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空 vs 喜び Vanity vs Joy

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2014年10月5日日曜日礼拝 音声は、http://youtu.be/IFublPLJH74

書いたものより音声の方が、いいので、ぜひ音声を聞いてみてください。
今週は、伝道者の書一章、二章
 
伝道1:1-11を読みましょう。
エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
4 一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
5 日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。
6 風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることはない。川は流れ込む所に、また流れる。
8 すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。9 昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下に新しいものは一つもない。
10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。11 先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。

伝道者のテーマは、
人生における価値の探求 / 不死の確かな希望がなければ地上の生活はむなしい

伝道者の書は、ソロモンの晩年の作。本書の主題である「空の空」全ては空。37回も言っている。 この書の思想的鍵は、「永遠」 永遠への思いは、この世のものでは満たされない。  快楽、富、知識、労働、労苦、地位。。。。何をもってしても埋めることはできない。だから空しい。と。

★空の空

「空」 というのは、この世の世界観である。また、仏教に通ずる思想でもある。アメリカでも仏教が流行っている。なぜ、多くの人の関心を引くのか。それは、人々が共感しやすいからである。釈迦は、空の価値観と、空の世界の中で、必死で悟りを得ようと人間的力を振り絞って修行した人です。しかし、人を「空」の価値観から解放するだけの真理には到達できませんでした。
ソロモンは、全てを持っている人でした。そして、神様からいただいた知恵のある人でありました。しかし、彼は多くの章をさいて、いかに、世の中のものごとがむなしいかについて語っています。
自然界の繰り返し、知恵と、知識、快楽、事業、労苦、全てさだめられた時、富、幸せが来ない、人生の短さ、等々。。。

私が、クリスチャンになるきっかけとなったのは、就職してしばらくしてからのことでした。「私は、このまま、この職場でどれくらい働くのだろう。私は、この先どうなるのだろう。平凡に結婚するのだろうか。結婚し、子どもを育て、そして、死んでいくのだろうか。」などと考えました。ちょうど、祖母が亡くなった年でもありました。
先が見えてしまった。先を見て全てがむなしく感じたのです。だからといって、毎日少しの楽しみのために、お酒を飲んだところで、欲しいものを買ったところで、むなしさはなくなるような気がしませんでした。
これが、世の中の本当の声ではないでしょうか。
確かに、ソロモンの言っている、空の空。全ては空。ということは、本当です。

★「喜び」新約聖書のキリスト者の見方。。。
それどころか艱難さえも喜んでいます。ロマ5章3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。Not only that, but we rejoice in our sufferings, (ESV)
聖書の中には、たくさん「喜び」が出てきます。主にあっていつも喜んでいなさい。Rejoice in the Lord always. 御霊の実は、愛、喜び、平安。。。イエス様も、祈るのは、あなたがたの喜びが満ち溢れるためだと言っていますね。that your joy may be full.

★伝道者の書を読み解く鍵は、「永遠」

◎「喜び」と永遠との関連性

ヘブル12:2 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。looking to Jesus, the founder and perfecter of our faith, who for the joy that was set before him endured the cross, despising the shame, and is seated at the right hand of the throne of God.

この御言葉が何を語っているでしょうか。
① 永遠が存在する。…地上の命が全てではない。十字架の死の向こうの世界がある。ということ。

② 喜びという報酬がある。… イエス様の報酬は、喜びでした。地位でも、名声でも富でも、幸せでもなかった。人間が一生懸命得ようとするような報酬ではなかった。
また、イエス様の短い人生は、死ぬために生まれてきたような、決して人間的にきらびやかな生き方ではなかったが、そこに、満足と喜びがあった。

◎「喜び」というものは、天の通貨のようなもの。
「喜び」は永遠の父なる神と切り離されたところでは味わえない。

  世の「喜び」と徹底的に違うのは、「父なる神様との共有」と「父への徹底的な依存」にあります。空の空の世界を全てのことをやりつくし、栄華を極めたソロモンは、探求したすべてがむなしかったというのです。それは、世と言うものは、すべて自分に向いているからです。自分の達成感で物事をやり遂げた時には、喜びがあるでしょう。しかし、その喜びというものは、むなしく消え去っていきます。十分ではないのです。

a) 父なる神様との共有

ヨハネ15:11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。“These things I have spoken to you, that My joy may remain in you, and that your joy may be full.

神様の御心を成すときに、必ず報酬がある。その食物のようなもの。おいしい食べ物は、また食べたいと思うでしょう。神様を愛するように導く食物。喜びがある。喜びがある人は神様をさらに探求するに至る。
ただ、自分のやりたいことを実現させる、達成させる。自分のミニストリーをやるのではない。「遣わされた方のみこころ」を行うことである。今日、神様の御心がどこにあるのだろうか。ということに気をとめて日々生きたいものだ。天の「喜び」と言うものは、自分だけのものではなく、父なる神と共有するものである。

b) 徹底的な依存

祈りについて、次のように書かれている箇所がある。

ヨハネ15:7
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。If you abide in me, and my words abide in you, ask whatever you wish, and it will be done for you.

ヨハネ15:11
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。“These things I have spoken to you, that My joy may remain in you, and that your joy may be full.

祈りが聞かれるのは、私たちに喜びが満ちるためである。また、父なる神もまた祈りを私たちに聞くことで喜びが溢れるという。

私たちは、信仰生活の中でなぜ喜びが少ないのか。なぜ、祈りの生活に喜びが無いのか。
一つは、やはり、神の声を聞いて従う。というより、形にとらわれている。信仰生活が宗教的儀式になってしまっている場合。また祈りについては、祈っても応えられない。大体、祈っていることの大部分は、もう応えられていることが多いい。あとは、信じて、その通りに行動したらいい。まだ、応えられていないことのために祈りましょう。まだ、自分の知らないことを神様に祈って聞いてみたりしてはいかがでしょうか。

◎「喜び」があるなら、この世のものは、空ではない。

ヨハネ4:32、34
イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。・・・イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」 But He said to them, “I have food to eat of which you do not know.”……..34 Jesus said to them, “My food is to do the will of Him who sent Me, and to finish His work.

この食べ物は父の喜びです。この喜びがあるならば、空の空と言われるこの世の中で。空しく生きる必要はありません。この喜びをともに味わいながら生きて行きましょう。


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エズラ---改革のリーダー Ezra – The Leader of the R

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2014年9月28日日曜日礼拝 音声は、http://youtu.be/Kz-eIpT1E-M

エズラ5章-10章

エズラ7:6
エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜ったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。

エズラ7:10
エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。

エズラ9:5-6
夕方のささげ物の時刻になって、私は気を取り戻し、着物と上着を裂いたまま、ひざまずき、私の神、主に向かって手を差し伸ばし、祈って、6 言った。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。

エズラ10:1
エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。

エズラ記を先週から読んでいます。エズラ記は、エルサレム帰還と神殿完成までのことがかかれています。エズラというのは、その一連の出来事のリーダーです。そして、彼のリーダーシップは、とても素晴らしいと有名です。彼は、神殿を回復させるだけではなく、人々の信仰も回復に導いた宗教改革のリーダーともなりました。
今日は、エズラのどのような資質が良いリーダーとするのか見て行きたいと思います。私たちは、みな、何らかの形でリーダーとされいます。父、母、夫、職場で、また、クリスチャンは、世の光とも言われています。世の人が見て神の素晴らしさを紹介するものたちです。

★学者エズラ   エズラ7章

◎主の御手が彼の上にあった。。。

二度も言及されている。エズラの上に特別の神の好意が臨んでした。神としか思えない不思議さ。異国の方が全面的に神殿の回復をすすめた。
良い土壌の法則。良い土壌では、どんな種を蒔いてもよく育つ。神に対する信仰と信頼があり、希望があるなら、おのずと神の約束と預言の成就、夢の成就は引き寄せられてくる。夢の成就のために、私たちが一生懸命神を信頼しようとするのではない。いくら一生懸命信頼して信仰しようとも、心の土壌が良い土壌となっていないらば、それもまた宗教的な業でしかない。
信仰と心の望みの法則。(音声の方でお聞きください。)
良い土壌となるための資質は、本当の意味で世に改革をもたらすことのできるリーダーの資質である。それは、次に書かれている。

◎御言葉に対する態度。。。調べ、実行し、教え

御言葉をよく調べ…御言葉の中にある神のご性質を知るにいたる。というのが真の目的である。聖書の言葉を研究しても、神の心を知らずにいれば、パリサイ人のように適用を間違ってしまう。神様のご人格を知るにいたるように、聖書を学びましょう。

