アマゾンの例のバナナ配りですが。最近ユニフォームを着ておられます。どうやら、バナナを渡す人たちのことを、バリスタならぬ、「バニスタ」というようです。。。。しかも、12 の背番号です。これは、シーホークスのサポーターというこてでしょうか。。。。いろんな意味で、パロってます。
日曜日は、エリックの誕生日祝いを教会で。好物のバナナケーキをグルテンフリーで作って持っていきました。。。図らずも、メンズテーブルになってます。。。
2016年8月21日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/JYXPsXiKdKc
一つ心、一つmindのコミュニティの中で、欠かせないことがあります。それは、英語では、Sonship と言いますが、日本語では、「子であること」です。子であることがなぜ、一つになることにおいて重要なのでしょうか。二週間前は、「孤児の心」のことを話しました。子であることが分からないと、私たちは、交わりを避けるようになり、真の人間関係よりも、自分が何かを達成することによって、人に認められたい、また人に受け入れられようとします、あるいは、人の優位に立って、グループの中で自分のアイデンティティを保とうとします。。このような、力が働いていては、真のコミュニティを築くことができないのです。
今日は、「子であること」パート2ということで、父と子の関係、父なる神の子であるあなたの独自性について話してみたいと思います。
★誰が神の子であるのか
父なる神の子、イエス・キリストを信じるだけで、私たちは、神の子となる特権が与えられる。それは、罪の生き方をやめる決意であり、キリストが自分の罪の刑罰として身代わりに十字架にかかってくださったことを信じることです。
ヨハネ1:12
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, to those who believe in His name:
と、ある通り、キリストによって私たちは、神の子とされるのです。
○神の家族の交わりに入れられる
神の子となり、神の家族の一員となった私たちには、天のお父さんを「アバ、父」(おとうちゃん)と呼ぶ霊が心に宿ります。そして、三位一体の神が互いに交わっているように、家族の交わりの中に入ります。
Ⅰヨハネ1: 3
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。3 that which we have seen and heard we declare to you, that you also may have fellowship with us; and truly our fellowship is with the Father and with His Son Jesus Christ.
Ⅰヨハネ1: 7
7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。7 But if we walk in the light as He is in the light, we have fellowship with one another, and the blood of Jesus Christ His Son cleanses us from all sin.
「一つ」となることについて話してますが、真の交わりのためには、一人一人の罪が解決し、光の中を一人一人が歩んでいなければならないことが分かります。これは、何も努力して修行をして罪を絶対に犯さない完ぺきな人間になってから、というのではありません。恥を明るみにだして、ありのままの自分で、罪を取り去るキリストに信頼して光の中を歩むことです。その時に、私たちの間に隠れる恥が無くなり、私たちは、ますます一つになるのです。
―――バンデージブレーキングとアカウンタビリティーグループの例
○キリストと共同相続人となる。
ロマ8:14-17 14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光とをともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。14 For as many as are led by the Spirit of God, these are sons of God. 15 For you did not receive the spirit of bondage again to fear, but you received the Spirit of adoption by whom we cry out, “Abba, Father.” 16 The Spirit Himself bears witness with our spirit that we are children of God, 17 and if children, then heirs—heirs of God and joint heirs with Christ, if indeed we suffer with Him, that we may also be glorified together.
天の霊的財産はキリストによって私のものとなった
私たちの身分は、一気に変わります。キリストと天の共同相続人となるのです。私たちが稼がなかったものを私たちは受けるのです。天では、すでに「キリスト=あなた」とみなされているのです。しかし、私たちがいつまでも生まれたての赤ちゃんでは、この相続財産を有効活用することができません。赤ちゃんは相続が決まっているけれでも、親は、現金を全部赤ちゃんに任せたりはしませんね。私たちは、どのように子として、成熟していったらいいのでしょうか。そこが問題となっています。
まず第一に
★子であることに充足していること
そこに、充足しているか。Doing < Being これが分からなければ、主の働きをするのが難しい。
私の経験; 孤児の心を持っていた私は、何もできなくなるくらいに疲れ果てたことがあった。そして、ただただ毎日神様の癒し、父なる神様の懐で休むことだけを目標にするしかない時期があった。そんなとき、一人の傷ついている人が私の目の前に来て、目があった瞬間に、その人が泣き出した。一緒に泣いた。そして、何と、不思議なことにその人の心がそれ以来癒されたのだ。。。
父なる神の懐にとどまるパワフルさを初めて経験した一瞬だった。
★イエス様の子としてのモデル(模範)
Everything that Jesus did, He did as a son to a father – this is the life and the lifestyle to which we are to be conformed. (John Alley)
私たちの人生の目的は、キリストを信じたときから、キリストの追従者となりましたね。そして、一番のゴールは、キリストのように生きることとなりました。イエス様はどんな風に地上を生きてくださったのでしょうか。
イエス様は、彼の神の子としてのアイデンティティを生涯全うされた。わたしはこれを喜ぶといわれ、また、荒野での試みでは、アイデンティティをことごとく試された。十字架にかかる時にも、最後まで独自性を失うことがなかった。
何かを成し遂げる以上に、何者であるかを自分が知り、つかみ、離さないところに強さがある。
私たちは、自分の神の子である独自性の中に安息を見出し、そして、充足してこそ、自分のミニストリーを全うすることができる。
その上で、父なる神に従ったイエス様
キリストは、自分のエゴをいかす生き方はしなかった。すべて、父なる神の心とともにあり、父なる神の時に従った。父のしていることをし、父のいるところにいると言った。
ヨハネ5: 19
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。19 Then Jesus answered and said to them, “Most assuredly, I say to you, the Son can do nothing of Himself, but what He sees the Father do; for whatever He does, the Son also does in like manner.
