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見ることから信仰へ From the Visible to Faith

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2015年4月5日イースターバイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/D9VBuwL3iOI

聖書箇所 ヨハネ20章

あなたは、今日どのようにイースターを迎えますか。

イエス様の復活の証人たちのリアクションから学んで見たいと思います。ヨハネの20章は、最後の節によると、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」 But these are written that you may believe that Jesus is the Messiah, the Son of God, and that by believing you may have life in his name.

イエス様の親しくしていた人たちは、みな、がっくりしていました。あの優しいイエス様、権威のあるイエス様、この世の中を変えてくれると思っていた素晴らしいリーダーが十字架の上で死んでしまったのです。弟子たちも、家の中に閉じこもり、人々に弟子だと言うことで責められるのではないかとびくびくしていました。イエス様の十字架に最後までついて行った女性たちも悲しみでいっぱいでした。

①マグダラのマリヤ  ヨハネ20:1,2, 16, 17

v1,2 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」

v16, 17 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」

イエス様の復活の第一証人。となった。マグダラマリヤは、七つの悪霊から解放された女である。彼女は、多く赦され、多くイエスを愛する者となった。イエス様に解放されて以来、イエス様の行くところについて行き伝道していたのだそうです。
マリヤのイエスへの尊敬と愛は行動の伴うものであった。マリヤは、夜が明けていの一番で、主の墓に駆けていった。愛は、私たちに行動を起こさせます。そして、イエス様は、一番に、そんな主を愛するマリヤに現れてくださったのです。

みなさん、主を愛するものは、必ず主を見つけます。

そして、マリヤは、イエス様にすがりついた。もう、どこにも行かないで下さいと言わんばかりです。
しかし、イエス様は、「わたしにすがりついては、いけません。」と言われました。
マリヤは、目の前に見えているイエス様にすがる人生から、見えないイエス様とともに歩む人生に変えらることに導かれます。私たちも、はじめ教会に行き始めたとき、全てのことをメンターのような人に教わり、いろいろと手取り足取り教わったりします。しかし、一生その人についてその人を通して神様を知るのではなく、ある時、見えない神様と自分との二人の関係をしっかりと築くようになります。そして、聖霊様によって導かれ、歩んでいくと言う道を知っていくのです。
マリヤも、目に見えているイエス様にすがることを卒業し、この後に来る助け主聖霊様とともに生きる道に導かれていくのです。

②ペテロとヨハネ ヨハネ20:3-9

そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。8 そのとき、先に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

二人とも驚いた   ペテロは、誰かが体を取って行ったにしては、亜麻布の残り方がおかしいと、不思議に思った。しかし、ヨハネは、「見て、信じた」とある。この後も、ヨハネは、あまりにもその事実に圧倒されたのか、みなに主が復活されたのだとは言わなかったが。。。
ヨハネは、空の墓を見たときに、聖書の言葉が成就したことを悟ったのでした。
V9 聖書のことばを理解していなかった。did not understand from Scriptureとあります。心の中に入っていなかったので、見ていることが何であるかが分からなかった。
私たちも、頭の中にある聖書の言葉が、目の前に起きていることと、結びつけることができなければ、なんの悟りも得られないのです。
私たち、クリスチャン生活の大切なことは、神の言葉を心に蓄え、そして、それを人生に適用することです。適用がなければ、何も起きないのです。

③トマス ヨハネ20:24-29

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

弟子の一人のトマスは、あいにく復活のイエス様が他の弟子たちに現れた時に、居合わさなかった。トマスは「見るまで信じない」と言いました。また、「イエス様の傷に手を差し入れて確かめないと信じない」と言いました。

皮肉なものではないでしょうか。マグダラのマリヤは、12弟子でもないけれども、心からイエス様を愛し、どこにでもついていく人でありました。復活の朝も、朝早く走って墓に行きました。そのマリヤは、一番にイエス様にあいます。しかし、トマスは、弟子たちとも一緒にいなかった上、親しい友達であるほかの弟子たちが、復活のイエス様にあったという証言を信じませんでした。そして、8日の後、やっと本物のイエス様にあうことになるのです。トマスは、疑いの心をどうも持ち続けていたようです。十字架で死刑にされたリーダーにがっかりし、弟子たちとも一緒におらず、ひねくれていたのかもしれません。この疑いの心が8日もイエス様に出会うことを遅れされたのです。

イエス様が復活したのは、事実なのです。けれども、イエス様に実際であった弟子たちは、喜びに包まれており、トマスはまだ失望の中にいます。
私たちに、何を教えているでしょうか。聖書の事実も、実際のイエス様の存在にも、目が開かれていないなら、その人は、失望の中にい続けることができるのだ、ということではないでしょうか。
それが、同じ弟子であっても、です。

み言葉を覚えていない→み言葉を忘れる→心の目で見ない→不信仰・信じない→失望・希望をなくす

というサイクルの中に人は、陥ります。もし、今、みなさんの中で希望が持てない、がっかりしている、将来が信じられないなどと言う方がいたら、第一に神様のみ言葉を心に入れることからお勧めします。

第二に、日々の生活の中で、み言葉が言っていたことを探すことをお勧めします。そうすれば、少しの進歩、小さい奇跡にも気がつきます。そして、結果を見なくても、結果を信じることが出来るようになるのです。

トマスは、イエス様に出会いました。そして、イエス様は、トマスに傷跡にさわらせてあげまました。トマスは、納得します。
そして、イエス様は、言われました。「見たから、信じたのですか。」「見ずに信じるものは幸いです。」と。Because you have seen me, you have believed; blessed are those who have not seen and yet have believed.

