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ペテロの再献身/三つのパラダイムシフト

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今日は、チェリーちゃんの4歳の... 今日は、チェリーちゃんの4歳の誕生日を祝いました。なんと、かわいいちゃんも、いよいよろうそくは、吹くものだと覚え、チェリーちゃんの前に、ふーふーしてました。笑いました。。。 昨日も、公園で盛大なパーティを... 昨日も、公園で盛大なパーティをして、40人が集まって、今日も教会でお祝い。うれしいなー、誕生日って。 昨日は、イチゴショートで今日は... 昨日は、イチゴショートで今日は、チョコケーキ。しっとりで美味しかった。おめでとう。チェリーちゃん。これからも、元気に育ってね。
2016年4月17日日曜日バイリンガル礼拝音声は、https://youtu.be/Cv2a2HbXODw

ヨハネ21章15-19

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上 に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの 小羊を飼いなさい。」16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたの で、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼 に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18 まことに、まことに、あなたに告げます。あんたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

先週に続き、食事を終えられた後、イエス様は、ペテロに話しかけられました。そして、これが、ペテロの再献身となりました。再びイエス様がペテロを召しだされました。私たちには、みな召しがあります。神様は、一人ひとりを特別な存在として、なすべき仕事、まことの天職を用意しておられます。よく、私は「どうやって自分の召しが分かるのですか。」という質問を受けます。一つは、あなたの特質、あなたのパッションもあるでしょう。そして、神様からの語りかけと導きが無くては、召しとはいえません。そして、いきなり召しが分かって、すぐそのとおりになるとは限りません。時間を掛け、ゆっくりと人の前にも神の前にも召しが明らかにされていくものです。ペテロも、そのような歩みをとりました。

★ 自分に絶望する時

神学生時代、恩師であるT学院長が言われた言葉に次のような言葉があります。
「勢いあまって壁にぶち当たり、ばたんと倒れる。そこが一番いい位置だ。」と。どういうことかと言うと、働き人というものは、情熱が無くては使いものにならない、しかし情熱がありすぎるのも困ったものだ。情熱がありすぎて勢いあまって失敗して、倒れる、その倒れた状態がちょうどいい具合だ。ということです。

ペテロは、とても理解が早く、ずばっとことの本質を見抜く資質がありました。情熱もありました。しかし、彼の発言は、ことごとく失敗に終わります。そして、一番やってはいけない、イエス様を裏切るようなこともしてしまったのです。

ペテロの失敗… 他の誰が躓いても、自分だけは躓かないと豪語しておきながら、イエス様が官邸で痛めつけられているときに、人に、あなたもナザレのイエスと一緒にいたひとですねと尋ねられて、三回もそんな人は知らないと言ってイエス様を否定したこと。

ペテロは、恥じていたことでしょう。こんな自分が再び、イエス様がよみがえられたとしても、共に神様の働きにあずかるに値しないのではないか。自分が、りっぱなことなど、できるはずはないと、消沈していたに違いありません。

みなさん、この位置が一番いい位置なのです。もし、神の働きの役にたとうと思い、自分は無理だと自覚したなら、そこがよいスタート位置なのです。励まされてください!

そんなペテロに、食事の後、イエス様がみなの前で急に話しだされます。ペテロは、三つのパラダイムシフトに導かれます。

★ 生き方のパラダイムシフト 今までの生き方との決別

V15 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上 に、わたしを愛しますか。」「これらのもの以上に。。。。」, “Simon, son of Jonah, do you love Me more than these?”

イエス様は、この世のシステムと、天の国のシステムへのパラダイムシフトがなされなければならないことをまず確認されました。
日本語では、「この人たち以上に」とありますが、英語では、these と訳されているとおりに、何をさしているのか少しぼんやりしています。言語のギリシャ語では、これらのこと、these matters これらのものthese things, このようなもの such things となっています。イエス様は、きっと、先ほど漁に出たこと、洗った網や、魚をさして話されたのだと思われます。

この世のシステムとは、売ったり買ったりすることで成り立っています。すなわち、働いた報酬で人は、生き、商売で社会が成り立っています。一方、神の国とは、与えたり受け取ったりすることで成り立っています。そこには、神に対する信仰というものが中心にあります。゜

イエス様は、これからどうしたらいいか迷いがあったペテロに、世の働きよりも、わたしを愛しますか? すなわち、イエス様を信頼して、天の働きをしますか? と聞かれたのです。

神の働きと、世の働きとは、全く違ったコンセプトを基にします。ペテロは、考え方を変える必要があったのです。みなさんも、イエス様に従いたい、と思いますか。天の国のための仕事をしたいですか。それには、考え方のパラダイムシフトが必要です。

★ 神の働き人の資格のパラダイムシフト   アガペーのチャレンジ

「イエス様をアガペーで愛しますか?」

今日読んだ箇所の通り、イエス様は、ペテロに面と向かって尋ねられました。「ヨハネの子シモ ン、あなたは、わたしを愛しますか。」フルネームで読んでいますから、イエス様は大変重要な ことを言われようとしています。

ギリシャ語では、「愛」するという言葉に、三つの種類があります。

① エロス、肉体の愛、奪う愛、相手に求める愛。
② フィレオー、友愛、ギブアンドテイクの愛、条件付の愛。そして、
③ アガペー、最高の愛。神の愛。一方通行の愛、無条件の愛。   

イエス様は、ペテロに、最高の愛、アガペーの愛でイエス様を愛しますか。と問われています。

イエス様は、続けて三回同じような質問をされます。そして、日本語では、全て愛しますか。となっていますが、言語では、一回目と二回目がアガペーとなっています。無条件の愛、捧げつくす愛で愛しますか?と聞かれました。
しかし、ペテロは、二回とも、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」“Yes, Lord; You know that I love You.” アガペーでなく、フィレオーの愛で愛することは、イエス様、あなたがよくご存知です。フィレオーでなら愛せます。。。といいました。ペテロは、イエス様を裏切ったことで、自分のありようが良く分かったのです。気軽に、できるなんて言えるものではないと。。。

みなさん、私たちは、ここを読むときに、イエス様をアガペーの愛で愛することが、働き人としての入学試験に合格することだと思いませんでしたか。

イエス様をアガペーで愛することが前提条件だったら、イエス様は、ペテロのフィレオーの答えの後に「わたしの羊を牧しなさい」とは、言わなかったことでしょう。
イエス様は、三度目には、レベルを落として、ペテロに「フィレオーで愛しますか?」と聞かれました。そして、その上で、もう一度、「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。

みなさん、私たちは、時々、たくさんイエス様を愛するものが神様の働きをすると思うのです。しかし、イエス様は、ありのままで、そのままで、イエス様を愛したら言いと言われているのです。

そして、もう一つ、大切なことを覚えていただきたいのです。神の召しとは、あなたの思いや、あなたの能力よりも、あなたの意思の強さ、コンディションに関係しないのです。神の召しの方が圧倒的に強いのです。私たちの側で、するべきことは、ありのままの姿で、「はい。イエス様。そうします。」と答えることなのです。 

★ 仕え方のパラダイムシフト

18 まことに、まことに、あなたに告げます。あんたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きた い所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あな たの行きたくない所に連れて行きます。」19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現す かを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさ い。」.

今までのペテロは、自分の意思の強さをもってイエス様について行きました。誰よりも、イエス様に仕えるのだという、「私が」、「自分が」という思いで働きました。しかし、「アガペーの無条件の愛で私を愛しますか。」というイエス様は、すべてをイエス様に明け渡すこと、サレンダーすることを示されました。

今度は、自分のやりたいようにではなく、むしろ、やりたくないことをやるようになるんだよ。と言われたのです。
これは、ペテロがどんな死に方をするかが暗示されているのだと言っていますが、考えさせられます。

無条件で主を愛するということは、必ずしも、自分のやりたいことをやりたいようにやることではないのだということです。全くの主への明け渡しの人生。主に委ねて、主にそのつど従っていく人生なのだと思わされます。

イエス様に聞かれた時は、アガペーとこたえられなかった、ペテロですが、最後には、アガペーの生き方をして、主に仕えながら死を迎え、主に栄光を返すこととなったのです。

みなさん、今、アガペーでなくても、いいんです。今日、主に「はい。」と応答しましょう。そして、人生を終えるときには、全て、主の栄光として捧げて天に帰っていくものとされたいものですね。




#クリスチャン #礼拝メッセージ #聖書

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イエス様体験 Experiencing Jesus

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土曜日は、ヒスパニックチャーチ... 土曜日は、ヒスパニックチャーチのマービン牧師と奥さんのベティさんの結婚25周年のお祝いに招かれました。この写真は、結婚した時の近いを確認して、今までそうしてきたことの感謝と、これからも守ることを誓いました。 真ん中の白いドレスがベティさん... 真ん中の白いドレスがベティさん。マービンはその右。レセプションも結婚式バリのすばらしさ。音楽がメキシコ系で明るく、食事もメキシカンレストランからで、美味しかったです! テーブルもこんなに素敵に、飾ら... テーブルもこんなに素敵に、飾られました。素敵です! 日曜日は、子どもたちがみんな病... 日曜日は、子どもたちがみんな病気で、誰もいなく寂しかったです。。。今週は、まきさんのお誕生日を祝いました。マイカ君のお手製ケーキを楽しみました。まきさん、おめでとうごさいます!
2016年4月10日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/RM6vK9sBEm4

ヨハネ21:1-14

この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。 5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」 6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。7そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。8しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。12イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。《弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。《とあえて尋ねる者はいなかった。13イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。


先週のイエス様の復活の後のお話しに続いて、場面は、ガリラヤに移ります。よみがえったイエス様にあって弟子たちは喜びましたが、少し、複雑な気持ちがあったようです。彼らは、以前にガリラヤであおうと言われていたとおりに、ガリラヤにやってきました。今まで三年間一緒にすごした師であるイエス様がいない。。。お腹もすいた。みんなを食べさせなくては。。。なんともいえない、不安な気持ちともどかしさ、そして、あの十字架の一件からの敗北感がまだあったのでしょう。世間が自分たちに背を向けている、負けた感覚があった。
昔は、漁師で、腕をならしていたペテロが、またあの達成感を味わって、自分の自信をとりもどそうとした。「昔は、ここで、良く漁をしたものだ。自分の腕にかかったら、大漁だ」と、仲間と漁にでたのです。しかし、夜通し水の上にいましたが、何もとれませんでした。またも、ここで、敗北感を味わいました。「なんだ、一匹も獲れないじゃないか。。。」と。がっかりしたに違いありません。
そんなとき、復活のイエス様が再び岸に現れます。
私たちが、落胆し、自信がなく、自分の得意な分野でさえうまく行かないとき、その時、イエス様体験をする時です。行き詰まりを感じているなら、喜びましょう。今こそ、イエス様が現れてくださいます。