実行し…御言葉を心に取り込み、そして、その通りにするとき、み言葉が受肉する。また、キリスト者としての権威が増す。み言葉を実行するときに、私たちの考えが変わり、行動が変わり、そして、人格が聖められていく。私たちは、知識としてみ言葉を蓄えるのではなく、実行するために蓄える。頭で、聖書的に正しいことを知っていても行わないならば、意味がない。例)「父母を敬え」という聖書の教えを知っていても、実際、全く父母に会いに行かなかったり、電話もしない、カードも書かないなら、どうしてあなたの愛と敬意が親に伝わるであろうか。

◎心を定めていた。。。献身していた。

そのことに人生をかけているという姿。献身している人の影響力すごい。そこにかけているからそ、人々がついてくる。また、この聖書では、異国の王でさえ、好意を与えるほどとなる。私も、教会に行き始めたころ、牧師夫妻や神学生の人たちにあこがれを持った。信じていることに一生懸命すべてを捧げている姿に、まだクリスチャンでなかったけれど、ついていきたいと思ったものである。
あなたの、今日の献身は、決して無駄ではない。必ず、実を結び、弟子を作るということを覚えていただきたい。しかし、献身が無くては、それは起こらない。

◎エズラは、御言葉に留まり、御言葉が彼の行動となり、彼の口から出ることは御言葉が教えることとなっていた。

有名な説教者ビル・ジョンソンはさらさらと語る言葉が非常に深遠で権威がある。彼は、若い伝道者であったころ、事務所の机から離れずにひたすら聖書を読んでいたのだそうです。

詩篇一編を思い出す。詩篇1:2,3  まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。主の教えを喜びとし。。。。その人は何をしても栄える。But his delight is in the law of the LORD, And in His law he meditates day and night.3 He shall be like a tree Planted by the rivers of water, That brings forth its fruit in its season,
Whose leaf also shall not wither; And whatever he does shall prosper.

私たちも御言葉の生徒でありたい。

★祭司エズラ

彼は、アロンの系図による祭司であった。彼は、動物を殺す、宮の仕事をする意外に、とても重要な働きをする。エズラは、民の心を神に帰らせたのです。

エズラ9章

◎まずエズラは、民の罪を自分の罪として悔い改め。神の前にとりなした。

とりなしの祈り。。。他人の代わりに祈ること。その人の立場、身に自分を置き換えて、同一視して祈ること。神と人の隔たりに立つこと。罪人のその人と、神の間には隔たりがあり、本人では埋められないので、仲介者が必要。
アブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤ、エレミヤ、ダニエルと言った数々の旧約に出てくる人物もとりなしの祈りをしました。自分を罪人であると、その人の代わりに成り代わって神の前に悔い改めているシーンを、エズラだけではなく、この人たちのとりなしの祈りにも見ることができます。これが、神と人との間を取り持つ祭司の役割です。

◎私たちも、祭司である。

 聖書の中にも、私たちは、聖なる国民、王なる祭司であると書かれている。それは、真の大祭司キリストによってそうされたのです。キリストは、まだ罪人であった、私のために、私に成り代わって、贖いの業をなしてくださいました。完全な祭司です。また、今も、私たちのために日々天で取り成してくださっています。
キリスト者である私たちの内にこのキリストの祭司のDNAがあるのです。良いリーダーの資質のある人は、とりなしの祈りをするのです。
その人の立場になり、エズラのように、罪を悲しみ、悔い、神の前に悔い改めるのです。エズラの心が完全に、罪を犯していた民と一つになり、神の心と一つになったとき、奇跡が起きたのです。

10章  民の心が神に向けられ、人々がエズラについてくるようになった。私たちは、しっかりとした聖書の教えも必要ですが、やはり、人の心を変えることができるのは、神様の働きです。神様の働きというのは、やはり、祈りによってなされるものです。人の力によらないのです。神は、私たちとパートナーとして働きたいので、私たちの力も必要です。私たちは、信じていることに伴う行動とともに、祈りの世界でも奉仕をするべきです。

70年異国の地にとらわれた人たちのマインドセットを変え、心を神に向けることかできたエズラ。私たちクリスチャンも、このリベラルな町シアトルを変えることができます。
私たちがみ言葉に宿り、実行し、教え、またシアトルの人々のためにとりなして祈るなら、人々はついてきます。
ともに祈りましょう。以前から、祈り会を持ちたいと思ってきました。ともに集まって祈りましょう。

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回復のはじめ At the beginning of the restorati

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2014年9月21日日曜日礼拝 音声は、http://youtu.be/gfUjubTz2LM

エズラ記1-4章より

エズラ1:1-4
ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。2 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。3 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。4 残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」

★ バビロン捕囚の終わり The end of the exile

罪ゆえのバビロン捕囚 
神様の教えを無視し、神様に背いたことによって。
七十年にも渡った。世代も変わり、バビロンの名前を持つものが多くなってきた。

★ 神の絶対的な導き

一方、絶対的な神の御手が、イスラエルの民の上にあった。
預言者を様々な場所に起こし、神の言葉を解き明かした。
 ダニエル エレミヤ エゼキエル 他  また、様々なリーダーを通して絶妙なタイミングで神様の計画がすすんで行きました。エズラ ネヘミヤ エステル
バビロン時代、預言者ダニエルが、壁に書かれた文字を王のために解き明かし、次の日にバビロンは、ペルシャに倒される。ペルシャの王になって、ユダヤ人帰還が赦された。

◎ エレミヤの預言の通りとなる。

エレミヤ29:10-13
まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。14 わたしはあなたがたに見つけられる。―主の御告げ―わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。―主の御告げ―わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」

みなさん、神様は、良いお方です。私たちが失敗しても、神様に背いても、私たちを良い心で、私たちを憐れんで導いてくださっています。神の言葉は、一つもむなしく地に落ちることがありません。必ず成就します。歴史上で、それは、もう確認済みです。あなたの上にも同じです。神の約束は、必ず成就します。もしも、あなたが失敗しても、神は、あなたを教え、矯正し、慰め、建てあげながら、約束の地まで導いてくださいます。そのことを信じますか?

★ 礼拝の回復へ

エズラ3:1-2 祭壇を築いた。

イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、民はいっせいにエルサレムに集まって来た。2 そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおり、全焼のいけにえをささげるために、こぞってイスラエルの神の祭壇を築いた。

70年もの苦悩の後、解放と回復が始まった。
私たちも、試練、苦悩から回復の兆しが見えるとき、一番に何をするでしょうか。
新しい場所に移されたとき。環境的に、霊的に。神の導きによって、新しい仕事に移された、新しいことを始めた。
人間関係、仕事、環境いろいろなアジャストメントがあります。それらに終始することもできるでしょう。しかし、私たちは、神に選ばれた人たち、礼拝する人たちです。神の民です。
まず、第一に祭壇を築きましょう。
祭壇とは、礼拝の中心。罪のための犠牲の動物を捧げる場所。罪ゆえに隔たりができた関係に和解をもたらす場。感謝を捧げる場。すすんで心からの愛を表現する場。
新約の私たちにとっての祭壇は、イエス・キリストそのものであり、キリストへの献身です。

私たちにとっては、神の祭壇とは礼拝。それも、形式の礼拝だけでなく、生きた供え物として自分をそのまま捧げること。生きている状態の捧げ物です。ロマ書12:1
神様が試練から解放させてくださる時に、まず、礼拝を確立しましょう。キリストとの関係を確立しましょう。

★ 妨げと神を求め続けることのチャレンジ

エズラ4:4-5
すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。5 さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。

 サマリヤ人たちに妨害され、二十年ほど神殿の建設が途絶えます。
神殿の礎が完成して喜んだのもつかの間、土地の人々から反対され、妨害が入ります。

これを読むときに、私が、イエス様を信じてしばらくすると、妨害のようなことが起きて、信仰を保つことにチャンレンジが来たことを思い出す。また、いつも、神様に従って、神様の約束の方に向かうときに、困難やチャレンジがやってくることがある。

(私の証し)
神様の声にしたがって、8年前にアメリカに渡る。神様の導きの中をすすめばすすむほど、道が開かれる。ダッグ牧師夫妻との不思議な出会い。癒し。人々が集められてくる、十分なお金を持たずにアメリカに来たが、学生を経て次のステップに進む二年と半年間、絶えず経済的な奇跡が起きた。等々。。。。そして、いざ、神様の新たな召しに従い、ミニストリーを正式に始める段になると、とたんに困難が押し寄せてきた。ビザの問題。一つ目の方法が手ひどい形で拒絶を食らう。その後、違う方法で申請。順調と思いきや、私のケースを扱っていた弁護士が急に辞める。次の弁護士になって、再度申請、その後、移民局に書類を無くされ、などなど、どうなるかと思いましたが、やっと開かれた。その後も、様々なチャレンジにあいます。
エリックも神学校に行くことにしてから、様々なチャレンジにあいます。私とエリックの車の難、また私とエリックの歯の難。。。経済的にチャレンジされます。
これは、神の御心ではないというサインではありません。