さあ、今日は、イエス様の復活をお祝いするイースターです。み言葉を心のうちに蓄えましょう。そして、よく心の目を開いて、み言葉と見ているものを一致させましょう。そして、イエス様を信じましょう。


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十字架上の最後の言葉The 7 last words on the cross

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2015年3月29日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/irHRWrVLNuw

今日は、イエス様がいよいよ十字架に付けられましたところからお話ししたいと思います。イエス様は、散々鞭で打たれて、弱っておられました。もう十字架に付ける前に本当は死んでいてもおかしくないくらいに弱っていました。そして、他の犯罪人とともに十字架に付けられました。
そして、息を引き取るまでに七つの言葉を話されました。
ユダヤ文化では、数字や文字にも意味があります。7というのは、完全数です。完全に完成されたということです。
イエス様が話されたこの最後の七つの言葉に私たちに重要なメッセージを含んでいます。

① 赦しの大切さ

ルカ23:33-34
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。When they came to the place called the Skull, they crucified him there, along with the criminals—one on his right, the other on his left. 34 Jesus said, “Father, forgive them, for they do not know what they are doing.” And they divided up his clothes by casting lots.
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」, “Father, forgive them, for they do not know what they are doing.”

イエス様は、罪もないのに、人々にあざけられ、リンチを受け、馬鹿にされました。名誉も尊厳もひったくれもありません。そのような時に、人を赦したのです。赦せないようなことがあったときに、赦したのです。
そして、この言葉は、全てを終えて、最後に赦すと言ったのではなく、まず第一に赦したのです。
これは、イエス様がこの地上に来られた目的がはっきりと示されているのではないでしょうか。

ヨハネ3: 17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him.
イエス様は、私たちがまだ罪人であるときに、このように取り成されました。この第一の言葉は、私たちに「赦し」の大切さを教えているのではないでしょうか。
私たちも赦すものとなりましょう。

② アイデンティティを自分のものにすること

ルカ23:42-43
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」42 Then he said, “Jesus, remember me when you come into your kingdom.”43 Jesus answered him, “Truly I tell you, today you will be with me in paradise.”

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」“Truly I tell you, today you will be with me in paradise.”

二番目は、隣にいた犯罪人がイエス様が御国に行かれたとき、思い出してくださいと言ったことに対しての言葉です。ここで、イエス様は、二つのアイデンティティについて騙っておられます。
まず、イエス様は、あなたに、イエス様を受け入れるなら、あなたもパラダイスにいるのです。ということを言われました。あなたは、地上に属するものではなく、永遠に属する、天に属するものとなるのです。ということです。
また、もう一つは、神の子としてのアイデンティティです。イエス様は、むごい肉体的、精神的虐待を受けました。身も心もぼろぼろだったはずです。普通なら、人と言うのは、ここで、自分の尊厳、アイデンティティを失いそうになりましす。しかし、イエス様は、このような状態で、罪人の一人として十字架刑にかかっているその場所で、隣の犯罪者に対して、「今日あなたは私とともにパラダイスにいる」と宣言できたのです。イエス様は、はっきりと、自分がどこから来て、何のためにきているか、自分の地上の目的をはっきりと知っていたからです。
もう一つのメッセージは、あなたは、自分の人生の意味を知っていますか? 自分のアイデンティティをしっかり持っている人は、このように強いのです。

③ 両親・家族を大切にすること

ヨハネ19:26-27
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。27 それからその弟子に、「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。When Jesus saw his mother there, and the disciple whom he loved standing nearby, he said to her, “Woman, here is your son,” 27 and to the disciple, “Here is your mother.” From that time on, this disciple took her into his home.

「女の方。そこに、あなたの息子がいます」“Woman, here is your son,”

イエス様は、ご自分が死ぬ前に、しっかりと、自分の母を自分の友達に託します。母のことをよろしく頼む。母よ、どうぞ、この人を自分の代わりと思って世話になってください。と。

みなさん、私たちの神は、家系の神です。アブラハム、ヤコブ、イサクの神とご自分を紹介される神は、家族、家系を大切にします。キリスト教になったから、家族の反対にあい、家族と断絶するのは神様の御心ではありません。産めよ増えよ、地を満たせと言われた神様は、あなたの家系全体を祝福したいと思っておられるのです。
イエス様のもう一つのメッセージは、神が大切にされているように、あなたの家族を大切にしなさいということです。

次の三つの言葉は、人間最大の三つの恐れに打ち勝つために語られました

④ あなたは、決して見捨てられない  恐れその一、人に見捨てられる・孤独

マタイ27:46
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。About three in the afternoon Jesus cried out in a loud voice, “Eli, Eli, lema sabachthani?” (which means “My God, my God, why have you forsaken me?”)

