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復活の体の希望 Hope for our resurrected body

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復活の体の希望 Hope fo...
2021年4月11日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ


先週は復活祭でしたね。
最近は色々と体や、身体のもろさ、はかなさ、死と命の距離の短さなんて言うことを考えさせられていました。今日は、その体について焦点を当ててみたいと思います。キリストは復活なさいました。

★初穂としての復活 Resurrection as a Firstfruit

ⅠコリントCorinthians 15:20-22
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。 But Christ has indeed been raised from the dead, the firstfruits of those who have fallen asleep. 21 For since death came through a man, the resurrection of the dead comes also through a man. 22 For as in Adam all die, so in Christ all will be made alive.

初めの人アダムは土から造られ、肉体を持った人の第一号となりました。この体は神さまと繋がっている限り死なないようにできていました。
しかし、罪が入って死ぬようになりました。すなわち土に帰るようになりました、
すなわち、朽ちてしまい土と同化してしまうのです。
イエス様は初穂として復活されました。これは初穂というからには初めての事なのです。
イエス様はラザロを蘇生させたり、聖書の中でも蘇生させられた人は何人かいますが、イエス様の復活の体とは違い、彼らの体は生き返ってもまた朽ちる体で生き返っていたのです。
イエス様が初穂と言うことは、それに続く人たちがいるということ、すなわち、私達もイエス様と同じような復活の体が頂けると言うことになります。

★コリント人のマインドセットA Mindset among Corinthians
コリント人たちは霊的には賜物に優れていましたが、非常に教えにおいて混乱していました。
体の理解についても、グノーシスに影響され、霊は善、肉はつまらないものとして認識されており、イエス様の復活の意味や必要性、がずいぶん下に見られていました。その真理がグノーシスの考えに浸食されていたのです。それでパウロは断固として強く時間をかけて説明しているのです。またヨハネも、私たちの見聞きして触ったイエス様を強調していました。それは、同じ理由からです。

私達現代のクリスチャンもよくよく注意しないといけません。いつの間にか、私たちの体が霊以下、魂以下のような扱いをしてはいないでしょうか。霊ばかり強調して、体のケアなどはおろそかになりがちというのも、霊肉魂が切り離せないほどに統合されているのが人間であることを忘れています。トラウマの癒しに従事しているとこの事実を忘れては治療ができません。

★キリストの復活の体Christ’s resurrected body
では、キリストの復活後体はどんなものだったのでしょうか。
キリストは復活後、天に帰られるまで、四十日間現れて多くの人達に生きている体で接されました。
各福音書に記されていますが、
●まず私たちの体と同じ体の特徴はOur body/Earthly body
①触れることが出来た。女たちもイエス様にすがりつきました。トマスも指を胸の傷に手を差し込みました。私達と同じように傷がありました。
②ものを食べることが出来た。イエス様は弟子たちに朝ご飯をふるまい魚を一緒に食べているシーンもあります。
③イエス様であると認識が出来る姿である。地上の特徴そのまま。

●私達と違っている点は、Christ’s resurrected body/Heavenly body
①物を通り抜けることが出来た。ドアをあけずに部屋に入られるシーん。
②瞬間移動が出来た
③空にそのまま上がって天へ移動された

聖書に復活の体、天的な体のことを「栄光の体」と表現されますが、まさにイエス様の復活後の体は栄光の体であり、地上の朽ちる私たちの体の特徴と、天的な超自然的な特徴を両方兼ね備えたものであるようです。そして、イエス様はその栄光の体で天に帰られ、御父の右の座におられるのです。

●傷について Wounds
イエス様は脇腹の傷が、手術や塗ったり手当しないで、傷跡がぱっくりあいたままで癒されていました。私は、ここにとても励ましと慰めを感じるのです。私たちの傷も、痛みも、苦しみも栄光の体に含まれている、栄光に飲み込まれるのです。弱さが栄光に文字通り変革するのです。

★朽ちるものから朽ちないものへ変革Transformed from perishable to imperishable
それについての聖句を見てみましょう。
1コリントCorinthians15:35-54 を開きましょう。長いので、後でご自分でお読みください。ここでは、
今日は、42-51節だけを読んでみましょう。パウロが復活の体の重要性について熱く語っています。

35 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」36 愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。37 あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。38 しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。39 すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、41 太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。

42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。46 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。48 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。49 私たちは土で造られた者のかたを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

★キリストの復活を信じる Believing in Christ’s resurrection
キリスト教は、変革から始まり、信仰生活の中で日々変革し、そして、死を経て、またキリストと出会うことで、天的なものと融合するという永遠の変革に入ります。
業でも、頭の学びでもなく、私達に必要なことは、
イエス・キリストを信じることであり、それは復活を信じることも含まれます。
肉、地上の体は悪ではありません、また霊よりも劣ってるのでもありません。体があるので苦しみますし、痛みを感じます。しかし、身体があるから霊が宿ることができ、人とともに食べ、喜び、共に泣き、互いに優しくできるのです。
神はキリストによって完全に、地と天を一つにしてくださいました。あなたの体が大切なんです。

私達は、傷があってもそれが栄光に含まれ、あなたらしさというユニークさを保ちながら、イエス様の復活の体のような霊的な部分とこの地上的な肉体の両方を兼ね備えた形で永遠に神様と兄弟姉妹と過ごすようになるのです。
ここに希望を置いていきましょう。
#体 #復活 #礼拝

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苦しみからの贖い Redemption of body and suffering/trauma

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苦しみからの贖い Redemp...
2021年4月4日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ
https://youtu.be/LotgxDb1Bis


イースターおめでとうございます。何と二回目のオンラインでのイースターとなりました。皆さんの上に神の変わらない守りがあることを感謝します。
さて、今年のイースターのお話しはうめきについてです。

うめきというのは、あまり人とシェアすることもなく、一人で苦しむ時に言いようもない声というか胸の内、腹の底に動く感情であると思います。文字通り、苦しい時には声がでてうめいたりします。熱が続いて苦しい時、交通事故で身体が痛くて動けない時、頭や胸を強打したとき、ものすごく深い悲しみを感じる時などに私達はうめきます。そのうめきは、必ずしも大々的に人に見られるものでもありません。人知れずうめきます。

イエス様も呻かれたことをご存知でしょうか。ラザロの死と蘇りから見てみたいと思います。ヨハネの11章です。今日は全ては時間の関係上読みませんが、みなさんお話しはよくご存知と思います。

★イエス様のうめき
イエス様はラザロの死に際して、呻かれました。
ヨハネJohn 11:33-35
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」35 イエスは涙を流された。
Therefore, when Jesus saw her weeping, and the Jews who came with her weeping, He groaned in the spirit and was troubled. 34 And He said, " Where have you laid him?"
They said to Him, " Lord, come and see."
35 Jesus wept.

ラザロの姉妹のうめきは、なぜラザロの死際にイエス様がいてくれなかったのか。イエス様さえ一緒にいてくれたら、助かったのに。という、肉体的な距離についてでした。

イエス様のうめきは少し違っていたようです。
私達も、突然友が死んでしまった時、一番思うのは、一緒にいて楽しく関係をもっていたかったということです。いなくて寂しい。関係が持てないと言うことが一番のうめきであり悲しみです。

ラザロはイエス様の近い友達でしたから、イエス様は、突然に、そのような関係が死によって奪われたことに、罪と死の力に対しての憤りとともに呻かれたのではないでしょうか。

★死んでも生きる永遠の命とは
ヨハネJohn11:25-26
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」Jesus said to her, “I am the resurrection and the life. The one who believes in me will live, even though they die; 26 and whoever lives by believing in me will never die. Do you believe this?”