キリスト者の成熟と言うものは、イエス様を個人的にどれだけ体験したかによります。頭の知識がどれだけあるかには、よりません。弟子たちは、復活のイエス様を体験し、成熟の歩みを一歩踏み出していったのです。

★ イエス様体験の始まり

イエス様は、岸から話しかけられました。5「子どもたちよ。食べるものがありませんね。」 “Friends, haven’t you any fish?”と。

すなわち、魚がとれませんでしたね? と言っています。弟子たちのイエス様体験は、この時から始まっています。まだ、岸にいるのが、イエス様かどうか遠くて分からなかった時です。しかし、イエス様の方では、それを良くご存知で、見守っていてくださっているのです。私たち状況を知っていてくださっているのです。後で、出てきますが、すでにイエス様は魚とパンで食事の用意をしてくれていたのです。「神様に知られている」という感覚は、私たちに安心を与え、そして、次のステップに私たちを導いてくれます。

私たちもそのようなことがあります。日常のふとした時に、あれ、前に祈ったことが今実現してる。とか、神様が出会わせてくださったと思える出会いがあった時など、神様の導きを感じます。そして、「ああ、私は、神様に知られてる」という確信が来るのです。

あなたが、主の導きを感じる時、イエス様体験がもう始まっているのです。

★ 右側に網をおろしなさい

次ぎに、岸にいる人が言うのです。6「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」“Throw your net on the right side of the boat and you will find some.”
弟子たちは、思ったことでしょう。「おかしなことを言う人だな」と。普通は、舟の左側に網を下ろして、漁をするものだったそうです。漁師なら、それが常識。それが、手順だったのです。一晩何も獲れなかったものが、右におろしたからといって何か変化があるとは思えません。

イエス様を体験する時には、「人間の常識」を忘れなければなりません。人間の常識と神様の業とは、無関係なのです。

弟子たちは、言われたとおりに網を下ろしました。するとたくさんの魚がかかりました。そこで、弟子たちは、それがイエス様だと気がつくのです。

神の一声に従う時、弟子たちは、奇跡を体験したのです。

成熟の鍵は、「言われたとおりにすること」です。

私は、若い時には、これがなかなか出来なかったのです。イエス様と深い交わりがない若いクリスチャンの時には、神の言葉に練られ、そして、群れ全体を見ているリーダーにどう従うかで成熟が表れます。私は、なかなかリーダーの言葉通りに従うのが難しかったことを覚えています。どうして、このやり方ではだめなのだろう。どうして、今、これをやらないといけないのだろう。主に仕えたい、教会を助けたい思いは、強かったのですが、この一言に従ってみるということが分かるまでに時間がかかりました。
これが、分からないと、クリスチャンとして成熟できないのです。私たちは、自分の国を確立するものではなく、神の国を建てるものだからです。時には、断片的にしか物事が見えていなく、どうして、今、これをするのか分からない時もたくさんあります。しかし、神の一声にしたがって見なければ、結果がでないのです。

★ 魚を持ってきなさい

9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」9 When they landed, they saw a fire of burning coals there with fish on it, and some bread.10 Jesus said to them, “Bring some of the fish you have just caught.”

イエス様はすでに一緒に食べるための魚も焼いて用意してくださっていた。

その上で、自分たちでとった魚も持ってきなさいと声をかけた。「自分たちで」とは言え、それは、イエス様の助けで獲ったものだった。

共に働き、共に報酬を分かちあう喜びを体験した。そして、ああ、そうだった、イエス様と過ごした三年間を思い起こしたことでしょう。
イエス様は、なぜ、弟子たちの取った獲物を持ってきなさいと言われたのでしょうか。聖書の中にイエス様のおっしゃった次のような言葉があります。

ヨハネ16:23-24

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。24あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。“And in that day you will ask Me nothing. Most assuredly, I say to you, whatever you ask the Father in My name He will give you. 24 Until now you have asked nothing in My name. Ask, and you will receive, that your joy may be full.

イエス様の言葉によって、その言葉が実現した。そこで、神の働きと、自分の働きが交わり一体化した。それを、確認するために、弟子たちの魚を持ってこさせたのです。それは、双方の喜びが増し加わるためでした。

良く私は、言いますが、天の国のお金は、喜びです。報酬は、喜びです。喜びの度合いが、私たちの報酬の大きさとなります。私たちが、祈り、神の言葉に従い、神のみ心がなることを体験する時に、喜びは、神の側と私の側で満ち満ちたものとなります。イエス様体験は、この喜びを私たちにもたらすものであります。必ず、天の報酬の伴うものであるのです。

★ 共に食事をした

13イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。13 Jesus came, took the bread and gave it to them, and did the same with the fish.

共に食事をするということは、とても親密な関係を作ります。食べ物を一緒に食べると心も開くそうです。ですから、ビジネスでも、取引先と一緒に食事をすると、商談がうまくまとまるのだそうです。

イエス様は、大酒の飲みの大食らいだと言われました。いつも、取税人や罪人、病人を訪ねてともに食事をしました。イエス様は、いつも私たちとの所に来て、私たちと親しくしたいと願っておられるのです。

「見よ。わたしは、戸の外にたってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする (ヨハネの黙示録3章20節)。」Behold, I stand at the door and knock. If anyone hears My voice and opens the door, I will come in to him and dine with him, and he with Me.

これは、クリスチャン教会にイエス様が語られた言葉です。イエス様は、私たちと親密さを保ちたい、いつも私たちのうちに来て、ともに食事をしたいと願っているのです。いつも、心のドアをノックしておられます。イエス様体験は、イエス様に心を開き、イエス様を心の中に入れなければ体験できません。

癒しや、解放も、イエス様をお招きしなければ、経験できないのです。

イエス様体験は、継続的なイエス様との個人的な交わりから来るのです。たくさん勉強して頭を鍛えても、私たちの霊は大きくなりません。私たち教会は、今まで頭を成長させることと霊を成長させることと勘違いしてきたと思います。
霊を養い育てるには、神の声が必要です。イエス様との親しい交わりが必要です。

今日、しばらく心をしずかにしてイエス様を心にお招きしましょう。。。。


#キリスト教 #クリスチャン #聖書

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復活のイエスが示すクリスチャンライフ

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水曜日に、日本に帰国する留学生... 水曜日に、日本に帰国する留学生Kちゃんを空港まで送っていきました。いつも、人を見送るのは、寂しいものです。たくさんの思い出と、優しい心をありがとう、Kちゃん。日本でもがんばってね! エリックは、礼拝のあと、留学生... エリックは、礼拝のあと、留学生さんたちに英語を教えています。妻ながら、教えるの上手やん。。。と思います。 真剣な面持ち。。。。みんなは、... 真剣な面持ち。。。。みんなは、アメリカに来て、まだ二週間ほどです。シアトルにいる間に、たくさん吸収できたらいいですね!! がんばつてね!
2016年4月3日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/BQWc28hnhec

ヨハネ20:19-23

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」


先週は、幸いなイースターを教会の家族と過ごすことができて感謝でした。復活のイエス様は、四十日間五百人ほどの人に現れました。そして、神の国について話されました。今日は、そんなイエス様が弟子たちがいるところに現れて、語られた言葉から学んでいきたいと思います。

① 安息の力の中に生きる

弟子たちは、イエス様を殺した人たちが自分たちをも捕まえるのではないかと、おどおどしていました。そして、戸を閉めて鍵をかけてじっとしていたのです。
そこへ、復活したイエス様が入ってこられました。

第一声「平安があなたがたにあるように」“Peace be with you.” そして、手とわき腹を見せてもう一度、「平安があなたがたにあるように」“Peace to you!” と言われました。

クリスチャンにとって、安息、平安の中を生きるということが一番の力であります。
恐れに凝り固まっていた弟子たちに、「イエス様は平安があるように」と言われました。

私たちは、信仰の世界に生きています。信仰とは、目に見えないものを信じて生きることであります。しかし、この世の中は、目に見えるものを頼りに生きることが当たり前です。もしも、目に見えることだけを頼りにして生きるなら、この弟子たちのように、恐れに凝り固まって、部屋から出ることが出来なくなってしまうのです。「もし、こうなったら。。。」という恐れを元にした信仰は、あなたを不自由にします。イエス様は、こう教えられて入のです。平安を手放してはいけない。

心にいつも平安と、神様にある休みを得ていなさい。何があっても、どんな状況の中にあっても、平安を第一に確保しなさいと。

平安は、神への信頼から来る

② イエスの傷との一体化

イエス様が次ぎにされたことは、20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。20 When He had said this, He showed them His hands and His side.Then the disciples were glad when they saw the Lord.

イエス様は、ご自分の傷を見せられました。弟子たちは、喜びました。これは、何をさしているのでしょうか。私たちと、イエス様の関係は、このイエス様の傷にあります。 イエス様が、私の罪の身代わりとなって十字架についてくださった。苦しみと恥と、罪の罰を一手に引き受けてくださったのです。私たちクリスチャンにとって大切なこと、このイエス様の十字架との一体化なのです。

私の罪、私の恥、私の至らなさ、私醜さ、それから、イエス様の傷にイエス様の十字架に付けられたのだ。十字架をさて、「それは、あそこにあります!」という宣言が私たちをイエス様と一つにするのです。これが無ければ、私とイエス様の関係はないのです。まず、イエス様は、その傷を弟子たちにお見せになりました。。

あなたの罪は、今、今日どこにありますか。そう、あの十字架の上です。あなたの手元ではありません。もし、あなたの手元にあるものがあるのなら、今、今日、あの十字架 に持っていきましょう。

③ あなたは遣わされたもの: 宣教師

次ぎにイエス様が言われました。21「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」21 So Jesus said to them again, “Peace to you! As the Father has sent Me, I also send you.”

イエス様に罪赦されたクリスチャンは、すでに遣わされたものです。何と言う恵みでしょうか。天の父がイエス様を遣わしたように、イエス様に私たちは遣わされているのです。すなわち、父がしていることを見て、事を行なったイエス様のように、私たちもイエス様のしているわざを見て行なうということなのです。

私たちはイエス様が、「私を見たものは、父を見たのです」と言われたとおりに、「私たちを見たものは、イエス様を見たのです」と言うように、イエス様を指し示しながら生きていくのです。

あなたは、自分には何がないから、これがないから、と言い訳をしていませんか、また、特別な人だけが神様に召されていると思っていませんか。イエス様に罪赦された人は、みな、召されているのです。

★小さなさくらちゃんの証し

④ 聖霊と共に働く

22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。22 And when He had said this, He breathed on them, and said to them, “Receive the Holy Spirit.

