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ぼくしのめがね

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御国を受け入れられなかった人たち People who couldn’t acc

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2014年7月20日日曜日礼拝 音声は、youtubeから、http://youtu.be/E4cb-xteqHY

マルコ5-7 章

今週は、マルコ5章から7章を読みましたね。イエス様のミニストリーかいよいよ盛り上がって、多くの人が癒され、悪霊が追い出されました。また弟子たちもともにミニストリーをするようになりました。大きな広がりが見えます。イエス様がどこに行っても人だかりができるほどで、イエス様と弟子たちは、ご飯を食べる時間さえ無いときもありました。ですから、努めて、休める時は、休み、神様と二人の時間を作ろうとされ寂しいところに一人で行かなければなりませんでした。

多くの人々がイエス様の御国の福音にふれ、御国を体験しました。しかし、全員が快く受け取ったわけではありませんでした。今週読んだ箇所で、意外な人たちが、御国を拒んでいる、または、受け取りきらなかったことを見ました。次の三つのお話から、何が彼らをしてイエス様の御国の福音を拒ませたのかを学び、私たちの信仰に照らし合わせてみたいと思います。

① 二千頭の豚に入れられた悪霊の話し

マルコ5:16-17
すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。And those who saw it told them how it happened to him who had been demon-possessed, and about the swine. 17 Then they began to plead with Him to depart from their region.

イエス様は、悪霊につかれて、暴れる男がいました。この人は有名でした。その男からイエス様は、大勢の悪霊を追い出しました。そして、この悪霊につかれていた人は、すっかり正常にもどりました。それを目撃した人たちは大変驚きました。豚の飼い主は逃げ出してこの出来事を町々で告げ知らせました。そして、こんなことがおきたんだよ、と聞いた人たちが言った言葉が17節の言葉です。イエス様にこの地方から離れてくれるように言いました。彼らは、このすごい出来事を見たわけでもありません。悪霊追い出しは、画期的な出来事だった。

彼らは、喜びもしません。しかし、イエス様を拒んだのです。なぜでしょうか。
それは、豚二千頭のことがあったからです。この人たちは、一人の人が大勢の悪霊に憑かれてていたのが解放されて正常になることよりも、二千頭の豚、確かに多くの豚ですが、その財産を失うことの方を恐れたのです。Offended at . イエスの御国の福音を受け入れると、財産を失う。犠牲を払ってまで、イエスの御国はいらない。間に合ってます。と言うことなのです。豚二千頭とは言いませんが、これは必ずしも間違ったチャレンジではありせん。イエス様を信じる、御国を受け入れるには、犠牲が伴うものです。

※日本で、よくクリスチャンになったら酒もたばこものめないから信じたくないという人がいる。神の宮を清く保つために、自主的にそのようなライフスタイルを選んでいる人たちを見てのみ、言われる言葉。そこだけ、取り上げて躓くなんてもったいないことだ。

私も、信じる時に、家族はどういうかな、友達はどうかな、と心配しました。信じると案の定、親や親戚はかんかんに怒り、勘当されそうになりました。殴られもしました。友達たちにも、あざわらわれたり、交流がなくなった人もいました。けれども、これが、私の信仰の結末ではありませんでした。家族はみなイエス様を信じ、現在は救われています。親戚もみんな私たち家族を信頼し尊敬してくれています。また当時の友達も去っていった人もいれば、私の働きを応援してくれている人たちもいます。
また中には、最近救われた友達までいます。イエス様に従うことは、確かに犠牲はありますが、報いも大きいのです。しかし、犠牲を払ってまでも神を求めないならば、得られない祝福というものがあります。

聖書マタイ13:44
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。“Again, the kingdom of heaven is like treasure hidden in a field, which a man found and hid; and for joy over it he goes and sells all that he has and buys that field.

人は、価値ある物を見つけたら、何を置いても手に入れるというのです。そして、御国というものは、そんな価値があるというのです。
みなさん、神もまた、そのようになさった方です。皆さんに価値があるから、素晴らしく造っておられたから、何をもなげうってあなたを買い戻すためにイエス・キリストという神の一人子を十字架につけられたのです。大きな犠牲を払ってあなたを買い戻したのです。

一番目は、犠牲の無いところには神の御国の祝福は無い。

② イエス様が郷里で力ある業が行えなかった話し

マルコ6:4-6
イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。But Jesus said to them, “A prophet is not without honor except in his own country, among his own relatives, and in his own house.” 5 Now He could do no mighty work there, except that He laid His hands on a few sick people and healed them. 6 And He marveled because of their unbelief. Then He went about the villages in a circuit, teaching.