みなさん、死なない命、永遠の命について考えたことがあるでしょうか。
永遠の命というものは、ただ、永遠に生きると言うことではない。
神と繋がり、神との関係を深く持ちながら生き続けることです。すなわち、永遠の命=神との関係なのです。
ですから、今、キリストを信じて、誰でもキリストがあなたの罪のために十字架にかかって身代わりに死なれ、葬られ、蘇られたことを信じるなら、あなたは永遠の命がもらえるのです。
すなわち、イエス様との繋がりを信じることで持ち、その関係を永遠に持つことなのです。

ですから、関係を今、キリストと持つことが永遠の命その物なのです。

★トラウマの贖い
●映画から
鞭打たれたり、手や足にくぎを打ちつけられる時、また、木にかけられてもがかれている時に、うめき声というのが映画のイエス様は出されています。
聖書に記述されているところは少ないのですが。

何週間か前にも話したのですが、私たちの救い、成長、癒しはキリストに自分を見出すことであると言いました。イエス様は、苦しみの中で呻かれました。あなたが人知れずうめくように、イエス様も呻かれました。

心理学的に話すと、トラウマの癒しのためには、うめきが一つのプロセスとなります。体の中にうごめく苦しみを感じなければ癒しには到達できないのです。何も感じないで感情の癒しを得ることは無いのです。
トラウマの癒しの先駆者の一人、Peter A. Levineは、著書Walking the Tiger の中で、昔からある土着の信仰や癒しの方法でも、トランス状態で体に苦しみうめきを体験したりして癒しに導くとあります。キリスト教でも、聖霊に触れられた時に癒しが起きますが、みんな何が起きているか頭では分かりませんが、聖霊様が臨んでミニストリーしてくれている間、身体の中にうめきを感じることが多いです。私の体験はそうでした。
イエス様が十字架前に、死に面して感じられたうめき、十字架上で感じられたうめきは、私たちの癒しのためであったのです。イエス様は、私のためにうめいてくださったのです。
自分のうめきをイエス様のうめきの中に見る時に私たちは癒されるのです。

★聖霊様のうめき
今は、イエスを信じる者たちの内に聖霊様が宿られます。聖霊様のうめきが次のように記されています。
ロマRomans 8:22-23,26-27
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。22For we know that the whole creation groans and labors with birth pangs together until now.
23 Not only that, but we also who have the firstfruits of the Spirit, even we ourselves groan within ourselves, eagerly waiting for the adoption, the redemption of our body.
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
26 Likewise the Spirit also helps in our weaknesses. For we do not know what we should pray for as we ought, but the Spirit Himself makes intercession for us with groaning’s which cannot be uttered.
27 Now He who searches the hearts knows what the mind of the Spirit is, because He makes intercession for the saints according to the will of God.

聖霊様は今日も私たちのためにとりなし、回復と癒しのためにうめいておられます。

★贖いは今日あなたのものに
ヨハネJohn19:30
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。When he had received the drink, Jesus said, “It is finished.” With that, he bowed his head and gave up his spirit.

贖いの業は、全て完了しました。私達がそれに付け足すことはできません。私たちの働きで贖いや癒しが完成するのではありません。
イエス様がしてくださったことを信じる、受け取るだけでいいのです。そのままの姿で、主の前に出ましょう。自分の弱さ、悲しみ、うめき、のままで主に向かいましょう。



#イースター #復活祭 #礼拝

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受難週の始まり~ホサナ~ “Hosanna” In the beginning of passion week

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今週は、過ぎ越しの祭、すなわち... 今週は、過ぎ越しの祭、すなわちイースターの一週間前で、しゅろの日曜日といいます。英語では、パームサンディです。なぜそういうのかは、下記ご参照ください。
2021年3月28日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ


ヨハネJohn 12:12-16
12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。

ヨハネ黙示録Rev. 7:9-10
9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

★聖書の預言としるしはレイヤーになっている
先の二つのみ言葉は両方似ていますね。しゅろの枝とイエス様をお迎えするところ。黙示録では、イエス様の再臨と天での礼拝が記されています。
聖書のメッセージは不思議なものです。時間を超えて、時代を超えて人種を超えて伝わります。聖書内で暗示されているストーリー、預言なども時間を何層にして成就されています。ですから、今日のこの話も、あなたの今の人生に当てはめ事が出来るのです。これが預言と生きいてる神の霊の働きです。

★過ぎ越しの祭の六日前の出来事
イエス様は、ラザロをよみがえらせ、またマリアに油を注がれ埋葬の用意をされた上で、エルサレムに向かいます。過ぎ越しのためでした。過ぎ越しの祭は、出エジプトの出来事から来ており、パロが全ての初子を殺すと命じましたが、家のかもいに動物の血を塗った者たちは助かりました。血による贖い、血によって人の命が救われる、奴隷の生活から解放された、ということを覚える、救いと贖いの祭です。まさに、イエス様は、ご自分を人類の救いのための血、生け贄としてその場所、エルサレムに入られたのです。
イエス様はどんな気持ちでエルサレムに入城されたのでしょうか。これからやってくる苦しみや裏切りを知りながら、人々に王として迎えられ盛大に歓迎された。
イエス様はボランティアリーに、自ら苦しむことを選ばれた上で、過ぎ越しのために町にやってきたのでした。

★大歓迎をする群衆
イエス様は、エルサレムに大歓迎されながら入っていきました。
◎しゅろの枝
しゅろの木の枝をもって、他の福音書では自分たちの上着を脱いでそれを道に引いてイエス様が通られる花道を作っています。
しゅろの枝は、勝利の象徴とされていました。圧倒的な勝利者であるイエス様を迎え、祝うのにふさわしかったのです。
◎上着
マタイに書かれている上着を敷いたのは、イエス様に対する服従、submission を表しています。
◎ホサナと叫んだ
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と、聖書を引用して叫んでいます。
ホサナとは、
救ってください。という意味ですが、民は、どんな救いを願っていたのかは分かりません。政治的な意味が願った人が多かったのと思います。ローマから救ってくださいと。しかし、聖書に預言されているように、人々は、ホサナ、主のみなによって来られる方にと叫んでいます。
◎ロバの子
またイエス様はロバの子の背にのって入られました。普段は歩いて旅をして来たイエス様が、ここではわざわざロバの子を調達して乗られました。これも、旧約聖書ゼカリヤ書に書かれている預言の言葉の一部でした。
ゼカリヤZechariah 9:9
シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

イエス様は、世界最大の暗闇との霊的戦い、人類を罪の奴隷と束縛から解放するという大事業のために、馬でなく、ロバにのってこられました。馬は、戦いの象徴ですが、ロバは平和の象徴であり、柔和さの象徴です。イエス様は、この戦に平和と柔和を持ち込まれたのです。
これも預言の通りのことが起きました。

★欠けだられの人間性のために
大変皮肉なことですが、このように、受難週の初めに盛大に、「私たちを救ってください!」と叫んだ群衆は、金曜日には、「バラバを釈放しろ!イエスを十字架につけろ!」と叫ぶようになったのです。また、イエス様の友人であった弟子たちも裏切ります。銀貨で売られ、イエス様の弟子であることを否定されます。
私達は、これを見る時に、人というのは本当に欠けだらけだと思うのです。また、その姿に自分を見ざるを得ません。私も、欠けの多い人間です。また、私達が日ごろの周りを見渡しても、ニュースを見ても、人というものは欠けが多いと思わざるを得ません。
しかし、そんな、私達罪人、broken な人々のようにイエス様はなられました。

