理はなんでしょうか。

心を開いて聖書を開きます。アーメン



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アメリカ事情☆乞祈祷 June '14

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先週、日本のドラマを久しぶりに見ました。

今は便利なもので、インターネットで過去のドラマをまとめてみることができます。私は、「生まれる。」というドラマを見て、感動しました。私も、身ごもったとしたら超高齢出産の部類ですし、私の夢は小さいときから母になることでしたから、妊婦テーマのお話しには興味がありました。今までにも、ドキュメンタリーなども見ました。本当に、新しい命の誕生は、母子ともに命がけですし、素晴らしい感動があります。生まれて来てくれただけで、ありがとう。産んでくれてありがとうという感謝の気持ちがあふれますね。

最近ショッキングな事実を知りました。

アメリカの有名な食品、飲料会社が堕胎された赤ちゃんの細胞・肉を味付けの調味料にして使っていると言うのです。また、化粧品会社も、若返り成分として使っているということをニュースで知りました。

アメリカには約三億の人が住んでいて、堕胎は年間121万件。毎日3315人の赤ちゃんが殺されています。ちなみに日本の人口は、アメリカの半分、堕胎の数は年間40万件です。件数としてはさほど大差はありません。

アメリカという国は、どこまでも利益優先、資本主義の極みのような国になってしまったと愕然としました。倫理はどこに行ってしまったのだろう。。。

一度、堕胎のドキュメンタリー映画サイレントスクリームを見たが、バケツに無造作に積まれている小さな赤ちゃんたちの山がっ映った。むごかった。誰かが、この赤ちゃんの山を見て、商売になるというアイディアに行き着いたのだろう。それが、味付けの調味料を作る会社と化粧品会社。。。。

ある人は、私たちも動物の脂を使うし、動物を食べていると言って反論した。
でも、私たちは、動物じゃない。人間だ。動物とは違う。神様の息のかかった、永遠霊を持った存在です。

どうぞ、アメリカのために祈ってください。

アメリカは、自由の国です。言論の自由は保障されています。日本とは自由の度合いがはっきり違います。しかし、自由の中をどう生きるかということは、しっかりとした思想がなければいけません。その思想は、神の言葉ではなかったのでしょうか。アメリカでは、必ず、大統領は聖書に手を置いて誓うのではなかったですか。神の指針なしには、無法状態です。

中国でも、堕胎した赤ちゃんからとった肉でサプリメントを作っていたと問題になっていましたが、アメリカと中国と何が違うんでしょうか。

利己主義、利益優先は、神の言葉の真反対を行きます。神は、誰でも人の先に立つものは、みなのしもべになりなさい。と言われます。殺してはならない。と言われます。自分を愛するように隣人を愛しなさい。と言われます。神は愛です。と、愛のないものには神は分からないと。

私は、心から憂います。悔います。

どうぞ私と一緒に祈ってください。この国が悔い改めに導かれるように。

驚くことに、統計では、堕胎された赤ちゃんの親の宗教は、60%がカトリックを含むクリスチャンというくくりの人たちです。残念です。

ぜひお祈りください。

日本にも入ってきていると思いますが、殺された赤ちゃんの味付けを使っている会社、製品は分かっているだけで下記の通りです。

PEPSI BEVERAGES ペプシ社のもの
- All Pepsi soft drinks 全てのペプシドリンク
- Sierra Mist soft drinks
- Mountain Dew soft drinks マウンテンデュー
- Mug root beer and other soft drinks
- No Fear beverages
- Ocean Spray beverages オーシャンスプレー
- Seattle’s Best Coffee シアトルズペスト
- Tazo beverages  タゾティー
- AMP Energy beverages
- Aquafina water   アクアフィーナ
- Aquafina flavored beverages
- DoubleShot energy beverages
- Frappuccino beverages  フラペチーノ
- Lipton tea and other beverages リプトン紅茶、他の商品
- Propel beverages
- SoBe beverages
- Gatorade beverages
- Fiesta Miranda beverages
- Tropicana juices and beverages トロピカーナ

NESTLE PRODUCTS ネッスルの商品
- All coffee creamers   コーヒークリーマー
- Maggi Brand instant soups, bouillon cubes, ketchups, sauces, seasoning, instant noodles  マギーのスープ、固形スープ、ケチャップ、ソース