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」“My God, my God, why have you forsaken me?”

イエス様は、父なる神に見捨てられました。私たちの罪を身に背負い、人にも神にも罪人の一人として数えられたからです。イエス様は、黄泉、すなわち地獄の待合室まで下られたと書いてあるとおりに、この後死んで葬られるのです。
しかし、聖書には、「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない」Never will I leave you; never will I forsake you.という言葉がありますね。
イエス・キリストが私の代わりに神に見捨てられたから、信じる私たちには、決して神様はお見捨てにならないのです。

私は、神様を信じる前、いつも友達や恋人、また職場の人たちに嫌われないように、捨てられないようにと恐れながら生きていました。しかし、神様を信じてから、そのような恐れから解放されました。たとえ、人が私を捨てても、神様は決してキリストによって、私をお捨てにはならないからです。

⑤ 霊の渇きからの解放   恐れその二、不足・不満

ヨハネ19:28
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。Later, knowing that everything had now been finished, and so that Scripture would be fulfilled, Jesus said, “I am thirsty.”

「私は渇く」“I am thirsty”

イエス様は、初めから父なる神様とおられた方です。いつも愛、喜び、平安で満たされていました。私が、初めてクリスチャンになって思ったことは、「わーーなんて、全てが美しいんだろう。全てをいとおしく感じる。」「クリスチャンになる前の生活を考えると、まるで空気の無いところで生きているかのように、苦しく感じる」と思いました。愛、喜び、平安に満たさされる経験をしたからでした。

イエス様は、逆を行かれたわけです。空気のある世界から、無い世界へ。。。今まで渇いたことのない、霊が渇いたのです。そして、「私は渇く」と叫ばれたのです。
人間というものは、いつも将来について心配しています。明日食べものが十分にあるだろうか、着る物、住むところがあるだろうか、将来の仕事、幸せが来るだろうかと、いつも何かが足りないことを心配して生きているのではないでしようか。
イエス様は、究極の飢え乾きを体験しました。精神的にも、肉体的にも、霊的にもその渇き、足りなさは、限界を超えていました。

それは、私たちが二度と渇くことが無いために、イエス様が渇きを体験してくださったのです。誰でも、イエス様のところに繰るならば、その人は二度と渇くことがないのです。イエス様を信じる者には、二度と渇くことの無い生ける水の川が腹から流れ出るようになるのです。不足、不満はなくなるのです。

⑥ 義のための代価は払われた   恐れその三、変わることが出来ない、どうしようもない自分

ヨハネ19:30
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。When he had received the drink, Jesus said, “It is finished.” With that, he bowed his head and gave up his spirit.

「完了した」”It is finished”

何が完了したのでしょうか。それは、罪が赦されて、神に義・正しいもの、罪の無いものとみなされるための、いわば、罪の負債を帳消しにするための代価をはらいきった。ということです。
人間のもう一つの恐れは、自分が変われないこと。自分のどうしようもなさです。
イエス様は、この不可能を可能にされました。心の変革、生き方の変革を可能にされました。
本当は、私たちは、滅び行く罪人でした。本当は、罪人なのですから、イエス様が受けた罰を受けて地獄に行くべきものだったのです。地獄行きをまぬかれるには、いわば莫大な保釈金を払わなければいけないのです。そのいわば保釈金、罪の代価をイエス様は、十字架の死で全て払ってくださったのです。永遠の死から永遠のいのちへ変換されました。死から命に変わるのです。不可能が可能になったのです。そうすれば、どんなにあなたが難しい人でも、キリストにあって、キリストに従うならば、すっかり帰られることが出来るのです。ここに私たちの人生の希望があります。
イエス様は、完了したと言われます。あなたも、変われます。と言われているのです。

そして、最後に生き方の奨めをされました

⑦ 神に委ねた人生の奨め 

ルカ23:46
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。 Jesus called out with a loud voice, “Father, into your hands I commit my spirit.” When he had said this, he breathed his last.

「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」“Father, into your hands I commit my spirit.”

イエス様の最後の言葉となりました。いよいよ息を引き取る際に言われました。わが霊を御手にゆだねます。と。人間の一番の恐れは、死に対する恐れです。みんな、お金持ちになるために一生懸命働きます。そして、富を得た人の次の願いは、死なないことです。将来の医療の発達を信じて、たくさんのお金をかけて死んだ体を冷凍にする人もいます。

イエス様は、完全にご自分の霊、全存在を神様の御手にゆだねました。そして、黄泉にくだられるのです。しかし、もうすぐイースター・復活祭ですが、3日後に蘇られます。永遠なる方が、死になど繋がれることはないからです。
それは、誰でもこの復活のキリストを信じるならば、永遠のいのちが与えられるようになるからです。イエス様は、死ぬことさえ、惜しみませんでした。それほど、父なる神を信頼していたのでした。イエス・キリストを信じている人の強さは、死に対する恐れがないことです。死の向こうには、永遠のいのちが待っているからです。
ですから、昔、日本でも、キリスト者の迫害があり、踏み絵などで、つかまった人が殺されましたが、みな、輝いて死んで行ったと記録されています。

しかし、私たちの霊を神様にゆだねる、ということが必要になります。

もうすぐ来週は、イースター・復活祭ですが、復活祭のときの聖書の言葉に次のような言葉があります。
ヨハネ11:25, 26 今、生きていて私を信じるものは、死んでも生きるのです。And whoever lives and believes in Me shall never die.