イエス様は、さあ、宣教師となるために、学校に行きなさいとは言われませんでした。「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられました。

◎息を吹きかけて。。。息は、私たちの命のもと。最初の人アダムに神は息を吹きかけ生きたものとされました。私たちは、体だけでなく、霊が息をしないといけません。私たちの霊が、いのちの基をいただかなければなりません。霊が生きなければなりません。それは、聖霊様です。
そして、私たちの身体が息、空気に頼って一秒一秒生きているように、私たちの霊もまた、聖霊の息に頼って、一秒一秒生きていなければいけません。

私たちは、自覚しなければなりません。肉の力には限りがあること。私たちの肉的な考えは、何も霊的な祝福を生み出さないことを。
聖霊に満たされるとは、とても抽象的に聞こえ、ある人には理解出来ないかもしれませんね。

◎聖霊が来ると。。。次のようなしるしがあります。

ヨハネ14:26を読みましょう。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。... But the Helper, the Holy Spirit, whom the Father will send in My name, He will teach you all things, and bring to your remembrance all things that I said to you.

ヨハネ16:13
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」 However, when He, the Spirit of truth, has come, He will guide you into all truth; for He will not speak on His own authority, but whatever He hears He will speak; and He will tell you things to come.

◎聖霊様に満たされあふれる体験、聖霊のバプテスマ

使途1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」8 But you shall receive power when the Holy Spirit has come upon you; and you shall be witnesses to Me in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the end of the earth.”

力を受ける。恐れが無くなる。★私の証し。
神の力に頼る、神の力で生きる生活がクリスチャン生活なのです。

⑤ 赦すものとなる

23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」23 If you forgive the sins of any, they are forgiven them; if you retain the sins of any, they are retained.”

赦しとは、相手を責め、損害賠償を請求する権利を放棄することです。
赦しの反対、裁きとは、何週間か前にお話ししまたが、いのちを断つことです。人間関係の間で、裁きがあるならば、その人とあなたの間に、いのちや愛が行き交うことはありません。その道が断たれてしまいます。そこには、神の祝福がありません。
イエス様は言われました、この地に来られたのは、裁きのためではなく、救いのために来られました。天の御国の行使として、赦しを示されました。
私たちも、父がイエス様を遣わしたように、イエス様に遣わされたものたちです。私たちは、赦しの使者であります。
そして、イエス様の赦しが二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、平和を作り出しました。
私たちは、平和をつくるものとされたのです。
赦し、和解をもたらすことがクリスチャンの使命であります。

★アーミッシュの赦しのお話し:

私がアメリカに来たころ、2006年に話題になっていた出来事がありました。それは、クリスチャンを狙った人質銃撃事件でした。五人の少女たちが命を落とし、五人が怪我をしました。なんとも、自分勝手で、卑劣な事件でした。しかし、世の中を揺さぶる出来事がありました。それは、このアーミッシュ(クリスチャン)が犯人を赦したことでした。この行動を「不相応な赦し」として愚かだという人たちもいました。また、これぞ、キリスト教と言われ、世界中でニュースとなりました。なんと、海外から、イスラム教の人たちから尊敬の手紙がぞくぞくと届きました。アーミッシュは、相手をゆるすことで、平和をつくりました。
パワフルな出来事です。

赦すことは簡単ではありません。しかし、「不相応な赦し」を受けたのは、この犯人だけではありません。この私もキリストに「不相応な赦し」を受けたものなのです。
赦しを受けたものとして、また人も赦すのがクリスチャンの務めです。

イエス様の言葉を重く受け止めましょう。

私たちが罪を赦すなら、その人の罪は赦され、とあります。23 If you forgive the sins of any, they are forgiven them; if you retain the sins of any, they are retained.”
イエス様は、私たちを小さなキリストだと言われているのではないしょうか。

今週これらのことを黙想しながら、歩んで行きましょう。

#キリスト教 #聖書

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復活の朝 The Resurrection Morning

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みなさんの作品。。。 みなさんの作品。。。 今日は、イースター礼拝でした。... 今日は、イースター礼拝でした。
昨日は、イースターイベントで、卵飾りをしました。四十名を超える方々が集われ、私も、全員の方とお話しをゆっくりすることができませんでした。写真は、新しくシアトルに来た留学生のお兄さんたち。
小さいチャンもフェイスペイント... 小さいチャンもフェイスペイント。。。主人は、この写真をみて大爆笑でした。。。。ひげが、なんとも言えません。。。。笑 子どもたちは、フェイスペイント... 子どもたちは、フェイスペイントに大はしゃぎ。バニーになりました。お兄ちゃんと遊んだことが一番のハイライトだったようです。
2016年3月27日イースター礼拝音声は、https://youtu.be/tg_7D7R6i5s

マルコ16:1-8

さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。 2そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。 3彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。5 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。6青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。7ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」 8女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

みなさん、イースターおめでとうございます。今日は、イースター、復活祭です。イエス・キリストの復活をお祝いする日となっています。日本では、なじみがありませんが、アメリカでは、イースターだけは教会に行くというほど、教会の中の祭りごとでも、一番大切にされている日でもあります。

★イエス・キリストの復活の力

 キリスト教の大きな特徴の一つは、復活を信じていることです。キリストが復活されたことは、キリスト教を産み、教会を産んだ。そして、この復活のニュースは瞬く間に、当時の世界に広まり、当時のローマ帝国は、キリスト教とは似つかない文化と堕落したモラルを持っていたにも関わらず、またキリスト教を迫害し続けたにも関わらず、ローマ国分裂後わずか十数年後には、キリスト教国となったほどであった。
また、世界中の言葉に聖書は訳され、聖書はベストセラーであり、多くの人々に読まれている。これも、キリストの復活ゆえの話しである。
これほどまでに、キリストの復活というものは、人々にインパクトを与え、その人生を変えるものであると言える。
さて、このキリストの復活とあなたとは、どんな関係があるのでしょうか。

★キリストの復活が人類に可能にするものとは

世界中の人々には、何人であれ、どんな文化であれ、どんな宗教を信じているかに関わらず、共通した悩みがあります。大きく挙げて二つあります。

一つは、死の問題。

死に至らせるものも含めて、死といいましょう。例えば、病気の力も死、また、不慮の事故、また人間関係がもたらす不和も究極的には人殺しに導くので、死の力と考えてもいいでしょう。人は、どんなに金持ちになっても、死の問題は解決できない。ビル・ゲイツ唯一の悩みは、長生きできるかどうかだそうです。どんなにお金があっても、どんなに幸せでも、死からは誰も逃れることができません。また、お金が無い人にとっては、人生は苦しみ。苦しみから解放されたい。と思う。これも、死に結びついている。

もう一つは、正しく生きたい。義の道を歩むこと。夢の実現できる自分になりたい。

人は、何らかの良心の呵責を抱きながら生きています。そして、常に、自分にもっとこのような能力があったら、このようにできたら、もっといい人生になるのに、もっと正しく生きることができるのに、と思うものです。私の例/コントロールしきれない 正しいことが分かっていもそうできない自分がいる。

そして、この二つは、私たちの罪の性質に起因しているのです。

ローマ6:23

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in[b] Christ Jesus our Lord.

キリストは、罪の力を打ち砕き、復活の力によって、罪からくる結果を無効とされたのです。だれでも、イエスキリストの十字架と死と復活を信じるならば、その力は、あなたに与えられるのです。信じて、そのとおりに歩き出す時に、あなたは、奇跡を体験するようになるでしょう。人生が変えられていることを実感し始めるでしょう。
さて、では、その復活に出会うには、どうしたらいいのでしょうか。。。

★ イエスの復活を一番に知った人たち

今日の聖書箇所に戻りますが、イエス様の復活を一番に知ったのは、女たちでした。女たちは、十字架で死んだイエス様が、すぐに安息日に入るので、きちんと埋葬をしてあげられないまま、墓にいれられていたのを悲しく思い、安息日が終わると朝早く、真っ先にお墓に行って、きれいに埋葬をしようと思ったのです。

◎愛するならば

女たちは、ただただあの優しいイエス様に仕えたかったのです。三日目によみがえられることなど、いくらイエス様が生前に話していましたが、そんなことはもう忘れていたのです。墓の前に置かれた大きな石を誰が転がすか。。。あれは、到底女たちではのけられない。。。けれどもいてもたってもいられず、女だけで急いで墓に向かったのです。それは、女たちのイエス様への愛。また、優しいイエス様への愛の恩返しだったのです。私たちに、真理に向わせる一つの道があるとするならば、愛することです。愛するならば、分かる。神の愛に応答して、神の愛のある方にいくなら。。。。愛を道しるべに道をたどって、決して道を誤ることはありません。

愛の故に、墓に走っていきました。するとどうでしょう。墓の前の石は取り除けられていたのです。

私たちも、神のためによいことをしようとする時、取りこし苦労することが多いですね。私がこれをしても、障壁が邪魔するのではないか、とか、この石は大きすぎる、だから、私はできない、初めからやらない、などなど。。。しかし、神様は石を取り除けられたのです。石をのけなくても、イエスは墓からでることだったできたのですが、あえて。。。

これは、みなさんがたのへのメッセージではないでしょうか。愛を追いかけ、愛することをやめないように。そして、神を愛する人には、神が必ず障壁を取り除いてくださるということ。

◎固定観念を取り除くこと

女たちは、びっくりしました。そして、墓の中にイエス様のご遺体がないので、悲しみました。天使たちが、イエス様がよみがえられたこと、ここにはいないこと、そして、ガリラヤで弟子たちとあうことを言われましたが、女たちは、恐れのあまり、走り去ります。他の聖書の箇所では、泣いているマリアにイエス様が現れたり、していますが。。。

どれほど、私たちは、自分たちの過去の経験によって物事を判断しているか、と思わされます。Ungodly Belief と私たちはよんでいますが、私たち人間は、私たちの経験にもとづいて物事を判断する傾向にあります。全く頭で考えたこともない事、これが、実は、女たちにとっては、イエスの復活でありました。イエス様が語られたのにも関わらず、彼女たちの頭と心に入ってこなかったのです。そうです。実際経験するまでは。。。。です。

私たちも、神様を小さな箱に入れないように気をつけましょう。そして、自分の経験や判断を超えて、素晴らしく働くことのできるイエス様をしんじようではありませんか。
このイースターの日に、もう一度、愛によって、神に近づき、神の愛への感謝によって行動し、そして、神様にあって、良いことを期待しようではありませんか。

ヨハネ11:25-26

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」Jesus said to her, “I am the resurrection and the life. He who believes in Me, though he may die, he shall live. 26 And whoever lives and believes in Me shall never die. Do you believe this?”