マルコ14: 36
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」36 And He said, “Abba, Father, all things are possible for You. Take this cup away from Me; nevertheless, not what I will, but what You will.”
イエス様は、わたしを見たものは父をも見たのです。。。と言われるほどに、父と心を一つにしていた。父の心を知り、父について行くイエス様、そのイエス様について行くというのが私たちの生き方なのです。父の心と一つになることが鍵となります。。。また、これが、子の成熟の鍵でもあります。
子である資質については、次の週でお話しします。
ぼ
今週は、たくさんのホライズンファミリーがシアトルに里帰りしました。不思議です。まるでみどりさんのメモリアルに合わせるかのようにしてみなさんシアトル入り。礼拝では、ちえちゃんと、みわちゃんが証しをしてくれました。神様の愛に感動。感動。とてもパワフルな祈りの時にもなりました。こうしてシアトルの教会に帰ってきてくれること、私たちにとって大きな祝福です!!
2016年8月14日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/5J4-1lZ-V5Q
昨日は、私たちの愛するみどりさんのメモリアルサービスでした。昨日のメッセージを準備している中で思い浮かんだ言葉は、なんと、三年前のみどりさんの快気祝い証し会の時のみ言葉と全く同じでした。神様に、とらえられて、持ち運ばれたみどりさんの人生がみ言葉を指ししめしていたことを改めて覚えました。今日は、そのみ言葉の一つ詩篇23篇をご一緒にメディテイトしていきたいと思います。
詩篇23篇
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。The Lord is my shepherd; I shall not want.
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。He makes me to lie down in green pastures; He leads me beside the still waters.
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。He restores my soul; He leads me in the paths of righteousness For His name’s sake.
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil; For You are with me;Your rod and Your staff, they comfort me.
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。You prepare a table before me in the presence of my enemies; You anoint my head with oil; My cup runs over.
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life; And I will dwell in the house of the Lord Forever.
この詩篇は、イエスキリストの十字架を示す詩篇22篇と、再び来られるイエス様を指し示す、詩篇24篇に挟まれています。詩篇23篇は実に、今ある私たちのためのイエス様と私たちの生き方を指示しています。
羊について;
羊はよく聖書の中で人間に例えられています。羊は、人間と同じように野生の羊というのはいません。みな、世話されないと生きてけません。一匹オオカミならぬ、一匹羊というのは、存在せず、群れをなして生活します。羊は、視力が非常に弱く、あまり見えていません。近いくしかみえないのだそうです。だから、導き手が必要なのです。そして、非常に臆病です。また、牙もなく、強いところはないので、簡単に外敵に食べられてしまいます。だから、羊飼いに守られる必要があります。犬などは、よく捨てられても、家に数日したら帰ってきたり、ということがありますが、羊は、そういう方向感覚とか、来た道を帰るなどということが出来ず、迷いやすいものです。
羊飼いというのは、そんな羊を大切にし、羊の気持ちになって導いているのだそうです。羊飼いは、夜寝るときには、自分が門となって眠ります。
V1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
羊の説明からも、羊には、羊飼いがいなければ、えらいことになるということがわかりましたね。詩篇23のはじめに、「主は、私の羊飼い。」とあります。「私の」羊飼いとあるとおりに、羊飼いとの個人的な出会いが私たちには、必要です。私たちは、迷いやすく、また弱いので、守ってくれる羊飼いが必要なのです。でも、誰が私の羊飼いか、知らなければ、さらに迷ってしまいます。
あなたの羊飼いは、誰でしょうか? あなたは、私の羊飼いと言える方にもう出会いましたか?
V2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。He makes me to lie down in green pastures; He leads me beside the still waters.
人にはみな名前があります。そして、私は、個人的にそれらの名前は、神様から来ていると信じています。みどりさんの名前は、いつも、この場所から取られたのだと思っています。神様は、目が見えず、方向音痴で、どこに私たちを生かす食べ物かわからない私たちをちゃーーんと、導いて、そして、豊かなみどりの牧場で十分食べさせてくださるかたなのです。肉体的にも、霊的にも養ってくださいます。
V3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。He restores my soul; He leads me in the paths of righteousness For His name’s sake.
