2019年3月31日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は
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ヨハネ17章20--26
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
21 それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
イエス様の祈り、この章では、イエス様の十字架にかかられる前の祈りが書かれていますが、まず初めに自分のための祈り、続いて、弟子たちのための祈り、そして、これから弟子たちを通して信者となる人たちのための祈りと続きます。今日は、最後のこれから信じる者たちのための祈り、すなわち、今日の私たちの祈りから学んでいきたいと思います。
★ 父と私が一つであるように
一つとなるという祈りは、神のデザインが私たち信ずる者たちに分与されるようにということ。
“わたしを見た者は父を見たのです” ヨハネ14:9
★ 三位一体に見られるワンネス…個別の人格、個別の存在である三者が一つである状態です。これが、私たちの神であり、私たちのリーダーシップなのです。個別の存在が一つであるには、相当の譲りあいが必要ですね。二人よりも三人の方が難しいのは、みなさん、特に女子はよくわかると思います。
① 謙遜において…互いに相手を尊敬して(ピリピ2)、栄光を互いに譲り合っている姿
② 愛において…愛が無ければ、私たちは互いに興味を持ちません。相手を知りたいと思うから、歩みよりがあるのです。知ろうとすることが愛の始まりです。
③ 喜びにおいて…あなたがわたしにいるように。。。ヨハネ六章に祈りがきかれたとき、あなたがたの喜びが満ち溢れるためだ、と書いている箇所がありますね。一人で喜ぶより、誰かと喜んだ方が、喜びが倍増しますね。「ねーねー聞いて聞いて-」と誰かに言いたくなるのも、喜びがあふれるためです。また互いの繋がりが深くなる。
④ 苦しみにおいて…イエス様は、この点において、身をもって体現してくださいました。苦しみを分かち合う時に、私たちは慰められます。イエス様は、ご自分が私たちの苦しみを体験してくださることで私たちに完全に共感できるお方であり、私たちの重荷を軽くしてくださるのです。また、旧約聖書でも、神は民の苦しみ、嘆きを聞いてモーセを遣わしましたし、私たちの罪によって悲しまれたりしました。私たちと、一つになられたいからこそ、です。
★ 父が私を愛されたように、彼らをも愛されたこと v23
ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.
神は、ご自身のイエス様への愛を私たちにも広げてくださった。三位一体の三者、そして弟子たち、そして弟子たちを通して信じる者たち、そして、その愛が知られるようにと愛を広げ、全ての人を招いてくださる愛。
Inclusion
★ 愛が知られるように
〇この世が知るため
その父が子を愛した愛で、私たちをも愛してくれているということが、この世に知られるために、一つにしてください。とイエス様は祈っている。
真の伝道は、私たちが神を愛し、神に愛され、互いに愛しあい、そして、周りの人を招き入れ、周りの人たちをその愛の交わりの中に含んでいくことです。
知識を伝えることではありません。
★互いにおること…
◎信仰によって…信仰によって、私たちは天の国籍を持つ。すなわち、信仰によってイエスのうちに隠される、信仰によってキリストとともに天の位につく、信仰によって私たちはキリストの義と一つにされ、キリストの業ゆえに、義とみなされる。これは、不思議なことです。
◎愛によって…誰かを好きになったら。。。いつもその人が心の中にいますよね。デートし始めのころ、その人のことがいつも気になって、電話したりテキストしたり。結婚したら、もっと一つになりますね。よく、自分の伴侶に危険が降りかかる時、分かるというものですし、離れていても不慮の事故で命がなくなるようなことがあれば、相手は何かわかると言います。私も、エリックに驚かれるのは、なんで僕がスパゲティ食べたいってわかったのー? なんて、いう夕食に驚かれることが多々あります。愛によって、私たちは互いにおることができるのです。
★ 先週の最後の晩餐のお話し、聖餐式を思い出しますね。今日も聖餐に預かりましょう
2019年3月24日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は
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ルカ22:7-22
さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。8 イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」9 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」10 イエスは言われた。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家までついて行きなさい。11 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と言いなさい。12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」13 彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。21 しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。22 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」
★大切な最後の晩餐の場所
イエス様は命を狙われている身ですから、安全で、落ち着いて最後の食事ができるところが必要でした。
V7-13 イエス様は、預言的に、ロバの子を見つけた話しがまた出てきますが、そのように、あそこにこんな人がいるから、こう言いなさいと。。。言われた通りに落ち着いて最後に祭の食事ができるところが見つかった。
この箇所からも、私たちに励ましを与えてくださいますね。私たちが神を信頼して、神の仕事をするならば、必ず、必要なことは備えられる。たとえ、イエス様のように命を狙われていても、いろんな苦労があったとしても、神は、ご自身がされようとしていること、神の愛による御心のために、私たちに導きを持っておられる。
★最後の晩餐?
旧約の過ぎ越しの祭の食事は、今後必要なくなるということで、イエス様が十字架にかかられて復活される前に持った過ぎ越しの食事が文字通り最後になるということ。
◎過ぎ越しの祭とは?
旧約聖書あっての新約聖書
イスラエルの祭、宗教儀式は全てやがてこられるメシア、イエス様を指している。
過ぎ越しの意味
イスラエルの民は、エジプトで奴隷でした。有名なモーセが出てくるお話しですね。エジプトからの脱出、解放の前に、かたくななパロと奇跡合戦のようになっていましたが、最後のしるしである全ての初子が殺されるということになりました。これには、パロも困ってしまったわけですが、神はイスラエル人のためには、かもいに子羊の血を塗ったものは免れる、という方法を与えました。かもいに子羊の血をぬったものの家は、免れて、みな救われたのです。その後、神は紅海を割ってイスラエルの民を救ったのです。
それから、イスラエルの民は、これを覚えて、自分たちがどのようにして奴隷から解放され、神の奇跡によって脱出できたのかを子々孫々に過ぎ越しの祭を通して、語り継げたのです。
過ぎ越しの祭では、子羊の肉や、種無しパンや苦菜という、その時の出来事、つらさなどをあらわす食べ物を食べて忘れないようにしました。
◎イエスを指す
ユダヤの祭は全てイエス・キリストを指し示しますが、これも、私たちを罪の奴隷の生活から救い出してくれるイエス様という意味が込められています。すべての祭は、やがて来られる救い主を期待しながら持つものです。
◎イエス様は、文字通り、最後の過ぎ越しの食事を一番愛する弟子たちとしたのです。
v15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」And he said to them, “I have eagerly desired to eat this Passover with you before I suffer. 16 For I tell you, I will not eat it again until it finds fulfillment in the kingdom of God.”
イエス様が十字架にかかる前ですから、もう十字架にかかられてからは二度と誰も過ぎ越しの食事をする必要がなくなります。
本物の過越しが来たのですから。出エジプトで起きたことの本物が来るのです。もう、誰も地獄に行くことがないように、その道から救われるようにイエス様が死なれたのです。
★パンとぶどう酒
V19-20 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。And he took bread, gave thanks and broke it, and gave it to them, saying, “This is my body given for you; do this in remembrance of me.”20 In the same way, after the supper he took the cup, saying, “This cup is the new covenant in my blood, which is poured out for you.
イエス様は、過越しの祭で、新しいことを言われます。これからは、私を覚えて、これをしなさい。と。エジプトではなくて、またメシアを待ち望むんではなくて、わたしを覚えて、これをしなさいと。
このパンは、わたしの身体です。罪のために、割かれたからだです。そして、この体は、それを食べる一人ひとりのためのものです。
この血は、あなたがたのために流された契約の血です。約束
皆さん、覚えていますか、エジプトで初子が救われたのは、動物の死によりました。動物が死んで、その血でかもいを覆ったものが救われたのです。その血の内側にいるものは救われたのです。
★過越しの食事・イエス様は共同体のもの
The feast was not only for the individual but communal.