#聖書

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イエスの十字架 Cross that Jesus carried…

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イエスの十字架 Cross t...
2016年3月20日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/clYHOcIzFSc

ヨハネ18-19章

今日は、英語では、パームサンデイ、日本語では、棕櫚の聖日です。イースターの一週間前となります。そんなことで、今日は、イエス様の十字架を覚えて行きたいと思います。

日本人と西洋人とでは、十字架に対する気持ちが全く違うようです。日本では、十字架といえば、ファッションやアクセサリーを連想させます。そして、多くの人たちがおしゃれで、身につけます。十字架のアクセサリーを「かわいいーー」なんて言う事もたびたび耳にします。

しかし、例えばアメリカでは、とても宗教的なことをイメージされます。十字架のアクセサリーを身につけている日本人は、体外、クリスチャンだと勘違いされます。そして、かえって、当人がびっくりすることだってあります。

また、十字架に反発する思想なんてのも、アンチキリスト教の人たちの間にはあります。悪魔礼拝の人たちや、ピースマークなんていうのも、十字架を逆さにして、横棒をぼきっと追った形にして、「十字架なんて役に立たないんだ。自分たちの手ですなわち、ヒューマニズムが平和を作のだ」というメッセージのシンボルです。
日本人には、それもまた、「おしゃれ」なんて考えてたのでしょうから、そんな背景があるとは驚きですね。

どうして、十字架がそんなに大きな意味を持つようになったのでしょうか。そもそも十字架とは、何なのでしょうか。十字架と私の関係性はどこにあるのでしょうか。

★十字架とは

十字架とは、当時ローマ帝国での犯罪者を罰する刑罰であり、死刑の中でも一番むごたらしく、苦しむ刑でした。犯罪者は、手首と、足に太いくぎで木に貼り付けにされ、死ぬまで木にかけられたままにされるのです。大体、四日から五日で罪人は死に至るそうです。「木にかけられたものは神に呪われたものである」と申命記に書かれているとおり、全く不名誉なものであり、文字通り呪われたようなことでした。

★十字架は、神の愛である

画面上の図を見ていただいて分かるとおりに、罪深い人と神の
間には、深い溝があります。そして、行き来できません。交流がありません。人々が清い神に近づこうと自分の力で努力をすることが宗教であります。そして、罪を犯さない人は、一人もいないので、神との交わりは断たれてしまっているのです。聖書に次のような有名な言葉があります。

ヨハネ3:16

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。For God so loved the world that He gave His only begotten Son, that whoever believes in Him should not perish but have everlasting life.

そのひとり子というのは、イエス様のことです。お与えになったというのは、人の罪を解決するために、いのちまるごと、全身全霊をこの世の人類のために捧げられたということです。

人の罪は、いくら良い行いをしてプラスマイナスゼロにしようとしても、消えません。私たちの造り主である神、私たちの心を見られる神が赦されない限り、消えないのです。神の前に償い、代償を払わなければ消えません。「罪から来る報酬は、死です」と聖書にあります。いのちをもって償わなければならないのですが、神は、私たちを非常に愛しておられ、また、罪の根の深さと自力での回復の困難さを知っておられ、神である、御子イエスをこの地上に送られることに決められたのです。

みなさん、映画塩狩峠をご存知ですか? 三浦綾子さんの小説の映画化です。峠で最後の列車がはずれ暴走し始める。満員の乗客みんなが死を目前としている時に、鉄道員だった主人公が列車の前に飛び込み電車を止め自分以外の全ての乗客を救ったと言う話で、実話を元につくられたお話しです。これは、ひとりのクリスチャンの行動を元にしていますが、この青年が信仰していたイエス・キリストの姿をも現しています。

全人類を救うために、全人類の罪を背負って、全人類が神に近づけるように贖いの道をおつくりになったのです。図を見ていただいたら分かるように、イエス様の十字架が架け橋となり、私たちが自由に神のもとに行けるようになっていますね。

★十字架は、人々を二つに分けた

しかし、この十字架は、人々を二つに分けました。今も、分けています。今週黙想していただいていた、ヨハネ18, 19章には、イエス様に非常に親しい人たちがイエス様を裏切っています。
とても優秀な弟子、主に会計を担当していたユダが、お金でイエス様を売ったのです。

ヨハネ18:3

そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られてきた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。Then Judas, having received a detachment of troops, and officers from the chief priests and Pharisees, came there with lanterns, torches, and weapons.

また、自分を慕ってどこまでも従うと豪語していたペテロもイエス様を裏切ります。イエス様なんて知らないと公言してしまうのです。

ヨハネ19:17

すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは、「そんな者ではない。」と言った。hen the servant girl who kept the door said to Peter, “You are not also one of this Man’s disciples, are you?” He said, “I am not.”

ユダは、自殺し、ペテロは後に回復します。。。

イエス様は、多くの人にのけ者にされ、そして否定され、裏切られました。
しかし、女たちは、イエス様から目を放さず十字架の足元まで、イエス様に従い最後までついていったのです。ですから、復活を一番に発見したのも女性たちでした。
私たちが、イエス様を受け入れ信仰していくときに、似た様なことがおきます。私も、父親代わりのおじから、「若いのだからそんなに宗教に猛進するな」と叱られ、母や親戚からも迫害を受けました。職場でも信仰の故にからかわれ、馬鹿にされ、そしていじめもありました。

しかし、今は、逆のことが起きています。当時の友達が救われ、家族が救われ、親戚中が私たちの信仰のことで喜び、敬意を払ってくれています。
十字架がもたらす、分離を恐れないようにしましょう。イエス様が一番に体験されたのです。イエス様から目を離さないようにしましょう。

★十字架は、我々の恥の死に場所

 罪がもたらす大きな結果の一つが、私たちのうちに残る恥の感覚です。アダムとエバも罪を犯したから身を隠しました。恥が入ったからです。罪のない世界には、恥はありえないのです。私たちは、自分自身をさらけ出すのが難しいです。なぜなら、恥があるからです。自分を隠したくて仕方がないのです。ですから、本当の自分が見られないように、いろいろコントロールをするのです。そして、そこに恐れが入ります。恐れは、私たちを不自由にしてしまいます。

イエス様は、公の場で、馬鹿にされ、ぶたれ、鞭打たれました。辱めを受けられました。しかし、抵抗したり、言い返したりなさいませんでした。イエス様は、神の御子であり、罪のない方でした。ヨハネ19章の中でも、ピラトがイエス様に罪をみとめないので、釈放しようと努力しますが。。。イエス様は、不当な扱いをされているのです。馬鹿にされる理由は一つもないのです。自分がやったこともないことで、責められ、恥をかかされているのです。

私たちの、恥の中で、最も重く、辛く、赦せないのが、この類の恥ではないでしょうか。私のせいではない。理不尽な出来事、扱いについて、私たちは、最も苦しむのです。
イエス様は、まさに、そのような苦しみを負ってくださいました。口をつぐんだまま、死にまで至りました。

★私と十字架の関係

イエス様は、死に際に、十字架の上で言われました。

ヨハネ19:30
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。So when Jesus had received the sour wine, He said, “It is finished!” And bowing His head, He gave up His spirit.

完了した。。。イエス様は、私たちが、受けるべき裁きを全部受けきってくださった。私たちが受けるべき恥を全部引き取って身に帯びてくださった。私たちが、聖く正しく、そして、恐れに縛られることなく、神様と共に生きられる全ての道の構築が完了したと宣言されたのです。そして、死なれました。黄泉に下ってくださいました。
今、イエス様を信じるものは、誰でも、この恵みにあずかれるのです。

その方法は、ただ一つです、私の罪の刑罰がイエス様の十字架とともに付けられた、と認めることです。それを受け取ることです。私の恥をイエス様の十字架の上にあると認めることです。そして、もう、二度とそのような生き方はしませんと、悔い改めることです。

クリスチャンにすでになつておられる方も、罪を犯してしまったときに、イエス様の十字架を見上げ、私のこの罪も、あそこにかかったのだと、認めていくことです。

アクセサリーにしてまで、身につける、むごい十字架、死刑のシンボル、恥のシンボルですが、あなたがそれを受け取るなら、あなたに新しい人生を与え、自由をもたらすものとなるのです。


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罪のないものが…He who is without sin…

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二週間ほど、東京家政大学のみな... 二週間ほど、東京家政大学のみなさんがSeattle Pacific University での授業の通訳をしました。みなさん、時差ぼけを乗り越えて、よく学ばれました。新しい出会いは、いいですね。 土曜日は、教会のエレンちゃんの... 土曜日は、教会のエレンちゃんの結婚式でした。いつも、お父さんが花嫁を連れて入ってくる瞬間に泣きそうになります。。。私たちも、整えられてキリストの花嫁として、花婿イエス様のところに行く時に、どんなに感動することか。。。なんてことを考えていました。美しい光景です。。 日曜日は、かわいいちゃんたちの... 日曜日は、かわいいちゃんたちのママのお誕生日をお祝いしました。ケーキは、エリックがオーダーして、さすが、美味しかったです。今年も子育てが守られて、たくさんの笑顔と祝福で満たされますように。忙しいママさんだけど、神様からたくさん休みもいただけますように。。。。。。いつもえらいよーー
2016年3月13日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/y_HIkBA4bD8

ヨハネ8:1-11
1イエスはオリーブ山に行かれた。 2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 3すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、 4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。 9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」]

朝早く、イエス様は、宮で教えていました。すると、そこへ、ばたばたと男たちが騒ぎながら入ってきます。なんと、姦淫の現場で捕まえた女を裁いてくれとやってきたのです。

★当時の姦淫の罪の位置づけ

この女は現場で取り押さえられました。当時は、姦淫の罪は死刑でした。重罪であるために、証拠をはっきりさせないといけませんでした。けれども、相手の男性は、一緒につれてこられませんでした。おかしいですね。と言うことは、何者かによって仕組まれたこととも取れます。

★律法学者とパリサイ人たちの陰謀

 これは、律法学者とパリサイ人たちが、いつも罪人と仲良くし、人々を癒し、安息日に至るまで人を癒すミニストリーなどをして、当時の律法の考えから何か逸脱しているようにかんじるイエス様が、一体どのように対処するのか見たかったのです。そして、他の罪人たちのように赦したら、またイエス様を訴える材料となり、赦さなくても、今までのことをどうしてそうしたのかと責める材料になるので、イエス様を陥れようと考えたのです。

みなさん、詩篇一篇に、幸いなことよ。罪人の道に立たず、あざけるものの座につかなかったその人。とあります。Blessed is the man Who walks not in the counsel of the ungodly, Nor stands in the path of sinners, Nor sits in the seat of the scornful;

これは、とても大切な言葉です。この律法学者とパリサイ人たちは、自分をどこか高い椅子に座って人を裁くような態度をもっていました。彼らは、この女やイエス様をも裁いていました。

私たちは、このような精神に気をつけなければなりません。裁きは、死をもたらすものだからです。こないだyoutube でたまたまDr. Phil ショーを見ました。いやーな気持ちになりました。Dr. Phil や観衆も真ん中に座っている人たちを裁き、恥ずかしい気持ちにさせ、みんな物笑いの種にし、傍観しています。そして、見ている自分もだんだん、人を裁く気持ちになっていくのです。。。恐ろしい番組だー。。。と思いました。私たちは、初めは、傍観者でもだんだんと裁きの精神におかされていくのです。気をつけなければなりません。

自分の思いに気をつけましょう。  (天国の話)

★イエス様は地面に字をかかれた

イエス様は、というと、イエス様はそんな大騒ぎをしている男たちをよそに地面に何かを書かれ、彼らを相手にしませんでした。しばらく書いていたようですね。一体何を書いていたのでしょうか。この後の展開から、ある人は、人の罪のリストをかかれたとも、目の前で訴えている人たちの罪を書き出していたとも、恵みについて書いていたとも、推測されています。。聖書自体にも何も明確には記されてはいませんが。。。

 イエス様は、沈黙されました。

私たちは、物事に反応しやすいものです。しかし、反応をしないこと、沈黙が大きく私たちの益に働くことが多いのです。

★罪のないものが。。。 裁きの本質は、いのちを断つこと

7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」7 So when they continued asking Him, He raised Himself up and said to them, “He who is without sin among you, let him throw a stone at her first.”