私は、これらのことを乗り越えていく度に、神が私と確かに共におられることと、奇跡と、神の導く目的地に対して確信が来るのです。
またそれだけではなく、神さまとの関係が深くなっていくのです。
それは、どんなことが周りで起ころうとも揺るがない、内側の強さとなって現れます。

★ 神様の心とは

神は、エレミヤ29で、読んだとおり、「わたしは、あなたがたのために立てている計画を良く知っている。私を求めよ。あなたは、私を見つける。あなたは、解放される。」と言っている。
私たちの心の中では、苦しみから解放されたいということばかりが先に立つであろうが、神の側では、
どんなことが起きても、民に神を求めて欲しかった。民に見出されたかった。形式だけ、宗教的に正しいと思われることのみをするのではなく、民との親密な関係を築きたかった。

私たちの主は、今日も、あなたと親しい関係を築きたいと招いておられます。
ますます、堅く主を信じ、信頼して歩んでいきましょう。

バビロン捕囚からの解放の初めは、礼拝の回復でした、また神との信頼関係のたてあげの初めでした。


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休みを得た日-プリムの祭り A day of rest – Purim

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2014年9月14日日曜日礼拝 音声は、http://youtu.be/EZvGQKevl9Q から

エステル記9章14-19節

14 そこで王が、そのようにせよ、と命令したので、法令がシュシャンで布告され、ハマンの十人の子は柱にかけられた。15 シュシャンにいるユダヤ人は、アダルの月の十四日にも集まって、シュシャンで三百人を殺したが、獲物には手をかけなかった。16 王の諸州にいるほかのユダヤ人も団結して、自分たちのいのちを守り、彼らの敵を除いて休みを得た。すなわち、自分たちを憎む者七万五千人を殺したが、獲物には手をかけなかった。17 これは、アダルの月の十三日のことであって、その十四日には彼らは休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。18 しかし、シュシャンにいるユダヤ人は、その十三日にも十四日にも集まり、その十五日に休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。19 それゆえ、城壁のない町々に住むいなかのユダヤ人は、アダルの月の十四日を喜びと祝宴の日、つまり祝日とし、互いにごちそうを贈りかわす日とした。

22-28節

自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。23 ユダヤ人は、すでに守り始めていたことを、モルデカイが彼らに書き送ったとおりに実行した。24 なぜなら、アガグ人ハメダタの子で、全ユダヤ人を迫害する者ハマンが、ユダヤ人を滅ぼそうとたくらんで、プル、すなわちくじを投げ、彼らをかき乱し、滅ぼそうとしたが、25 そのことが、王の耳に入ると、王は書簡で命じ、ハマンがユダヤ人に対してたくらんだ悪い計略をハマンの頭上に返し、彼とその子らを柱にかけたからである。26 こういうわけで、ユダヤ人はプルの名を取って、これらの日をプリムと呼んだ。こうして、この書簡のすべてのことばにより、また、このことについて彼らが見たこと、また彼らに起こったことにより、27 ユダヤ人は、彼らと、その子孫、および彼らにつく者たちがその文書のとおり、毎年定まった時期に、この両日を守って、これを廃止してはならないと定め、これを実行することにした。
28 また、この両日は、代々にわたり、すべての家族、諸州、町々においても記念され、祝わなければならないとし、これらのプリムの日が、ユダヤ人の間で廃止されることがなく、この記念が彼らの子孫の中でとだえてしまわないようにした。

今週は、エステル記7章から10章までを読みました。今日は、特に9章からお話ししたいと思います。
みなさん、プリムの祭というのをご存じですか。イスラエルのお祭りで有名です。V18に続いて、22-28節にも説明があるとおりに。
本当は、あのユダヤ人絶滅をたくらんだハマンにより、くじ(プル)が投げられ、ユダヤ人大虐殺の日にちが決められた。しかし、神様の素晴らしい計らいによって、その日は、ユダヤ人の救いの日となった。インドからエチオピアまでの広範囲にわたるペルシャの各州の全ユダヤ人が救われました。それで、プリムと呼ばれるようになった。そして、悲しみが喜びに変った日として祝宴と喜びの日とし、互いにごちそうを贈りかわす日となった。
そして、V28 にモルデカイは、これを代々にわたり祝うようにと命令している。現に、今もイスラエルでは、この祭りをちゃんと祝っている。この祭りのときには、このエステル記が読まれるそうです。神様は、必ず、ユダヤ人を守られる。神に選ばれている者は必ず神の守りがあるということを思い出すことができるように。

ロマ8:39
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。nor height nor depth, nor any other created thing, shall be able to separate us from the love of God which is in Christ Jesus our Lord.

8章ではは、エステルの願いが王に聞き届けられ、ユダヤ人を殺せという証書decreeを取り消した。また王は、ユダヤ人を殺そうとするものたちを根絶やしに滅ぼすことを許し、彼らの家財もかすめ奪うことを許した。
そして、9章では、ユダヤ人たちが襲ってくる敵を滅ぼしたことが書かれています。
9章V15,16 を見てみましょう。16節だけ読みます。
王の諸州にいるほかのユダヤ人も団結して、自分たちのいのちを守り、彼らの敵を除いて休みを得た。すなわち、自分たちを憎む者七万五千人を殺したが、獲物には手をかけなかった。

◎獲物には手をかけなかった。  みなさん、ヨシュア記やサムエル記、最近のところでは思い出すのではないでしょうか。聖絶completely destroyedということばを思い出しますね。サムエル記では、神様はサウルに動物もみな殺せと言われました。私たちに適用するならば、これは、罪を根絶やしにするということです。すべてを神様のものとするということです。敵に関するものは、一切絶やすのです。ユダヤ人たちは、王に獲物をとっても良いといわれたが、一切それをしなかった。聖絶のコンセプトをもって、望んだのであろう。
◎敵を除いて休みを得た。 ユダヤ人は、敵を倒したので、もう命の心配をすることはありません。敵を倒すまでは、どこから敵が来て自分たちの命を狙うかわからない。私たちも、敵に脅かされていては、休みを得ることができません。

★ 私たちへの適用
私は、この箇所を読んでとても語られることがありました。

① 徹底的に、敵を滅ぼし、そして、分捕りものもとらなかったユダヤ人。
これは、私たちの罪に対する態度を神様は、示しておられる。罪に対して、敏感に、そして、完全に取り除こうという態度。
罪は、パン種のよう。小さいものだが大きく全体を膨らませる。聖霊様に敏感に、悔い改めることをすると喜びがかえってくる。罪の種というのは、ほんの小さい隙間から入ってきて。知らず知らずの内に私の心を支配するようになる。

(私の先週の証し)ふとした出来事をとおし、自分の心が罪に支配されたことを神に示され、悔い改めた。すると、神様の声がより聞こえるようになった。そして、喜びが心に戻ってきた。

☆ 心のバロメーター: 喜び
みなさん、喜びは、バロメーターです。喜びは天の御国のお金や食べ物、私たちを生かすのようなものです。

ヨハネ4:32、34
イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。・・・イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」

ヨハネ15:11
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

喜びのある人は、心も身体も元気です。そして、成功的に、勝利の中を歩んでいることに、私たちは気がつきます。
喜びがないなら、きっとあなたは、神様以外のことで心がいっぱいになっています。神様のためにしていると言って何かをしていても、喜びが無ければ、きっと違うことのためにしているのです。喜びがないなら、全てをやめて、神の前に礼拝するときです。悔い改めが必要なときです。

② 敵を除いて休みを得た。
罪が入ってから、人類に休みがなくなった。またこの時代は、大人も子どもも休みの無い時代。聖書の神は、休みの神。聖書の初め所から休みについて語っている。
またイエス・キリストは、休ませてあげようと私たちを招いている。

ヘブル4:10-11

10 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。11 ですから、私たちは、この安息に入るように力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

新約の私たちは、イエス・キリストによって休みを得ている。私たちの敵は、罪であり、罪がもたらした死です。イエス様が十字架の上で、私たちの罪の身代わりとなって、すべての刑罰を負って死んでくださった故に、私たちにとっては、罪の力は、何の効力もなくなっているのです。そして、安息に入れられたのです。罪と格闘しなくても、いいのです。このイエス様を信じる者には、かならず、永遠の命がもらえます。天国に行ける約束がされるです。イエス様故に。何の努力もなく。何も支払わないでです。
どんなにお金持ちも、こういいます。「すべての夢がかなった。欲しいものもこれ以上ない。あとは、長寿だけだ。」と。すべての人は、永遠の命を求めている。
永遠の命を得るのに必要なのは、信仰です。
信仰とは、信じることです。自分のやり方を捨て神様に委ねることです。サレンダー。することです。自分の働きをやめることです。なぜなら、すべてはイエス様が闘って勝ち取ってくれたからです。ですから、信仰とは、安息から来ているともいえます。安息なければ、信仰はないのです。