この食事というのは、食べ物を口に入れ、自分の体の一部になることです。ちょうど、私たちが信じることもそうです。信じていることは、私の身体、私自身の一部となります。そして、それは、行動や言動にも現れるほどに自分と一つになります。
イエス様を食べる、血を飲むということは、そういうことです。
また、これは、共同体のものでもあります。共同体が一つになるためです。
同じ釜の飯を食う、とか日本でもいいますが、時間を共に過ごし、また辛苦を共にすることで一体感はまし加わり、強いきずなができるものです。
いわば、同じイエス様を食べたものとして、一つになることができるのです。
●イエス様は、愛する者たちに、よく覚えておくように。これが最後の祭だよ。これからは、律法ではなく、私を受け入れるんだよ。と、強いメッセージを弟子たちに、食べて飲むという実体験をもって教えました。
★私たちにとっては、どんな意味があるでしょうか。
食べること、イエス様を受け入れる。み言葉を受け入れる。
飲むこと、契約、約束だという。。。約束を信じる。
自分の力でもがくことからの解放
パフォーマンスからの解放
宗教や儀式で神につながるのでなく、個人的にイエス様と親しく繋がる
★イエス様をいただきましょう。聖餐式
礼拝後、季節外れのせいかやすかったパンプキンパイを切りました。同級生のこの二人は、まるで本当の兄弟姉妹のようです。。。
大きい子たちは、ゲーム、はいはいよちよちさんたちは、ブロックで遊ぶか、青年のお兄さんに肩車を何回もしてもらって遊んでいました。いつも、二、三時間礼拝後遊んでいますーー
2019年3月10日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、
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先週はアッシュウェンズディがあり、頭に灰で十字架を書いた人をたくさん見ました。レントが始まりました。レントは、キリストの苦しみと十字架そして、復活のイースターを前に、自らを省みて振り返り、罪に気が付いたり、悔い改めたりするという時期です。
〇コリント人たちの傾向
賜物を誇る。高慢さがあった。罪を継続的に犯して何の後悔もない人たちがいた。それどころか、痛いところを突かれると、逆にパウロの使途職の正当性を疑ってきた。またパウロの説教の能力も疑った。という文脈。
この背景に心をとめておいてください。コリントの人たちは、自分の罪をパウロに指摘されたことが耐えられなかった。ですから、その恥を攻撃に変えた。自分の恥を自分のものとして認識できない場合は、往々にしてこのような行動にでます。私たちも多かれ少なかれあります。自分の恥をどう隠すか、責任転嫁するかが自動的に人がすることですね。アダムとエバのように。。。。
Ⅱコリント13:3-5
こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。
4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか—あなたがたがそれに不適格であれば別です。
〇レント、省みることの意味
身を慎み、過ごす時期ですが、その目的は、自分の十字架の重さを知ることです。そして、キリストの十字架の尊さを知り、キリストのくびきの軽さに感動することです。
① イザヤIsaiah 51:1
義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。“Listen to Me, you who follow after righteousness, You who seek the Lord: Look to the rock from which you were hewn, And to the hole of the pit from which you were dug.
惰性や習慣ではなく、神に新しく出会い、神の義を求めるもの、神を求めるものは、自分の出てきた所、どこから救われたのかを見なさいと言われます。
② 黙示Rev. 2:4
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。Nevertheless I have this against you, that you have left your first love.
次の節では、だから「悔い改めなさい」と書いてあります。私たちは、悔い改める時に、いつでも初めのあの愛に帰ることができるのです。
私のインターン先には、いつも新しい入居者が来、また外部からチャペルのために証しをしに来てくれます。絶えず、初めの愛を思い出させてくれます。自分の証しを話す時、誰かの証しを聞くときにとっても励まされます。それは、イエス様の愛が心からまた湧き上がってくるからです。
神の愛がはじめにあったから、私たちはそれを信じた。。信じることで救われたのです。
暗闇の中、どうしようもなかった時、助けがなかった時、助けが見いだせた時、イエス様が分かったとき、イエス様の十字架の意味が分かったとき、何回思い出しても、私に新しく元気を与えてくれます。
〇省みれない理由
① 恥…自分の過去を振り返れない時、そこには、恥の問題があります。もうあれは終わったことだから。過去のことを思い出して嫌な気持ちを再体験したくない。暗い気持ちになりたくない。何て思う方も多いです。私も、クリスチャン生活が浅い時はそうでした。けれども、何回もその思い出に空気を入れるのです。恥は、自分から自分の感情をも隠そうとし、癒しを遅らせるのです。何回も訪れて、何回もイエス様がここに来てくださったということを確認するところに癒しがあり、恥の思いが小さくなります。恥の思いが小さくなれば、自分から、また人から隠れなくてもよくなり、また、それも証しとなるのです。時々、本当につらかった思いや、自分の黒歴史について全く証しできない方もいますが、もしかしたら、恥にふたをしてしまっているのかも知れませんね。
② 宗教
過去を振り返り、自分を省みれない理由の一つに宗教の霊があります。または、み言葉の未熟な適用と言ってもいいかもしれません。聖書では、後ろのものを振り切って前を向いて、何て言葉もあり、私はもうイエス様の十字架と一緒に死んだのだから、ポジティブしかない、なんて思ったり、または、イエス様はどんな罪だって赦してくれる、だから、今日の罪も赦されるから向き合わなくてもいい。というような間違った適用もすることがあるでしょう。
これは、教会も聖書の真理の提供の仕方、いや、弟子訓練として人と人として向き合う中でしっかり教えないといけないのだと思います。日曜礼拝で聞くだけでは間違って聞いてしまうこともありますから。やはり、一対一の弟子訓練が大切です。
宗教は、早く良くなった。自分は乗り越えた。を強調させるかも知れません。が、しかし、それは本当でしょうか。私たちは、日々罪に対して弱いものです。また、同じ過ちを繰り返し、同じ恐れに縛られ、同じ恥をもつものです。
〇キリストの弱さとは
謙遜さ。キリストには能力も権力も知恵もすべてに勝てるものがあった。が、しかし、あえて弱さをとった。そこにこそ、神の愛が現わされたのです。キリストは、弱いから強いのです。世界で一番強いのはイエス様の弱さです。
〇あなたの弱さ
① 肉の弱さ、精神の弱さ、過去のトラウマ、心の傷、過ち、罪に対する脆弱性
---- いつ気づくか、人との関わりの中で。コリントの人たちは注意されて気がつくチャンスをもらいましたね。
----- 聖書の言葉を通して。聖書は、従った見たときに、自分の弱さを実感させられます。けれども、それと同時に神の力を経験させてもらえます。
② 弱さの力
キリストの愛は、雄弁eloquenceさや能力を通して伝わるのではなく、むしろ弱さを通して伝わる。このコリント人たちがまさについていることですが、この世の霊に私たちは気を付けましょう。この世は、見た目が強いほど良いと思われるのです。ですから、私のように、言葉が遅い、もじもじしていると、馬鹿に思われたり、能力がない、知性がないと思われるのです。
しかし、神の福音や、神の愛というものは、能力や雄弁さを通しては伝わらないことを覚えていてください。
弱さは、世の人の心をつかんだり、効率よく人を集めないかも知れません、しかし、不思議な方法で神の愛が伝わるのです。これは、人の業ではなく神の業だからです。私たちの側ですることがあったら、祈りと愛することです。
ですから、パウロは、誇るなら弱さを大いに誇りましょうと言っているのです。
例えば、私の母教会の牧師は、議論には勝たない方が良いと私に教えました。私は、若いクリスチャンのころ、どんなノンクリスチャンからの質問にも立ち向かえるように、たまに意地悪なことを言う方もいますから、何とかリサーチして備えて、相手を納得させようとしていました。しかし、ある日、先生は、勝たない方がええというのです。。。。その時はよく理解できませんでしたが、いろいろと自分で経験をしてみて分かるようになりました。