とうとうイエス様が口を開きました。そして、また地面に字を書き続けました。イエス様の言葉の後。沈黙が続きました。

しかし、この沈黙の時間が男たちと、引き出された女に考えさせ、自分たちを省みる時間を与えたのでした。

★女に起こったこと

女は、この沈黙の間に、逃げ出そうと思えば逃げ出せたはずだった。しかし、彼女は、その場から逃げなかった。
自分のしたことの重大さに気づき、彼女の罪に対する真摯な態度が伺える。覚悟が出来ている。死んで罪の代価をはらわなければならなのなら、払うという心が決まっていたのだろう。

★罪の重大さに気づくこと

みなさん、この女性は、大変惨めな気持ちを味わいました、けれど、それと同時に大変貴重な体験をしました。それは、自分の罪の重さに気づくことです。自分の罪の重さに気づくことが出来たら、私たちの人生は、180度転換し変わることができ、そして神の前に行くならば、あなたは、神の100パーセントの恵みで力つけられ、新しく生きることで出来るのです。それが、実は、キリスト教の王道の生き方であり、スタートラインでもあるのです。

日本人には、共同体意識が強い故に、悪いことをしてはいけないという倫理観が強いですが、実際には宗教的な背景から、罪とは、何かわからない人が多いのです。赤信号みんなで渡れば怖くない。。。に現されているように、皆がしているならしても悪くないという意識が働きます。

例えば、私が初めて教会に行って、罪と聞いたとき、自分には関係ない話だと感じました。わたしにとっては、法律を犯していることが罪であり、一度もおまわりさんに捕まってないから、私は罪人ではないと思っていました。

聖書では、罪とは、ギリシャ語で、ハマルティアといい、的外れであることをさしています。何の的かと言いますと、神様の基準です。神様の心、基準に外れていることは罪なのです。日本国の法律ではなく、神様の法律にはずれると、罪人なのです。
赦さない心、裁き、ねたみ、憎しみ、自己憐憫、高慢、盗み、悪口、うそ、などなど、人殺しなど、刑法でも罪のものはやはり神様にも罪ですが。。。多くは、私たちが日常、私たちの心の内側や頭の中で繰り返し犯しているものが多いものです。
こう考えると、私たちにはみな罪の性質があり、罪に突き動かされて生きているように思いませんか? そして、私達人間に罪があるから、私たちの社会に問題があり、私たちの人生に問題が起こってきていることが理解できるでしょうか。

★ イエス様と向き合うことになった女 Face to face to Jesus

罪のないものが、初めに石を投げなさいと言われ、しばらくして、男たちは、一人また一人と去っていきました。私たちの中に罪の無い人間は一人もいないのです。ただ、イエス・キリストだけが人として、罪の無いお方でした。イエス様は、完全な人であり、完全な神であったのですから、罪のない完璧な人間として、私たちの罪を贖うための神へさげられた小羊となられたわけです。しみも傷もない小羊しか神にささげられないからです。

私たちは、聖書で言われているとおりに、「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることとが定められているように」(ヘブル9章27節)And as it is appointed for men to die once, but after this the judgment,

死後、聖い神様の前に一人立って、生前の行いを自分で弁明しなければならないのです。神様に裁かれ、そして、天国に行くか地獄に行くか定められるのです。
しかし、聖書はまたこのように言っています。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25〜26)Jesus said to her, “I am the resurrection and the life. He who believes in Me, though he may die, he shall live. 26 And whoever lives and believes in Me shall never die. Do you believe this?”

ヨハネ3:18 彼(イエス)を信じる者は、さばかれない。He who believes in Him is not condemned;
と書いているとおりです。

この姦淫の女性は、分かったのです。

① 彼女がどうしようもない罪人であること。② 裁きが遅かれ早かれ来ること。
そして、イエス様に直面し、イエス様に出会ったのです。

★行きなさい

10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」10 When Jesus had raised Himself up and saw no one but the woman, He said to her, “Woman, where are those accusers of yours Has no one condemned you?” 11 She said, “No one, Lord.” And Jesus said to her, “Neither do I condemn you; go and sin no more.”

罪のないイエス様、ただ一人裁くことの出来る方が、行きなさい。いわば、「もう一度、新しく人生をやり直してご覧なさい。」と言われた。この女は、イエス様に出会いました。罪が赦されたのです。

これが、イエス様のあなたへのメッセージです。

私たちに人生のやり直しは、ききます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(IIコリント5:17)Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; old things have passed away; behold, all things have become new.

今日、イエス様と向き合ってみませんか?


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芳しいナルド油 Fragrant oil of Spikenard

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木曜日の子どもとお母さんのクラ... 木曜日の子どもとお母さんのクラス、ロバの子クラスのおやつタイムにて。。。写ってない子達は走り回っとります。笑
元気が一番!
日曜日礼拝前。。。 子どもたち... 日曜日礼拝前。。。
子どもたちの興味とは、エンドレスです。
このエネルギー。。。私たちも、昔はあったんだよねぇ。。。。笑
2016年3月6日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/lRJNFjzP5UQ

マルコ14:3-9

イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」3 And being in Bethany at the house of Simon the leper, as He sat at the table, a woman came having an alabaster flask of very costly oil of spikenard. Then she broke the flask and poured it on His head. 4 But there were some who were indignant among themselves, and said, “Why was this fragrant oil wasted? 5 For it might have been sold for more than three hundred denarii and given to the poor.” And they criticized her sharply.6 But Jesus said, “Let her alone. Why do you trouble her? She has done a good work for Me. 7 For you have the poor with you always, and whenever you wish you may do them good; but Me you do not have always. 8 She has done what she could. She has come beforehand to anoint My body for burial. 9 Assuredly, I say to you, wherever this gospel is preached in the whole world, what this woman has done will also be told as a memorial to her.”

二週間ほど前から、ずっと神様にこの場所を話すように示されていました。
この世の中は、物を買ったり売ったりすることで成り立っています。神の国はどうかと言うと、与えることと、受け取ることでなりたっています。Buying & Selling vs Giving & Receiving

この箇所でも、イエス様は、らい病人シモンの家を訪問し、神の愛、そしてあらゆる意味での癒しを与えておられました。しかも、もうイエス様は、いつとらえられてころされるか分からない、危険な時にでも、与えて折られたのです。
今日は、また、ナルドの香油をイエス様に与えた女性のお話しです。神の国のお話しです。

今日読んだ最後に、このような言葉がありました。「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」wherever this gospel is preached in the whole world, what this woman has done will also be told as a memorial to her.

この女性のしたことは、イエス様の救いの良い知らせである福音とは切っても切り離せないこととなりました。イエス様に大変誉められただけではなく、世界中で語られるほどすばらしいことをしたというのです。
私たちは、立派なことをした人は、きつと立派で社会的にも賞賛されるような人なんだろうと思うことでしょう。

しかし、今日のお話しは、まさか、この人が神様を喜ばせることはできないだろう人々が思うような、二人の人物が中心になっているのです。このシーンの舞台となっている家は、らい病人シモンの家です。らい病人というのは、当時の社会の敗者であり、どうしてもそこから這い上がることはできない立場でした。また、この名も記されていない女性は、イエス様に七つの悪霊を追い出された売春婦だとも言われていたり、またベタニヤのマリアであるとも言われています。いずれにしても、女性というのは、当時まったく身分の無い存在でしたから、まさか、この人が偉大なことをするとは考えられないことだったのです。

イエス様は、うわべや、社会的位置のある人だけに目を留めているのではありません。たとえあなたが、人生のどん底にいようと、過去の悪い選択によって今の状況が悪くても、イエス様はあなたを一人の人として尊重し、そして心の内側を見ておられるのです。聖書に、「人はうわべを見るが、神はその心を見られる」People look at the outward appearance, but the LORD looks at the heart.と書かれています。

この女性の内側には、何があったのでしょうか。

この女性がなぜこのようなことをしたのかは、はっきり書かれてはいません。しかし、イエス様はりっぱだと誉められました。イエス様がりっぱだと誉められた人は、あまりいませんでした。百人隊長とカナン人の女くらいだった。

★ナルドの香油 

シーンに戻って。。。らい病人シモンの家で、イエス様が食卓についているとき、一人の女が入ってきました。非常に高価なナルド油のつぼを持っていました。彼女は、それを割って、イエス様の頭に注ぎました。
非常に高価な香油costly oil of spikenard … この香油は、三百デナリするものでした。人が一年働いた分くらいの金額です。
他の聖書の箇所では、この香りが家中に充満したとあります。このナルドの香油は、

★ 感謝の表れであった

贈り物と愛… 贈り物というのは、相手を想って捧げられるもの。贈り物を見たら、送り手がど れほど相手を想っているか、また相手を知っているかが良く分かる。また贈り物は、相手にふさ わしいものを送ります。誰も天皇陛下にプレゼントするのに、その辺のお菓子をプレゼントする 人はいません。値段も高くて良い品物を選ぶはずです。 この女性は、最高級の香油をイエス様に 捧げました。なぜなら、彼女の人生が救われたからです。劇的に良いように変革したからです。 これは、イエス様への愛の現れであり、言葉にし尽くせないほどの感謝の表れでした。

