最後の晩餐 The Last Supper
4月
16日
ルカ22:7-22
さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。8 イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」9 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」10 イエスは言われた。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家までついて行きなさい。11 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と言いなさい。12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」13 彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。21 しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。22 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」
★大切な最後の晩餐の場所
イエス様は命を狙われている身ですから、安全で、落ち着いて最後の食事ができるところが必要でした。
V7-13 イエス様は、預言的に、ロバの子を見つけた話しがまた出てきますが、そのように、あそこにこんな人がいるから、こう言いなさいと。。。言われた通りに落ち着いて最後に祭の食事ができるところが見つかった。
この箇所からも、私たちに励ましを与えてくださいますね。私たちが神を信頼して、神の仕事をするならば、必ず、必要なことは備えられる。たとえ、イエス様のように命を狙われていても、いろんな苦労があったとしても、神は、ご自身がされようとしていること、神の愛による御心のために、私たちに導きを持っておられる。
★最後の晩餐?
旧約の過ぎ越しの祭の食事は、今後必要なくなるということで、イエス様が十字架にかかられて復活される前に持った過ぎ越しの食事が文字通り最後になるということ。
◎過ぎ越しの祭とは?
旧約聖書あっての新約聖書
イスラエルの祭、宗教儀式は全てやがてこられるメシア、イエス様を指している。
過ぎ越しの意味
イスラエルの民は、エジプトで奴隷でした。有名なモーセが出てくるお話しですね。エジプトからの脱出、解放の前に、かたくななパロと奇跡合戦のようになっていましたが、最後のしるしである全ての初子が殺されるということになりました。これには、パロも困ってしまったわけですが、神はイスラエル人のためには、かもいに子羊の血を塗ったものは免れる、という方法を与えました。かもいに子羊の血をぬったものの家は、免れて、みな救われたのです。その後、神は紅海を割ってイスラエルの民を救ったのです。
それから、イスラエルの民は、これを覚えて、自分たちがどのようにして奴隷から解放され、神の奇跡によって脱出できたのかを子々孫々に過ぎ越しの祭を通して、語り継げたのです。
過ぎ越しの祭では、子羊の肉や、種無しパンや苦菜という、その時の出来事、つらさなどをあらわす食べ物を食べて忘れないようにしました。
◎イエスを指す
ユダヤの祭は全てイエス・キリストを指し示しますが、これも、私たちを罪の奴隷の生活から救い出してくれるイエス様という意味が込められています。すべての祭は、やがて来られる救い主を期待しながら持つものです。
◎イエス様は、文字通り、最後の過ぎ越しの食事を一番愛する弟子たちとしたのです。
v15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」And he said to them, “I have eagerly desired to eat this Passover with you before I suffer. 16 For I tell you, I will not eat it again until it finds fulfillment in the kingdom of God.”
イエス様が十字架にかかる前ですから、もう十字架にかかられてからは二度と誰も過ぎ越しの食事をする必要がなくなります。
本物の過越しが来たのですから。出エジプトで起きたことの本物が来るのです。もう、誰も地獄に行くことがないように、その道から救われるようにイエス様が死なれたのです。
★パンとぶどう酒
V19-20 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。And he took bread, gave thanks and broke it, and gave it to them, saying, “This is my body given for you; do this in remembrance of me.”20 In the same way, after the supper he took the cup, saying, “This cup is the new covenant in my blood, which is poured out for you.
イエス様は、過越しの祭で、新しいことを言われます。これからは、私を覚えて、これをしなさい。と。エジプトではなくて、またメシアを待ち望むんではなくて、わたしを覚えて、これをしなさいと。
このパンは、わたしの身体です。罪のために、割かれたからだです。そして、この体は、それを食べる一人ひとりのためのものです。
この血は、あなたがたのために流された契約の血です。約束
皆さん、覚えていますか、エジプトで初子が救われたのは、動物の死によりました。動物が死んで、その血でかもいを覆ったものが救われたのです。その血の内側にいるものは救われたのです。
★過越しの食事・イエス様は共同体のもの
The feast was not only for the individual but communal.
この食事というのは、食べ物を口に入れ、自分の体の一部になることです。ちょうど、私たちが信じることもそうです。信じていることは、私の身体、私自身の一部となります。そして、それは、行動や言動にも現れるほどに自分と一つになります。
イエス様を食べる、血を飲むということは、そういうことです。
また、これは、共同体のものでもあります。共同体が一つになるためです。
同じ釜の飯を食う、とか日本でもいいますが、時間を共に過ごし、また辛苦を共にすることで一体感はまし加わり、強いきずなができるものです。
いわば、同じイエス様を食べたものとして、一つになることができるのです。
●イエス様は、愛する者たちに、よく覚えておくように。これが最後の祭だよ。これからは、律法ではなく、私を受け入れるんだよ。と、強いメッセージを弟子たちに、食べて飲むという実体験をもって教えました。
★私たちにとっては、どんな意味があるでしょうか。
食べること、イエス様を受け入れる。み言葉を受け入れる。
飲むこと、契約、約束だという。。。約束を信じる。
自分の力でもがくことからの解放
パフォーマンスからの解放
宗教や儀式で神につながるのでなく、個人的にイエス様と親しく繋がる
★イエス様をいただきましょう。聖餐式