死んでも生きるのイースターを日常化するにはどうしたらいいのでしょうか。それは、自我に死ぬことです。私たちは、生きれば生きるほど、人生の困難の中心は、自分自身であると気づきます。自分の内側が難しいので、物事がうまく行かず、幸せや満足感が薄い。。。。イエス様は、自分の全てを父なる神にお渡ししまた。生きるも死ぬも、あなたのものです。どうぞ、好きなようにしてください。とお任せになりました。
私たちも、自分の夢、自分のやり方、自分自分と言う思いをおいて、神様のやり方に委ねるときに、命を体験し、自由になるのです。

永遠のいのちの入り口がここにあります。永遠の命は、日々の生き方です。心を決めて、神様に全てをゆだねて、イエス様を信じませんか?

さあ、イエス様からの最後の七つのメッセージ、
一番大切なこと、赦すこと、あなたのアイデンティティをしっかりもつこと。
そして、家族を大切にすること。
三つの恐れからの解放の約束。
そして、生き方の奨めでした。

もうすぐイースターこれらのことを黙想しながらお迎えしたいと思います。



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イエスを十字架につけた人たちPeople who crucified Jesus

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2015年3月22日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/y2xP2rKRzFA

ヨハネ19:1-16
そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。
2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるために彼らに引き渡した。

いよいよ、イエス様が十字架に掛けられる日が近づいて来ました。イエス様は、当時ユダヤの地方を支配していたローマの総督ピラトに引き渡されます。
今日は、イエス様を十字架に掛けた人たちについて注目してみたいと思います。

① 群集

時は、過ぎ越しの祭。大勢の人たちが祭を祝うためにエルサレムに来ていた。
ローマの総督、裁判官であるピラトは、イエス様に罪を認めないので、釈放したかった。18章では、イエス様を釈放しようと試みたが、群衆は、イエス様ではなく大罪人バラバを釈放するように求めた。

また、この群衆を扇動していたのは、祭司長などの宗教指導者たちであった。宗教者たちは、イエス様が妬ましかったので、イエス様をのぞきたかったのである。

19章でも、群衆は、「除け、除け、十字架につけろ」と何度も繰り返し叫んでいる。

群衆と呼ばれた人たちが、イエス様に会いに行ったのではなかったのだろうか? 群衆と呼ばれた人たちが、癒されたのではないか? イエス様の教えに耳を傾けたのではないか? また、満腹になるまでパンと魚をふるまってもらったのではなかったのだろうか?
イエス様は、このような人たちに十字架につけられたのでした。
イエス様のことを見聞きし、興味を持ち、また癒されたり、良いことを体験するが、個人的な関係を持っていなかった。そして、いとも簡単に、宗教指導者たちの掛け声に従ってしまう。
イエス様が殺されようが、どうなろうが、自分とは関係がない。と思ったのです。良いことを見聞きしたり体験したけれども、個人的な関係がないならば、イエス様の十字架の痛みは、彼らに何のインパクトもないのです。
ですから、リーダーの掛け声一つに何の考えもなく、さーっとついて行ってしまうのです。いわば、真理に対して無関心な人たちです。思想のない人たちと言っていいのかもしれません。
イエス様は、このような、天の御国、真理、真の神様、宗教よりも愛に生きる、などということに無関心な人たちに十字架につけられたのです。

一つ目は、真理に無関心な人たちでした。

②  ピラト

ピラトは、前々から会いたいと思っていたイエス様にやっと、こんな形で会えました。18章では、イエス様にいろいろと質問しています。そして、イエス様をだんだん求めるようになりました。「真理とはなんですか」とも聞いています。真理の探究者となりました。

また、イエス様を求めていますし、この良い人をどうしても罪に定めたくありませんでした。だいいち、罪を認められなかったからです。そして、イエス様をどうにか助けようと考えました。18章では釈放しようと試みたが、結果バラバが釈放されてしまいます。

先ほどの、聖書箇所を読んでも分かるように、ピラトは、ユダヤ人とイエス様の間を行ったり来たりします。そして、どうするか、判断に困っています。それは、なぜでしょうか。彼には、イエス様を生かすという権威があったのではないでしょうか。なぜ、こんなに困らなければ奈良なのでしょうか。