議論に勝つことよりも、愛する時に、神の愛が伝わる。私が強くて弁がたったとしても、相手には愛が伝わっていないことが後でよく分かるようになりました。痛い経験もしました。失敗もたくさんしました。しかし、私が振り返る時に、私が弱い時にこそ、神様が勝利されたのです。弱いまま、至らないままで、一生懸命に愛そうとし、相手に寄り添おうとするときに、愛が伝わったのです。
〇キリストの弱さとあなたの弱さが一つになる時、力がある。
みなさん、ですから、弱いことは、悪いことではないのです。ただ、神の前にも人の前にも自分の弱さを隠したり、過剰に肉の鎧で守る必要はないのです。
〇信仰によって …信仰に立っているかどうか。。。
私たちが、どんなところから、どんな性質から救われてきたかを思いめぐらし、感謝し、常に証しを持ち、キリストの救いと愛に感謝する時、私たちの信仰がまた強められるのです。
神の愛に包まれて守られるのです。いつも、神の愛に感動し、その愛を信じるのです。
信仰によってのみ、私はキリストと一つです。
この作業は、キリストと一つになる、繋がることでもある。ここから、聖霊の実が出てくる。ここから、キリストの香りがする。あなたの中に、キリストが強くなればなるほど、香る。キリストが強くなるということは、あなたがますます弱くなるということ。
この土の器に私たちは宝を入れているのです。
このイースターまでのレントの時期に、自分を見直すこと、神の愛に浸ること、キリストの十字架の意味をかみしめることをお勧めします。
新しく加わる方もいれば、帰国されるかたも。。。。そのたびに寂しいものです。空港のスタバにて、お見送りで最後のコーヒーを楽しみました。
エリックも、かいがいしく荷物を運んだりチェックインのお手伝いをして。。。。。セキュリティへ。。。日本でも、神様と一緒に。。。。幸せでいてくれよって親心。。。
2019年3月3日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ
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有名な宣教師、ハドソン・テーラーのことばに、「祈りによってのみ人を動かすことを学べ」とあります。私は、この言葉を聖書学校の寮の壁に張り、聖書に挟み、祈ることを学びました。今日は、祈りで人生が変わり、またこの人の祈りで国が変わった人のお話しから学びたいと思います。
★聖書の歴史的背景は、イスラエルが神を王とする神政政治theocracyから人を王とする君主制monarchyに移行する前でした。ここに出てくる最後の士師である、サムエルは、当時のイスラエルには無くてはならない、神の預言者でした。イスラエルの初代国王サウルに油を注ぎ、またそのサウルから王位を外し、ダビデを選び。。。という重要な役割をにないました。この歴史的重要人物、サムエルは、ある一人の女性の苦悩と、祈りの中から生まれたのでした。
★ハンナの試練と行き詰まり
1サムエル1:2-6
2 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。3 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。4 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。5 しかしハンナには特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。6 彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。
ハンナは不妊を患っていました。彼女は第一夫人ですから、彼女に子供ができないので2人目の妻をもらったのでしょう。日本でも、昔子供が生まれないと離婚の原因になりましたから、当時、大変彼女は後ろめたい気持ちをもちながら生きていたはずです。
彼女は、夫に愛されていのですが、それがまたベニンナの意地悪の原因となります。
お祭りの時には、子供たちの分もいけにえのわけまえを頭数で渡しますが、エルカナは子供のいない愛するハンナに気を使って、普通よりもたくさん上げました。
★神でなければ満たせない場所
V7-8 7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
落ち込んで泣いているハンナに対して、夫エルカナは、私はあなたを愛している。私の愛では十分ではないのか?
私たち、試練に合う時に、また心の中に穴が開いているような気がする時、行き詰まる時、人のあたたかさ、愛する者たちの親切は確かに心に響きますし、慰められます。
しかし、ハンナにとっては、それだけでは十分ではありませんでした。孤独を感じていました。夫がどんなに愛してくれても、愛する夫に子供を産むことができない。ということ、また自分の身体が子供を宿すことができないという、女性ならではの苦しみ。自分は欠陥品なのか。。。という思い。呪われているのだろうかという思い。自分のコントロールの範囲を出た苦しみ。誰にも理解されない、という行き詰まりの中にいました。
私たちの心には、神にしか解決できないものがあります。神にしか埋められない場所があり、神にしか慰めることのできない場所があります。
★ハンナの二重の決断と捧げもの
ハンナは、この心の穴を神様に解決していただくために、宮に行きました。これで解決しなければ、と自分の全存在をかけての祈りでした。いわば、神に自分の人生をかけて、今日神に解決していただかなければ、という気持ちで出向いたのでした。
◎注ぎだす
15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
感情を注ぎだした 精神的な全てを神の前に出し尽くしていた、自発的な捧げものとして。
私たちの感情は、私たちの願いを中心にして反応している。怒り、苛立ち、悲しみ、喜び、全て願いに結びついている。しかし、ハンナはどうしても願いと喜びの部分の結びつきが薄かった。いくら夫に大切にされても、喜びが無かった。私たちの感情は神様からのメッセンジャーです。
〇注ぎだすこと…
注ぎのささげ物に用いられる表現。精神的なささげ物。イエス様も十字架でご自分を捧げられるときに、心を注ぎだしてゲッセマネで祈られた。そこには、主よ願わくば、この杯を私から取り除いてください、と祈ったほどに、苦しみの祈りでした。ですが、そんな思いも、従いたくない思いも全てを注ぎだして祈りました。ですから、十字架の上で流された血潮に意味があった。イエス様の流された血も、注ぎだされたものであった。精神的な捧げものであった。
旧約聖書では、この注ぎの捧げものは、全焼のいけにえと共に捧げられた。全焼いけにえは、律法で定められた、罪を赦されるために必ず捧げないといけないものでしたが、穀物の捧げもの(仕える)、和解のささげもの(赦された喜びを分かち合う)、注ぎの捧げもの(強い酒やぶどう酒、主を喜ばせる)は、任意でした。自分で捧げたければ、自発的にささげるものでありした。
〇ハンナの祈りは、自分自身を全て神にあけわたして焼くも煮るもお任せしますという態度で、全てを捧げました。そして、自分の心を注ぎだしました。ちょうど、旧約聖書の捧げもののように。。。
今までため込んでいた、発酵したような感情を全てその上に注ぎだしたのです。神は、これを喜ばれたでしょう。精神的な捧げものとなりました。
自分の感情なんて、と皆さん思いませんか。しかし、イエス様のゲッセマネの祈りも、ハンナの祈りもすべての感情を注ぎだしたとき、神は喜んでその祈りをお受け取りになられました。私たちは、感情を注ぎださなければ、神からの良いものを受け取るスペースが心にできません。神様は、それを待っておられるのではないでしょうか。
◎祈りの結果も神様に捧げることに
V10-11 10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますならば、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
ハンナは、自分の人生と全人格、そして精神のすべてをかけて神のところにやってきました。そして、全てを捧げ、祈りの結果も全て神様に捧げることに決めたのです。
★変革の原則
V17-18 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
ハンナは、つらかった過去を清算し、自分の願いを注ぎだし、将来をも神に捧げることができました。
ハンナの顔が変わっていた。。。
主に自分が変えられるときには、必ず、自分のすべてを明け渡さなければならない。そして、神にしか満たしてもらえない場所に神様に満ちていただくとき、あなたは完全に変わる。
人間にはできないことだ。
人が救われるときもそうだ。罪を悔い改める時、神から心の癒しを受け取る時もそうだ。
★祈りの確証を得る
V19-20 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。20 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。
希望と確証: へブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.