KRAFT – CADBURY ADAMS PRODUCTS クラフトの商品、ガム
- Black Jack chewing gum
- Bubbaloo bubble gum
- Bubblicious bubble gum
- Chiclets
- Clorets
- Dentyne
- Freshen Up Gum
- Sour Cherry Gum (Limited)
- Sour Apple Gum (Limited)
- Stride
- Trident

CADBURY ADAMS CANDIES カッドバリーアダムスの商品 ガムやグミ
- Sour Cherry Blasters
- Fruit Mania
- Bassett’s Liquorice All sorts
- Maynards Wine Gum
- Swedish Fish
- Swedish Berries
- Juicy Squirts
- Original Gummies
- Fuzzy Peach
- Sour Chillers
- Sour Patch Kids
- Mini Fruit Gums

OTHER CADBURY ADAMS PRODUCTS あめちゃん
- Certs breath mints
- Halls Cough Drops

NEOCUTIS PRODUCTS しわとりクリーム
This company produces anti wrinkle creams that contain cells from a 14 week gestation aborted male baby. Following is the list of the creams, but we recommend a full boycott of all Neocutis Products.

-Bio-Gel Prevedem Journee
-Bio-Serum Lumiere
-Bio Restorative Skin Cream

VACCINES 予防接種
-MMR II (Merck)
-ProQuad (MMR + Chickenpox — Merck)
-Varivax (Chickenpox — Merck)
-Pentacel (Polio + DTaP + HiB — Sanofi Pasteur)
-Vaqta (Hepatitis-A — Merck)
-Havrix (Hepatitis-A — Glaxo SmithKline)
-Twinrix (Hepatitis-A and B combo — Glaxo)
-Zostavax (Shingles — Merck)
-Imovax (Rabies — Sanofi Pasteur)

****I posted about fetal tissue in vaccines last year if you are interested in learning more.

OTHER MEDICINES 他の薬
-Pulmozyme (Cystic Fibrosis — Genetech)
-Enbrel (Rheumatoid Arthritis — Amgen)

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罪から来る結果 The consequences of a sin

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2014年6月1日日曜日礼拝

音声はyoutubeから、 http://youtu.be/c8DHIskr1NE

Ⅱサムエル13-16章

テーマ聖句 Ⅱサムエル15:30

ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。So David went up by the Ascent of the Mount of Olives, and wept as he went up; and he had his head covered and went barefoot. And all the people who were with him covered their heads and went up, weeping as they went up.

先々週は、世代にわたる祝福の話しをダビデの生き方から話しました。今回は、世代にわたる罪の呪い/結果についてお話したいと思います。これもまたダビデの人生からみていきます。

世代にわたる祝福と呪いについては、数々の聖句が旧約聖書にありますが、一つ読みますと、

出エジプト20:5,6

5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。you shall not bow down to them nor serve them. For I, the Lord your God, am a jealous God, visiting the iniquity of the fathers upon the children to the third and fourth generations of those who hate Me, 6 but showing mercy to thousands, to those who love Me and keep My commandments.

罪の結果が、次の世代、また次と四代までわたるということですが、

私たちは、アダムとエバから罪の性質を引き継いできています。二歳の子でも誰にも教えられなくても嘘を付けるようになります。私は、五歳の時に父親と別居しました。妹はその時生まれたばかりでした。妹は、全く父と一緒に暮らしたことがないのですが、妹が一番父に似ています。やさしいところ、人に対して寛容で分け与えるところ、そして、怒りのポイント、枕元に本を積んで寝るところ。本を最後まで読まないところなどなど。人は、一緒にいるから似てくるのかと思いますが、血すじというものは、それ以上のもののようです。

今回の箇所は長いのであらすじを説明します。

13-16章のあらすじ

★ダビデの罪

人妻バテシェバと罪を犯し、その夫を殺す。ダビデは、神の前に悔い改めた。しかし、このことを良く思っていない人たちが多くいた。自分の息子たちも含めて。これが全ての始まりであった。神は、赦されたが、ダビデは、罪からくる結果に付きまとわれることになる。
みなさんも、経験があるのではないでしょうか。人と仲たがいして、神の前に悔い改め、神に赦されますが、相手の人との信頼関係は、また一から立て直すことになりますね。

ダビデの罪の影響で、自分の家庭で事件が起きる。
異母兄弟アムノンがアブシャロムの妹タマルを犯す。ダビデは、激しく怒ったが(13:21)、このことに対して何も対処をしなかった。アブシャロムも何もしなかった。二年後までは。。。二年後に、アブシャロムは、アムノンを殺害する。ダビデは、悲しみ、怒った。(13:30)

Ⅱサム13:39 ダビデ王はアブシャロムに会いに出ることはやめた。アムノンが死んだので、アムノンのために悔やんでいたからである。And King David longed to go to Absalom. For he had been comforted concerning Amnon, because he was dead. 