★ 献身の表れであった

彼女は、香油のビンを割って、イエス様に注ぎました。どうして、ビンを割らなければならなかったのでしょうか。ナルドの香油のビンというのは、高価な香水を入れるのに相応しく頑丈に出来ています。そして、高価で非常に強く良い香りのするものなので、一滴づつしかでてこないような作りになっいました。
彼女は、初めから、この香水の全てを全部イエス様に捧げることに心に決めていたのでした。ふたを取ってちょぼちょぼやりながら、油の出具合を見ながら捧げるのではなく、はじめから全部、捧げるためにらい病人シモンの家に来たのです。
このビンは、彼女の心を表しています。ビンを割るという行為は、全部を捧げ尽くすという行為です。この、今ですれば、三百万も五百万もする高価なものには、彼女の人生が掛かっていたのではないでしょうか。彼女の財産であり、今までの労苦であり、生き方であり、これを元手に夢をかなえるためのものだったかも知れません。。。彼女がビンと一緒に割ったのは、自分の心、自我、夢、計画、やり方、考えだったのです。自我、自分と言うものがあっては、完全な献身というのは、ありえないのです。

私たちが、神様に従うと決心する時に、一番の邪魔になるのは、自分自身の自我です。私は、日本の神学校でこの部分を一番学びました。人と、付き合い、一致してチームで物事をするにも、メッセージを作るにも、主に仕え、従うには、自分が一番邪魔だ。どうして、「はい」と言うのに、そんなに時間がかかるのか。。。それは、自分のやり方にこだわりがあり、こっちのやり方が良いに決まっているという、自分の考えがあり、また、自分がかわいいという心、怠け心、わがままな心があるからでした。。。。痛いほど学ばされました。。。。

私たちの、心のつぼである自我を割らなければ、全てを神様にお任せすることはできないのです。

この女性は、全てをイエス様にお任せすることに決めたのです。

★ メッセージへの応答であった

イエス様は、ご自分が捕らえられ殺されることを三回は弟子たちに話している。弟子たちには、全くこのメッセージが心に入っていなかった。彼らの心は、自分たちのことでいっぱいであったからです。誰が一番出世するか、イエス様が政治的にイスラエルを治めてくれるのかなどといったことで頭がいっぱい。
しかし、この女性にとっては、もうすぐ捕らえられて殺されるイエス様に最高のものを捧げたかったという愛があったのです。

★ イエス様の十字架への任職の油そそぎとなった

この行為は、埋葬の準備となり、また救い主である、彼女の心の王として認める油注ぎであった。キリストというのは、油そそがれた者と言う意味がある。神様の御用のために、神様から任職されたものという。旧約の時代には、油すなわち神様の霊がそそがれることを象徴して、任職のときに油をそそいだのでした。
だれも、イエス様のメッセージを受けて、私たちの罪を取り除く贖罪の時が近づいているとはきずきませんでした。図らずも、この名もない一人の女が、イエス様に任職の油注ぎをすることとなったのです。
この香油は非常に高価な香油であるため、少しだけを使ってもよい香りがするものである。彼女は、つぼごと割って注いだので、その香りは、家全体に広がり、また、イエス様がゲッセマネで血の汗を流して祈られた時も、十字架を背負って歩かされた時も、十字架にかかられたその時もきっと香っていたに違いない。この女の捧げものが、イエス様の心をいかに慰めることとなっただろうか。

★ うわべのことだけを気にした弟子たち Buying & Selling Mentality

4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。4 But there were some who were indignant among themselves, and said, “Why was this fragrant oil wasted? 5 For it might have been sold for more than three hundred denarii and given to the poor.” And they criticized her sharply

弟子たちは、憤慨しました。「何のために」とさえ言いました。そして、「無駄にした」といい、この女を責めたのです。
私たち、人間社会は、効率や、結果、またインスタント、早くに結果を見ることを求めます。一人のイエス様に高価な油を全部使うよりも、たくさんの人に施した方がいいと弟子たちは考えたのでしょう。
しかし、イエス様は、弟子たちをいさめました。この女は、できることの最善をイエス様にしたのです。と、そして、それは、福音が行くところでは、どこでも、語られるだろうと。

★福音の行くところどこにでも 

世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでし ょう。」9 Assuredly, I say to you, wherever this gospel is preached in the whole world, what this woman has done will also be told as a memorial to her.

イエス様は、教えられたのです、無駄に思えることが神の国では大いに役立つこと。わたしも、いつも、葛藤があります。集会をするために、たくさんの食べ物を買ったりするときに、こんなに買っても、あまったらどうしようなど。。。また、時間を費やしたりする場合に、こんなにしても、この人がわたしを利用するだけして成長しなかったらどうしようなど。。。確かに、神に仕えるために、人に仕えていくときに、傷つくことは、たくさんあります。無駄に終わったのではないかという労苦もたくさんあります。

しかし、神の国は、Giving & Receiving与え、受けるということで成り立っています。この世と違います。Buying & Selling の考えだと、損得を基準に決断をしようとします。。。だからこそ、そのような心に疑いがくる時に、心の自我のつぼを割らなければなりません。そうして、もう一度、神様に全部かけて、捧げてみようと思いなおさなければならないのです。

不思議ですが、この女のように惜しげもなく、捧げきるときに、Lavish (大胆なほどに気前良く)に神に捧げる時に、福音というのは、人に伝わるものなのです。。。




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クリスチャン生活の基本シリーズ⑥伝道

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こないだ生まれたばかりだと思っ... こないだ生まれたばかりだと思っていた、小さいちゃん。。。かわいいちゃんの妹さん、日曜日で一才になりました!! ケーキとろうそくの意味がいまいちわかんないぞ。。。。と思ってるかんじ。。。教会で祝福しましたーー 代わりに、少年少女合唱団のよう... 代わりに、少年少女合唱団のような、素敵な服装でばっちり決めている、お姉ちゃんが、ふーーしてくれました。なかなか消えませんでした。笑   教会には、いのちがいっぱいあふれています。とても、祝福されました。神様、ありがとうー!
2016年2月28日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/pPLeVlaX81w

いよいよ、クリスチャン生活の基本シリーズ最後になりました。今日は伝道についてお話しします。伝道というのは。道を伝えると書きますが、イエス様を信じる信仰を他の人たちに伝えることをさしています。伝道をされたことがある方も、ない方も、そして、一度伝道しようとしてうまく行かなくて、がっかりした体験をもっている方も、新たに神様から聞いていきましょう。伝道というのは、クリスチャンときっても切り離せないものです。というのも、イエス様は、私たちのことを世の光、血の塩と呼ばれたからです。イエス様に人生を変えられた私たちは、信仰を隠すことのほうが難しいのです。
私は、人生の中で、感謝する人がいろいろといますが、一番は、もちろんイエス様です。私の救い主だからです。もう一人を挙げるとしたら難しいですね、私の両親、牧師先生、いろいろといらっしゃいますが、わたしに福音を伝えてくれ人、わたしとそんなに年の変わらないアメリカからの短期宣教師ブランドンさんです。その人が犠牲を払って日本に来てくれたから、わたしにイエス様が分かったのです。次の聖書の箇所を読んでみましょう。

ローマ10:10-17

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」12ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。13「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。14しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

私が、ブランドンさんに出会わなかったら、イエス様にも出会っていなかったのです。もしも、私が、ブランドンさんから、聖書のお話しを聞かなかったら、私は、どうやって信じることができたでしょうか。ここにいるみなさんも、クリスチャンの誰かに出会ったからこそ、聞いたからこそ、イエス様を信じるようになったのではないでしょうか。
聖書の中に、大切な教えがたくさんありますが、大きな教え、二つを紹介します。二番目に大きいものと、一番目と続けて読んでみましょう。

★大宣教命令と黄金律

二番目、大宣教命令と言われるもの

マタイ28:19-20

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」19 Go therefore[c] and make disciples of all the nations, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit, 20 teaching them to observe all things that I have commanded you; and lo, I am with you always, even to the end of the age.” Amen.

一番目は、黄金律と言われるものです

マタイ7:12

12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。Therefore, whatever you want men to do to you, do also to them, for this is the Law and the Prophets.

黄金律とは、「自分にして欲しいことを、相手にもする」ことである。究極的に、私たちがして欲しいことは、自分が死ぬ前に、死んでから自分はどうなるか教えて欲しい、天国に行けるのか、ということです。また、人生の意味です。人は、人生の意味を悟ろうとして一生を過ごしています。救いの道と、救いを伝え、救いを受けてもらうようにすることは、一番の善行といえます。

ですから、大宣教命令は、大事なのです。でも、本末転倒で、ただただ、遠くまで、ただただ多くの人に救いを伝えようとそこばかりに集中しても、そこに愛がないなら、何の意味ももちません

伝道とは、愛することです。

私たちに、イエス様が伝わったのは、そこに愛があったからです。まず第一に、そこに、私のために命を捨ててくださったイエス様の愛があったからです。大宣教命令を達成する人は、愛する人で無ければなりません。

私は、よく聞かれます。どうやって、家族に伝道したのですか、とか、どうやって、伝道するのが一番効果的ですかと。。。
私は、イエス様が伝えたくて、いつも、トラクトや四つの法則の冊子を持ち歩いていました。またご本指のカラーの手作りのミニブックですね。たくさんたくさん失敗しました。そこで分かったことがあります。

★伝道の方法論?

方法論をもって、一貫して教えられたらそんな簡単なことはありません。伝道は、方法ではないのです。

◎一に、二に愛すること

一人ひとりのニーズ、や人生の背景が違う。ある人に、この説明の仕方で理解してもらえたけど、他の人には全く通用しない。。人それぞれです。しかし、絶対に間違えのないことが愛すること。あなたが、本当に相手を愛していて、つたなくても、いろいろ失敗しながらでも、真摯にイエス様のお話しをし、伝えるならば、相手は受け取れるようになります。

◎良い人間関係を築く

人々は本物を探している。私たちが裏表無く、神を愛し、神に従っている姿勢は、人に受け入れら、尊敬される。私たちが、道端に立って大声で神様のメッセージを語らなくても、神様に親権に裏表なくしたがっている姿は、人の興味を引きます。親しくなった人は、みな聞いてくるでしょう。あなたは、どうしてそんなに、辛いのに明るい顔なの? とか、どうして人の悪口を言わないの? 等々。。。良い人間関係を人と持つことを心がけていれば、人は向こうから神様のことを聞いてくるようになります。私たちが忘れていけないのは、人がわたしを受け入れ、愛する時、私の内側にいるイエス様をも受け入れているということです。

大宣教命令で、出て行って福音を伝え、全ての国民を弟子とせよとありましたが、弟子とするというのは、クリスチャンになってからするものだと私たちは勘違いしてるのではないでしょうか。真の弟子と言うのは、自分が愛されたように、他の人にもしてあげようとその人が思った時に、弟子訓練は成功と言えます。もし、あなたが愛している人が、わたしもあなたのようになりたい。あなたにしてもらったように、誰かにしてあげたいというのなら、弟子訓練は大成功です。その人は、心にイエス様のメッセージをいただいているのです。覚えてください。弟子訓練は、人が救われる前に始まっていることを。。。。

◎証しの力

「イエスの証しは預言の霊」と聖書にある通り、聞き手の内に何かを起こす力がある。聖書のお話しは、私は、初めのころは、さっぱり分かりませんでした。でも、人の体験談、証しはとても興味深く聞きました。そして、あのようになりたい。あの人のように神様を信じたいという思いにさせられたものです。証しにはものすごい力があります。ですから、いつでも自分の救いの体験談を三分くらいで話せるように準備しておきましょう。

◎聖霊様に従うこと

聖書に次のような言葉があります。

ヨハネ3:8

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこに行くかを知らない。御霊によって生まれるものもみな、そのとおりです。」The wind blows where it wishes, and you hear the sound of it, but cannot tell where it comes from and where it goes. So is everyone who is born of the Spirit.”