イエス様はご自身がbroken な方になられました。肉体的にも一人で歩けないほどに痛めつけられ、肉は酷いむち打ちではがれ、心はずたずたに傷つけられました。また、最後のたのみであり、使命をいただいた父なる神にも顔を背けられるという霊的な”欠け”brokenness も受けられました。

それは、私たちの救いのためでした。私達が真の意味でこの永遠の欠け、brokenness から解放されるためでした。肉体的にも、精神的にも、霊的にも。
もう一度いいます、それは、肉体、精神、霊を含みます。
私達には、肉体のむつかしさ、精神のむつかしさ、霊のむつかしさを乗り越えられる、奇跡的な救いが必要です。欠けの無い人は一人もいません。

この、昔から預言されていたイエス様によってのみ、私達は解放されるのです。ですから、私達は、今日もホサナ、ホサナ、救ってくださいっと神に叫ぶのです。

★ホサナ
後に来られるイエスを待ち望んでいますか。イエス様はもう一度この地に来られると聖書で何度も預言されています。私達に見える形で。Jesus’ second coming. 私たちは、救いを得た今も、完全な永遠に入るまで、イエス様にまみえるまで、ホサナと主に叫ぶのです。

黙示録Revelation1:7
見よ。彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

★預言としるし
今日は、預言の言葉が複数出てきましたね。
預言とは神の言葉であり、神の言葉がそれを預かった人から語られたものです。
この箇所で、複数の過去に語られた言葉が、そのように起きていることを見ることが出来ます。これが、私達へのしるしです。神様から来ているということです。預言は今でも語られていますが、過去に語られたものも、このようにして今私たちがしるしとして認めることが出来ます。今の時代のわたしたは、このようにしるしを見るように召されているのかも知れませんね。
聖書を心に蓄え、また最近語られた預言にも心をとめ、周りで何が起きているのか祈り深く観察し、しるしを見つけていく。
というのも、イエス様が来られる日が近いからです。

●今の時を見極めながら、しるしを探し、ホサナと主に叫び続け、とりなして行きましょう。

#しゅろの日曜日 #礼拝

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主のために道を備えるPrepare the Way

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主のために道を備えるPrepa...

2021年3月14日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ


リバイバルのためにお祈りしていた。
今、教会のトラジションの時。コロナ禍から出てくる。またコロナ中二いろんなことが振るわれた。新しく主を求めている人もたくさんいる。真の信仰とは、真の繋がりとは、と人々は考え、求めている。
これは、主が必ず現れる、教会に主の霊が注がれるというしるし、予兆ではないでしょうか。
さて、ここで、問題となるのは、私たちにその準備ができているのか? ということです。
主と、主の御働きをお迎えするために聖書は何と言っているでしょうか。

まず文字通り主の道を備えに来たバプテスマのヨハネを見てみましょう
★バプテスマのヨハネのメッセージJohn the Baptist’s message

マルコMark1:1-4 
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。the beginning of the gospel of Jesus Christ, the Son of God. 2 As it is written in the Prophets: “Behold, I send My messenger before Your face, Who will prepare Your way before You.” 3 “The voice of one crying in the wilderness: ‘Prepare the way of the Lord; Make His paths straight.’”  John came baptizing in the wilderness and preaching a baptism of repentance for the remission of sins.

〇悔い改めRepent 
メタノイアMetanoia ギリシャ語 a change of mind, as it appears to one who repents, of a purpose he has formed or of something he has done  考えが変わること。悔い改めた人は、その人の行動の目的が変わるので、行動の変化が見れる。
罪から180度方向転換し、反対方向に歩み始めること。

カルロス・アナコンディア南米のリバイバルも悔い改めから
ハイチのリバイバルも悔い改めから

★ヨナJonah
◎主に従う葛藤を通して従順を学んだ

最終的に遣わされてメッセージをし、国の 王さえ悔い改めた
結果リバイバルが起きた

ヨナJonah3:5-6
そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。6 このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。
The Ninevites believed God. A fast was proclaimed, and all of them, from the greatest to the least, put on sackcloth.6 When Jonah’s warning reached the king of Nineveh, he rose from his throne, took off his royal robes, covered himself with sackcloth and sat down in the dust.

V10 神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らを下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。
When God saw what they did and how they turned from their evil ways, he relented and did not bring on them the destruction he had threatened.

- ヨナの場合は、まず主への従順を探られた上、メッセンジャーの自分がまず悔い改めに導かれました。そして、その後、メッセージを聞いた人々が悔い改めました。ニネべの人たちの罪は本当にひどくて、ヨナが無理だと思うほどでしたが、リバイバルが起きたのです。

★サマリヤの女 Samaritan’s Woman
サマリヤはイスラエルの人々が主に対して罪を犯して、異邦人の風習に従って歩んだので、神の目から見て霊的に大変混乱しているという背景がある。言わばいくつもの異なる神々を一つ所で拝んでいるような感じ。日本にも似ているのかもしれません。またユダヤ人とは犬猿の仲ですから、福音が届きにくいし文化的にも神のまっすぐなメッセージが届きにくい土壌でした。

◎イエス様に出会った -- 町中に出来事を話して回った--リバイバル

ヨハネJohn 4:39-41
さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
Many of the Samaritans from that town believed in him because of the woman’s testimony, “He told me everything I ever did.” 40 So when the Samaritans came to him, they urged him to stay with them, and he stayed two days. 41 And because of his words many more became believers.

一人の女がイエス様に出会い、今までしてきたことから立ち返り、イエス様を心に受け入れ、自分の人生が変えられたことを話したことで、霊的に難しかった場所にリバイバルが来ました!

★聖霊降臨時at the Pentecost
新約の大リバイバルと言えば、やはりペンテコステです。この始まりは、イエス様の言葉に従って、みなが一つの場所に集まって祈っていたときに起こりました。
共に集まるということと、約束があるうえでさらに祈ると言うことが肝です。
◎ともに集るなかでハーモニー調和が無ければ祈りは続きません。おのずと、人々と集まり中で悔い改め、神の前に共に謙遜になったことでしょう。
リバイバル 一日で3000人が主に立ちかえった

使徒Acts2:1-2
五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るゆな響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。v38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
When the day of Pentecost came, they were all together in one place. 2 Suddenly a sound like the blowing of a violent wind came from heaven and filled the whole house where they were sitting.

v41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた、その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
Those who accepted his message were baptized, and about three thousand were added to their number that day.

そして、また悔い改めが勧められています。

さて、今日あげた中で、リバイバルへの特徴があります。
それは、必ず、悔い改めがまず必要であること。
個人的な悔い改め、に続いて団体としての悔い改め。
その体験をありのままに話すことが用いられること。土地の難しさに関係が無いこと。

悔い改めとはあなたの考えが変えられることです。
Rom12:2 心の一新Renewing your mind
私達は日々いろいろなマインドセットにはまっています。
神の新しい働きを流すために、私たちは常に世的な、人間的な、また自分の癖から解放されいてくように祈っていきましょう。

神様は来られます。神様は何かをされます。ともに祈っていきましょう。
#悔い改め #礼拝

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キリスト者の標準

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キリスト者の標準
2021年3月7日日曜日バイリンガル礼拝 子供のお話は、マックスルケードの「君はすばらしい」より。


今週、バイブルスタディでも、シェルターでも同じテーマが出てきたので、神様がかたっていらっしゃると思いました。

★良いクリスチャン? Who is a good Christian?