37節では、ダビデはいつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでした。David mourned for his son every day.

ダビデは、バテシェバとの罪、そして、その子の死の後、消極的になっているのがみえる。羊の毛の刈り取りの祝いにも出て行かない。そして、自分からアブシャロムに会うこともやめた。聖書には書かれていないが、「いつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでいた]ということから、かなりの葛藤があったのだろう。自分の罪の結果が、自分の子の死に続き、どんどん広がっていくのをみるため。バテシェバとの第一子の死の時は、子どもの死後、すっきりとして食事をしている。自分の罪の結果と裁きを受け取り、悔い改めもし、前にすすんでいる。しかし、今回は、自分の罪のせいで、子どもに影響が出てしまったそして、子どもの一人が死んだということで、親としてかなりの辛さがあったのだと思われる。

ダビデは、アムノンの罪と、アブシャロムの罪に対して、何も対処しなかったことが伺えるが、一体どんな気持ちで沈黙していたのだろう。

★アブシャロムの罪

アブシャロムは、兄弟を殺した。そして、その後、巧みに人々を騙し、父の王座をのっとることになる。15章、16章。反乱をおこした。

子どもと言うものは、理不尽なことが起きた時、どうしたらいいか、いつも指導、裁きを求めている。理不尽なことが起きた時、親がどう対処しているかを見たい。それが、人生の知恵となる。アブシャロムは、父の裁きを望んでいた。父らしいことをして欲しかった。

ダビデは、自分の罪故に、子どもの失態に繋がったと思っていただろう。バテシェバにしたと同じことを子どもがしたわけだ。裁きにくかったのかもしれない。

父の裁きを見られなかったアブシャロムは、父を恨み、自分が今度は、裁き主となるべく自ら王となった。

アブシャロムについていった人たちは、ダビデ王についてよく思ってない人たちであった。やはり、ここでもバテシェバとの罪がここにも影響していたのだった。

また、ダビデは、15:31 で、ダビデの信頼していた部下アヒトフェルがアブシャロムの謀反に加担していることを知る。ダビデは詩篇にもこの辛さをつづっている。このアヒトフェルは、バテ・シェバの祖父でした。このアヒトフェルAhithophelは、後にアブシャロムに、ダビデのそばめたちのところに入るように助言している。ダビデのしたことに対する復讐だ。

★ダビデは逃げた

Ⅱサムエル15:10-11 -14

ダビデは、バテ・シェバの子どもの死の後、かなり弱腰になっていた。戦いにも出なくなり、人とは距離を置き。アブシャロムの反乱に対しては、自分の町を守らずに、要塞があるにも関わらず、町から逃げた。

どうして、直面対決しなかったんだろう。と思う。これも、自分の罪の結果を悔やんでのことなのだろうか。わが子と戦い血を流すよりは逃げる方を選んだ。

ダビデは、このときにも多くの詩篇を書いている。 
詩篇4,11,41,42,55,61,63

神様だけが隠れ場、神様による頼むと詠っている。神様への心の叫びがつづられている。詩編3を読んでみましょう。

そして、ここでテーマ聖句にかえります、 Ⅱサムエル15:30

詩篇三篇の、そのような気持ちでオリーブ山を泣きながら登った。ダビデは、神の前に悔いていた。そして、悔いてあからさまに泣ける心の柔らかい人であった。なりふり構わず、神の前に踊ったダビデは、なりふり構わず、神の前に悔いて泣いている。
私たちは、みな完全な人は一人もいません。人間ダビデの生き方に共感できるのではないでしょうか。

一つ、学べることは、たとえ自分の罪のために苦しんだとしても、神様にしがみついて生きることができるということです。神様を求め、また礼拝し続ける。

★新約の私たちには、どのような恵みがあるかご存知ですか?