しかし、私たちは、一向に自分の働き、自分のやり方、自分の考え、自分で何とかしようとするその働きから離れられない性分がしみついています。
新約の私たちは、休みからすべてが始まることをもう一度思い出しましょう。イエス・キリストによって。戦いは、すでに勝利。勝利から始まっていると。

★忘れないように。。 Awareness, 私たちの意識
敵を除いて休みを得た。
この休みを得た日を祝うのがプリムです。そして、これを忘れないように。覚えているようにというのが、ユダや人への命令でした。

私たちの意識がどこにあるかによって、私たちが天にアクセスできるかが決まってくる。
私たちの神は、あなたの口を大きく開けよ、私はそれを満たそうと言う神。また、求めるものに与えられる。また、探すものに見つけられる神。

ビル・ジョンソン師の聖霊の描写。はとのようにというが、実際自分の肩にはとをのせて歩いていることを想像するなら、どのくらい、聖霊さまを意識して行動しなければならないかが分かるだろう。
私たちの意識のあるところから、神様の天の国のアクセスがある。
このアクセスがあるなら、私たちの行動においても休みがある。
自分で、自分を打ちたたいて、何かに到達しようと躍起にならなくても、単純な神の霊への従順があれば、神の国の目的を達成できるのです。

今も、ユダヤ人は休みを得た日プリムを祝っています。忘れないためです。
私たちも、休みに入り、また安息に入れられたことを日々確認し、罪を自分から除くために絶えず敏感に聖なる神と心一つに喜びと安息の中を生きていきましょう。



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摂理の中で選ばれたものとなるTo be a chosen one in God’

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2014年9月7日日曜日礼拝 音声は、http://youtu.be/nD16Z4-NWsc

エステル記2章5-17

今週の箇所は、エステル記です。一人の若い女性が歴史の中で大きく用いられる物語。
ちょっと世界史のお話し、みなさんバビロン捕囚は良く知っていますね。聖書の中では、列王記と、歴代誌に書かれています。南ユダが捕囚され、70年後、バビロンがペルシャに破れ、ペルシャ王クロス(キュロス)は、ユダヤ人たちをエルサレムに帰しました。しかし、全員が帰ったのではなく、まだまだ多くのユダヤ人が各地に残っていたようです。聖書では、エズラが神殿建設、ネヘミヤがエルサレムの町の城壁を直しました。
この書は、ネヘミヤ記の後に書かれているが、年代的には、その事件がネヘミヤ記よりも約30年さかのぼっている。エステルは、おそらく相当な権力をもってエズラ、ネヘミヤの事業を支援しただろう。彼女の王との結婚はユダヤ人たちに非常な信仰と希望を与えたことだろう。

この書には、神と言う言葉は出てこないが、神様の不思議な摂理と守りと救いを見ることができる素晴らしい書です。

摂理とは…キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く。1.(often initial capital letter) the foreseeing care and guidance of God or nature over the creatures of the earth. 2.(initial capital letter) God, especially when conceived as omnisciently directing the universe and the affairs of humankind with wise benevolence. 3. a manifestation of divine care or direction.

摂理とは、振り返るときに、それは、聖なる、永遠の神様の御手であったと気づく。その時は、分からない。

私の証し。英語に興味もなく、習う気もない。しかし、大学受験の失敗を期に、英語を専攻し。そのまま、英語を使う会社に入り、英語を習うために教会に行き、そこでクリスチャンとなり、それ以来、教会で英語の奉仕をし、まさか、アメリカに宣教師として働くとは思わなかった。インドネシアにいくと思っていた。それも、バーンアウトをする経緯があって、アメリカに来ることに。自分からは、決してアメリカに移住しようと思わなかった。自分で選ばなかったことや、自分には、ネガティブに思えることがすべて、今の生活とミニストリーに繋がっている。そして、ここまで来るのに、神様の奇跡、み業をたくさん経験させていただいた。経済の問題、ビザの問題等々。。。

● 選ばれたエステル

退けられた王妃ワシュティの変わりに、新しく王妃の候補者を募ることになりました。ペルシャ全ての州から美しい娘たちがやってきました。私は、ふと思いました。はたして、エステルは、自分から進んで、ペルシャ王の妻になりたかったのでしょうかと。ユダヤ人は、昔から、外国人との結婚は良くないこととされていました。ましてや、異教の神を信じている王との結婚です。どんな、異教との関わりを持たされるか分かりませんし、清くない食べ物も口にしなければならないかもしれません。このストーリーは、なんだか、ビューティコンテストのような、シンデレラストーリーのように表面上は聞こえますが、エステルが自分から喜んでこの道を選んだとは思えないのです。
たとえ、自分で選んではいない道であっても、エステルは、その特質ゆえに頂点へと選ばれて行きます。

V7 モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。このおとめは、姿も顔だちも美しかった。彼女の父と母が死んだとき、モルデカイは彼女を引き取って自分の娘としたのである。And Mordecai had brought up Hadassah, that is, Esther, his uncle’s daughter, for she had neither father nor mother. The young woman was lovely and beautiful. When her father and mother died, Mordecai took her as his own daughter.

〇外見の美しさ
彼女には、もって生まれた特質、神が与えられた外見の美しさがあった。それが故に、白羽の矢がたったとも言えよう。これも、彼女の予期せぬ、摂理である。
昨日は、賜物セミナーであったが、私たちは、生まれながらに持っている性質をあまりにも自然なため大したことと思わないが、神があなたにその賜物・特質を与えたには、理由が必ずあることを忘れてはならない。あなたの神の目的は何でしょうか?

〇内面の美しさ…砕かれた魂(柔和)、癒された魂
エステルは、若くして両親を失っていました。外国に捕囚された身であり、両親をなくし、いろいろと不自由があったことでしょう。しかし、外面の美しさゆえに彼女は、王妃候補として宮殿に行くことになるのです。彼女は、また内面の美しさも供えていたと思われます。

人は、皆傷つきながら生きています。そして、その傷に振り回されて生きるのか、乗り越えて生きるのかでは大きな違いがあります。過去の傷に振り回されている人は、言葉の端々に苦々しさがで、また物の見方が歪んでいまするしかし、傷から癒され、乗り越えた人は、かえって、ひどいことが過去にあったとは、人に思わせないほどのすがすがしさがあります。
また、苦しみを乗り越えた人は、柔和であります。これは、イエス様に現されている素晴らしい特質です。

エステルは、王妃となるコンテストの前に、すでに神様にあって、試され、精錬された金のようであったのです。

★Ⅰ 摂理の中で、神に選ばれる人は、神によって試された人である。

〇従順と敬意

V10エステルは自分の民族をも、自分の生まれをも明かさなかった。モルデカイが、明かしてはならないと彼女に命じておいたからである。Esther had not revealed her nationality and family background, because Mordecai had forbidden her to do so.
V15 さて、モルデカイが引き取って、自分の娘とした彼のおじアビハイルの娘エステルが、王のところに入って行く順番が来たとき、彼女は女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。こうしてエステルは、彼女を見るすべての者から好意を受けていた。 When the turn came for Esther (the young woman Mordecai had adopted, the daughter of his uncle Abihail) to go to the king, she asked for nothing other than what Hegai, the king’s eunuch who was in charge of the harem, suggested. And Esther won the favor of everyone who saw her.

イエス様も、父のしていることを見て物事をしていると言われました。従順さのない人は、神様の時にも従順になれません。

★Ⅱ 摂理の中で神に選ばれる人は、従順と敬意のある人である

〇人格についてくる好意

V8 王の命令、すなわちその法令が伝えられて、多くのおとめたちがシュシャンの城に集められ、ヘガイの管理のもとに置かれたとき、エステルも王宮に連れて行かれて、女たちの監督官ヘガイの管理のもとに置かれた。 So it was, when the king’s command and decree were heard, and when many young women were gathered at Shushan the citadel, under the custody of Hegai, that Esther also was taken to the king’s palace, into the care of Hegai the custodian of the women.

〇王の愛と、王の信頼
V17 王はほかのどの女たちよりもエステルを愛した。このため、彼女はどの娘たちよりも王の好意と恵みを受けた。こうして、王はついに王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。 Now the king was attracted to Esther more than to any of the other women, and she won his favor and approval more than any of the other virgins. So he set a royal crown on her head and made her queen instead of Vashti.

★Ⅲ 摂理の中で神に選ばれる人には、神の目的に向かえば向かうほど、好意が付いて回る。

私たちは、みな神や人に選ばれ、さまざまな役割を似ない、様々な場所にいます。しかし、本当に神様の摂理の中で用いられる人には、その資質が伴うのです。

● 神の摂理と私たちの信仰が交わるとき

エステル4章13-16

13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。
14 もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
16 「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」And Mordecai told them to answer Esther: “Do not think in your heart that you will escape in the king’s palace any more than all the other Jews. 14 For if you remain completely silent at this time, relief and deliverance will arise for the Jews from another place, but you and your father’s house will perish. Yet who knows whether you have come to the kingdom for such a time as this?”
15 Then Esther told them to reply to Mordecai: 16 “Go, gather all the Jews who are present in Shushan, and fast for me; neither eat nor drink for three days, night or day. My maids and I will fast likewise. And so I will go to the king, which is against the law; and if I perish, I perish!”