さて、みなさん、良いクリスチャンってどんなクリスチャンだと思いますか?
少し一緒に考えてみましょう。
よくお祈りをする。霊的である。伝道熱心。チャリティ熱心。良いことをする。善行。人を助ける。聖書の言葉をよく知っている。
あんな人でもクリスチャンなんですか? と言われないようにする。
例えば私のシェルターなら、中毒から解放されている。自制がある。日々、自己鍛錬をしている。などなど。。。。たくさん出てくると思います。

なんとなく、ざっと挙げたこの項目の中でも、やはり、何かを頑張ってしている感が否めませんね。

さて、キリスト教ってそういう教えだったのでしょうか。

★私達のもがき Our battle

私達がすぐにぶち当たるのは、「できない」です。そして、真剣に取り組めば取り組むほどに、不可能が立ちはだかります。まるでパウロが例にしてあげている、結婚関係のようです。

例) ダイエット
最近、リズさんがエリックに進めてくれたヌームが効果を発しているようで、それは、単純な食べちゃだめっ、いや食べたい、の心の葛藤を軽減することによって、考えを通して痩せていくプログラムだそうです。なるほど、いいやり方です。とにかく、私たちは、肉に戦いを挑んだら負けるのです。。。

この負けるしかない状態に勝つためにはこれしかないと、パウロは例を出して話します。

ロマRomans 7:2
2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。For the woman who has a husband is bound by the law to her husband as long as he lives. But if the husband dies, she is released from the law of her husband.

悪い夫がいて、どうしても別れたいがそれは許されていない。そうすれば、そこから解放されるのには、どちらかが死ぬしかない、ということ。

ロマRomans 7:5-6
5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。For when we were in the flesh, the sinful passions which were aroused by the law were at work in our members to bear fruit to death. 6 But now we have been delivered from the law, having died to what we were held by, so that we should serve in the newness of the Spirit and not in the oldness of the letter.

私達が、肉にあるなら、必ず罪に従わなければならないというような重力が働き、それの反対をしようとすることにとても摩擦と労力を要します。
しかし、その肉が死んだなら、私たちは、同時に私達をおいつめる、「ねばならない」の律法の力からも解放されるのです。

★もがきを体験している人は幸いです。Blessed to be in a battle

ロマRomans 7:24
24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。O wretched man that I am! Who will deliver me from this body of death?
(善をしたいけどできない自分、もがいても励んでも、自分の肉の性質を一掃できない)

私達は、「できない」から解放されるには、これに到達する必要があります。どんな人も、どんな境遇の人も、ドラック中毒者も何も中毒が無い人でも、みんなここに行く必要があります。

★命を産み出す死 Death produces life

死ななきゃ治らない。死ななきゃ解放がない。そこで、イエス様の十字架の死が初めてあなたに意味を持つようになるのです。この、繰り返すもがき苦しみはあの十字架で死んだ。と言うことを受け取るのです。そして、罪に引っ張る罪が宿る肉が死んだので、今度は、霊が生きるのです。この霊に従うなら、律法の要求は満たされるのです。

ロマRomans 8:1-4
1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。There is therefore now no condemnation to those who are in Christ Jesus, who[a] do not walk according to the flesh, but according to the Spirit. 2 For the law of the Spirit of life in Christ Jesus has made me free from the law of sin and death. 3 For what the law could not do in that it was weak through the flesh, God did by sending His own Son in the likeness of sinful flesh, on account of sin: He condemned sin in the flesh, 4 that the righteous requirement of the law might be fulfilled in us who do not walk according to the flesh but according to the Spirit.


★私たちの目指すところ。Our Goal

ロマRomans 8:14-17  
14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光とをともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。14 For as many as are led by the Spirit of God, these are sons of God. 15 For you did not receive the spirit of bondage again to fear, but you received the Spirit of adoption by whom we cry out, “Abba, Father.” 16 The Spirit Himself bears witness with our spirit that we are children of God, 17 and if children, then heirs—heirs of God and joint heirs with Christ, if indeed we suffer with Him, that we may also be glorified together. 

★Doing vs Being

私達は、肉と格闘することを選ぶことで、今ある道に打ち勝つのではありません。むしろ、肉は死んだと認めるのです。
そして、Doing を追求するのではなく、Being を追求する時に、あなたは解放の中を歩み、そして、霊に従うことができるのです。
これは、キリスト者の標準であり、あらゆる課題のマスターキーです。解放の鍵です。

そして、何度も通るドアです。私達は肉を持っている存在ですから、絶えずそちらに引っ張られます。そのたびに、ああ、私はDoing に引っ張られている。私は誰だったか。。。そう、神の子供、Being に戻る時に解放が来ます。

Doing にこだわっている時は、一所懸命伝道しようとしても、空回りして、どんなにみ言葉を引用して説明しても、キリストのメッセージが相手に伝わらない。しかし、Being にとどまり、子であることを楽しみ感謝し、力や自分の能力にこだわらないならば、相手の方から、キリストについて教えて欲しいと聞かれるようになる。。。

みなさん、世の中はDoing の法則で満ちているんです。しかし、クリスチャンにはBeing の世界がある。休みがある。子としての安堵がある。そこに、世は魅力を感じるのです。

今週、神の子であることに休みを得ましょう。また、もがいている人は、感謝です。主の十字架の意味にいて黙想して行きましょう。

#ロマ書 #礼拝

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キリストとの同一化の力 Identification with Christ

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キリストとの同一化の力 Ide...
2021年2月28日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ


今週、神様に語られてることは、キリストのうちに自分を見出すことの力です。やはりシェルターなどで色んな人と出会うことは日々目が開かれることです。本当に人は人からたくさんの神の恵みを受けることですね。
さて、
救い、聖化、成長、癒し、試練の中での慰めと原動力という、キリスト者の重要な方向転換、または状況変化に加速をつけるのは、キリストとの同一化であります。すなわち自分をキリストのうちに見出し、それを認めることです。

★イエスの受肉
全てはキリストの受肉から始まります。キリストの受肉を抜きに語れません。関連聖句を見てみましょう。

ピリピPhilippians 2:6-8
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。
Who, being in very nature God, did not consider equality with God something to be used to his own advantage; 7 rather, he made himself nothing by taking the very nature of a servant, being made in human likeness. 8 And being found in appearance as a man, he humbled himself by becoming obedient to death— even death on a cross!

最近、Disabled God という本を読んでいるのですが、障害をどのように神学的に理解していくかということですが、このものの見方は全ての人に力を与えます。
ここに書かれてあるように、キリストは、神です。神で有られるのに、神の有り方を捨てられました。すなわち、全能、全知、遍在、である方が、非常に限りのある肉体に生まれられたのです。全能の神にしたら人間というのは、何もできないに等しいのです。
その何もできないような姿で、その同じ姿の人間たちに仕えるられたのです。
イエス様の生き方は、人間界の文化にあり、それを理解し寄り添いながら、天の文化やり方に合わせて生きておられました。
キリストは、いつも天、いつも父を見据え、そして聖霊様に共に働かれました。
「私は父の業を行っている」ヨハネ14とイエス様は言われた。
また、イエス様はいつも寂しいところに行かれてみ父に祈っていた。

イエス様は、まず、私達と一体化、同一化することから、そのお働きを始められました。そして、彼の奉仕の中心は、父と繋がることと、父の業を行うことでした。

私達には、色々な「不可能」があります。
しかし、まず、全能な方が不可能で満ちた人間の身体に生きられたことを思い出しましょう。あなたは一人ではありません。

★救いSalvation -- 私たちの基本、希望 Our Foundation and hope
まず、キリストが私たちと同一化してくださったことで、今度は私たちがイエス様に同一化することで恵みを受けるようになりました。

ガラテヤGalatians 2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I now live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me.

