レント自分を吟味するLent -- Examine yourself
3月
12日
先週はアッシュウェンズディがあり、頭に灰で十字架を書いた人をたくさん見ました。レントが始まりました。レントは、キリストの苦しみと十字架そして、復活のイースターを前に、自らを省みて振り返り、罪に気が付いたり、悔い改めたりするという時期です。
〇コリント人たちの傾向
賜物を誇る。高慢さがあった。罪を継続的に犯して何の後悔もない人たちがいた。それどころか、痛いところを突かれると、逆にパウロの使途職の正当性を疑ってきた。またパウロの説教の能力も疑った。という文脈。
この背景に心をとめておいてください。コリントの人たちは、自分の罪をパウロに指摘されたことが耐えられなかった。ですから、その恥を攻撃に変えた。自分の恥を自分のものとして認識できない場合は、往々にしてこのような行動にでます。私たちも多かれ少なかれあります。自分の恥をどう隠すか、責任転嫁するかが自動的に人がすることですね。アダムとエバのように。。。。
Ⅱコリント13:3-5
こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。
4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか—あなたがたがそれに不適格であれば別です。
〇レント、省みることの意味
身を慎み、過ごす時期ですが、その目的は、自分の十字架の重さを知ることです。そして、キリストの十字架の尊さを知り、キリストのくびきの軽さに感動することです。
① イザヤIsaiah 51:1
義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。“Listen to Me, you who follow after righteousness, You who seek the Lord: Look to the rock from which you were hewn, And to the hole of the pit from which you were dug.
惰性や習慣ではなく、神に新しく出会い、神の義を求めるもの、神を求めるものは、自分の出てきた所、どこから救われたのかを見なさいと言われます。
② 黙示Rev. 2:4
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。Nevertheless I have this against you, that you have left your first love.
次の節では、だから「悔い改めなさい」と書いてあります。私たちは、悔い改める時に、いつでも初めのあの愛に帰ることができるのです。
私のインターン先には、いつも新しい入居者が来、また外部からチャペルのために証しをしに来てくれます。絶えず、初めの愛を思い出させてくれます。自分の証しを話す時、誰かの証しを聞くときにとっても励まされます。それは、イエス様の愛が心からまた湧き上がってくるからです。
神の愛がはじめにあったから、私たちはそれを信じた。。信じることで救われたのです。
暗闇の中、どうしようもなかった時、助けがなかった時、助けが見いだせた時、イエス様が分かったとき、イエス様の十字架の意味が分かったとき、何回思い出しても、私に新しく元気を与えてくれます。
〇省みれない理由
① 恥…自分の過去を振り返れない時、そこには、恥の問題があります。もうあれは終わったことだから。過去のことを思い出して嫌な気持ちを再体験したくない。暗い気持ちになりたくない。何て思う方も多いです。私も、クリスチャン生活が浅い時はそうでした。けれども、何回もその思い出に空気を入れるのです。恥は、自分から自分の感情をも隠そうとし、癒しを遅らせるのです。何回も訪れて、何回もイエス様がここに来てくださったということを確認するところに癒しがあり、恥の思いが小さくなります。恥の思いが小さくなれば、自分から、また人から隠れなくてもよくなり、また、それも証しとなるのです。時々、本当につらかった思いや、自分の黒歴史について全く証しできない方もいますが、もしかしたら、恥にふたをしてしまっているのかも知れませんね。
② 宗教