これには、献身がいる。自分自身を祈りの結果ごと捧げる。感情を全て明け渡すこと。
全焼のいけにえのとともに注ぎの捧げものがされたように、まず献身、自分の身を全て過去も未来も捧げます、神様にお任せしますという気持ちが一番。そして、心の全ての願いにまつわる感情を神様に知っていただくこと。ここから、真の希望が出てくる。
希望があるなら、大丈夫、それは、もう与えられたと信じることが信仰だと、へブル書に書いてあります。ハンナは、そのようにしたのです。そして、本当に男の子が与えられ、その子が時代を担う大切な役割をするリーダーとなりました。
★ハンナの名前の意味は、「恵み、好意、お気に入り」ハンナは、夫の好意も受け、その苦しみによって、国を変えるサムエルという神のご計画に預かるという好意にも預かったのです。彼女の苦しみも、神が彼女に意地悪をしたくて与えられたのではなく、その深いご計画の中で、彼女を恵むためでありました。ですから、苦しみさえも恵みだったのです。苦しみの中にいるときは、このようなことは、分かりえませんでした。ただ、全ての事を分かるようにしたのは、祈りです。彼女の真剣な祈りが、すべてをつなげたのです。
あなたは、今苦しみの中にありますか、悩みがありますか、それは、神様があなたを恵まれようとしているサインではないでしょうか。神様に体当たりで、自分を捧げ、心を注ぎだして、お祈りしようではありませんか。神様は、きっとあなたの心を人が満たせないところを満たし、あなたを変え、そして、あなたの人生と周りの人の人生に打ち破りを与えることをしてくださいます。
ランチタイムの様子。森本さんには、みんなで食べる最後のランチでした。
いつもの通り、帰った人もいるけど、記念撮影。みんなで、思い出を書いたり、メッセージを書いたアルバムを送りました。日本でも、たくさんの人の祝福となってくださいね。
2019年2月24日日曜日礼拝ショートメッセージ音声は、VIDEO
マタイ5:11-16
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
迫害されるとき喜びなさい、というイエス様のお言葉だった。これから、日本に行く森本さんですが、アメリカにいるのと随分違うことを感じると思います。また私たちも帰国して家族と会えば、随分文化的な違いも感じると思います。
個人の信仰よりも、みんなと同じことをするのが正しいとされるのが日本の文化です。また、日本人の罪の捉え方は、みんながしていたら罪ではないという感覚があります。日本人は倫理観が高い民族で、昔から嘘をつくこと、また人のものを盗むことは悪いということを認識していました。が、コミュニティのみんながしていたら、いいかーと思うのです。赤信号みんなで渡れば怖くない、みたいな。また、旅の恥はかき捨て、というように、自分のコミュニティを離れたら、罪の意識が下がるという傾向もあります。
そのような文化の中で、クリスチャンというマイノリティとしてコミュニティの中に入っていくのです。
その文脈の中で、イエス様は、あなたは世の光です、地の塩です。とおっしゃいました。そして、光を隠さないように、塩気をなくさないように。。。と。
★ あなたは、すでに世の光であり、地の塩である。
★ 光
世の光---- イエス様の事。ヨハネ1:9すべての人を照すまことの光。
イエス様を信じる私たちもまた、世の光だというのです。あなたと、イエス様は、一つなのです。
◎明かり燭台の上に、マスの下には置かない
クリスチャンの生き方の選択、意志、Intentionality をしっかり持つようにということ。あなたは、世の光であると自覚し、世を照らすのだ、という自覚が必要。
◎この世は暗い海を航海するようなものです、灯台の光が無ければ、事故にあってしまうし、位置が分からない。光は、私たちに安心をもたらします。あなたも、誰かの人生の道しるべとなるように召されました。
★塩
◎大変貴重なものであった。当時は、お金、金や銀の代わりにも流通するくらい、貴重なものでした。あなたは、すでに、貴重な存在であることを忘れないで
◎日本でも漬物を食べますが、ハムやソーセージも塩漬けにします。腐ることから守るからです。あなたが、その町、職場にいるから、その腐敗を防いでいるのです。
◎味付けをする。ハーモニーさんも塩コショウだけで、とても美味しいスープを作られますね。ああ、塩だけでいいんだなーと前回のポットラックで思ったものです。
あんこだって、砂糖をたくさん使いますが、美味しいあんこを作るには、塩加減です。
あなたは、地の塩、この世に美味しい味をつける役目をしています。ですから、塩気をなくしては、役に立たないよというのです。
塩気とは何でしょうか。それは、キリストの似姿です。
★クライストライクネス
私たちは、キリストと向き合い、キリストについて行くときに、キリストの光を受けてそれを反射しながら輝くのです。また、キリストについて行くことで、塩気を保つことができるのです。
これから、日本に旅立つ森本さんのために祈りましょう。
ツイッターかなー。こんな写真を見つけました。なんだか、人間みたいな表情ですねー。教会のちびっこたちも時々こんな顔になりますよ。
2019年2月3日日曜日バイリンガル礼拝
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聖書箇所1列王記19:1-18
1列王記19章1-4
1 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。
2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、4 自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
今日の箇所は、預言者エリヤがバアルの神とバアルの預言者たちと直接対決し、大勝利をした直後のできごとでした。聖書を読んで新しい方のために。。。 エリヤは、450人のバアルの預言者たちを相手に、二頭の雄牛を用意し、互いの神に祈り神自身にいけにえに火を付けてもらおうというものだった。エリヤは、自分のいけにえに水をまき火がつきにくいようにまでしました。そして、バアルの預言者たちは、祭壇の周りを踊りまわったり、身体を傷つけたりして祈りましたが、彼らの祭壇には何もおきませんでした。一方エリヤの方のいけにえには、真の神によって火が付きました。民はみな真の神をあがめました。
このような大勝利の後、アハブ王の妻イゼベルによる殺害予告をされるのです。そして、あのように勇敢に何者をも恐れず、真の神に信頼していたエリヤは、恐れて逃げるのです。
エリヤは、立派に大事業を終えたばかりでした。皆さん、私たちは、今日このお話を通して学びたいと思います。
私たちは、アンドロイドでも機械でもなく、大いなる真の神を信じているとはいえ、生身の人間なのです。大きなプロジェクトを終えた後はどっとつかれるのです。まして、神の霊によって用いられ、霊的な働きをした後は、なおさら、どっと疲れがでるものです。私も、日曜日の夜は、どっと疲れて夕食をつくる気にならないものです。皆さん方も、神様を信じている神の勇士たちです。神様にあって事業を成した後、また継続的に長く神様のために働くには、どのように養われ、回復していったらいいのでしょうか。聖書に従って、三つの点についてみて生きたいと思います。
★人間のエナジーゲージ
1テサロニケ5:23
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
Now may the God of peace Himself sanctify you completely; and may your whole spirit, soul, and body be preserved blameless at the coming of our Lord Jesus Christ.