私達の救いは、キリストの十字架と死と葬りと復活にあります。私達が自分の罪の性質を知り、それがもう死ななければ治らないことを認め、その罪がキリストのあの十字架で死んだということを認める事、そして受け取る事、私もキリストとともに死に、復活したということを信じ、私たちは救われました。

★成長 Growth -- 聖化Sanctification
この救いの法則、キリストとともに、十字架、死、葬り、よみがえりを信じること、確認すること、が私たちの聖化のプロセスでもあります。
私達は成長しない時に、二つの傾向にあります。それは、高慢になりすぎるか、出来ないに凝り固まり、自分を責めすぎる、そのどちらかです。しかし、両方は紙一重で結局同じなのです。例えば、高慢になりすぎる。=弱さを隠す。です。弱さを隠すには自分で頑張らなければならない、自分で頑張るなら、古い人が死ぬ必要がない。一方、「出来ない」に凝り固まっている方も、それ以上求めない、自分の弱さに向き合わない、古い人に死なない、信仰がいらないということで、古い性質が死ぬ必要がないのです。
私達が自分の弱さ、繰り返す同じ過ちの性質を認め、向き合い、そして、それを十字架に見る時に、私たちは初めて、純粋に信仰によって立つことができるのです。
そこから、聖霊の働きが、あなたとともにぐんぐん始まります。

キリスト者の成長はキリストと一つになることです。

★ 癒し Healing
イザヤIsaiah 53:3-5
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
He was despised and rejected by mankind, a man of suffering, and familiar with pain.
Like one from whom people hide their faces he was despised, and we held him in low esteem. 4 Surely he took up our pain and bore our suffering, yet we considered him punished by God, stricken by him, and afflicted. 5 But he was pierced for our transgressions, he was crushed for our iniquities; the punishment that brought us peace was on him, and by his wounds we are healed.

V5 私達は、肉体の癒しを必要とする時に、このみ言葉に癒しを見つけます。私たちの痛み、病、身体の不自由をキリストの打たれた傷に見つける時に、そこに認める時に、慰めがき、癒しが来る。解放が来る。

イザヤIsaiah 61:1-3
神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。

悲しむもの、精神的に苦しむ者たちにも、イエス様のうちに自分を見出すことが出来ます。

★苦しみの中の慰め
私達があらゆる苦しみにある時に、私たちは聖書を開きキリストに出会うことが出来ます。イエス様は苦しみの中どうされたのか。私の苦しみとイエス様の苦しみにどんな関係があるのか、と考え黙想してみましょう。
イエス様は、人にさげすまれたとあります。神であられるのに人にさげすまれたのです。自分が不当な扱いを受ける時、イエス様を思い出しましょう。
イエス様は誤解されていました。誰よりも神の心を分かっているのに、宗教のプロからは異端者扱いでした。
イエス様は、他人の利益のために王として担がれようとしていました。イエス様はその力と求心力のために、政治的に期待されました。政治的にローマからイスラエルを解放してくれるのではないかと。間違ったプロジェクトに担ぎ出されようとしていました。
イエス様は、独身でした。独身者の苦しみ、孤独さというのは本当に辛いものですが、イエス様はそこにおられました。
イエス様には、肉の子供がありませんでした。
イエス様は友達に裏切られました。
イエス様は、両親をおいて神の働きをしなければいけませんでした。
イエス様は、人からレッテル張りをされました。大酒のみのおおぐらい。など。
イエス様は、枕するところがありませんでした。

へブルHebrews 4:15-16
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
For we do not have a high priest who is unable to empathize with our weaknesses, but we have one who has been tempted in every way, just as we are—yet he did not sin. 16 Let us then approach God’s throne of grace with confidence, so that we may receive mercy and find grace to help us in our time of need.

★試練の中の方向性
私達が苦しむとき、私達が試練の中で行き詰まる時、ぜひ思い出してください。
イエス様も、神としての能力をよこにおいて、不自由な人間の姿で過ごされたことを。
そして、イエス様の歩みは、
父なる神様と常に繋がり、常に聞き、常に祈り、そして常に父なる神の御心とともにその使命を全うされたことを。

#同一化 #礼拝

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偶像礼拝からの回復 Cure of Idolatry

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偶像礼拝からの回復 Cure ...
2021年2月2日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ



1コリントCor. 10:12-14
12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

コロナ禍の中でいろいなところで変化があり、順応するのに疲れることがあるかと思います。シェルターでもまた方向転換をしているので、おセンチな私はついて行くことがゆっくりです。そんな中神様は、偶像礼拝に気を付けなさいと語ってくださっています。
移行期の中で足元が揺るいだり脆弱性を感じる時、気を付けましょうというのです。

コリントは湾岸都市で栄えており、偶像礼拝の文化が根強い場所でした。パウロは、コリントの教会に、イスラエル人たちの歴史から話し、長い歩みの中に困難に会うこともある、しかし、その困難によって先人たちの失敗のように失墜しないで、すなわち偶像礼拝に陥ったり姦淫の罪に陥らないで、神が与えてくれる脱出の道を通って乗り越えようと、励ましています。また、このみ言葉の前後に偶像礼拝に落ちらないように。。と忠告しています。

★偶像礼拝についておさらい Review on Idolatry
出エジEx. 20:2-6
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

① 真の神以外を自分の神とすること To put something above true God
木や、石の神々や異教の神々以外にも、金、名声、異性関係、美、優位性、自分自身、なども偶像になり得ます。
② 自分のために神を造ること To create god for yourself
木や石の神を彫るだけでなく、人というのは、神に似て想像力、創造性に富んでいます。自分の神はこうあるべきというイメージを造り上げていきます。
③ それを拝むこと To worship it
  文字通り、それを拝し、あがめ、顔をそちらに向け、仰ぐ。
④ それに仕えること To serve it
それのために何かをする。供え物をする、その地位が保てるようにする。自分が偶像の人はその美しい満足してる自分のイメージを保つために仕える。
➄ 偶像礼拝には結果が伴う Idolatry brings you consequences
  偶像礼拝の結果は空しいものです。十戒は私たちの幸せのための掟ですから、不幸せとなることは当然です。また成熟がありません。偶像礼拝から離れられない人は成長をしません。堂々巡りなのです。偶像はその日その日の気を紛らわすための気休めなのです。実態がないからです。しかし、神の教えに繋がるものは、何をしても栄える。と詩篇一篇にあります。

★試練とは
言語ではテストされる。
日本語では二つの感じからなる。試される、テスト。練は、練達の練、つまり、訓練されて専門になること。
何に対して試されるかというと、信仰です。
クリスチャンでもまだ神を知らなくても、試される。そして、神を信頼するか、信じるかということを試される。