病は、気からという言葉がありますが、私たちの心に元気がないと、体まで病気になってしまいます。また、いくら体が元気でも、心が元気でないなら、私たちは、何をしてもうまく行きません。みどりさんは、最後の三か月、大変解放されました。癒しを経験し、解放を経験しました。それも、神様の御名のために、イエス様がそう導かれたのです。義の道というのは、神にあって正しい道。イエス様の道です。神との和解、人との和解、自分自身との和解の道です。その道は、赦しの道であり、赦された喜びの道であり、心の問題の清算の道です。私には、負いきれない心の問題だ。しこりだと思うことがあるかもしれません。しかし、御名のために、それがなされます。あなたにかかっているのではなく、神の上にその責任がかかっているのです。神はまた、あなたをそうして義の道に導き自由にしたいと思っておられるのです。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil; For You are with me;Your rod and Your staff, they comfort me.
みどりさんは文字通り死の陰の谷を肉体的にも精神的にも通られた方でした。しかし、そんな中で、ともにいて下さるイエス様を見つけられました。がんの治療をしている時から、私はもうすべて神様にお任せしているの。。。とおっしゃっていました。
あなたのむちとあなたの杖。。。。羊は、物覚えも悪いので、あらぬ方向に行ったりしてしまいます。そんなとき、目の見えない羊に、羊飼いは、ピシッとむちをやります。そっちじゃないよ、こっちですよ。と。また、アンルーリーな羊には、ぐいっと杖で首根っこを引っ張り引き寄せます。どうしょうもないおてんば、暴れん坊には、仕方なく、足を折って、肩に担いで旅を続けたりします。崖から落っこちたり、群れから外れてオオカミに食べられるよりは、けがをさせても、羊飼いの肩に担がれて運ばれている方が安全だからです。
近視眼の私たちは、痛みを嫌がったりしますが、ダビデは、主の矯正は、慰めである。とさえ言っています。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。You prepare a table before me in the presence of my enemies; You anoint my head with oil; My cup runs over.
自分に敵がいる時ほど、心が落ち着くことはありません。食欲だってありません。戦いの時は、いつも腰を落ち着かすこともできません。しかし、この個所は、当時のミドルイーストの客のもてなし方だそうです。私たちの羊飼いイエス様は、戦いの最中にあっても、私たちのために、食事を用意し、仕え、そして、私たちを歓迎いて、客人のもてなしの一つである、頭に油を注いでくださるのです。そして、私たちの人生は、私たち主導の、いつも戦いの中で、切るか切られるかの、striving なものではなく、主にあっては、主がすべてを握っておられて、また祝いのパーティの席の様だというのです。
あなたは、何に対して、がんばって戦っていますか? これは、主の戦いであって、主がすべてをカバーしてくださってることを知りましょう。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life; And I will dwell in the house of the Lord Forever.
羊飼いは、先頭をきって普段は羊を導いているようですが、私たちの羊飼いは、後ろからも追いかけてくる羊飼いです。私たちは、神様の声を無視して、神様から離れて忙しくしてしまうことがありますが、神様は、いつもいつくしみと恵みをもって私たちの後ろを追いかけてまでくれる方です。どこまでも、神様主導の祝福の道なのです。
みどりさんも、天の永遠の家に帰りました。永遠にいつまでも、主の家に入られました。私たちもこの恵みの家に住まいましょう。
もう一度いいます。誰があなたの羊飼いでしょうか?
主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません。 主との個人的な出会いをまず求めましょう。また、日々求めていきましょう。
ぼ
病室で、みどりさんを見舞うチェリーちゃん。。。一緒によく祈り、遊び、いい子にできました。
7月31日の礼拝前に、
私たちの愛する姉妹、みどりさんが脳梗塞で倒れたという知らせがご主人から入りました。
礼拝後、すぐに病院に駆けつけました。
それから、二日日間ずっと病室で祈りました。
とっても平安で、みどりさんは幸せそうにすら見えました。
三日目、夕方、チェリーちゃんのママが看ているときに、天に召されて行きました。
今週土曜日は、みどりさんのメモリアルサービスがあります。
ちょうど今、他州にいるホライズン日本人教会ファミリーがシアトル里帰り中で、数名おられ、日本からも来られ、
みどりさんと教会生活を共にし、三年前の大手術の病室に見舞った人たちもおられるので、なんだか、とても不思議な感じです。
土曜日に教会にいらっしゃる方々が、神様にあって祝福されますように。
日本のご家族は、先週小さな会を教会でもち帰国されました。
みどりさんを思うときに思い出される聖句です。
詩篇 23篇
1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
神様は、この聖句から、みどりという名前を彼女につけられたのだと思います。
この聖句は、図らずも、三年前に何度も危篤状態に陥ったときに、枕元で読み聞かせた聖句です。
このストーリーの続きはまた、メモリアルの後で。。。。
ぼ
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