このように、私たちは、いつ聖霊様が働いているかよく敏感に察知してともに働かなければなりません。自分たちの考えで物事を判断していては、失敗します。よく、私たちの考えを超えて人が導かれてくるものです。。当のわたしなんかも、周りの人にこの人は救いから遠いと思われていた人の一人でした。。。ですが、救われたばかりでなく、献身までする人に変えられました。誰がそんなことを想像できたでしょうか。聖霊様が働かれている時、というのは、風のようです。今、という時を逃さないように、神様に忠実でありましょう。

◎教会が一つになり愛し合うこと もう一つの大宣教命令

先ほど、「出て行って福音を伝えよ」という大宣教命令を読みましたが、もう一つの大宣教命令があります。先週も読みましたが、

ヨハネ17:21

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。that they all may be one, as You, Father, are in Me, and I in You; that they also may be one in Us, that the world may believe that You sent Me.

教会員たちが互いに愛し合い、一つになっているなら、それは、非常に人々の魅力を弾くのです。使徒の働きでも、その様子に惹かれて、どんどん教会に加わる人々が増えて行ったとかかれてある通りです。外向きだけが大事ではなく、互いの間に愛があふれることも大切なのです。

★キリスト者の成熟の一つ

これは、私の持論ですが、木に実がなることは、神様のデザインです。また人が子を宿すことも神のデザインです。神は、アブラハム・イサク・ヤコブの神とご自身を紹介する世代に渡る神であり、世代を大切にされる神です。ですから、私たち、キリスト者は、一人の人が親となるように、霊的な親となることが自然な成熟の姿だと信じています。

人を救いに導き、そして一人の立派なクリスチャンとして育てていく。これが、一人ひとりのクリスチャンのあるべき姿だと思っています。

自分の信仰の実である。 木が実をつけなければ、その木は成熟しているとはみなされない。木に栄養がいき、太陽が照っているならば、かならず実を結びます。もし、クリスチャンとして神を愛していて、自分の周りの人が変わらないのなら、少し考えてみた方がいいかも知れません。。。

あなたは、自分が思ったよりも影響力があるのです。内にイエス様がいるのですから。
クリスチャンとしての自分を隠してはいませんか? 自分なんてと思ってはいませんか?
誰も蜀台をテーブルの下に置く人はいないと聖書にあります。輝かしてください。多くの人があなたを通して救われるのですから。

ぜひ、周りの人に、証ししましょう。そして、イエス様を伝えていきましょう。あなたの周りの人を愛しましょう。。。そこからはじめませんか。


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クリスチャン生活の基本シリーズ⑤交わり

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今週の日曜日は、私たちの礼拝が... 今週の日曜日は、私たちの礼拝が終わってから、車で三十分ほど行ったところにある、ミャンマー人教会に奉仕に行きました。
この写真は、子どもたちの教会学校の様子。。。みんなかわいいです。。。ミャンマー語、さっぱり分かりませんでしたが、みんなは、こちらで育っているので完全なバイリンガルでした。
礼拝は、全て、ミャンマー語でし... 礼拝は、全て、ミャンマー語でした。。。全く理解でませんでした。私のメッセージには、牧師のジョシュアが通訳してくれました。
ジョシュアは、エリックのクラスメイトで、一緒に神学校で学んでいます。。。。私たちの教会でも時々メッセージしてくれます。お互い、仏教国出身のせいなのか、彼のお話しは、日本人の私たちに分かり易く、また思想的でとても深いです。。。。
ジョシュア夫妻と。。。奥さんの... ジョシュア夫妻と。。。奥さんの英語の名前は、私が付けました。クリスティーンです。ジョシュアと彼女は婚約中、アメリカとミャンマーで離れ離れでした。ある日、ジョシュアがグリーンカードのくじに応募しました。一つは、彼女のため、一つは、自分のために。。。すると、彼女にグリーンカードがあたり、はれてアメリカにわたり、結婚することが出来ました!!! そして、今は、男の子の赤ちゃんも生まれました。すばらしい!
2016年2月21日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Hp8efTI4iIA

クリスチャンほど、共に集まることを大切にする人たちはいないと思います。今日は、教会の交わりについてお話ししたいと思います。

私がクリスチャンになりたてのころ、とにかく、教会に来たくて仕方がありませんでした。ほぼ毎日のように教会に来ていたと思います。

初めて宣教旅行に参加し、海外でクリスチャンに出会った時、心が躍りました。喜びでいっぱいになりました。教会では、教会員同士、神の子ども同士ということで、兄弟姉妹と互いに呼びあいますが、初めてあう人種の違う相手を心から自分の姉妹、兄弟と呼べる妙な感覚で包まれました。

また、初めて大きな聖会、クルセードのようなものにいった時、圧巻でした。何千人もの人と同時に声を合わせて神を賛美し礼拝する時に、喜びが爆発的に沸きあがりました。まるで、天国の前味のようでした。

聖書の中に、次のような言葉があります。

マタイ18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」20 For where two or three are gathered together in My name, I am there in the midst of them.”

キリスト者の集まるところに、それがたとえ二人、三人のような少ない人数でも、そこにイエス・キリストの臨在があふれるのです。そこに、神が共におられるという喜びがあるのです。

今の時代は、インターネットやテレビやラジオで気軽に神様のメッセージを聞くことが出来ます。そして、それで救われることも出来ます。そして、もともと人間関係が苦手、また社交的でない人は、人の集まりである教会に寄り付きたくなかったりします。けれども、聖書は、はっきりと、集まることをやめてはいけません。集まりなさいと言っています。

ヘブル10:25

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 not forsaking the assembling of ourselves together, as is the manner of some, but exhorting one another, and so much the more as you see the Day approaching.

では、私たちが集まって交わりを持つことは、どのような意味があり、大切さがあるのでしょうか。

★ 教会の交わりに加わること キリストの身体となる

私たちは、イエス・キリストを信じたときから、キリストの身体の一部となりました。教会の一部となりました。教会というのは、罪の暗闇の中から、神様のために呼び出されたものたちの集まりです。まだ、イエス様を信じているが、教会に繋がっていない人、あるいは、海外にいて特定の教会につながっていない人は、ぜひ、教会につながりましょう。

教会とは、次のように聖書で表現されています。

1ペテロ2:5

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、きよい祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 you also, as living stones, are being built up a spiritual house, a holy priesthood, to offer up spiritual sacrifices acceptable to God through Jesus Christ.

旧約聖書のソロモンは、大きな美しい石で神の神殿を建てました。しかし、どの石も生きているものではありませんでした。しかし今は、イエスを信じるものは誰でも、生ける石として、霊の家に築き上げられる、そして、神の住む宮としての役割を果たすものだとあるのです。行きながらにして、神に喜ばれ、そういう人が組み合わされて一つの大きな神の宮なのだというのです。また、次のような言葉もあります。

エペソ1:22

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 And He put all things under His feet, and gave Him to be head over all things to the church, 23 which is His body, the fullness of Him who fills all in all.

1コリント12:27

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。Now you are the body of Christ, and members individually.

キリストが頭、そして、私たちが身体なのです。一人ひとりは、その手であったり、口であったり、目であったりする器官なのです。一人もかけては、キリストの考えていることをこの世で共に果たすことができないのです。わたし達一人ひとりに役割が必ず備えられているのです。

★ 一つとなるために

キリストの身体として、キリストを頭として、働くには、一つ心になって、一つマインドにならなければ、働くことは難しいですね。ここで、イエス様のとりなしの祈りについてお話したいと思います。イエス様は、十字架に掛かられる前に、わたしたちのことを思って、次のような祈りをされました。

ヨハネ17:11

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。Now I am no longer in the world, but these are in the world, and I come to You. Holy Father, keep through Your name those whom You have given Me, that they may be one as We are.

ヨハネ17:21

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。that they all may be one, as You, Father, are in Me, and I in You; that they also may be one in Us, that the world may believe that You sent Me.

イエス様の夢というのは、私たちと一つとなることでした。

ですから、神であられるのに、地にくだり、そして、私たちの一人のようになり、生き、苦しみ悲しみを味わい、そして、辱めを受け、十字架に掛かられ、恥を受け、罪人の一人として数えられました。

イエス様は、私たちを創造されたその時から、私たちと一つになりたいという熱い思いをもっておられたのです。

そして、今や、誰でも、キリストを信じるもののうちには、キリストの霊が宿ってくださるのです。キリストを信じるものは、キリストと一つになるのです。
そして、キリストがもう一度、地上に来てくださることが聖書に書かれてあります。その時がイエス様の夢の完成形です。

キリストの花嫁を花婿であるイエス様がついに婚礼のために迎えに来られるのです。
そのために、イエス様は、祈っているのです。

イエス様が父なる神と一つであるように、私たちも一つであるようにとイエス様は祈っています。考えにおいて一つ、心において一つ、行動において一つになること。イエス様が父と一つであるように、わたし達もキリストと一つであり、私たちも互いに一つとなること。これが、イエス様の願いであり、祈りであります。

私たちの信じている神は、三位一体の神です。三位が一つと数えられる神なのです。これは、深い真理であります。教会が見逃してはならない真理です。
私たちも、大勢いますが、一人として数えられるほどに、一つになるべきなのです。
そうするときに、全世界にキリストの姿を顕現することができるのです。なんと、教会はその姿から程遠いことでしょうか。

私たちは、リバイバルを人数や、大きなミニストリーなどによって測りがちですが、これは、正しい測りではないのではないでしょうか。
キリストの思いに寄れば、教会が一つになることが、これが本当の成熟の測りなのではないでしょうか。

一つになるには、コミュニケーション、交わり、互いに集まることなしには難しいのです。そして、一人ももれることなく、交わりに入らなければ意味がないのです。。。。

★ 共に集うことの大切さ

みなさん、順境の時は、私たちは一人でも楽しく信仰を保つことが出来ます。けれども、試練の時、逆境の時、私たちは、励ましが無くては、太刀打ちできません。私たちは、一人よりも複数でいた方が困難に立ち向かえるのです。わたしも、結婚する前は、ミニストリーしながらよくうつになり、落ち込み、不安になりました。しかし、結婚してからは、同じ信者である夫が常に励まし、誉めてくれるので、すっかりそのようなことはなくなりました。