★イエス様 

イエス様は、ダビデの家系、ダビデへの神様の約束の成就。永遠の王位を持つ方。

この方も、30節のオリーブ山を登られた。

十字架に掛けられる前にゲッセマネで祈るためであった。。
非常な悲しみを持ちながら、この山を登った。

ダビデは、自分の罪の結果を悲しんで泣いた。しかし、イエス様は、私の罪、あなたの罪、全人類の罪の結果を背負って、登られ。その罪の結果を悲しみながら、登られた。

私たちの希望は、最終的な罪の結果は、イエス・キリストが請け負ってくれたということを受け入れるときに与えられる。

ガラテヤ2:20

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。I have been crucified with Christ; it is no longer I who live, but Christ lives in me; and the life which I now live in the flesh I live by faith in the Son of God, who loved me and gave Himself for me.

私たちは、どのように世代にわたる罪の結果・呪いから自由になれるのでしょうか。自分の中に、どうしようもない、親のいやな部分とそっくりなところはありませんか。また家系の中に繰り返される問題、罪の傾向はないですか。それを見つけたときが、解放の時です。それにきづくなら、それを先のみことばに適用することができます。

私の家系と私の罪として、罪を告白し、キリストの十字架の業による赦しを受け、その繰り返される罪の呪いは全部イエス様が引き取ってくれたことを信じ、宣言し、金輪際この罪とは無縁であることを宣言し祈るのです。

それだけで本当に変わるのかと思うかもしれませんが、本当に変わります。私たちの神様は超自然的です。そして、真理に従うなら、そのとうりにしてくださいます。キリストの血は、どんな問題にも有効です。

私たちは、大胆に恵みの御座に近づくことができる。赦していただける。また、罪の結果はイエス様が引き受けてくれたから、この罪とは金輪際無縁であると宣言することができる。そして、聖く生きることができる。ここに、私たちの希望と実際的な力があるのです。イエス様を信じましょう。



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真理の力 The Power of The Truth

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シー・エス・ルイスの言葉に次のような言葉があります。

“If you look for truth, you may find comfort in the end; if you look for comfort you will not get either comfort or truth only soft soap to begin, and in the end, despair.” ~C. S. Lewis

「もしも、あなたが真理を求めるなら、あなたは最終的に慰めを得るようになるだろう。つまり、もしもあなたが慰めを求めるならば、慰めも真理にもどちらにも到達しないであろう。それは、柔らかくなった石鹸を手でつかもうとし、まるでそれが手からするすると出て行き、結局は手の内に何も残らないのと同じである。」

これは、本当だと思った。私は、若いころ、慰めを必死で探した人間でした。それは、心の傷から来ていました。誰か私をわかって欲しい。誰か私の傷を癒して欲しい。私を受け止めて欲しい。自分を慰めると思われることには何でも手を出したものだった。
お酒を朝まで飲んでみたり、タバコをすってみたり、異性に求めたり、友人関係に求めてみたりした。けれども何一つプラスにならなかった。

そして、クリスチャンになった。

クリスチャンになって、耐えられない試練が何度か来たが、とうとう、もうこれだけは無理だと思ったとき、また、慰めをひたすら求めている自分に気がついた。

それに嫌気がさした時、神様のことばが心に刺さった。

真理とは、諸刃の剣のように鋭い。私の思いや、過去、傷、全て切り分けることができる。
真理に向き合うことは、自分に向き合うことでもある。
そして、真理を愛し、真理に従うときに、癒しと解放を経験した。
真理に向き合うことは、決して簡単なことではない。自分の汚さを目の当たりにするから。

しかし、真理に従う者には、イエス・キリストの恵み、赦し、そこからくる癒しと解放が約束されている。

今日、このシー・エス・ルイスの言葉を目にしたとき。ああ、本当だ。と私の過去を思い出した。
そして、いかに神の真理が素晴らしいか。
それは、鋭い諸刃の剣のようであるが、私たちに蜂蜜のようにも甘い。
この二面がある。

神の真理を恐れ、深入りしたくないという人もいるかもしれない。でも、それは、もしかしたら、自分をあまり見つめたくない。という心理からきているのかもしれない。

神は、信頼するものを決して失望させるかたではない。

神様の真理を求めていこう。

私は、今日そう思った。

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