彼は、自分の信念、また神や真理よりも、自分の生きている世界、住んでいる領域において面目を保ちたかったのです。

ユダヤ人を満足されたい。また政治的にも丸く治めたい。そして、何より、最後の決め台詞となつたのは、ユダヤ人のこの言葉でした。

ヨハネ19:12-13
こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。

ピラトにとっては、カイザルに対する忠誠心を疑われるくらいなら、この罪のない人を殺した方がましだったのです。つまり、カイザルの気持ちを害するくらいなら、一人の罪のない人を死刑にするほうが良かったのです。

みなさん、真理を選ぶときには、犠牲が伴うことをピラトは知らなかったのです。自分が犠牲を払ってまでも、真理を手には入れたくなかったということです。

聖書の箴言の書には
神を喜ばせることよりも、人を喜ばせることを選ぶなら、罠にかかります。というような言葉があります。究極的には、真理を得るには、人に嫌われたくないという自分を取るか、神を取るかという選択になるのです。

③ 父なる神、御子イエス様の従順な姿

さて、もう一人イエス様を十字架にかけた人がいます。それは、この聖書の箇所には直接的にでてきていませんが、父なる神様です。

ヨハネ19:10-11
そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。

ピラトが釈放したくて、自分には権威があるんだぞ、と言い出しました。するとイエス様は、「上からの権威でなければ、ピラトでもイエス様の生死に関する権威は何もない」と、おっしゃいました。すなわち、イエス様が十字架にかかられるのは、上からのことだとおっしゃいました。人間の手にかかっているのではない、というのです。

イエス様は、父の計画にもくもくと従われました。何を聞かれても、自分の有利になるようなことは言わず、静かに従われました。イエス様は、何の罪も犯していないのに、極悪人がつけられる十字架につけられようとしているのです。平手打ちをされ、つばを吐きかけられ、人々に馬鹿にされ、笑われました。しかし、決して、自分の面目を保つために、何一つ自分を守るために口を開くことをされなかったのです。

どうしてでしょうか。
それは、私たちの罪を背負うためでした。私たちが罪赦されるためでした。私たちが永遠の命を持つためでした。

神様は、私たち人間をお造りになりました。私たちに素晴らしい宝物を一人ひとりのうちに与えました。しかし、私たちには罪があります。それは、ピラトのような、また群集のような、私、わたしがかわいいという、真理に無関心な心です。
神は、そんな私たちを救われたいと思われたのです。
ですから、本当は、罪人である私が受けなければいけなかったその刑罰をイエス様に負わされたのです。そして、誰でもこのイエス様を信じるものには、罪が赦され、永遠のいのちが与えられるようにされたのです。
イエス様は、この父なる神の計画にもくもくと、けっして自分を守ることもなく従われたのです。

ピラトと違うのは、イエス様は、真理のために多大な犠牲を払われたのだということなのです。

それは、後の日に、多くの実りを見るためでした。そして、実際そうなりました。私もイエス様を信じて救われました。それは、私を信仰に導いてくれた人の命も救いました。そして、私の家族を救いました。また、私を通してたくさんの人に伝われました、今も、伝わり続けています。

さあ、みなさんに質問します。あなたは、今日のメッセージの誰に当てはまりますか。真理について無関心な群衆でしょうか。また、真理を求めているが、最終的に、神よりも人を選んでしまったピラトのようでしょうか。

いずれにしても、真理を受け取るには、犠牲が伴います。群衆と言われている一人が、もし、あの時、宗教指導者にノーといったならば、そこで救われていたでしょう。ピラトが、たとえカイザルに背いたと言われても、あの時、イエス様を求めつづけたのならば、イエス様に出会い、真理を悟ったでしょう。

イエス様に出会うには、何がしらの犠牲が伴うのです。

しかし、私たちの払う犠牲は、イエス様の払ってくれた犠牲に比べたら、比べものにならないくらい小さいのです。

その犠牲を払ってイエス様に出会いませんか。

もうすぐイースターです。今日のこのことを心に思いめぐらしながら、今週一週間すごしましょう。



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一日力強い助っ人現るー

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三人のアップ写真。たっくさんお... 三人のアップ写真。たっくさんお話しして、たっくさん働いてくださいました。。。あと、たくさん食べました。笑
私たち、小さな開拓教会、しかも異国の地。何が嬉しいかというと、助っ人です。。。

南大阪福音教会から、一日私たちの教会を訪問してくださった方がありました。

しかも、旅先のアイダホの東端からわざわざグレイハウンドバスに乗って夜行でシアトルに来てくださいました。

朝9時くらいについて、早速我が家に来てくださいました。一時も休むこともなく、ひたすら、夜7時くらいまで私のお手伝いをしてくださいました。

すっごく助かりましたーーー。

しかも、働いている間、いろいろとお話を聞きました。

どのように神様にであってクリスチャンになったのか。

どのように家族がクリスチャンになったのか。

神様にお祈りすると、いつもきかれること。。

たくさんの奇跡的な神様からの助け、導き。。。

本当に励まされました。

改めて、神様は生きているんだなー。どんな祈りにも耳を傾けてくださっているんだなーと感動しました。

そして、彼は、ゆっくり眠ることもなく、朝、三時半に家をでて、飛行機に乗りました。

頭が下がります。

今度シアトルに来る時は、ゆっくりしていって欲しいです。

私も今度はよくおもてなしをしたいと思います。

しかし、人一人の人生の体験って豊かですねーーー。

人って素晴らしい。神様ってすばらしい!