〇神に選ばれている理由を悟る 

 神は、エステルをただ異国の王妃にするために王妃に成り上がらせたのではない。

〇神に第一の信頼を置く 「死ななければいけなのなら、死にます」

信仰とリスクは隣り合わせ。神の摂理の中で、自分の役割を悟り、それでも、私は神に信頼します。と、自分より、神を一番にする時に、神の目的が完成される。
イエス様もこういわれました。

ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 Very truly I tell you, unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds.

私たちも、みんな、神の摂理の中にいます。好まざると好もうと、今歩んでいる道に神様の配慮があります。私たち一人人が、摂理の中で、神に選ばれる人となり、神に自分をおいても従える人となることができましように。アーメン


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お金の話し; 主こそ私たちの供給者

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2013年9月21日日曜日礼拝

このメッセージは、ほぼ去年の今頃のメッセージですが、とても大切なのでここに載せようと思います。今週は、私たちの教会では、ミャンマー人の牧師先生に来ていただきました。私と主人は、東ワシントン州の農家の町、Waterville のルーテル教会でメッセージの奉仕をしました。

今日は、いつものシリーズを置いて、お金のお話しをしたいと思います。なぜなら、このことが私たちの信仰生活にかかっているからです。イエス様もよくお金のお話しをされました。よくよく聖書を読んでみると、
• Jesus talked about money more than He did Heaven and Hell combined.
• Jesus talked about money more than anything else except the Kingdom of God.
• 11 of 39 parables talk about money.
• 1 of every 7 verses in the Gospel of Luke talk about money.

どうしてでしょうか。お金が大事といっているんでしょうか?
違います。それは、

マタイ6:21
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」 For where your treasure is, there your heart will be also. とありますね。イエス様は、私たちの心が大事といっているんです。先々週も話しましたが、神様は、私たちの心が欲しいんです。

私たちは、お金を宝としていないと思いますね。しかし、どうでしょうか。少なくともお金に気持ちや、私たちの決断、が左右されていないでしょうか。その場合、神様の声よりも、お金を宝としているといえます。
またイエス様は、こういわれました。

マタイ6: 24
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 “No one can serve two masters; for either he will hate the one and love the other, or else he will be loyal to the one and despise the other. You cannot serve God and mammon.

◎ Mammon  
聖書の中に四回でてくる。イエス様は三回言っている。ルカ16:9
これは、仕える対象なのだから。This is one of Spiritual entities as well. 霊的存在。霊的人格を持ったものと言える。イエス様は、マモンと神に仕えられないと、他の神と並べないで、マモンを引き合いに出してきた。
シリアSyrian god of richesの神の一つ。バビロンから来ている。バベル。Confusion . バビロンの意味は、plant in confusion. 自分の力でシステムを作って、神に到達する。もう神はいらないというスピリット。Anti-Christ spiritマモンは、神に敵対するものであり、霊的存在であり、お金の背後に働いているもの。

◎ お金とは…   
お金自体が悪いのではない。お金は、人が作った。買ったり売ったりするためのツール。価値はいつも変わる。Money is man(world)-made system. To buy and to sell. Exchange. So, its value changes all the time. It is just a tool to exchange things. Riches is God-made. Silver, gold, land and so on,… Law of inheritance

● Mammon が働いている症状

恐れ。心配。金持ちは、お金を失いたくない。貧乏人は、セイブしたい。どっからでもお金をもらいたい。と執着。コントール。捕らわれる。マモンは、いつも、無いこと、無いからできないということを強調してきます。何があるか、より何が無いかに捕らわれる。お金さえあれば、結婚関係は、うまく行く。私の人生は、よくなる。人が尊敬する。と考えさせる。お金は、問題の解決策ではない。お金がもっとあったら、もっと人助けができる。Etc,… 神様がしてくださるのです。
恐れや心配は、神様の世界の間逆。神様は、どんなことが合っても、恐れるなと言われる。また心配は、罪といえるほど、神様をないしろにしていることです。

●霊とまことの法則

霊とまことによって、私たちは、神を礼拝する。父は、このような礼拝者を求めています。ヨハネ四章にありますが。これは、お金に関しても真理です。お医者さんが学校に行ったこともなく、手術もしたことないけど、聖霊に満たされてあなたに手術をしてあげようと言ったら、あなたは、どう思いますか?? 待ってください。学校でちゃんと学んで、しかも、聖霊に満たされたお医者さんを捜します。と言いませんか?? 私たちも、ちゃんと、真理に従っている。十分の一献金をしている。捧げている。貧しい人に与えている。しかし、どうして、いつもお金の問題がなくならないのでしょうか。それは、霊的な要因を見落としているからです。

もう一度いいます。神様は、あなたの心を求めておられます。
私たちは、全財産をなげうって、貧しい人に与えるようなことをしても、間違った心で捧げることもできるので。そして、この間違った心でやっている限り、経済的祝福は来ないのです。なぜでしょうか。祝福は、神様から来るからです。そして、祝福が来ないのは、マモンの霊に使えているからです。
真理だから、仕方ないから、捧げる。いいことだから捧げる。面子を立てるために捧げる。神様がきっと倍にしてくれるから、捧げる。特にこれは、神様を自分のしもべのように考えて倍増を要求して、そのために捧げることも、正しい心ではありません。神様は、次のような人を愛されます。

Ⅱコリント9:7
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
7 So let each one give as he purposes in his heart, not grudgingly or of necessity; for God loves a cheerful giver.

やっと聖書を開きますが。第一列王記、17章を開きましょう。ここに素晴らしい例が書いてあります。私たちは、どのようにして、このマモンスピリットを打破ったらいいのかと考えながら読んで行きましょう。

Ⅰ列王記17:1-16

エリヤの話し;

① カラス…エリヤはカラスに養われた?? ききんのときに。このレッスンは、神の声に従うこと。従順。卑しいカラスをとおしてでも、神ご自身がエリヤを養うことができるのだと学んだ。もっとも、望ましくない供給方法だが、神がその上におられて、神ご自身がどんな状況においても、ききんのときでさえも養ってくれるということを学んだ。
エリヤの供給源が変わったのでしょうか。いいえ、前から神様が養っていました。今度は、荒野でカラスを通して神様が養っただけのことです。
人間は、自分の糧が来る場所、チャンネルが変わるととても揺るがされる。仕事が変わる。これからどうしよう。というように。しかし、その時こそ、神こそ、私の供給源だと知るべき。
Sparrow faith スズメは、蒔いたり収穫したりしない。なす業によって食べていかない。ただ、神の恵みによって。。一羽のすずめを養ってくれる神はあなたを必ず養ってくれるという信仰。

② やもめ… 
当時やもめというものは、全く収入源が無かった。今でこそ、働きにいけるが。。当時は、女は、男性の所有物のようなところがあった。夫を亡くしてしまえば、完全に依存して、養ってもらえる人がいなくなってしまう。彼女は、だだ、持っているもの、を食いつぶしながら生きていた。

Ⅰ列王17:12
「彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」So she said, “As the LORD your God lives, I do not have bread, only a handful of flour in a bin, and a little oil in a jar; and see, I am gathering a couple of sticks that I may go in and prepare it for myself and my son, that we may eat it, and die.”これだけしかない。と無いことを強調するのがマモンの霊。

彼女は、夫と言うリソースが無い、金がない、食べ物がない、だから、もうすぐ食べ物がなくなるから、死ぬ。と結論付けているのです。

そして、エリヤがまずパンを作って、わたしに持ってきなさいという。Wow> 最後の粉を使って、自分にもってこいと?? 死ねという宣告のようなことをした。 

神様は、どうしてこのようなことをするように、エリヤに言ったのでしょうか。神様は、このやもめのソース、すなわち、粉、生活の糧の全てを取り上げなければならなかったのです。それが無くなったとき、初めて、神様ご自身が自分のソースだということに気付くからです。神様は、やもめの信仰を引き上げたかったのです。そして、雨が降るまで、この貧しいやもめと子供を守りたかったのです。

ここで、彼女の中で変化が起こった。 ラディカルと思えるようなことがあるが、従うときにブレイクスルーがある。
彼女は、したがって、言われたとおりにパンを作って一番にエリヤに持っていった。

そこで、
マモンの霊が砕かれた。
16 The bin of flour was not used up, nor did the jar of oil run dry, according to the word of the LORD which He spoke by Elijah.  16「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」