車のガソリンタンクのゲージのようなものを想像して下さい。私たちには、肉体、心/感情、霊の三つのゲージを持っているとしましょう。全てがFull に傾いていなければ、人間という存在は、壊れてしまうのです。走り続けることは出来ません。
① 肉体の養い Nurture Your body
1列王記19章5-8
5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。
6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。
8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。
★休息と滋養は、私たちの元気の源
エリヤがイザベルを恐れて逃げたとき、神様は、エリヤを責めませんでした。どうして信仰が無いのかとも言われませんでした。逃げるなとも言われませんでした。神は、天使を送って、エリヤに食事をさせました。そして、エリヤはまた眠り、また起き、天使に食べさせてもらいました。エリヤを選んで用いた神様は、エリヤのことを誰よりもよくご存知でした。エリヤが心身ともに疲れきっていたことを知っていました。また、その余裕のなさから、イザベルを恐れたことも分かっていました。そして、まだエリヤのする仕事があることも知っていました。それゆえ、彼の肉体をまず休ませ、食べさせたのです。そういえば、エリヤは、バアルの神との直接対決のとき、寝ずの対決だったのではないでしょうか。バアルの預言者たちは、夜通し踊り身体を傷つけながら大声で祈っていましたし、それをエリヤは見ていました。
Also, body keeps score
私たちも、体が資本です。体がなければ、私たちは、神のために働くことはできません。いくら、強い心を持っていても、体がなければ、その表現のしようがありません。聖書は、「私たちの身体は、聖霊の宮」であると言っています。
もし体、精神が疲れがちであれば、食生活と睡眠を振り返ってみてはいかがでしょうか。また、体が疲れているとき、判断力が鈍っているのかもしれません。元気なときにはしないような決断や、発言をしてしまうものです。
旅はまだ遠い…神は私たちが0%の時でも私たちのために先を見てちゃんと養ってくださる。まさに、新約が言っているように着る物食べる物のことをなぜ心配するのか? 野に咲く花を見よ、鳥たちを見よ、働かないのに神に食べさせてもらい、あんなにきれいに着飾らせてもらっていると。。。。
② たましいの養い Nurturing Soul
1列王記19章9-10
9 彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は、「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられた。
10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らはいのちを取ろうとねらっています。」
★心の傷を吐露するエリヤ これが彼の隠れた問題であり、彼を徹底的に疲れさせ恐れさせた原因であった。
エリヤは、「何をしているのか?」と、神に話しかけられ、言いました。「私は熱心に神に仕えてきた」「イスラエルの民は、預言者を剣で殺し、私だけが残りました。今は、私まで殺されそうです。」と、苦々しさいっぱいです。エリヤは、大勝利を取ったのではなかったでしょうか。確かに、イスラエルの民は、真の神をないがしろにし、預言者を殺し、祭壇を壊したかも知れません。しかし、かの大対決で、真の神の勝利により、民は、主をあがめたのではなかったのでしょうか??
エリヤには、トラウマ、心の傷がありました。自分の友達預言者たちがどんどん殺され、自分の一所懸命の働きが本当にしんどく感じ、孤独感を持っていたのです。神様がかえりみてくれるかどうか分からないほど、孤独感に苛まれていたのです。エリヤはトラウマから回復する間もなく次々と神の働きに携わったて疲れてしまったのです。
これが、エリヤのうつ状態の隠れた原因です。
私たちは、心で信じているとおりに自分の人生を持って行きます。エリヤは、この思いを引きずっていたために、逃げ出し、引っ込み、もう自分なんていっそのこと殺して欲しいと言いだします。あんなに大成功を収めた人が、です。エリヤは、神様に対して、苦々しい気持ちがあったのです。「どうして?」と言う思い。「この仕事は大変すぎる」と言う思い。神が付いていれば、百人力以上であるにもかかわらず、孤独感、自分で全てを背負わなければいけない気持ちになりました。これは、神様に対しての裁きを持っている人が陥り易い姿です。
●感情の癒しは、共感、エンパシーで癒される。聞いてもらった。分かってもらった。が大事。神は、あえてエリヤに心のうちを話させました。私たちのたましいの癒しは、ここから来ます。人に話すのでもない、神に知ってもらうときに、私たちのたましいは、満足を得、そして、神からの癒しを受け取ることが出来ます。
今日皆さんにお勧めします。辛いとき、しんどいとき、後ろ向きになるとき、あなたのたましいに癒しが必要です。養いが必要です。ぜひ、神様に心のうちを全部、感情を含めて注ぎだしてください。神は、必ず癒しをもたらしてくださいます。
③ 霊の養い Nurturing Spirit
1列王記19章11-13, 18
11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。
13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかかめず、バアルに口づけしなかった者である。」
★霊を養うには Nurturing your spirit
神の声を慕い求めること、神の声を聞くこと、神の約束を受け取ること
もう一つ、神様のあって私たちに必要な養いというのは、霊の養いです。霊の養いについては、あまり語られてこなかったのかもしれません。けれども、これが一番大切なことです。どんなに有能になっても、物事が上手にできるようになっても、霊的に養われ、満足していなければ、人は迷ってしまうのです。私たちの霊を養うには、ただ一つ、神の声を聞くことです。
11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
●今まで、力ある神の業をしていたエリヤは、この力強い、地震、風、岩々を砕く激しさの中にも、火の中にも、主を探しましたが、見つかりませんでした。
エリヤは、力と動の源である主を、静けさの中に見出すことを学んだのです。
エリヤは、かすかな小さい声を聞くことになります。
その声は、耳をすまさないと聞こえません。
耳をすますことを私たちが知るならば、私たちは怖いもの知らずです。
神様を慕い求めましょう。あなたがその目と耳でとらまえるまで。主は、探すものに見つけられます。愛する者を愛されます。
そして、彼はまた心のうちの傷を口にします。私たちは、たましいのレベルの傷とまた更に深い霊的な傷を取り扱われる必要があります。彼にとって、この傷の癒しは、完成します。
主は、また、彼を責めることもなく、とがめることもなく、諭すこともなく、彼の心のうちを聞き、彼を受け入れておられます。
そして、神は、なすべきことを語られ、約束をエリヤにされます。
バアルにひざをかがめない7000人を取ってあると。なんという励ましでしょうか。エリヤは、孤独などではないのです。
みなさん、神の声に耳を傾けましょう。それがあなたの霊を養う方法です。また約束をもらうまで、ひつこく神様に耳を傾け続けようではありませんか。私たちが神の約束を受け取るなら、これ以上強いことはありません。
主は、一度も、エリヤを見捨てたことがなかったのではないでしょうか。しかし、エリヤの側で、勝手に孤独に感じ、もう見捨てられた、死ぬしかないと思ったのではないでしようか。
主によって強められましょう。
体、たましい、霊全てにおいて。この三つの分野がいつも健康で、主によって養われている人は、強いのです。
★ゲージのバランスチェック 調整
朝起きて、何があなたを引っ張っているでしょうか。
体でしょぅか。 ああ、頭が痛い。足が痛い。だから今日はあれが出来ない、これが出来ない。。。。 体があなたを引っ張って一日を始めます。
心/ 感情? ああ、今日も上司に会いたくない。仕事いやだなぁ。。。起きるなり、いやな人の顔が浮かぶ。 感情があなたを引っ張り、一日を支配します。
霊? 朝起きて、ハレルヤ! 神様に感謝感謝。賛美の歌が湧き上がる。何が起きても揺るがない一日になります。
一日が人生に発展します。私たちは、何に引っ張られて生きているのでしようか。
理想的なのは、霊、心/感情そして体の順番です。 大きくの人は、心・感情が一番、次に体、そして霊が最後に来ています。このバランスでは、エリヤのように疲れきり、死んでしまいたくなってしまうのです。。。
礼拝後雪が降りだして、子供たちは外にーーーーー
寒くて積もった雪はしばらくのこりました。エリックがシアトルセンターをお散歩中。
2019年2月10日日曜日バイリンガル礼拝
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みなさん、こんにちは。最近、よく考えさせられていることがあります。それは、「一つになること」です。聖書を読んでいると、いかにこのコンセプトが多いことか、と思います。また、私たちの日々の生活でも、特に結婚生活では、いかに一つになるかが重要になってきます。まぁ、エリックとも良くも悪くも一つになってきて、「あらー、長いこと一緒にいたんだなー」なんて、冗談を言うこともあります。結婚は、イエス様と教会の型でもあります。私たちは、どのようにイエス様と一つになっているでしょうか。
★信仰によって By Faith
咀嚼して一つとなる。By chewing and digesting
ヨハネ6:55-56
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。For my flesh is real food and my blood is real drink. 56 Whoever eats my flesh and drinks my blood remains in me, and I in them.
