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イエスの十字架 Cross that Jesus carried…

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イエスの十字架 Cross t...
2016年3月20日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/clYHOcIzFSc

ヨハネ18-19章

今日は、英語では、パームサンデイ、日本語では、棕櫚の聖日です。イースターの一週間前となります。そんなことで、今日は、イエス様の十字架を覚えて行きたいと思います。

日本人と西洋人とでは、十字架に対する気持ちが全く違うようです。日本では、十字架といえば、ファッションやアクセサリーを連想させます。そして、多くの人たちがおしゃれで、身につけます。十字架のアクセサリーを「かわいいーー」なんて言う事もたびたび耳にします。

しかし、例えばアメリカでは、とても宗教的なことをイメージされます。十字架のアクセサリーを身につけている日本人は、体外、クリスチャンだと勘違いされます。そして、かえって、当人がびっくりすることだってあります。

また、十字架に反発する思想なんてのも、アンチキリスト教の人たちの間にはあります。悪魔礼拝の人たちや、ピースマークなんていうのも、十字架を逆さにして、横棒をぼきっと追った形にして、「十字架なんて役に立たないんだ。自分たちの手ですなわち、ヒューマニズムが平和を作のだ」というメッセージのシンボルです。
日本人には、それもまた、「おしゃれ」なんて考えてたのでしょうから、そんな背景があるとは驚きですね。

どうして、十字架がそんなに大きな意味を持つようになったのでしょうか。そもそも十字架とは、何なのでしょうか。十字架と私の関係性はどこにあるのでしょうか。

★十字架とは

十字架とは、当時ローマ帝国での犯罪者を罰する刑罰であり、死刑の中でも一番むごたらしく、苦しむ刑でした。犯罪者は、手首と、足に太いくぎで木に貼り付けにされ、死ぬまで木にかけられたままにされるのです。大体、四日から五日で罪人は死に至るそうです。「木にかけられたものは神に呪われたものである」と申命記に書かれているとおり、全く不名誉なものであり、文字通り呪われたようなことでした。

★十字架は、神の愛である

画面上の図を見ていただいて分かるとおりに、罪深い人と神の
間には、深い溝があります。そして、行き来できません。交流がありません。人々が清い神に近づこうと自分の力で努力をすることが宗教であります。そして、罪を犯さない人は、一人もいないので、神との交わりは断たれてしまっているのです。聖書に次のような有名な言葉があります。

ヨハネ3:16

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。For God so loved the world that He gave His only begotten Son, that whoever believes in Him should not perish but have everlasting life.

そのひとり子というのは、イエス様のことです。お与えになったというのは、人の罪を解決するために、いのちまるごと、全身全霊をこの世の人類のために捧げられたということです。

人の罪は、いくら良い行いをしてプラスマイナスゼロにしようとしても、消えません。私たちの造り主である神、私たちの心を見られる神が赦されない限り、消えないのです。神の前に償い、代償を払わなければ消えません。「罪から来る報酬は、死です」と聖書にあります。いのちをもって償わなければならないのですが、神は、私たちを非常に愛しておられ、また、罪の根の深さと自力での回復の困難さを知っておられ、神である、御子イエスをこの地上に送られることに決められたのです。

みなさん、映画塩狩峠をご存知ですか? 三浦綾子さんの小説の映画化です。峠で最後の列車がはずれ暴走し始める。満員の乗客みんなが死を目前としている時に、鉄道員だった主人公が列車の前に飛び込み電車を止め自分以外の全ての乗客を救ったと言う話で、実話を元につくられたお話しです。これは、ひとりのクリスチャンの行動を元にしていますが、この青年が信仰していたイエス・キリストの姿をも現しています。

全人類を救うために、全人類の罪を背負って、全人類が神に近づけるように贖いの道をおつくりになったのです。図を見ていただいたら分かるように、イエス様の十字架が架け橋となり、私たちが自由に神のもとに行けるようになっていますね。

★十字架は、人々を二つに分けた

しかし、この十字架は、人々を二つに分けました。今も、分けています。今週黙想していただいていた、ヨハネ18, 19章には、イエス様に非常に親しい人たちがイエス様を裏切っています。
とても優秀な弟子、主に会計を担当していたユダが、お金でイエス様を売ったのです。

ヨハネ18:3

そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られてきた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。Then Judas, having received a detachment of troops, and officers from the chief priests and Pharisees, came there with lanterns, torches, and weapons.