彼女のかめの粉は、尽きることが無かった。スーパーナチュラル multiplication 。

神様は、彼女に、あなたのリソースは、夫でもない、食べ物でもない、金でもない。私だ。と教えた。また、エリヤだって、貧しいやもめから最後の粉を取り上げるようなことは人間的には、したくなかったでしょう。しかし、エリヤは、カラスを通してさえ、養うことのできる方は、やもめを通してもできると信じることができたのです。

やもめは、エリヤのおかげで、信仰が引き上げられ、貧しさと、いつ死ぬか分からないという恐れから完全に解放された。

{私たちの証し}
三年近く前の交通事故がやっと解決し、予想よりも少ないお金だが、慰謝料が入った。それについて、もうすでに、不満足だった。その時からすでにマモンの力に従っていたのだろう。そこから、もちろん十分の一献金や捧げものをした。バンを買った。悪いものだった。持っていたすべてのお金をつかったが、後から後から、売り手の嘘が分かり、故障が多く見つかる。修理しないと危なくて運転できない。お金がいる。。。本当にデバステイトした。どうしてこんなことが?? とも思った。しかし、これは、私たちのうちにあった、隠れたマモンへの信頼と貪欲、不信仰が表に現れるためと分かった。
夫婦で悔い改めた。相手を赦した。まだ、どのようにして支払っていくか分からないが、神様に感謝している。
その後、エリックが不思議な方法で、神様からの助けを得ることになった。ますます感謝。

マモンの霊を打破るには、第一に、従順。第二に、神が養ってくれると確信すること。第三に、信じて、神にあって喜んで捧げること。

<余談>
神の国の経済の法則 増殖multiply 二匹の魚と五つのパン。全ての人が有り余るほど、増えた。エリヤを養ったやもめは、かめの粉は尽きなかった。家族もエリヤも養うことができた。
この世の経済の法則 あなたのお金を私にください 増殖の逆の例がギャンブル。ギャンブルは、皆からお金を取って、元締めが儲かる。誰か一人が買ってたくさんお金が入る。他の人は、お金を取られるだけ。

神様は、唯一私たちが愛すべき方。仕えるべき方。
Ⅰテモテ6:10
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。For the love of money is a root of all kinds of evil, for which some have strayed from the faith in their greediness, and pierced themselves through with many sorrows.


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イエスの十字架 Sins and Redemption

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2014年8月24日日曜日礼拝 音声はhttp://youtu.be/PWfEayp-CBU

聖書箇所

マルコ15章1-41

夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。2 ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」3 そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。4 ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」5 それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。6 ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。7 たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢に入っていた。8 それで、群集は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。9 そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか」と言った。10 ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。11 しかし、祭司長たちは群集を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。12 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか」と言った。13 すると彼らはまたも「十字架につけろ」と叫んだ。14 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫んだ。15 それで、ピラトは群集のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、18 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。22 そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。28 (異本)「こうして『この人は罪人とともに数えられた』とある聖書が実現したのである」29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。40 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

今日の聖書箇所を皆さんで輪読しましょう。

★妬み・群集心理…罪

V1夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。Immediately, in the morning, the chief priests held a consultation with the elders and scribes and the whole council; and they bound Jesus, led Him away, and delivered Him to Pilate.

ユダヤ人たちは、イエス様を殺すことにしたかった。そして、当時は、ローマに支配されていたので、自分たちだけでは、死刑にできないので、ローマの総督ピラトのところにイエス様を連れて行ったのです。しかし、ピラトが尋問しても、イエスに死刑に値する罪は見当たらなかった。

皆さん、罪には刑罰が伴いますね。イエス様には、何の罪も見当たりませんでした。大変興味深いことに、実際に十字架の死に追いやったのは、祭司たち/宗教者たちでした。そして、その理由は、妬みからでした。イエス様は、大工の息子でありながら非常に権威があり、様々な奇跡をなし、自分たちの知らない御国の価値観を語り、多くの人々がイエス様を慕い、ついて行きました。イエス様は、一躍時の人でした。
祭司長たちの妬みは、人を殺すほどでした。

みなさん、妬みというのは、それほど強いものです。そして、妬みは必ず劣等感inferior complexの裏返しです。
私はクリスチャンカウンセリングをしますが、妬みの問題については、非常に注意深く取り扱います。妬みが強い人は、非常に解放に時間がかかります。とても根が深いのです。また妬みは、人を強く憎む傾向があります。それと同時に、自分の人生を好きにはなれません。大きな問題です。

聖書の中でも、十戒にもちゃんと書いてあります。出エジ20:17 「…すべてあなたがたの隣人のものを欲しがってはならない。」“You shall not covet your neighbor’s house; you shall not covet your neighbor’s wife, nor his male servant, nor his female servant, nor his ox, nor his donkey, nor anything that is your neighbor’s.”

また、聖書の一番初めに起きた殺人は、妬み故でした。カインとアベルの兄弟話し。創世記4章。カインがアベルを妬みから殺した。

妬みは、自分が相手の立場だったら良いという思いです。ですから、相手を殺してまで、その人の地位を取りたいという思いなのです。あなたがそれに気がついていようといまいと、そのように命を殺す力があるのです。

ピラトは、何とかこの罪の無いイエスを助けようと試みました。当時、過ぎ越しの祭りの日に、罪人を一人恩赦する慣わしとなっていたのをとって、イエスを釈放しようとしました。

V10 ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。For he knew that the chief priests had handed Him over because of envy.11 But the chief priests stirred up the crowd, so that he should rather release Barabbas to them.

V11-15しかし、祭司長たちは群集を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。12 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか」と言った。13 すると彼らはまたも「十字架につけろ」と叫んだ。14 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫んだ。15 それで、ピラトは群集のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。12 Pilate answered and said to them again, “What then do you want me to do with Him whom you call the King of the Jews?”13 So they cried out again, “Crucify Him!”14 Then Pilate said to them, “Why, what evil has He done?”But they cried out all the more, “Crucify Him!”15 So Pilate, wanting to gratify the crowd, released Barabbas to them; and he delivered Jesus, after he had scourged Him, to be crucified.

祭司長たちの世論操作は、相当のものでした。群集は、イエスを十字架にかけろ、極悪人バラバを釈放しろと要求しました。とうとう、ピラトは、群集からの人気を失いたくないので、イエスを十字架に掛け死刑にすることに決めます。

ここに、群集心理と言うものも、大きく働いています。人と言うのは、多くの人を敵に回したくないと、長いものに巻かれる、大勢の人の言うことに流されるのです。日本では、特にそれが多いのではないのでしょうか。人がどう思うか。それよりも、真理、真実に基づいて、ぶれない生き方をしたいものです。

★イエス様の反応

V5 それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。But Jesus still answered nothing, so that Pilate marveled.

全てを自分たちの思うがままに、操作をする祭司長たちとは、違い、イエス様は、自分で自分を正当化することも、守ることもありませんでした。ただ、黙り、もくもくと耐えておられました。

V23そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。 Then they gave Him wine mingled with myrrh to drink, but He did not take it.

あまりにも、痛みが激しく弱っていくイエス様に、没薬を混ぜ打ぶどう酒を飲ませようとしました。これはには、 麻酔の働きがあったからです。しかし、イエス様は受け付けなかった。それは、人の罪の刑罰の痛みを和らげることなく、そのまま受けるためであった。

神の御心に従う姿。神の良い計画に完全に信頼する姿。

人におとしめられたとき、このように神に信頼することができたらと思います。最終的に勝利させてくださる神に完全によりかかることができたら。

★傍観者たちの態度 ののしる人々

V29-32道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。And those who passed by blasphemed Him, wagging their heads and saying, “Aha! You who destroy the temple and build it in three days, 30 save Yourself, and come down from the cross!”31 Likewise the chief priests also, mocking among themselves with the scribes, said, “He saved others; Himself He cannot save. 32 Let the Christ, the King of Israel, descend now from the cross, that we may see and believe.”Even those who were crucified with Him reviled Him

十字架に掛けられるイエス様を見ている人たちは、イエス様をののしりました。自分たちに分かるように、自分を救って見せろと言いました。そうしたら信じてやると。
繰り返し言いますが、そのような態度の人たちには、神様からのしるしはありません。信仰のないところに救いは、ありません。分かるようにやって見せろではなく、信じる心が大切なのです。私たちは、いくら、このストーリーを知っていても、教会に足を運んでも、聖書を読んでも、傍観者であるかぎり、救いは体験できないのです。

十字架の傍観者ではなく、信じる者になりましょう。

★十字架を耐え忍び、死んだイエス様 … 贖いの完成

V37-38 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。And Jesus cried out with a loud voice, and breathed His last.38 Then the veil of the temple was torn in two from top to bottom.