イエス様は、この六章の文脈の中でご自分をいのちのパンであるとおっしゃいました。肉と血は、イエス様の十字架の上で裂かれた肉、流された血のことです。聖餐式を思い出してください。これをいただいて、文字通り自分の身体の中にいれるなら、イエス様の内にとどまり、イエス様も私の中にとどまるようになるというのです。この私たちを永遠に生かす、いのちのパンは、信仰によって食べるのです。そして咀嚼し、自分の身体のための栄養とし、そして、今度は私たちの血となり肉となるのです。私たちとイエス様はこのようにして一体となるのです。
★とどまることによって By Remaining
ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。“I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing.
ブドウの木は、つるです。リンゴの木のように枝と幹に分かれてません。リンゴの木のようだと、私たちは太い部分がイエス様で細いところが私かなー何て思うのですが、ブドウはつるですから、どこからどこまでがイエス様で、どこからどこまでが私か、見分けがつかないのです。それほど一体化しているのです。
とどまる= キリストの中に宿る、住む
キリストの内に住み、キリストが私のうちに住んでいるなら、私たちは多くの実を結ぶというのです。私たちはみな、実りの多い人生、有意義な人生、意味のある人生、また周りの人を祝福する人生を送りたいと願っているのではないでしょうか。私たちは、キリストを離れては、そんなことはできないのです。
★みことばにとどまる=愛にとどまる Remaining in word = Remaining in Love
ヨハネ15:7-10
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be done for you. 8 This is to my Father’s glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples. 9 “As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love. 10 If you keep my commands, you will remain in my love, just as I have kept my Father’s commands and remain in his love.
私たちは、み言葉、戒めを守るとなると、ちょっと緊張するかも知れません。しかし、こう考えてみてください。あなたと神様は愛の関係の中にいます。互いに愛し合い、尊敬しあっているのです。神様が嫌うことをしたいと思うでしょうか? 私と夫の関係の中でも、わざわざ夫の嫌がることを私は選んですることはありません。うっかりはあるかも知れませんが。。。愛にとどまっていれば、私たちは、自然にみ言葉に従いたくなるのです。神の戒めを守りたくなるものなのです。
愛というものは、決断が伴います。とどまることは、あなたの決断を要します。何となく、ではなく、自分の意志によって愛するのです。
★主よ主よではなく、御心を行うもの
マタイ7:21
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。“Not everyone who says to me, ‘Lord, Lord,’ will enter the kingdom of heaven, but only the one who does the will of my Father who is in heaven.
私がまだクリスチャンではない時に、クリスチャンでどんな人だろうとよくよく注目していました。特徴は、とても優しい、そして、芯が強い。揺るがない。そして、強い新年を持っている。上品。という特徴を見ていました。また、自分がクリスチャンになりたての頃、よく家族から、そうでないことでつつかれたものです。。。また、自分がまだ若い信仰の時には、まだまだイエス様の深い愛についてもあまり咀嚼できてなかったです。咀嚼して、完全に自分の体験として、自分の血となり肉とはなっていませんでした。頭の中の知識でした。
★行いの無い信仰は死んだ信仰 No deed, No faith
ヤコブ2:14-17
14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。14 What good is it, my brothers and sisters, if someone claims to have faith but has no deeds? Can such faith save them? 15 Suppose a brother or a sister is without clothes and daily food. 16 If one of you says to them, “Go in peace; keep warm and well fed,” but does nothing about their physical needs, what good is it? 17 In the same way, faith by itself, if it is not accompanied by action, is dead.
ヤコブ書は、ごもっともなことが書かれています。信じていたら、行動が伴うはずだというのです。確かに、口では「私はクリスチャンなのよ、教会に行きましょう」とか言っていても、未信者であっても、それはクリスチャンらしくないというような行動をしていたら、どうでしょうか。。。その人の信仰は無いに等しいと、未信者でも判断できるのです。
★実=行い Fruit = Deed
私たちが、主と一つになるには、咀嚼が大切です。咀嚼の方法の一つに無くてはならないのは、「行い」です。私たちが神と愛の関係にあり、神の言葉、教えをいただいて、自分の一部になるならば、行動が変わるのです。それでこそ、キリストとあなたが一体化しているということなのです。だからこそ、パウロは、信者のことを小さいなキリストと呼んだのです。行いは、私たちの信仰の実です。
今週、少し考えてみましょう。私は、私の信じていることを行動に表せているか。吟味してみましょう。また、神の愛にとどまること、神のみ言葉にとどまること、たくさん食べて、自分の一部となることができますように。。。聞いたみ言葉を行動に移すことが成長の鍵です。
木曜日の聖書の学びのひと時。。。。
毎週、神様に心ふれられています。。
2019年2月17日日曜日礼拝音声は、
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イザヤ40:28〜31
28主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。29疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、30若い男もつまずき倒れる。31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
★イザヤ書の背景
バビロン捕囚、長い間解放されないので、希望を失い、疲れ果ててしまった様子。バビロン捕囚はそもそもソロモンが入れた外国人の女たちの神々が始まりであり、偶像礼拝がそもそもの問題でした。国が分裂することになり、またそれぞれの国は、バビロンとアッシリアに取られてしまうのです。結局、バビロンでは、70年も過ごすことになるのです。これは、孫の世代まで続いたということです。三代、四代。。。何か罪の呪いは三代、四代、しかし、祝福は千代に至る、を思いだいますね。
私たちも神を信じていても自分には手におえないと思う大きな試練が来ることがある。また長く苦しんで脱出の道がなかなか見いだせずに苦しいこともある。とてつもなく遠い道のりに感じる。
また、人はなかなか良い結果が見れないと、心身ともに疲れ果ててしまう。日本の伝道では、特に因習深い地域では、10年やって人がやっとこさ一人救われるというようなケースも少なくない。伝道者たちは疲れ果てるのです。
皆さんも、そのような経験はないでしょうか。
★主を待ち望むもの
●主
28主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。29疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、30若い男もつまずき倒れる。29 He
- 主は永遠の神、すなわち時を選ばない、時を超えて働くことのできる神。全てを無から有に造られた方。疲れることのない方。知恵のある方。この方が、疲れたものに、倒れたものに力を与えることができるのだと言います。
●待ち望む Wait on the Lord
◎待つことと、希望 to wait and to hope
Wait 待つは、原語でカバァqavah
意味は、つなぐ、to bind ロープで、しっかり結ぶことで強くなる、待つ、期待する、希望を持つという意味です。
◎希望は神にかかっている--- 神と繋がってる
新しく力を得Renew
素早く、スムーズに通る、出てくる、捨て去る、全身する、成長する、終えるという意味があります。
◎ 神を信頼して、神にしっかり繋がっているならば、将来に希望をもって待つことができる。神と繋がっているなら、ある時に、劇的に力が与えられ前進させてもらえる。
という意味になります。イメージは、ロープで繋がっている。何もないところからばっと芽がでてくるような。
●神にあって希望を持つ時に
①自分の願いの中に答えがある
イスラエルの民は、「自由になりたい」という願いだったでしょう。願いは聖なる場所。神が私たちの心に与えるものであり、完成させるのは神である。ピリピ2:13 for it is God who works in you to will and to act in order to fulfill his good purpose.