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日本からの訪問者

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礼拝後、しずかさんと 礼拝後、しずかさんと
先月、今月と日本からの訪問者が多いです。

先月ベイビーシャワーをして、赤ちゃんのお祝いをした方のお母様が日本から三週間来られていました。

お母様はクリスチャンで、毎週礼拝に来てくださいました。

とっても素敵な方で、もっとゆっくりお話しができたり、どこかお連れで来たりしたら良かったのですが、

お母様もお孫さんたちと、娘さんのお世話で忙しくされていました。

今度来られた時は、ゆっくりと過ごせたらと思います。

住んでいる国が違っても、なんだか近く感じる出会いでした。

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山上の垂訓

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みなさん、こんにちは。

今週の日曜日は、ミャンマーからアメリカに来て聖書学校で学ばれているジョシュアさんに来ていただいてメッセージをしていただきました。
これで3回目なのですが、
ミャンマーは、仏教の国で、なんとなく精神世界も日本人と似ているようです。
聖書の言葉の説き明かしも深いものがありますし、
日本人にはとても理解しやすいです。

彼は、最近結婚されて、奥様は妊娠中です。

聖書の箇所は次のとおり、イエスさまが初めてされたメッセージと言われています。

マタイ5章1-12

1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

みなさんは、どのようにこれを読んで感想をもたれましたか?
何か心のプラスになったらいいですね。
今週も祝福がありますように。

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とどまることの勧め Exaltation of Abiding

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2015年3月8日日曜日バイリンガル礼拝音声は、youtube; http://youtu.be/nhbYaUXdrWU

ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。“I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing.

ヨハネ15:7-12
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be done for you. 8 This is to my Father’s glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples. 9 “As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love. 10 If you keep my commands, you will remain in my love, just as I have kept my Father’s commands and remain in his love. 11 I have told you this so that my joy may be in you and that your joy may be complete. 12 My command is this: Love each other as I have loved you.

★ ぶどうの木と枝
ヨハネ15:5 イエス様は、イエス様がぶどうの木で私たちが枝だと言われました。私たちは、イエス様と繋がって木がその幹から養分を吸い取って成長するように、イエス様から養分、愛、いのちを受け取って成長していくものなのです。
五節でも、そういう人は、多くの実を結ぶと書いてあります。そして、イエス様を離れては、私たちは何もすることができない、すなわち、神の御国のために何も成し遂げることはできないのだ、ということを言われました。

面白いことに、ぶどうの木というのは、りんごの木のようではなく、幹と枝がはっきりしません。ぶどうの木というのは、蔓なのです。Vine
神様は、私たちとイエス様との関係は、このようだと教えておられるのです。
どこからどこまでが枝で、どこからどこまでが蔓わからない。
外から見たら、一体に見えるということです。

★ 内住のキリスト

ガラテヤ2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I now live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me.

私たちは、キリストを信じたときから、私たちの内に神の霊が私たちの内に住まわれます。ですから、他の聖書の箇所でも、私たちの体は、神の宮だと言われています。
そして、神は、霊ですから、目に見えません。ですから、信者である私たちを見る人は、同時に神様をも見ていることになるのです。

★ とどまることは、あなたの選択でもある

そして、人々が私たちの内にキリストを見るときには、私たちがキリストと真の意味で一体となっている時です。
さて、七節のはじめには、こうあります。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、If you remain in me and my words remain in you,
つまり、「とどまること」というのは、私たちのチョイスである。私たちの意思に関わることであるということです。イエス様に繋がっていれば、多くの実を結ぶ、ただし、イエス様にとどまってるなら、ということなのです。

「とどまる」という言葉は、滞在する、宿るということです。私も先月から、立て続けに日本からのお客さんを迎えていますが、一番の楽しみというのは、一緒にご飯を食べたり、ゆっくり交わったりすることです。ただ、私の家の一室を使ってもらっているだけではないのです。もてなし、というのは、部屋を貸すことではなく、ともに時間を共有し、互いを分け合うことです。
私たちは、イエス様にとどまっているでしょうか。
ただ、日曜日だけ、イエス様に繋がってはないでしょうか。イエス様にとどまるというのは、日常の生活の細部に至るまで、イエス様とともにいることです。
それは、あなたのチョイスにかかっています。そういえば、教会に来ている以外は、神様のことを忘れてしまう人もいるのではないでしょうか。

イエス様は、七節で続けて、言われます。何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。ask whatever you wish, and it will be done for you. 私たちが神の御国の建設、御国の業をこの地上にもたらすために必要なものは、みな、求めれば与えられると言うのです。そして、イエス様は、次の二つを勧められます。

・愛にとどまる。。。

V9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。9 “As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love. イエス様とお父様に習うということです。先週のメッセージの通りに、私たちは、体験を通して、愛することを心に焼き付けるのです。また、自分が愛された通りに、人にもするのです。自分に愛された経験のない人は、愛そうとするときに、独りよがりな愛、ゆがんだ愛を発信してしまい、受け取り手に伝わらないことがあります。私たちには、御父と、イエス様という素晴らしい見本があり、またイエス様も私たちを愛することで、私たちが他人をどのように愛したらいいか、示しておられます。 宗教から命へ。。。デリックの話し。

・み言葉にとどまる

V10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。10 If you keep my commands, you will remain in my love, just as I have kept my Father’s commands and remain in his love.