他の聖書の箇所では、イエス様は、「完了した」It is finished! と叫ばれて死なれました。それは、贖いの業が終わった! 完成したということでした。しかし、なぜ罪の全く無い方が死ななければいけなかったのでしょうか。

イエス様の十字架の死は、あなたの罪の身代わりの死です。誰でも、罪ある者は、神様との交流を絶たれています。しかし、罪が取り除けられるならば、神様との交流が回復します。それだけではなく、永遠の命が与えられ、地獄ではなく、天国に入ることができます。

聖書に、ロマ6:23「罪からの来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。」For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord. 

ヘブル9:27,28「そして、人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることとが定まっているように、キリストも多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、…」And as it is appointed for men to die once, but after this the judgment, 28 so Christ was offered once to bear the sins of many.

とありますが、誰でも、自分の罪をイエス様が背負ってくださり、十字架で自分の罪と一緒に死んでくださった。すなわち、罪を贖ってくださったと信じるならば、赦されるのです。死後の捌きを免れるのです。

今日読んだとおり、イエス様は非常に苦しまれました。恥をかかされました。痛めつけられ、馬鹿にされました。誰でも、イエス様を信じるならば、どんな罪も赦されない罪はありません。また、ぬぐわれない恥はありません。癒されない病はありません。乗り越えられない苦しみはありません。

ただし、その罪の赦しを得るのは、私の罪もイエス様の十字架とともにつけられたと信じる人です。

あなたも、この十字架にかかられたイエス様を信じませんか。


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最高の礼拝 Superb worship

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2014年8月17日日曜日礼拝 音声はyoutube からhttp://youtu.be/Jf8oXDWUCc8 

聖書箇所

マルコ14:3-9

イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

先週、礼拝とは、イエス様の愛に感動して応答するものだ。イエス様の愛ありきの礼拝だということをお話ししましたね。

今週は、いよいよ、イエス様が捕らえられ連れて行かれる場面でした。14章の初めにも記されているとおり、もういつ捕らえられるかという緊張感の中にイエス様も弟子たちもいたのではないでしょうか。今日は、有名なナルドの香油を捧げた無名の女の話ですが、これが起きたのは、V3 らい病人シモンの家でした。

★どうしようもない私のところに来てくださるイエス様

今まで、読んでいてあまり気がつかなかったのですが、イエス様は、ご自分が捕まえられ、殺されるかも知れない時にも、病人の家を訪問しておられたのです。しかも、らい病人です。当時は、汚れたものとされ、誰も尋ねない家です。友達や家族から引き離されることも当然のことでした。また不治の病でしたから、どんどん進行する病気にどんなにか恐怖を感じていたことでしょうか。そのシモンの家をイエス様は訪れたのです。そして、ここが最高の礼拝の舞台となりました。

今日のお話しは、まさか、この人が神様を喜ばせることはできないだろう人々が思うような、二人の人物が中心になっているのです。らい病人というのは、当時の社会の敗者であり、どうしてもそこから這い上がることはできない立場でした。また、この名も記されていない女性は、イエス様に七つの悪霊を追い出された売春婦だとも言われていたり、またベタニヤのマリアであるとも言われています。いずれにしても、女性というのは、当時まったく身分の無い存在でしたから、まさか、この人が偉大なことをするとは考えられないことだったのです。

イエス様は、あなたのところに訪れてくださいます。たとえあなたが、人生のどん底にいようと、友達がいなくても、心の中に暗闇があっても、イエス様はあなたを探し出して、訪れてくださるのです。このイエス様を受け入れましょう。

★ナルドの香油 

らい病人シモンの家で、イエス様が食卓についているとき、一人の女が入ってきました。非常に高価なナルド油のつぼを持っていました。彼女は、それを割って、イエス様の頭に注ぎました。
この女性がなぜこのようなことをしたのかは、はっきり書かれてはいません。しかし、イエス様はりっぱだと誉められました。イエス様がりっぱだと誉められた人は、あまりいませんでした。百人隊長とカナン人の女くらいだった。

非常に高価な香油 … この香油は、三百デナリするものでした。人が一年働いた分くらいの金額です。

贈り物と愛… 贈り物というのは、相手を想って捧げられるもの。贈り物を見たら、送り手がどれほど相手を想っているか、また相手を知っているかが良く分かる。昨日は、エリックの誕生日でした。エリックは韓国料理が好きなので、韓国料理の店に連れて行きました。また日本語を習いたいので、CDのセットを前々から買って用意しました。相手を知っているから欲しいものが分かるのです。愛がそうさせます。また贈り物は、相手にふさわしいものを送ります。誰も天皇陛下にプレゼントするのに、その辺のお菓子をプレゼントする人はいません。値段も高くて良い品物を選ぶはずです。
この女性は、最高級の香油をイエス様に捧げました。愛の現れであり、高価な捧げ物でした。

イエス様のメッセージへの応答であった… イエス様は、ご自分が捕らえられ殺されることを三回は弟子たちに話している。弟子たちには、全くこのメッセージが心に入っていなかった。彼らの心は、自分たちのことでいっぱいであったからです。誰が一番出世するか、イエス様が政治的にイスラエルを治めてくれるのかなどといったことで頭がいっぱい。
しかし、この女性にとっては、もうすぐ捕らえられて殺されるイエス様に最高のものを捧げたかったという愛があった。
この行為は、埋葬の準備となり、また救い主である、彼女の心の王として認める油注ぎであった。

この香油は非常に高価な香油であるため、少しだけを使ってもよい香りがするものである。彼女は、つぼごと割って注いだので、その香りは、家全体に広がり、また、イエス様がゲッセマネで血の汗を流して祈られた時も、十字架を背負って歩かされた時も、十字架にかかられたその時もきっと香っていたに違いない。この女の捧げものが、イエス様の心をいかに慰めることとなっただろうか。

★弟子たちの反応

4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。

◎宗教との対立

弟子たちは、憤慨します。「高価な香油を無駄にしたと言った。」弟子たちには、イエス様の香油に勝る価値が見出せていなかった。イエス様の傍にはいたが、イエス様のことは理解してはいなかった。

弟子たちには、貧しい人に施すために売ったほうが、宗教的に正しいと見た。

しかし、イエス様は、言われた、。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

弟子たちは、神を喜ばせることを追及しようとしていた。宗教は、自分が神を助けることができると勘違いさせるものである。それは、行い重視するあまりに、目的と方法が逆転してしまうのです。

この女は、自分にできる最高の礼拝をイエス様に捧げたのでした。それは、頭で考えて、何が一番無駄がなく、神が喜ぶか考えたものではありません。

ただ、いつものように人からのけ者にされているらい病人シモンの家に訪れているイエス様、もうすぐいなくなっていしまうイエス様に対して、最大の愛を表現したのです。

最高の捧げものをしました。イエス様ご自身を喜び、愛していたのです。
神を喜ばせることが礼拝ではなく、神を喜ぶことが礼拝である。 弟子たちは貧しい人にその大金を施した方が神様は喜ぶと考えた。しかし、イエス様は、この女の礼拝をりっぱだと誉めた

あなたが神を喜ぶときに、最高の礼拝を捧げることができる。

★福音の行くところどこにでも 

世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

礼拝は切り離せない。神ご自身を喜ぶことは切り離せない。これから、聖霊降臨後、福音宣教がどんどん広がります。弟子たちは、イエス様に対する愛ゆえに犠牲を払って、外国に出ていきます。その最高の捧げ物・犠牲が無ければ、イエス様の愛への応答がなければ、福音宣教は進まなかった。イエス様を愛して、最高のものを捧げるという行為が、福音宣教を前進させるのです。

福音には、このような礼拝が要求される。福音には、そのような価値がある。


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愛する To Love

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2014年8月10日日曜日礼拝 音声は、youtube http://youtu.be/m49cHlxrHpU

マルコ12:28-34

28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにはありません。」32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。33 また、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。

宗教というのは、自分を高めるため、自分に利益が来るため、または、自分が高まって神の一人になるためにするものである。しかし、キリスト教では、少し、違う。先週も受け入れるとか、捨てなければならないことを話しましたが、これは、世の宗教のコンセプトと違うものです。キリスト教の特徴は、今日読んだ御言葉に現れているのではないでしょうか。

聖書を要約するならば、この言葉に尽きます。「神を愛し、人を愛す。」これが聖書の教えです。私たちは、時々、忘れてしまいそうになるのではないでしょうか。

★キリスト者の特徴は、愛すること

Ⅰヨハネ4:8-13 12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。No one has seen God at any time. If we love one another, God abides in us, and His love has been perfected in us.