★ 倒れそうな時 When you fall
パウロは、倒れそうなときこそ、気を付けなさいという。
偶像礼拝には根っこがある。次の三つの根っこを見てみよう。

●苦しみ Suffering
あなたの苦しみがあなたの神学を形作る。Your suffering will shape your theology.
 すなわち、人が苦しむ時、人は神を求め、神に出会い、神と格闘し、神を知り、神に癒される。そのプロセスの中で人は、神理解を深めていき、その人その人の神学が確立する。
本当にそうですね。どんな神学者もなぜ、その分野を学びたかったかという理由やストーリーが必ずあります。
苦しみの中で、あなたはどんな神に到達するのだろう。

●文化、土地柄 Culture & Locality
また、世界中各地各民族に神々がいますが、またそれもその土地柄にあっています。
例えば、日本では、八百万の神がいると言われるほど神が多く、アニミズムが土着の信仰です。なぜでしょうか。日本は昔から火山や地震、台風に洪水、津波、暑い夏に厳しい冬と、日々自然を恐れ、自然と共存し、何かにすがらなければならなかったのです。自然災害が多い地域はアニミズムが強いように思います。
また、日本ではシャーマニズムが盛んです。ウィチドクター、お祓い、交霊術、それから占い師なども。一種の霊的カリスマ性に頼る面もあると思います。
それは、初めのリーダーひみこがシャーマンだったからでしょうか。

●願い Heart Desire
偶像に向かわせる多くの場合は心の願いです。その願いはほとんどが良いものです。家内安全、健康、受験、子宝に縁結び。日本にいてもいろいろな偶像が何に聞くと言えばそちらに行くというようなことがありました。みな、何らかの状況を変えたい、幸せになりたいという一心で偶像に向かいます。願いを持つことは、自分の幸せのための必要を表明しているということ。

●あなたの偶像の特徴はなんでしょうか。
立っていると思っているものは、倒れないように、とパウロは書いていますが、私たちは自分の立ち方を検証してみるといいと思います。
1. あなたの人生のテーマとなるトラウマ、苦しみは何か 2. あなたの文化的な傾向は何か。アイドルを持ちやすいタイプか。カリスマに弱いか。これは偶像に対して完全服従か、自分が偶像のポジションになるかに分かれます。3. あなたの願いはどこにあるのか。
吟味したうえで、あなたはどう立っているでしょうか?

自分の強い意志と、決意によって立っていますか。
日々の鍛錬と努力によって。人を従えることや人の注目を浴びることで。-- これは非常にトリッキー。

★ もう一度言います。
試練は、神を知る事がゴール。信仰が試されているのです。
この聖書の箇所は、“脱出の道”があるということが強調して引用されてますが、本当の意味は、脱出の道があるとしたら、あなたが信仰においてしっかり立つことです。あなたが神を信頼し、信じ、信仰が強められることこそ、道なのです。

★ 謙遜と忍耐 Humility & Patience
そこで、お勧めしたいことは、立っていると思っているものは。。。とある通りに。高慢に気を付けることです。すなわち、神のやり方にお頼みすること、委ねることです。
私が神学校の時、意気揚々と用いられて絶好調の時に祈り深い友達にこのみ言葉を言われたことがありました。穴があったら入りたかったものです。。。

水が低いところに流れるように、聖霊は謙遜の人の上に注がれます。
また、神の恵みは力強く私たちにどんなことでも乗り越えされてくれますが、恵みを必要としている人に注がれます。

試練の中で、信仰が試されるとき、私たちは、早く早く脱出と考え、真の神そっちのけであらぬことか偶像に走りやすいですが、ぜひ、かえって時間をとって、神の内に休みましょう。その時は、神がご存知なのですから。

★ 偶像礼拝からの回復の鍵 Cure of Idolatry
そんなこんなのあなたの全てをほおりだして、神の愛の内に留まることです。

1ヨハネJohn 4:15-16
15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。



#偶像礼拝 #礼拝

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共に集まる Gathering together

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共に集まる Gathering...
2021年2月7日日曜日礼拝



クリスチャンほど、共に集まることを大切にする人たちはいないと思います。今日は、教会の交わりについてお話ししたいと思います。
私がクリスチャンになりたてのころ、とにかく、教会に来たくて仕方がありませんでした。ほぼ毎日のように教会に来ていたと思います。周りにクリスチャンがいなかったということもあって、教会というのは特別の場所であり、いこいと養いの場でありました。
初めて宣教旅行に参加し、海外でクリスチャンに出会った時、心が躍りました。喜びでいっぱいになりました。教会では、教会員同士、神の子ども同士ということで、兄弟姉妹と互いに呼びあいますが、初めてあう人種の違う相手を心から自分の姉妹、兄弟と呼べる妙な感覚で包まれました。
また、初めて大きな聖会、クルセードのようなものに言った時、圧巻でした。何千人もの人と同時に声を合わせて神を賛美し礼拝する時に、喜びが爆発的に沸きあがりました。まるで、天国の前味のようでした。

●共同体を重んずる神
私達の神は、私達一人一人に目をとめられる神ですが、また共同体の上に恵みを注ぐ神でもあられます。それは、ご自身が、三位一体の共同体であり、私たちは対人関係でのみ、愛を体験し、また愛を実践することが出来るように造られているからです。
聖書の中に、次のような言葉があります。
マタイ18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」20 For where two or three are gathered together in My name, I am there in the midst of them.”

キリスト者の集まるところに、それがたとえ二人、三人のような少ない人数でも、そこにイエス・キリストの臨在があふれるのです。そこに、神が共におられるという喜びがあるのです。
コロナ禍でネット配信で礼拝することが普通になっています。もう一年です。しかし、ズームなどでお顔を見ながら互いに話しが出来ることの恵みを大いに感じました。
私のシェルターでは、大勢集まるときはズームですが、最近毎朝スタッフがひとところに集まってお祈りをすることを始めました。ズームで祈るのと変わらないのではないかとはじめは思っていましたが。違うのです。神様の臨在が溢れてい、霊が励まされ、謙遜にさせられます。誰かの内に働いているイエス様が私にも働いて下さるのを感じます。

★なぜ集まるのか
ヘブル10:25
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 not forsaking the assembling of ourselves together, as is the manner of some, but exhorting one another, and so much the more as you see the Day approaching.

では、私たちが集まって交わりを持つことは、どのような意味があり、大切さがあるのでしょうか。

●愛するため
パウロは世が暗くなるにつれ、人は愛さなくなるとテモテへの手紙で警告をしています。私たちはこれを注意深く聞きたいと思います。自分にのみ関心を置かざるを得ないパンデミックということを通ったあと、これが癖になってはいけないと思います。
私達は愛していないなら、その人に会いたくないのです。どうしているか知りたくないのです。愛が冷えると、家庭の中でさえ一緒に過ごす時間が減ってしまうのではないでしょうか。
私は、極端に引っ込み思案の人や、人に傷つけられている人で人の集まるところには出かけたくないという人にもよく会います。しかし、私たちは人を通して癒しを受けるのです。またコミュニティにいることから傷の癒しの完成を体験します。今日、これを聞いている人で、自分なんかが教会に行かなくても誰も寂しくないと思っている方、また人に躓いて教会に行くのが怖いと思っている方、どうか神様の助けが与えれますように。どうぞ教会に足を運んでみてください。神様の豊かな守りと導きがありますように。お祈りします。

●あなたの幸せのため
私達、人間にとって、コミュニティに属するということと、その共同体に貢献するということは健康上に大きな意味があります。私は家族の一員であり、私が何が出来るからではなく、私が私であるから属しているという感覚は、人の心にはなくてはならない感覚です。私たちは、キリストが代価を払って買い取られた者たちであり、天の父に養子縁組された者です。あなたはキリストによって、神の家族の一員です。あなたでいいのです。あなたがいいのです。また、人は社会、共同体に貢献しているときに脳内から幸せを感じるホルモンが出ます。またお祈りをしたり、神様に繋がっている時にも出ます。教会に集まりあなたでいること、それから神やコミュニティのために奉仕することはあなたの幸福感と癒しに繋がります。