ロマ12:1-2 にこのようなみ言葉があります。

1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。Therefore, I urge you, brothers and sisters, in view of God’s mercy, to offer your bodies as a living sacrifice, holy and pleasing to God—this is your true and proper worship. 2 Do not conform to the pattern of this world, but be transformed by the renewing of your mind. Then you will be able to test and approve what God’s will is—his good, pleasing and perfect will.

私たちは、神様の御心を自分でしようとしても、心の一新すなわち、言語では、私たちのMind 考え方が変革されなければ、できない。と言うのです。
私は、心の癒しのミニストリー、解放のミニストリーをしていますが、この働きの全てを一言で言い表すと、自分の世に染まった考え方を捨て、神様のみ言葉を真の意味で信じるように導くことです。これには、自分が持っている、み言葉に合わない考え方に気付くことと、み言葉を知ること、また、み言葉を信じること、そして、信じているみ言葉を行うことで、完成します。

神様の戒めにとどまることは、愛にとどまることであるとイエス様は言っていますね。聖書の教えは、神の愛です。私たち、イエス様にとどまるものは、イエス様を尊敬し、そして、イエス様の愛することを愛し、イエス様の憎むことを憎みます。これが、神の戒めにとどまること、み言葉にとどまることです。

★ 喜びの満たし

V11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。 I have told you this so that my joy may be in you and that your joy may be complete.

喜びは、天国の通貨のようなものです。天国にはお金がありません。しかし、喜びがあります。地上での神様のための働きも、報酬は喜びです。
人と言うのは、お金のために働いている人は、自分のことを幸せとは思いません。いつも、何かが足りないと感じながら、奴隷のように生きています。
しかし、給料が少ないが、意味のある仕事をしていると感じながら働いている人は、いつも満足しているそうです。また、先日、学生映画会で見た、Happy というドキュメンタリー映画でも、人間の幸せを形作る要素のなかに、社会、コミュニティにに貢献していると感じることをすることでした。地域のごみを拾うなどの奉仕活動をしている人、インドのマザーテレサの働きに携わっている人たちなど、みな、人生の意味を人に何かを与えるときに豊かに感じ、自分は、幸せだと思うのです。
これは、喜びという報酬を手にしているからです。

イエス様は、互いにこの天の報酬である喜びを持ち続けようではないかと、あなたに今日励ましておられます。

もう一度言います、イエス様にとどまるのは、あなたの選択にかかっているのです。イエス様に留まりませんか。そして、イエス様の愛を受け取り、人に与え、愛するものとなりませんか。そのためになら、神様はどんな祈りにもこたえて下さるとおっしゃるのです。

祈りましょう。
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愛のメッセージ The Message of Love

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2015年3月1日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/QNp9b5scbA4

ヨハネ13:1-15

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

ヨハネ13:34-35

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

イエス様愛のメッセージ

その① 弟子たちの足を洗われた

 当時は、外に出かけると足が汚れた。家に帰ると奴隷が足を洗うという習慣があった。イエス様は、教師であり、師匠である立場であるのにも関わらず、奴隷のすることを自ら買って出たのだ。なんという衝撃だろうか。
イエス様は、行いをもって愛のメッセージを伝えられた。行動の伴う愛というのは、なんとインパクトがあることか。言葉よりも多くを語るものだ。
イエスの愛のメッセージは、行動の伴うものであった。言葉よりも、行いを通して示されたことのインパクトは大きく、心に忘れることなくいつまでも残るものだ。

  足を洗う意味。。。。罪が赦されるという意味がある。 いわば、足を洗うということは、私たちの心を洗ってもらうということだ。イエス様に個人的に心のうちをうちあけ、洗って綺麗にしてもらうことだ。

その② この愛は、裏切る者にも与えられた

 v2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、And supper being ended, the devil having already put it into the heart of Judas Iscariot, Simon’s son, to betray Him,

 イエス様は、後にイエス様を裏切るユダの足をも洗われた。イエス様は、誰が裏切るか知っておられた。なんとふところが深いのだろうか、と思わされる。それと同時に、イエス様は、このようなメッセージを残された。イエス様の愛は、全人類のために与えられたということだ。あなたが、理解できようが出来まいが、拒もうが、それは、もうあなたの前に差し出されているということだ。

その③ イエス様の愛を受け取ることを教えている。

 v8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」 Peter said to Him, “You shall never wash my feet!” Jesus answered him, “If I do not wash you, you have no part with Me.”