イエス様は、郷里に帰ってミニストリーなさろうとしました。しかし、人々は、奇跡を体験することができませんでした。その人々というのは、イエス様を昔から知っている人たちでした。いや、知っていると思っていた人たちでしょうか。彼らは口々に言いました。

マルコ6:3
この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。Is this not the carpenter, the Son of Mary, and brother of James, Joses, Judas, and Simon? And are not His sisters here with us?” So they were offended at Him.

私は、イエスを知っている、彼がそんなにたいした人であるわけが無い。と、彼らは、村の大工の息子を尊敬することができませんでした。そして、御国の祝福を受け取ることができませんでした。敬意のないところに御国の祝福はありません。神を敬い、神の人を敬い、兄弟姉妹を敬うところに神の祝福が注がれるのです。

私が、アメリカに来て、特に、ホライズンという預言的な教会で驚いたことは、若い人や経験の無い人でも堂々とみんなの前で預言していることでした。また何よりも、それを牧師が神に対する恐れを持って聞いているところでした。牧師もまた囲まれて、信徒たちに手を置いてもらって毎週礼拝前に祈られていました。そして、もちろん、預言も信徒たちにされていました。これは、素晴らしいことだと思いました。
礼拝の中で、一度、アルコール中毒のホームレスの人に、聖霊がそぞかれ、預言の言葉が教会と牧師に与えられました。みな、心を開いて受け取りました。

互いに、人間的にどんなに成功しているかを敬意の基準とするのではなく、神の人であるということで互いに尊敬しているのです。子どもであっても神の言葉を取り次ぐことを見ます。そして教会全体が引き上げられ、神を恐れます。これは、素晴らしい御国の法則だと思います。

言いにくいですが、日本の教会では、これは難しいことです。考えさせられますよね。
イエス様は、彼らの不信仰に驚かれた、とあります。敬意の無い態度は、信仰の芽を摘んでしまうのです。信仰の妨げになるのです。違う言葉で言えば、人の面目、地位、体裁を気にしていては、本当に神様のしておられることを見ることができないのです。

二番目は、敬意のないところに御国の祝福は無いです。

③ 弟子たちがイエス様を幽霊だと勘違いした話し

マルコ6:52
というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。For they had not understood about the loaves, because their heart was hardened.

v48-49 真夜中三時ころ、船をこぎあぐねている弟子たちを見に、イエス様は、湖の上を歩いて彼らの船のそばまで来た。すると、弟子たちは、幽霊だと思い叫び声を挙げた。
そして、イエス様は、「わたしだ、恐れるな」と、言われた。そして、イエス様が船に乗られると、風がやんだ。弟子たちは、非常に驚いた。

私は、このv52が心にぐっさり来ました。弟子たちは、いつもイエス様と一緒にして、いろいろな奇跡を見てきました。しかし、イエス様が歩いて近寄られてきたとき、それがイエス様だと分からなかったのです。イエス様の心は、弟子たちを守ることであり、優しい気持ちで見に来られたのに、弟子たちにとっては、幽霊としか見えなかったのです。

私たちにも、このようなことがあるのではないでしょうか。今まで、信仰生活してきた、奇跡も体験してきた。しかし、悟りがない。また、試練がきたら恐れ惑う。小さなことで、信仰が分からなくなる。

悟りとは、物事の真の意味を知ること。見ていることと、心で信じていることが一致すること。ギリシャ語では、to set or bring together の意味。

それは、今までの奇跡について悟っていないからです。奇跡や、神の助けを経験する人は多いです。しかし、悟る人は少ない。奇跡の大小ではありせん。小さい祈りの答えが与えられた人でも、よく悟っている人もいます。

弟子たちは、一番イエス様のそばにいて、一緒に働いていても、まだ、悟っていませんでした。私たちも、このようにならないようにしたいと思います。教会に行っているが、イエス様をしらないということが無いようにしたいと思います。瞑想、静止の時を持つことは、とても大切です。私たちに悟りをもたらすからです。

三番目は、悟りが無いところに、継続的な御国の祝福が無い。です。

みなさんは、この三つからチャレンジを受けましたか。
今週、この三つ、また今日心に示されたことを瞑想しながら一週間をすごしましょう。
イエス様について悟りが与えられますように。



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