また、自分を慕ってどこまでも従うと豪語していたペテロもイエス様を裏切ります。イエス様なんて知らないと公言してしまうのです。

ヨハネ19:17

すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは、「そんな者ではない。」と言った。hen the servant girl who kept the door said to Peter, “You are not also one of this Man’s disciples, are you?” He said, “I am not.”

ユダは、自殺し、ペテロは後に回復します。。。

イエス様は、多くの人にのけ者にされ、そして否定され、裏切られました。
しかし、女たちは、イエス様から目を放さず十字架の足元まで、イエス様に従い最後までついていったのです。ですから、復活を一番に発見したのも女性たちでした。
私たちが、イエス様を受け入れ信仰していくときに、似た様なことがおきます。私も、父親代わりのおじから、「若いのだからそんなに宗教に猛進するな」と叱られ、母や親戚からも迫害を受けました。職場でも信仰の故にからかわれ、馬鹿にされ、そしていじめもありました。

しかし、今は、逆のことが起きています。当時の友達が救われ、家族が救われ、親戚中が私たちの信仰のことで喜び、敬意を払ってくれています。
十字架がもたらす、分離を恐れないようにしましょう。イエス様が一番に体験されたのです。イエス様から目を離さないようにしましょう。

★十字架は、我々の恥の死に場所

 罪がもたらす大きな結果の一つが、私たちのうちに残る恥の感覚です。アダムとエバも罪を犯したから身を隠しました。恥が入ったからです。罪のない世界には、恥はありえないのです。私たちは、自分自身をさらけ出すのが難しいです。なぜなら、恥があるからです。自分を隠したくて仕方がないのです。ですから、本当の自分が見られないように、いろいろコントロールをするのです。そして、そこに恐れが入ります。恐れは、私たちを不自由にしてしまいます。

イエス様は、公の場で、馬鹿にされ、ぶたれ、鞭打たれました。辱めを受けられました。しかし、抵抗したり、言い返したりなさいませんでした。イエス様は、神の御子であり、罪のない方でした。ヨハネ19章の中でも、ピラトがイエス様に罪をみとめないので、釈放しようと努力しますが。。。イエス様は、不当な扱いをされているのです。馬鹿にされる理由は一つもないのです。自分がやったこともないことで、責められ、恥をかかされているのです。

私たちの、恥の中で、最も重く、辛く、赦せないのが、この類の恥ではないでしょうか。私のせいではない。理不尽な出来事、扱いについて、私たちは、最も苦しむのです。
イエス様は、まさに、そのような苦しみを負ってくださいました。口をつぐんだまま、死にまで至りました。

★私と十字架の関係

イエス様は、死に際に、十字架の上で言われました。

ヨハネ19:30
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。So when Jesus had received the sour wine, He said, “It is finished!” And bowing His head, He gave up His spirit.

完了した。。。イエス様は、私たちが、受けるべき裁きを全部受けきってくださった。私たちが受けるべき恥を全部引き取って身に帯びてくださった。私たちが、聖く正しく、そして、恐れに縛られることなく、神様と共に生きられる全ての道の構築が完了したと宣言されたのです。そして、死なれました。黄泉に下ってくださいました。
今、イエス様を信じるものは、誰でも、この恵みにあずかれるのです。

その方法は、ただ一つです、私の罪の刑罰がイエス様の十字架とともに付けられた、と認めることです。それを受け取ることです。私の恥をイエス様の十字架の上にあると認めることです。そして、もう、二度とそのような生き方はしませんと、悔い改めることです。

クリスチャンにすでになつておられる方も、罪を犯してしまったときに、イエス様の十字架を見上げ、私のこの罪も、あそこにかかったのだと、認めていくことです。

アクセサリーにしてまで、身につける、むごい十字架、死刑のシンボル、恥のシンボルですが、あなたがそれを受け取るなら、あなたに新しい人生を与え、自由をもたらすものとなるのです。


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MR職人
MR職人さんからコメント
投稿日 2016-03-22 19:45

<恥の死に場所>・・思いたることが沢山あります・・
いつでも自分自身をさらけ出しているつもりですが・・都合の悪い部分は触れないようにしていますね・・

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bokushi
bokushiさんからコメント
投稿日 2016-03-23 02:17

職人様
いつもコメントありがとうございます。
恥は、どうしても隠したいという心理がはたらきますね。さらけだせたら、自由になり、本当の意味で強くなれるんでしょうね。

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