ペテロは、先生に自分の汚い足を洗ってもらうのを申し訳なく思い、断りました。すると、イエス様は、私と何の関係もありませんと言われました。 イエス様に足を洗われないのなら、イエス様と何の関係もないのです。イエス様に、個人的に罪を赦してもらわなければ、何の関係も無いのです。

教会に行っても、宗教行事に参加していても、イエス様に個人的に、足を洗ってもらわないならば、イエス様との関係は無い。すなわち、死後、みな神の御前に裁きを受けますが、その時に、イエス様と関係ある者とみなされない。神の家族とみなされないのです。

その④ イエス様の模範に従うこと。互いに愛し合うこと。

v12-15 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。12 So when He had washed their feet, taken His garments, and sat down again, He said to them, “Do you know what I have done to you? 13 You call Me Teacher and Lord, and you say well, for so I am. 14 If I then, your Lord and Teacher, have washed your feet, you also ought to wash one another’s feet. 15 For I have given you an example, that you should do as I have done to you.

ヨハネ13:34-35
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」A new commandment I give to you, that you love one another; as I have loved you, that you also love one another. 35 By this all will know that you are My disciples, if you have love for one another.”

イエス様は、あなた方もイエス様と同じようにしなさいと言われています。

私も、ある人の行動から多くを学び、今もその模範どおり心がけていることがあります。

私が、いつも人に気前良く与え、祝福をしたいと思い、また、必要がある人がいたらその人を思いやるように考えるように、心に深くその思いを焼付けされてくれた方がいます。

本人が嫌がるので名前は出しませんが、私が、アメリカで就労ビザを待っているとき、お給料がもらえないので、貧しい生活をしていました。ある時、その方は、デパートに私を連れて行ってくれ、上から下まで、靴まで何でも私の好きなものを買って良いんだと、買い揃えてくれました。私は、とても祝福されました。そして、感動しました。その方は、何も大金持ちではありません。家には必要のある子どもたちがいます。けれども、この方の神様に対する愛、また私に対する愛ゆえに、そのような行動をとってくださったのです。

そして、その時一つ思ったことがあります。それは、「私もこのように人にしてあげよう。」と言うことです。。

いつか、アメリカでお給料をもらえるようになったら、私も人を祝福したいと思ったのです。
そして、それ以来、私は、必要のある人はいないか。どのようにしたら、その人を一番祝福できるかと考えるように変えられました。

これが、自然なことです。人というのは、言葉で教えられるよりも、行動で示される、すなわち、人に良いことをしてもらう時に、感動し、そして、自分もそのようにしたいと思うものです。

イエス様は、言われました。「師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに洗いあいなさい。」と。  イエス様が、奴隷のように地面にはいつくばって私たちの足を綺麗にしてくれるのだから。イエス様があんなにひどい目に合わされて十字架に掛けられ、私たちの罪を負い、私たちを赦してくださったのだから、私たちも、互いに赦しあうべきです。

「赦しあう」と言う言葉を聞いて、「そうしよう」と思うだけでは十分ではありませんし、それだけでは、あなたの行動は変わらないのです。

先ほども言ったように、やはり、自分が受け取り、体験しなければ、私たちの心までは変わらないのです。あなたが感動するほど、イエス様の愛を存分に味わっていないならば、イエス様の言葉は、もう一つの律法にすぎないのです。
私も、あの時、あの親切な方の好意を拒んでいたなら、今になっても決して何も学ばなかっただろうし、私の生き方は、変わっていないまま、けちであったに違いありません。
ちょうど、イエス様がペテロに、「わたしが足をあらわなければ、あなたと何の関係もない」と言った通りです。

今、ここに、こんなに素晴らしい生き方があるなら、そうしたい。人を赦したい。人を愛したい。人を祝福するものとなりたいと思う人は、いますか。
その人は、ぜひ、イエス・キリストの愛を受け取ってください。まず受け取ることです。

あなたが、まず、イエス様の赦しを体験しなければならないのです。

お祈りしましょう。


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春休みは里帰りシーズンです

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日本からわざわざ来られました。... 日本からわざわざ来られました。一年見ないうちに綺麗になっちゃって。。。 帰国組みとともに。。。人生の荒... 帰国組みとともに。。。人生の荒波、うまくサーフィンしてくださいね 新しく来てくれました。ようこそ... 新しく来てくれました。ようこそー。また来てね。
日本の大学生は、今が春休みです。

こちらの学生は、期末テストをひかえて、ひーひー言っております。

さて、また里帰りさんたちがわざわざ教会に訪ねて来てくださいました。
とても嬉しいものです。
それぞれに成長が見られます。

またもうすぐ帰国してしまう学生たちも来てくれました。

時間がたつのは早いものです。

でも、少しでも、成長の助けになれていたら嬉しいです。

若いみんののうえに今日も神様の助けと祝福がありますように。
と祈ります。

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弟子の足を洗ったお話し

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聖書の中にいろいろなストーリーがありますが、この箇所も有名です。
師匠であるイエス様が弟子たちに仕えた名場面です。そして、この後まもなく、イエス様は捕らえられ残酷な殺され方をするのです。。。。

ヨハネ13章1-15節

1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、

4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」

11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。

12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。

13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。

14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
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