私のブレイクスルーのきっかけは、私の小さな祈りだった。「神様、幸せになりたい。」その祈りがきかれて、アメリカに来た。来て間もなく、一番初めのチャペルで、私に手を置いて祈った友達が、異言でずっと「Shiawase, shiawase」と言っていた。びっくりした。彼女は日本語が話せないのです。神は、私の祈りを確かに聞いて下さって、ここまで導いて下さったと確信する瞬間でした。
②神との関係
自分が神にケアをされる存在であることをまず受け入れる。あなたは神にとって何ですか。どんな存在ですか? それがはっきり自分ものになる時に、全ては変わる。私の場合、「私は神の娘です」だった。守られて当然の存在。
神にその能力があることを信じる。
③それを信じること
④ただし、一つこの上に忘れてはいけないのは、
自分を顧みること
…自分の至らなさを自分のものとして認識すること。Own your fault. 一番から三番までは、聞きやすい。しかし、これをスルーされがち。私たちは、恵みによって、赦され、神の子としての権利がある。しかし、自分を顧み、自分の過去を認識し、神に赦された罪でさえ、その結果によって苦しむことがある。
(例) 家族に伝道する時に、あなたはこんなわがままな人だと知っている、キリストはどこにいるんだと揶揄される。---- 自分の過去を塗り替えるために、家族の前では本当にキリストに従い、愛することを試される。
人間関係のもつれの結果---- 理解してもらうには、変革した私を見てもらわないといけない。
罪の結果---- どんな罪も赦されます、しかし、自分がその罪を赦されたラッキー! ではなく、その重み、その罪による神の悲しみをよく理解してこそ、恵みの重みが理解できる。日々己の十字架を。。。。と書いてあるが、自分の十字架の重みさえ分からずに、イエス様の苦しみの意味は分からない。ですから、今、苦しみに中にあるなら、試練の中にあるなら、自分の過去を振り返ってみるいい機会です。罪、悪行、行動パターン、言動、苦々しい思い、裁き、憎しみなども清算する機会となります。
◎イスラエルにとってのバビロン
これがそもそもの神のバビロン捕囚の目的でした。人は試練に合わなければ自分の過去を振り返り、自分の失敗に真摯に向き合うことがありません。私たちの罪はイエス様によって悔い改めるならすべて赦されます。しかし、人生が変わるためには、何回も同じことでごめんなさいを言っても変わらないのです。自分の、罪のサイクル、傾向を知って、そこから離れる意思がないと繰りかえすのです。この繰り返すサイクルを断ち切るためにも、イスラエル、ユダの民は捕囚で三代、四代と過ごさなければいけなかったのでしょう。
念押しのように、サイクルを断ち切って行く。完全に偶像礼拝の罪から世代ごときれいになることが神の御心だったのでしょう。
しかし、長い間奴隷生活をしている民には、それを忘れて疲れ果ててしまったのです。
★翼をかって上る Soar on wings
31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。but those who hope in the Lord will renew their strength. They will soar on wings like eagles; they will run and not grow weary, they will walk and not be faint.
鷹は、大きな翼をもっているという特徴があります。鷹は、上昇気流ascending air currentを利用して翼を広げるだけでやすやすと飛ぶ(Soarする)ことができます。羽の下に押し上げる風を受けて、その風に乗っかっているのです。しかし、小さな翼しか持たない雀はどうでしょうか。ばたばたたくさん翼を羽ばたかせないといけません。また、そんなに高いところをとぷこともしません。鷹は、高く高く、自分の力を休めながら上ることができるのです。
私たちも、神様に繋がっているなら、高く高く、ばたばたもがくことなく上ることができるのです。
●その風とは何でしょうか。聖霊様の力です。聖霊様の風は、謙るところに吹いてきます。聖霊様の風は、悔い改めの中に。信仰の故に、またあなたの願いを実現させるために、新しい創造のために吹いてきます。
翼とはなんでしょうか。それは、神を待ち望むことに他なりません。
礼拝後、靴を脱ぎ捨てて遊ぶ子供たち。。。最近は、小さい子が多くなって来て、またブロックでも遊んでいます。
2019年1月27日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、
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詩篇16篇
ダビデのミクタム
1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。
2 私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。
5 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
この詩は、ダビデの詩の中でも傑作品として知られている詩です。また、メシア詩篇ともいわれていて、イエス・キリストに関する預言であることでも有名です。今日は、このダビデの傑作から、今年一年、私たちもこうありたいというお話しをしたいと思います。
★ 身の避けどころ v1-3 I take refuge
1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。
2 私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
ダビデは、その人生の中で幼い時から羊飼いをし、危険を感じたとき、一人で獣と戦う時に、いつでも逃げ込める避けどころを持っていました。それは、神様です。あなたには、危険を感じたときに逃げ込める場所がありますか?ここに行けば必ず守られてる。また、ダビデは、地にある聖徒たち、神に従う仲間たちを大変尊重していて、彼らの中に喜びを見出しています。信者たちのコミュニティほど、私たちの心を慰め励ますものはありませんね。
★ 他の神々 v4 other gods
4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。
二節では、ダビデにとっては、神様が全てであると言いました。神様こそ、ダビデの幸い、幸せの源であると。しかし、他の神々に行くものは痛みが増し加わるだけだと。神を信じるものにも、苦しみはあります。しかし、苦しむ者の避けどころは神です。
他の神々とは何でしょうか。私たちは、無神論者であっても必ず何かを信じて、信念をもって生きています。何かを信じないで人は生きて行けません。信じるものがあるからには、みな何かしらの神を心に持っています。
お金、人、地位、仕事、生活、でしょうか。あなたの神は何ですか。人を喜ばせることでしょうか。人との関係で波風を立たせないことが一番大事でしょうか。一番大事なものは何でしょうか。
★ 神がゆずりの地所 V5 the portion of my inheritance
5 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。5 O Lord, You are the portion of my inheritance and my cup; You maintain my lot.
1) ダビデの経験。。。ダビデは、陣地を取ることに必死になっていた様子が聖書にありません。また、1サムエル26章にもあるように、実際に追って来るサウルに対して、あなたの土地を奪ったりするつもりはありませんと言っている。彼は実際に、陣地を広げたりとるよりも、神ご自身を自分のゆずりの地とすることをダビデは選びました。陣地とは、王としての地位、権力、財産、収入を直接に表すものですが、地上に属する陣地よりも、ダビデは、全ての源の神を選んで恥なかったのでした。
2) 土地や財産と言えば、モーセの時代に、民数記18:20で神は、神に仕えるレビ人に対しては、「私があなたがたの取り分であり相続財産である」"I am your portion and your inheritance" と約束されました。ダビデは、その約束を自分のものとして信じていました。ダビデは、王であり祭司でありましたから。
3) 私たちもキリストにあって「王である祭司」1ペテロ2:9 “しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださったかたのすばらしいみわざを、あなたがたがたが宣べ伝えるたるためなのです。
私たちも、ダビデのように、主ご自身を自分の財産、譲りの地、として生きることができますし、神のために奉仕する祭司にはそれが約束されているのです。キリストにあって、あなたは主を譲りの地として受けたのです!
★ 測り縄は落ちた V6 The line have fallen
6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。6 The lines have fallen to me in pleasant places; Yes, I have a good inheritance.
落ちた。。。と書いてありますね。これは、くじを引いて当たるように、自分の力でかせいだのではなくて、自分に当たった、あてがわれたという意味です。ヨシュアが約束の地で、12部族に土地を分ける時に、それぞれ測り綱をして土地を分けました。そして、それが代々その部族の土地となります。ダビデは、神に導かれて、神を自分の取り分として得た。自分の願った以上だというのです。
これは何を意味しているでしょうか。そうです、私たちの命、導き、今日ここにいること、人生、魂の救いが神にかかっているということです。私たちの力や努力によらないということです、それはたまたま、偶然のように感じるかもしれません。あなたは大きな宝くじに当たったかのようです。それは、恵みよるのです!
★ 私の心が私に教えるv7 My heart instruct me
7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。7 I will bless the Lord who has given me counsel; My heart also instructs me in the night seasons.
ダビデの命の源は主の教えでした。詩篇一篇にもあるように、主の教えを昼も夜もくちづさみ瞑想するのです。すると、静まる時に、その教えがよみがえるのです。昔に覚えた暗証聖句が心に蘇ることがありませんか。夜にとありますが、暗闇にいるとき、苦難をのときに、主の言葉が心に湧き上がって私たちを養うのです。
★ 私はいつも私の主を私の前に v8 Set the Lord always before me
8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。8 I have set the Lord always before me; Because He is at my right hand I shall not be moved.