過去を振り返り、自分を省みれない理由の一つに宗教の霊があります。または、み言葉の未熟な適用と言ってもいいかもしれません。聖書では、後ろのものを振り切って前を向いて、何て言葉もあり、私はもうイエス様の十字架と一緒に死んだのだから、ポジティブしかない、なんて思ったり、または、イエス様はどんな罪だって赦してくれる、だから、今日の罪も赦されるから向き合わなくてもいい。というような間違った適用もすることがあるでしょう。
これは、教会も聖書の真理の提供の仕方、いや、弟子訓練として人と人として向き合う中でしっかり教えないといけないのだと思います。日曜礼拝で聞くだけでは間違って聞いてしまうこともありますから。やはり、一対一の弟子訓練が大切です。
宗教は、早く良くなった。自分は乗り越えた。を強調させるかも知れません。が、しかし、それは本当でしょうか。私たちは、日々罪に対して弱いものです。また、同じ過ちを繰り返し、同じ恐れに縛られ、同じ恥をもつものです。
〇キリストの弱さとは
謙遜さ。キリストには能力も権力も知恵もすべてに勝てるものがあった。が、しかし、あえて弱さをとった。そこにこそ、神の愛が現わされたのです。キリストは、弱いから強いのです。世界で一番強いのはイエス様の弱さです。
〇あなたの弱さ
① 肉の弱さ、精神の弱さ、過去のトラウマ、心の傷、過ち、罪に対する脆弱性
---- いつ気づくか、人との関わりの中で。コリントの人たちは注意されて気がつくチャンスをもらいましたね。
----- 聖書の言葉を通して。聖書は、従った見たときに、自分の弱さを実感させられます。けれども、それと同時に神の力を経験させてもらえます。
② 弱さの力
キリストの愛は、雄弁eloquenceさや能力を通して伝わるのではなく、むしろ弱さを通して伝わる。このコリント人たちがまさについていることですが、この世の霊に私たちは気を付けましょう。この世は、見た目が強いほど良いと思われるのです。ですから、私のように、言葉が遅い、もじもじしていると、馬鹿に思われたり、能力がない、知性がないと思われるのです。
しかし、神の福音や、神の愛というものは、能力や雄弁さを通しては伝わらないことを覚えていてください。
弱さは、世の人の心をつかんだり、効率よく人を集めないかも知れません、しかし、不思議な方法で神の愛が伝わるのです。これは、人の業ではなく神の業だからです。私たちの側ですることがあったら、祈りと愛することです。
ですから、パウロは、誇るなら弱さを大いに誇りましょうと言っているのです。
例えば、私の母教会の牧師は、議論には勝たない方が良いと私に教えました。私は、若いクリスチャンのころ、どんなノンクリスチャンからの質問にも立ち向かえるように、たまに意地悪なことを言う方もいますから、何とかリサーチして備えて、相手を納得させようとしていました。しかし、ある日、先生は、勝たない方がええというのです。。。。その時はよく理解できませんでしたが、いろいろと自分で経験をしてみて分かるようになりました。
議論に勝つことよりも、愛する時に、神の愛が伝わる。私が強くて弁がたったとしても、相手には愛が伝わっていないことが後でよく分かるようになりました。痛い経験もしました。失敗もたくさんしました。しかし、私が振り返る時に、私が弱い時にこそ、神様が勝利されたのです。弱いまま、至らないままで、一生懸命に愛そうとし、相手に寄り添おうとするときに、愛が伝わったのです。
〇キリストの弱さとあなたの弱さが一つになる時、力がある。
みなさん、ですから、弱いことは、悪いことではないのです。ただ、神の前にも人の前にも自分の弱さを隠したり、過剰に肉の鎧で守る必要はないのです。
〇信仰によって …信仰に立っているかどうか。。。
私たちが、どんなところから、どんな性質から救われてきたかを思いめぐらし、感謝し、常に証しを持ち、キリストの救いと愛に感謝する時、私たちの信仰がまた強められるのです。
神の愛に包まれて守られるのです。いつも、神の愛に感動し、その愛を信じるのです。
信仰によってのみ、私はキリストと一つです。
この作業は、キリストと一つになる、繋がることでもある。ここから、聖霊の実が出てくる。ここから、キリストの香りがする。あなたの中に、キリストが強くなればなるほど、香る。キリストが強くなるということは、あなたがますます弱くなるということ。
この土の器に私たちは宝を入れているのです。
このイースターまでのレントの時期に、自分を見直すこと、神の愛に浸ること、キリストの十字架の意味をかみしめることをお勧めします。