次の聖書の箇所を読みましょう。

1テサロニケ5:10-18

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。11ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。 12兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。14兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。

★ 励ましのため

互いに励まし、徳を高めあいなさいというのです。キリストと共に死んでも生きる、永遠に生きるものとされたのですが、この世の逆境にあっても、それは、一時的なものであり、後の日に大きな報いがあることを互いに覚えて、励ましあいなさいというのです。
このテサロニケの教会は、大変な迫害の中にいたという背景があります。

★ 矯正と成長を助けるため

また、14兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。14 Now we exhort you, brethren, warn those who are unruly, comfort the fainthearted, uphold the weak, be patient with all.
私たちは、一匹狼では、成長できません。私たちの成長とは、キリストの身丈にまで、成熟することです。私たちは、先輩から教えられ、また互いに真理に照らし合わせて、自分を省みる必要があります。これは、人との関わりが無ければ、分からないことです。
人と、接するからこそ、自分の姿が見えてくるのです。罪とは、自分に起こった物事に対する心の反応で分かります。人に囲まれていなければ、どのようにして自分の罪にきがつくことができるでしょうか。

★ 祈りと奉仕のため

キリストの身体として、私たちは、この世にキリストの全体像を示す役目をになっています。キリストが考えていることを行動に移すこと。
身体全体が一緒に働いて、この世で神様の働きをするのです。
実際的な働きは、もちろんですが、約束を伴っているのは、教会の祈りです。

マタイ18:18-19

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 “Assuredly, I say to you, whatever you bind on earth will be bound in heaven, and whatever you loose on earth will be loosed in heaven. 19 “Again I say to you that if two of you agree on earth concerning anything that they ask, it will be done for them by My Father in heaven.

私たちが集って共に集まり祈ることは、天においても地においても非常に力があるのです。天の父なる神様はそれをかなえてくださいます。とあります。私たちは、集まって祈ることをやめてはいけません。これが、私たちの大切な奉仕です。

私たちが肉体において共に集まり、交わりを持ち、互いに励ましあい、訓戒しあい成長を助け、たましいにおいても一つとなり、そして、共に祈り、天を地上に解き放ち、霊的にも一つになること、このように、霊、肉、たましい、どの分野においても私たちは、教会として一つになっていくことをめざしましょう。

教会にまだつながっていない人は、教会につながりましょう。教会につながっている人は、聖書の学び、祈り会などに参加しましょう。また、自分でそのような小さな会をつくってもかまいません。ラインやフェイスブックを通して、互いに祈り、交わってもかまわないでしょう。互いにつながり、互いに祈ることをやめないようにしましょう。




#キリスト教 #クリスチャン生活 #教会 #聖書

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クリスチャン生活の基本シリーズ④人に仕える

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木曜日のロバの子クラスに、二年... 木曜日のロバの子クラスに、二年くらいぶりに参加の姉妹が来られました。妹ちゃんは、赤ちゃんでした。大きくなって、びっくり。。。しかし、久しぶりにあえて嬉しかったですーーー。 ビーガンレストランへ土曜日に。... ビーガンレストランへ土曜日に。テンペーとキンワののったサラダです。とっても美味しかったです。ビーガンやロービーガンのお店では、何を食べても美味しくて、お腹いっぱいになります。。。ちなみに、デザートのココナッツアイスと、ビーガンブラウニーもあっさりしていて大変美味しかったですー。  ガールズナイトアウトでした。 at Plum 日曜日はバレンタインデー。雨が... 日曜日はバレンタインデー。雨が降って寒かったので、私のバレンタインちゃんと、フォーを食べに行きました。エリックは、ビーフ、私はお豆腐。。。いつ来ても美味しいです。 at Pho Viet Ahn
2016年2月14日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Sz8BKX7NuFA

私が、初めてキリストの赦しの大きさを体験し、聖霊に満たされた時。。。私の人生が完全に変わりました。目に見える全てのものがきらきらして美しく見え、そして、私の周りにいる人が愛おしく感じ、道行く人であれ、全ての人をハグしたい衝動に駆られました。。。

神の愛に触れ、浸される時、私たちは、神様の愛と同化するのです。その愛を人に分かち合いたくて仕方がなくなるのです。

聖書の中に、「多くを赦された者は多く愛する」 ルカによる福音書 7章36節~50節とあります。47 Therefore I say to you, her sins, which are many, are forgiven, for she loved much. But to whom little is forgiven, the same loves little.”とある様に、
イエス様にたくさん赦されたと自覚するものは、もっともっとイエス様を愛してたくさんのことをしたくなるのです。
クリスチャン生活というのは、まず、イエス様の愛に感動し、礼拝し、捧げ、そして、自分がイエス様に良くしていただいているとおりに、人にもしたくなり、そうするという生活なのです。自分から出たことではありません。神の愛がそうさせるのです。

★ 愛することについて あなた自身のように。。。同化の始まり

次の箇所はルカの福音書にも引用されていますが、聖書の教えを短く言うならば、「神を愛し、人を愛する」ということに尽きます。そして、人を愛する場合には、次のようにするのだと言います。

レビ19:18 あなたの隣人を自分自身のように愛せよ。You shall not take vengeance, nor bear any grudge against the children of your people, but you shall love your neighbor as yourself: I am the Lord.

人を愛する時には、自分自身のように愛せと。。。短い言葉ですが、深遠な言葉であります。一つに、自分を正しい意味で愛せない人は、人を愛することも難しいこと。。。傷ついている人は、人の愛を受け入れるのが難しい。しかし、自分を愛される存在として認め、自己受容するときに人の愛を受け入れられるようになり、人を愛することが出来るようになるのです。ですから、礼拝と同じように。私たちは、人の愛を受け入れられてこそ、自分を認め、自分を愛することができ、そして、次ぎに人を愛することができるようになるのです。

神を愛し、人を愛するという順序も忘れてはいけません。まず神を愛するところに、神からの愛を受けることができ、その愛が原動力となり始めて自分を愛し、そして、人を愛することができるようになるのです。

そして、第二番目に、「自分自身のように」とあります。これも深いことです。イエス様のされたことを思い出してみてください。イエス様は、私たち人間の姿にまでくだり、わたし達と同化し、私たちの苦しみ、そして、悲しみ、そして恥、罪の罰をかぶせられ死を私たちと同化して体験してくださいました。完全な共感Empathy ですね。「自分自身のように」というところに、相手と自分との境を取り除いて、同化して、愛するということを考えされられます。

★ 誰が隣人でしょうかという問い

聖書の中に、有名な隣人のストーリーがあります。神を愛し、隣人を愛すならば永遠のいのちに至ると言われた青年は、じゃ、隣人とは誰なのかと質問します。
ストーリーを読む前に、あなたに質問します。あなたの愛すべき隣人とは誰でしょうか?

ルカ10:29-37

29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」


誰が、隣人となったかというと、サマリヤ人でしたね。
ここに大切なメッセージがあります。
サマリヤ人とユダヤ人は互いに憎みあって、口も聞きませんでした。宗教的な違いもありました。けれども、同胞の宗教的リーダーたちは、全て、傷ついたユダヤ人を見捨てましたが、サマリヤ人だけは、立ち止まり、危険をかえりみず、自分のお金もはたいて、このユダヤ人を介抱してやりました。

この、サマリヤ人は、Offence という壁を乗り越えてまで、互いに口を利かないというような前提条件や偏見を乗り越えて、助けたのです。

これが、本当の同化であり、愛であります。

ちょうど、イエス様がされたことのようです。イエス様は、私たちの一番の隣人になってくださいました。

私たちは、いろいろと理由をつけて、愛しません。これが難しいから、あれが難しいからと。。愛しやすい人を愛することは、誰かの隣人となることではありません。
私たちがまだ罪人であったとき、イエス様は、大きなリスクをとって、私たちのために十字架に掛かってくださったのです。私たちが、彼を信じるかどうか分からない時に。。。このサマリヤ人だって、助けているユダヤ人に否まれるかもしれない、迷惑かもしれない、けれども、この人の命を助けなければならないと、Offence の壁を乗り越えて助けたのです。

そして、サマリヤ人は、自分からこのユダヤ人の隣人となることを選んだのです。
隣人となることは、自発的なことであり、愛すべき隣人が通りかかるのを待つことではありません。

愛するという言葉は、もともと一方通行のものです。わたしから発するものなのです。
さあ、あなたの隣人は誰でしょうか?

★ 人に仕えることは、イエス様に仕えること?

マタイ25:40

あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりのしたのは、わたしにしたのです。」And the King will answer and say to them, ‘Assuredly, I say to you, inasmuch as you did it to one of the least of these My brethren, you did it to Me.’

イエス様の深い愛と、私たちへの関心を覚えます。「この一人にしたことは、わたしにした りです。。。」イエス様は、すでに、苦しんでいる人たちの心と共にあるというこてとでは ないでしょうか。いつも、傷つき、恥を負い、もがいている人に目を注がれて、心を引き裂 かれているのです。その一人を助けるとは、イエス様に仕えているのと同じことなのです。

イエス様は、その人の痛みに同化されているからです。

★ 行いをもって神の愛をあらわしましょう

ヤコブ書は、私たちの行いの大切さをこう書き表しています。

ヤコブ2:14-17

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟または姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったら、それだけでは、死んだものです。4 What does it profit, my brethren, if someone says he has faith but does not have works? Can faith save him? 15 If a brother or sister is naked and destitute of daily food, 16 and one of you says to them, “Depart in peace, be warmed and filled,” but you do not give them the things which are needed for the body, what does it profit? 17 Thus also faith by itself, if it does not have works, is dead.

Ⅰヨハネ3:17-18

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。But whoever has this world’s goods, and sees his brother in need, and shuts up his heart from him, how does the love of God abide in him? 18 My little children, let us not love in word or in tongue, but in deed and in truth.

私たちは、みな善人のよいクリスチャンです。神を信じている善良な市民です。
しかし、気持ちだけでは、何も伝わらないのです。
愛は、行動を伴います。
そして、私たちの信仰は、行動が伴ってこそ、初めてそれが本物だと立証されるのです。(ヘブル11)

★ What would Jesus do?

What would Jesus do? WWJD とかというスティカーを良く見かけませんか? 10年ほど前にキリスト教界で流行った言葉です。「イエス様だったら、どうするだろう? 」という問いかけです。
人に仕えるということは、必ずしも簡単なことではありません。忍耐もいります、逆に傷つけられることもあります。

でも、大切なことは、一つです。
神様に忠実であることです。空回りしてもいい、伝わらなかったとしても、あなたが、神の愛に応答し、そして、仕えるために行動したということが大事なのです。
神様は、きっと、良くやった忠実なしもべだと誉めてくださいます。

誰が見ていなくても、イエス様だったらどうしただろうか? ということをもとに行動したいものです。


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