これが、ダビデの秘訣です。これは、イエス・キリストについての預言ともいわれている箇所です。
◎レネグディー{Renegdi}(の前に、相対するの意before, in opposite direction) suitable
ダビデは、私の前に常に主を置いたと言います。私のイメージでは、イエス様の後姿を見ながら日々、イエス様について行く感じだと思っていました。が、しかし、言語によると、なんと、イエス様の顔を私の顔の前に置くということだそうです。なんと、向き合っている形になります。衝撃でした。レネグディー(の前に、相対するの意)
ダビデは、いつも主と顔と顔とを合わせているという親密さを日々体験しているというのです。
◎またそれは、「主が私の右におられる」ことでもある。On the right side.
右は絶対的信頼を表します。私の右腕なんて、日本語でも言いますね。これは、実に親密な守られている関係をも示します。
結婚式の時に新婦の右を歩くのは父親です。父が絶対的に信頼できる守り手として今まで育て上げたからです。そして、新婦が結婚の宣言の後、新郎と会場を出る時には、新婦が新郎の右を歩きます。新婦は新郎にとって神のような絶対的な信頼できる伴侶となったという象徴であります。また、結婚も相対して生きて行くものであります。親密な中に、その力があります。夫婦が親密であるほど、互いに強くあることができ、またゆるぐことがありません。
ダビデは、神が右におられるので、私はゆるぐことがない。と自信を持つて言っています。それは、神と相対しており、確固たる信頼をしているからでした。
★9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
神とともにある人生は、心に喜び楽しみ、平安があり、たとい苦しむことがあっても必ず守られる。それは、永遠に続く、というのです。
今日は、16篇全体を読みました。いろいろと皆さんそれぞれに心に響いたところがあると思います。今週も、ダビデのように、またイエス様のように、神と向き合い、神を信頼し、神を選びながら、恵みのなかを歩んで行きましょう。
礼拝後、折り紙をして遊ぶみんな。。。平和だー♪
お兄さんが、でっかい手でこんなにちっこい米粒大の折り鶴を折ってくれました。すごいわー
2019年1月20日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声はこちら、
VIDEO
ピリピ4:4-13
4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
★ピリピ書 Letter to Philippians
この書はパウロがローマでとらえられ牢屋に入れられていた時にピリピという町の信徒たちにあてて書いた手紙です。この教会のできたいきさつなどは使徒の働きに書かれています。パウロは、イエス様を伝えるためにあらゆる苦難にあいました。何度も死ぬほどの目にもあいました。そんなパウロが、異教の地で信仰を守っている聖徒たちに手紙を送りました。パウロは、ピリピの人たちから救援物資を受け取ってその感謝も伝えています。よくぞ、パウロの苦しみと心を共にしてくれた、と。あまりある霊的な祝福を祈りながら。苦しい時の折にかなったこくりもの、助けは、たわしたちに孤独ではない事を知らせ、神の御手が守っていることを確信させます。私たちもそうなりたいものです。ピリピ書は喜びの書ともいわれています。喜ぶことが勧められています。しかし、いかに実際のパウロの状態と正反対なことを勧めているのかと思いませんか。今日はそのお話しをしたいと思います。
◎パウロは、ピリピの人たちがパウロのことを思って贈り物をローマに送ってくれたことの感謝を表す中でこう云います。
★私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。V11 for I have learned to be content whatever the circumstances.
パウロは、食べ物やお金がない状態であり、牢屋に入っている状態でるが、満たされている。というのです。幸福だ。というのです。そして、パウロは、私はその秘訣を習得したというのです。パウロは、様々なことを経験する中でそれを学んだというのです。
◎12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。12 I know what it is to be in need, and I know what it is to have plenty. I have learned the secret of being content in any and every situation, whether well fed or hungry, whether living in plenty or in want.
豊かさにおいても、貧しい時にも、ミニストリーが成功している時でも、捕らえられているときでも、どんな時でも満ち足りる秘訣を学んだというのです。
私たちは、境遇に左右されるものです。私たちはまた、富んでいるときには高慢になりけちになり、貧しい時には卑屈になって自分を低く見るものです。しかし、私たちの身分は私たちの境遇に左右される必要がないことを今日覚えていただきたいと思います。
なぜなら、パウロは、どんな状況の中でも、満たされることができる。というからです。
ただし、それをあなたが習うなら、です。パウロもそれを学ばなければなりませんでした。
今日、あなたが行きずまっていると感じるなら、チャンスです、あなたも満ち足りる秘訣を習うことができます。
◎13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。13 I can do all this through him who gives me strength.
パウロの秘訣は、イエス・キリストです。ピリピ書にはIn Christ キリストにあって。という言葉がよく出てきます。キリストにあって、キリストの中にいれば強められる。どんなことでもできる。というのです。
どんな状況にいても、どんな境遇にいても、その境遇があなたのアイデンティティを変えることはできない、あなたの心を操作することはできないのです。
キリストにあって、あなたは、神の王子王女とされたからです。キリストにあって、あなたの国籍は天にあるからです。キリストにあって、あなたは誰の奴隷でもないからです。キリストにあってあなたは自由だからです。神の子だからです。
◎In Christ キリストにある
キリストにあるということは、場所のようなものです。私たちは、どんな境遇の中にいる前に、キリストの中にいることを確認するのです。キリストは私たちの隠れ家です。
立ち上がってみましょう。一歩動いてみましょう。キリストの中に入る。。。を創造して。
その場所へのアクセスは、信仰です。
また、In Christ という場所は、永遠へのアクセスです。私たちの人生は、一時的なもの、私たちの人生の本番は天国です。天国へのアクセスはキリストにあります。キリストにとどまり、キリストの愛の中にいる時、私たちは一時的な痛みから解放されそして休みを得ることができるのです。クリスチャンが永遠の感覚から切り離される時、私たちは苦しむのです。
これは、またコーピングスキルではなく、キリストを信じるものには、霊的な現実であります。
イエス様を信頼することです。苦しい時、息を吐いて、「ハレルヤ、イエス様―」と私はイエス様を呼びます。イエス様を信頼していることを自分の心で確認するのです。
★パウロの簡末の奨励 Paul’s end of letter exhortation 4:4-9
4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
パウロは勧めています。喜びなさい。喜べない時は、思い煩うことをやめ、感謝をもって祈り、あなたの願い事を神に知っていただきなさい。と。。喜べない時に、私たちはいろんな感情を経験しています。悲しみ、苦しみ、痛み、嘆き、怒り。。。私たちのすべての感情は私たちの必要に直結しているのです。ですから、あなたの「願い事」と書かれているのはもっともだと思います。そうすると神の平安が心を満たし、あなたは、In Christ キリストの中におり、守られる。というのです。
また私たちの考えというのは、厄介なもので、ネガティブなことを考え続けたりしてしまいます。パウロのように試練に合い、孤独を感じていたでしょうからどんなにこのネガティブな考えと戦ったことでしょうか。パウロはまた勧めています。私の大好きな聖書の言葉です。
◎8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。Finally, brothers and sisters, whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable—if anything is excellent or praiseworthy—think about such things.
私たちは、腹の立つとき、ネガティブな時、否定的なことばかり数えてしまいますが、むしろ、良いこと、美しいこと、愛すべきこと、清いことを心にとめるように勧められています。良かったさがしです。それは、パウロがしていたことであり、v9「そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」とあります。put it into practice. And the God of peace will be with you.
すなわち、これも、私たちをキリストの中に移すことができるというのです。In Christ …
★実践Practice
今、一緒に祈りましょう。心の重荷を神様の前に降ろしましょう。こんなことが苦しいです。また、こんな風に変わりたいです。と願い事も祈りましょう。
それを祈ったら、今度は、感謝なこと、そして美しいこと、に心を留めましょう。黙想しましょう。感謝の祈りができる人はそうしてください。
★「あしあと」の詩 Poem “Footprint”
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