●励ましのため
かえって励まし合いとありますが、励ますという言葉は、parakaleō バラクレイオーが使われています。すなわち、聖霊様をあらわす、バラクレートスから来ている言葉です。パラ共に、寄り添う形で、共に誰かといる、支える、助けるということです。私達にはそのような助けが必要です。聖霊様ももちろん助けてくださいますが、教会に属している私たちは、一人一人誰かを励ますように召されているのではないでしようか。
みなさん、順境の時は、私たちは一人でも楽しく信仰を保つことが出来ます。けれども、試練の時、逆境の時、私たちは、励ましが無くては、太刀打ちできません。私たちは、一人よりも複数でいた方が困難に立ち向かえるのです。
その励ましは、教えと矯正も含まれています。私たちは教会の集まりを通して知恵を得ることも多いのです。
次の聖書の箇所を読みましょう。

1テサロニケ5:14
14兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。14 Now we exhort you, brethren, warn those who are unruly, comfort the fainthearted, uphold the weak, be patient with all.

●祈りの奉仕のため
マタイ18:18-19
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 “Assuredly, I say to you, whatever you bind on earth will be bound in heaven, and whatever you loose on earth will be loosed in heaven. 19 “Again I say to you that if two of you agree on earth concerning anything that they ask, it will be done for them by My Father in heaven.

私たちが集って共に集まり祈ることは、天においても地においても非常に力があるのです。天の父なる神様はそれをかなえてくださいます。とあります。私たちは、集まって祈ることをやめてはいけません。これが、私たちの大切な奉仕です。木曜日の祈りは本当によく神様に聞かれます。木曜日のみなさんの祈りでとても励まされています。
私たちが肉体において共に集まり、交わりを持ち、互いに励ましあい、訓戒しあい成長を助け、たましいにおいても一つとなり、そして、共に祈り、天を地上に解き放ち、霊的にも一つになること、このように、霊、肉、たましい、どの分野においても私たちは、教会として一つになっていくことをめざしましょう。

教会にまだつながっていない人は、教会につながりましょう。教会につながっている人は、聖書の学び、祈り会などに参加しましょう。



#礼拝 #集う

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記念の石 A Memorial Stone

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記念の石 A Memorial...

1/31/21 バイリンガル礼拝メッセージ


ヨシュア記Joshua4: 5 -7
ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真ん中の、あなたがたの神、主の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各自、石一つずつを背負って来なさい。6 それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか』と聞いたなら、7 あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」

★聖句の背景 Context of the Scripture
いよいよ、ヨシュアはモーセというリーダーについて今まで荒野を旅し、そして約束の地を前にします。イスラエルの民は、それまでは雲と火によって導かれていたが、今回、約束の地では契約の箱が先頭に立って民を導いて行ったのです。
今日の箇所の前の章、三章を見てみましょう。

ヨシュアJoshua3:13
全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」
And as soon as the priests who carry the ark of the Lord—the Lord of all the earth—set foot in the Jordan, its waters flowing downstream will be cut off and stand up in a heap.”

●ヨルダンを渡る経験 Crossing Jordan River
水が神の奇跡によってせき止められるというのは、モーセが民を率いて紅海を渡ったことに似ています。しかし、ここで違うのは、民はモーセが杖を上げただけで水が分かれたのをみたのと、ヨシュアの場合には、祭司たち全員の足の裏が、荒い水流に耐えて全員がしっかりと川底にふんばって立った時に水が止まったことです。
すなわち、モーセの時には、水が上がってから民は渡ったのですが、
ヨシュアの時には、荒い水流の中に自分たちの足を入れて、最後の祭司の足の裏が安定するまで耐えて立たたなくていけなかったのです。

どちらが信仰が必要でしょうか。後者ですね。目で見て水が上がってる時か、目に見える現実がまだ激しい川の流れかの違いです。

ヨルダンは信仰によって神の目的地に行くことを象徴しています。
また、ヨルダンでは、契約の箱が一番に水に入りました。契約の箱には、モーセの十戒、アロンの杖、そしてマナのつぼが入っていました。
この意味は、神の臨在現わされるところ聖なる至聖所と知られていますが、それに含まれるのは、神の律法である十の戒律、掟、そして、神こそがリーダーとしてアロンを選んだというしるし、神の召しのしるし、そして、神に従うものは必ず神が天から養ってくださるというしるし、マナが含まれます。
私たちは、神の目的に従って、約束の地に入るために激しい川の流れに足を入れることがあります。その時に、私達が
神の教えを信じ、第一とし、神に自分が選ばれてここにあることをしっかりと受け止め、そして、従うものには神の養いがある。お金の心配食べる物の心配はしなくていいことをはっきり信じる時に、神の御臨在があるのです。

私たちは、約束の地に入る時に、このようなことをはっきりと確信しなければいけません。

私たちの中で、救いのあと、今、約束の地に足を踏み入れようとしている人がいるかも知れません。ぜひ、この三つを信じてください。

そして、信じて、水の中に足を入れるのです。

★水を渡って After crossing the river
ヨシュアたちはいよいよ、約束の地を自分たちのものとする時が近づいていた。これから、激戦が繰り広げられ、さらなる神の御業とさらなる葛藤が待っている。導きではあるということが分かっているものの。それ以外は未知数である。神にのみしか確かなものが無いという時であった。

今、同じような岐路に立っている方もいるのではないでしょうか。今まで走ってきた、本当ならひと段落着きたいが、目の前にまだ神が導いて下さっている戦いがたくさんある。

そんな時、ヨシュアが民に命じたことは

★一人一人が石をもってくる Bring a stone
一人一人、十二部族の代表が川から石を持ってきなさい。ということでした。それを、ヨルダンを渡った記念とするためでした。あなたが何を信じ、どんな思いでこれを渡り、どんな願いを持って渡ったのか、神がどのようにその信仰に答え、水をせき止めてくださったのか、その奇跡を忘れないために、記念の石をとりなさいと言ったのです。

★神の知恵 God’s wisdom
これは、すばらしい神の知恵です。なぜなら私たちは忘れやすいのです。私たちは、信仰を用いて、今まで生きてきました。たくさんの悩みや痛み、ととに神のご介入を経験してきました。

神のはげまし――― 私の証し。私も最近鬱から解放された経験があります。それは、ただ長い散歩をしている時に、神様が一つ一つ思い出させてくださったのです。私の人生に何があったのか。どのように神が助けてくださったのが、どんな風に信じて、どんな奇跡があったのか。わたしに悪さをした人たちが最終的にどうなったのかなど。。。。そうすると、どんどん元気が出てきました。一人ではない。私はまだできる。と希望が湧いてきました。

実際に、ヨシュアたちは、これからどんどん戦いに入っていきます。成功的な戦いもあれば、困難なものや、失敗も経験します。また、疲れすぎて約束を手放しそうになる部族も出てきます。だからこそ、ヨシュアは、記念の石を自分の手で取ってきて、忘れないように、記憶の場所を作ったのです。

★覚えて感謝する Remember for thanksgiving
聖書は繰り返し、私達に忘れないようにと警告、またはげまされます。

詩篇Psalms103:1-5
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。
Praise the Lord, my soul; all my inmost being, praise his holy name. 2 Praise the Lord, my soul,
and forget not all his benefits— 3 who forgives all your sins and heals all your diseases,
4 who redeems your life from the pit and crowns you with love and compassion,
5 who satisfies your desires with good things so that your youth is renewed like the eagle’s.