★愛するとは

Ⅰコリント13:4-7 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

★愛とは与えるものである

愛と言う言葉は、ギリシャ語で、アガペー これは、一方通行の愛です。神から私たちへの愛です。例えば友愛はフィレオー、これは友情ですから、行ったり来たり二方向です。もう一つ、エロスこれは、男女間の愛、肉体の愛。これも二方向です。
アガペーと表現されている、この愛は、私たちから誰かに与える愛なのです。私たちは、特に若いときには、愛は、受けるものだと考え、愛を探して生きるようなことがあります。友達の中に探そうとしたり、恋人の中に探そうとしたり。。。けれども、人は、愛することができたとき、すなわち与え続ける愛が人を祝福するときが一番幸せなのです。お母さんは、自分を犠牲にしていても、幸せを感じるのです。夫は、毎日職場で苦労しても愛する家族を養うときに幸せを感じるのです。

★自分を愛するように隣人を愛する‘You shall love your neighbor as yourself.’

この世の中は、人から愛を奪おうとする世の中ですから、人を愛することに混乱があるのはもちろんですが、聖書には、「自分を愛するように」愛せ、と書いてあります。さて、どのくらいの人が自分のことをよく理解し、受け入れ、愛しているでしょうか。自分を認めているでしょうか。自己充足しているでしょうか。まず、自分が神様のうちに憩い、自分が何者であるかを知り、自分がどんなに神様に素晴らしく造られているかが分からないのならば、他人をどう愛したらいいのか、分かりません。ですから、今度の七つの賜物セミナーは、大変意義のある物ですから、皆さんにお勧めしているわけです。現代は、自分を知らない、自分を愛せない病で満ちています。

しかし、ここに朗報があります。

★この愛は、私たちの救い主イエス・キリストに完全に現れている

ローマ5: 8

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
私たちが愛を語るには、キリストなしには、語ることができません。この御言葉にあるように、私たちが何か良いことをしたから、何か基準を満たしたからではなく、むしろ、私たちがまだ罪人で、罪について、神について何も分からないときに、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったのです。これほど大きな愛はありません。

★神の愛への私たちの応答…心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして    with all your heart, with all your soul, with all your mind, and with all your strength.

愛することは、自然には難しい。母が子を愛することのみは自然なことです。夫婦、兄弟、親子でも難しい。キリストの愛の土台に無いならば、愛することは分からない。また、愛することは難しい。

けれども、聖書は、心、思い、知性、力を尽くして神を愛せと言っています。それは、不可能に近いですね。よく、そう書いてあるから、毎日毎秒、神を思い捧げという人もいますが、よっぽど隔離された世界で生きなければ難しいですよね。
これは、キリストと一つにならなければ不可能です。キリストと一つであるならば、全てをキリストと共有しながら生きれます。これがヨハネ15章に書いてある、キリストに留まるということです。キリストの愛に満たされることが第一。
キリストの愛に満たされたならば、その溢れる愛は、自分を出て行って、誰かを愛したくなる。この愛を誰かに渡したくなるものです。
しかし、一つになるためには、罪を悔い改め、キリストととともに歩まなければなりません。

★「あなたは神の国から遠くない。」“You are not far from the kingdom of God.”

質問をした律法学者は、イエス様にこういわれました。全てのことを完璧に理解している、神様のこと理解できている。けれども、まだ神の御国には入っていない。でも、遠くない。もうそこまで来ていると。
この律法学者に必要だったのは、悔い改めでした。悔い改めて、イエスの愛のうちに留まることでした。




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御国に入るために To enter the Kingdom of God

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2014年8月3日日曜日礼拝 音声はyoutubeからhttp://youtu.be/7OSWlc2fO1g

音声と書いたものは若干違う場合があります。語っているときに、聖霊様からいろいろとダウンロードしながら語るからです。ぜひ、オーディオの方も訪れてください。バイリンガルなので、英語が聞きづらいと思いますが。。。。

マルコ10:13-27

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
今日の箇所で、イエス様は、神の御国に入るために必要なことを語られました。救いを受けるためにも必要ですし、この地上で神の御国の中を歩み続けるためにも必要です。

★ 子どものように受け入れる

イエス様にさわってもらおうとして、子どもたちがイエス様のところにやってきました。すると弟子たちが止めました。そこでイエス様は、言われました。。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」“Let the little children come to Me, and do not forbid them; for of such is the kingdom of God. 15 Assuredly, I say to you, whoever does not receive the kingdom of God as a little child will by no means enter it.”

神の国は、このような者たちのものです。For of such is the kingdom of God. と。

子どもとは、どのようなものでしょうか。私たちは、子どもらしいということは、決して大人になっては誉め言葉ではありません。しかし、イエス様は、子どものようになれと言われます。では、子どものどのような性質が必要とされているのでしょうか。

① 非理性的であること irrational

違う言葉で言えば、様々な道理reasonが彼らの行動を制限しないということです。大人は、どうでしょうか。いろいろと頭で計算して、道理で判断し、また人にどう見られるかを気にして、「これはやめておこう。」と言うのです。説教者ジョセフ・ガーリントンの信仰ついてのメッセージで私の好きなフレーズがあります。”Get the ‘how’ out of here.” 「どうやってと考えることを辞めろ」というものです。道理、方法にこだわっている限り、信仰はないのです。信仰がなければ、神の国に入ることはできません。聖書は信仰についてこう言っています。「信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。」Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. ヘブル11:1

② 純粋である Pureness

子どもは失敗を恐れません。やってみたいという気持ちの方が強いのです。その気持ちは、夢から来るのです。目の前の現実よりも夢を重要視します。子どもは、非常に理想主義者です。完全主義者でもあります。善があるなら、善を通したらいいと考えています。真剣に世の中のみんなが仲良くしたらいいと信じています。大人は、今の現状と経験から判断して、妥協をすることを奨め、そして、理想をあきらめ、そして、失敗を恐れます。子どものような純粋さを失うならば、私たちに夢はありません。夢が無いなら、よりよい現実はありえません。聖書は信仰についてこう言っています。「信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。」Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. ヘブル11:1

さあ、私たちは、子どものような資質を持っているでしょうか。御国を体験し続けるには、この資質がなくてはなりません。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。
子どもたちは、道理ではなく、信仰で御国を受け入れます。また恐れなく、現状に捕らわれず、自分の夢、理想にしたがって御国を受け取ります。

★ 自分に纏わりつくものを捨てる

また、イエス様のところに一人の正しい青年がやってきました。どのようにしたら永遠のいのちを得ることができるだろうか。聖書に書かれていることは守っているというのです。イエス様は、v21「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」“One thing you lack: Go your way, sell whatever you have and give to the poor, and you will have treasure in heaven; and come, take up the cross, and follow Me.”

この青年は、正しい人であったにも関わらず、宗教の域を超えていませんでした。もう一度言います、宗教は、自分で業をして神に到達しようとするものです。彼は、律法を守っていました。しかし、守るということで、自分の達成感を得ていたのでした。しかし、永遠のいのちに関する確証をこころに持つことがありませんでした。それは、なぜでしょうか?

イエス様は、この青年に、財産を手放すように言われました。それから、イエス様についていくことを。

神の国は、どれだけ達成したかで入れるのではありません。神の国は、どれだけ神を信頼しているかによります。自分の業ではなく、信仰によって入るのです。
どれだけ達成するかが問題であるなら、このような疑問がでてくることでしょう。自分は、ここまでしているのに、どうして神は私をかえりみてくれないのだろう。神は、私に答えてくれない。などと。私たちもこのような思いになることがあるのではないでしょうか。これは、自我です。達成することで、神の好意を得ようとしてるのです。また、自分の思うとおりに結果をだそうというわがまま/自我です。イエス様は、この青年のこの部分を取り扱いたかったのです。

この青年は、多くの財産を持っていました。人は、多く持っていると、けちになります。あるテレビ番組で実験していました。レストランに行って、人に食べもをくれるように願っても、誰もくれません。でも、たった今、食べるものを道行く人にもらった道端のホームレスに食べ物を求めたら、そのホームレスは持っているものの半分を分けてあげました。人は、持てば持つほど、持っているものに執着するものです。
この青年にとっては、富は、手放すことが難しかったのです。

神の国に入るには、何かを捨てなければ入れません。
それは、自分の中で一番大切にしているもの。神より大切にしている偶像です。また、自分のわがままな心です。自我です。これらを捨てて、イエス様についていかなければ、神の国に入ることはできません。

また、神の国の働きをするなら、このような生き方を要求されます。

★御国のメッセージ …「どんなことでも神にはできるのです。」

そのあと、イエス様は言われます。V24 「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」“Children, how hard it is for those who trust in riches to enter the kingdom of God! 25 It is easier for a camel to go through the eye of a needle than for a rich man to enter the kingdom of God.” 26 And they were greatly astonished, saying among themselves, “Who then can be saved?” 27 But Jesus looked at them and said, “With men it is impossible, but not with God; for with God all things are possible.”

人にはできないが、神にはできる。これが、私たちへのメッセージです。Get the “how” out of here. です。道理ではなく、神にはできるといわれる、神様に信頼しましょう。

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