主と自分との思い出を数えることは力です。
ぜひ、今あなたがいるそのところで、その状況で、神を信じ、神の導きと、備えを信じましょう。また、戦いをすることになれているあなたも、神に感謝しつつ、神を賛美しつつ霊をやしない力をいただいて行きましょう。しばらく、祈りましょう。感謝を数えましょう。
#ヨシュア記 #礼拝

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キリストを通してでなければ

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キリストを通してでなければ

2021年1月24日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ



ヨハネJohn14:1-7
1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。
5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

まだイエス様を信じてなくて、迷っている人によく聞かれるのは、なぜイエス様じゃないといけないのですか?なぜ、慈悲深い神ならば、だれでもどんな方法でも救ってくれたらいいのではないですか?と言います。私たちは、自分たちの心の中の葛藤を投影し、独自の解放策を頭で作りだすものです。ただ、私達には何が放蕩の解放策かということを知らないのです。救いは、人の考えによらないからです。人が考え出すの救いの策が宗教です。しかし、イエス様はむしろ宗教を壊しに来られました。もっとパワフルなものを私たちに与えるために。
しかし、この聖書の箇所で分かるように弟子たちも迷っていました。

★心が騒ぐ時 When you are anxious
イエス様は、この前に、ご自分が去って行かれること、これから起きる苦しみについて弟子たちに話していました。弟子たちの頭は混乱しました。今まで全てを捨ててついてきたイエス様がいなくなる。苦しみ? 心が騒いで仕方がありませんでした。イエス様はローマ帝国を倒せずに捕まるのだろうか。。。と不安になったのです。
私達も、先に試練が来ることを察知する時に、心が騒いで頭で何も考えられなくなることが多いですね。落ち着いて、今までのイエス様のメッセージを思い出したり、出来ればいいのですが、同様してしまって、恐れに飲み込まれてしまいます。
そんな時、イエス様は、はっきりと、恐れや疑いに対して対処法を示しています。
それは、
神を信じ、またイエス様を信じることです。

以前にも言いましたが、私たちの脳には恐れと信頼は両立しないのです。恐れる時に恐れが頭を乗っ取ってしまう。また、疑い恐れは、信仰の反対方向に同じ働きをする。すなわち、まだ見ていない事を起きたと信じることであり、私たちは信じたとおりに自己と人生を形成してしまうのです。

イエス様は、はっきり、あなたに、
神を信じ、またわたしを信じない。とおっしゃられます。

★場所を備えにPreparing the place
というのも、神、イエス様は、ご自分のしておられることを知っておられるからです。なるほど、私達も結末を知っていたら、恐れることはないのだと思います。ハリウッド映画も、最後にハッピーエンドが来るからどんな過激な戦いのシーンでも安心して観られます。分かっているのです、最後に正義が勝つと。

神は、ご計画を持って、全てを導いておられます。たとえ、悪が一瞬勝つように見えても。イエス様は、捕まえられ、裁判にかけられ、文字通り苦しまれたし、それを見ると負けているように見えますね。
しかし、イエス様は、これを
私たちのために場所を備えにいく。と言われました。
どんな場所でしょうか。
それは、イエス様がもともとおられる場所。わたしがいるところにあなた方をおらせるために、イエス様は、ここから起きてくる苦しみに立ち向かわれるのです。
最終的には天国です。

それをはっきりと知ってい、神を信頼していたら、弟子たちは、心を騒がすどころか、祈り深く、信じ、神妙に待ったのではないでしょうか。

★わたしの行く道 The Way
イエス様は、V4わたしの行く道はあなたがたも知っていますYou know the way to the place where I am goingといいますが、トマスは言います、どこですか、どうやってその道が分かりますか?と聞き返します。Thomas said to him, “Lord, we don’t know where you are going, so how can we know the way?”

イエス様がどこに行くのか?
私たちがどこに行くのか?
どうやって行くのか?
この三つが分からないと、トマスはいいます。
確かに、まだイエス様と個人的に出会っていない人の質問はこのようです。
〇死後どこにいくのか?天国はあるのか?または、苦しみからの解放はあるのか?天国にはどうやったらいけるのか?
これは人類共通の質問です。

★わたしは道、真理、いのちI am the way and the truth and the life.
イエス様は答えられます。その答えは、イエス・キリストであると。
イエス様が道であり、真理であり、いのちであると。
すなわち、イエス様が天国にたどり着くための道である。ですから、イエス様について行ったら、いいのです。イエス様に注目していたらいいのです。また天国にたどりつく方法、真理、であります。どのようにして、というのは、イエス様です。真理、すなわち救いの方法はこの真理に限ります。罪の無いお方が、完全な神であり、人であられるイエス様が私の罪の身代わりとなってその刑罰を受けられる、これが真理です。これが、どのようにしてです。これを信じるなら救われるのです。宗教をやって救いに至るのではありません。イエス様を信じることが救いです。
また、イエス様は、いのちであると言われました。イエス様を信じることが私たちのいのちであります。私たちは、元気を失ったり、心配したり恐れたり、して、生きた心地というものを忘れることがあります。しかし、イエス様に繋がる時には、いのちが心にあふれ、元気になります。また希望がでます。そして、さらに道であるイエス様に従う活力をいただけます。そのいのちは永遠に続きます。
私たちは死んでも死なないのです。
私も今週、イエス様の命を毎日体験させてもらいました。祈りが効かれるのです。小さないのりです。仕事に神の助けがあるように祈りますと、本当に助けが与えられます。短時間で物事を終わらせることが出来ました。本当に、それを感謝するときにいのちがまた溢れます。

★排他的?Exclusive?
V6わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。No one comes to the Father except through me.
キリスト教は排他的であるという人たちがいます。しかし、他の宗教も排他的です。いろいろな宗教があります、しかし、いい人になれたり、毎日いい気分になれたり、人生が成功しても、救いの確信と日々の力はキリスト以外に誰も与えることはできません。

★父を見た Seeing Father God
イエス様は、わたしを見たならすでに父を見てる。と言いました。その後、ピリポは見せてください信じるからと言います。
見えない神は、肉をとってきてくださった、キリストに具現されました。キリストの行動、発言に全て表されています。
そして、自分の見たいように見せてくれたら信じるというのは、もはや信仰ではありません。

ヘブルHebrew11:1
信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.

ヘブルHebrew11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 But without faith it is impossible to please Him, for he who comes to God must believe that He is, and that He is a rewarder of those who diligently seek Him.

見たいように見せろという要求に気をつけてください。
私たちも伝道する時に、その質問に踊らされる必要はありません。

ただ、イエス様が言われるように、父が私におられ、私が父におられる、信じられないなら、私の業を見てみなさい。と。

★今私達がすべきことWhat do we do?
私達クリスチャンも、自分の足でたち、父の業をすることを今日チャレンジさてれいます。神は目に見えない。しかし、その方に従うものの内におられる。あなたが、神の手紙です。あなたの行い、言動によって人は神を知るのです。
神学論争で勝つことではない。神の愛を態度で示すことです。

天国までの道を、恐れず、とまどわず、キリストから目を離さないで行きましょう。
#礼拝 #道

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