空 vs 喜び Vanity vs Joy
10月
8日
書いたものより音声の方が、いいので、ぜひ音声を聞いてみてください。
今週は、伝道者の書一章、二章
伝道1:1-11を読みましょう。
エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
4 一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
5 日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。
6 風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることはない。川は流れ込む所に、また流れる。
8 すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。9 昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下に新しいものは一つもない。
10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。11 先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。
伝道者のテーマは、
人生における価値の探求 / 不死の確かな希望がなければ地上の生活はむなしい
伝道者の書は、ソロモンの晩年の作。本書の主題である「空の空」全ては空。37回も言っている。 この書の思想的鍵は、「永遠」 永遠への思いは、この世のものでは満たされない。 快楽、富、知識、労働、労苦、地位。。。。何をもってしても埋めることはできない。だから空しい。と。
★空の空
「空」 というのは、この世の世界観である。また、仏教に通ずる思想でもある。アメリカでも仏教が流行っている。なぜ、多くの人の関心を引くのか。それは、人々が共感しやすいからである。釈迦は、空の価値観と、空の世界の中で、必死で悟りを得ようと人間的力を振り絞って修行した人です。しかし、人を「空」の価値観から解放するだけの真理には到達できませんでした。
ソロモンは、全てを持っている人でした。そして、神様からいただいた知恵のある人でありました。しかし、彼は多くの章をさいて、いかに、世の中のものごとがむなしいかについて語っています。
自然界の繰り返し、知恵と、知識、快楽、事業、労苦、全てさだめられた時、富、幸せが来ない、人生の短さ、等々。。。
私が、クリスチャンになるきっかけとなったのは、就職してしばらくしてからのことでした。「私は、このまま、この職場でどれくらい働くのだろう。私は、この先どうなるのだろう。平凡に結婚するのだろうか。結婚し、子どもを育て、そして、死んでいくのだろうか。」などと考えました。ちょうど、祖母が亡くなった年でもありました。
先が見えてしまった。先を見て全てがむなしく感じたのです。だからといって、毎日少しの楽しみのために、お酒を飲んだところで、欲しいものを買ったところで、むなしさはなくなるような気がしませんでした。
これが、世の中の本当の声ではないでしょうか。
確かに、ソロモンの言っている、空の空。全ては空。ということは、本当です。
★「喜び」新約聖書のキリスト者の見方。。。
それどころか艱難さえも喜んでいます。ロマ5章3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。Not only that, but we rejoice in our sufferings, (ESV)
聖書の中には、たくさん「喜び」が出てきます。主にあっていつも喜んでいなさい。Rejoice in the Lord always. 御霊の実は、愛、喜び、平安。。。イエス様も、祈るのは、あなたがたの喜びが満ち溢れるためだと言っていますね。that your joy may be full.
★伝道者の書を読み解く鍵は、「永遠」
◎「喜び」と永遠との関連性
ヘブル12:2 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。looking to Jesus, the founder and perfecter of our faith, who for the joy that was set before him endured the cross, despising the shame, and is seated at the right hand of the throne of God.
この御言葉が何を語っているでしょうか。
① 永遠が存在する。…地上の命が全てではない。十字架の死の向こうの世界がある。ということ。
② 喜びという報酬がある。… イエス様の報酬は、喜びでした。地位でも、名声でも富でも、幸せでもなかった。人間が一生懸命得ようとするような報酬ではなかった。
また、イエス様の短い人生は、死ぬために生まれてきたような、決して人間的にきらびやかな生き方ではなかったが、そこに、満足と喜びがあった。
◎「喜び」というものは、天の通貨のようなもの。
「喜び」は永遠の父なる神と切り離されたところでは味わえない。
世の「喜び」と徹底的に違うのは、「父なる神様との共有」と「父への徹底的な依存」にあります。空の空の世界を全てのことをやりつくし、栄華を極めたソロモンは、探求したすべてがむなしかったというのです。それは、世と言うものは、すべて自分に向いているからです。自分の達成感で物事をやり遂げた時には、喜びがあるでしょう。しかし、その喜びというものは、むなしく消え去っていきます。十分ではないのです。
a) 父なる神様との共有
ヨハネ15:11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。“These things I have spoken to you, that My joy may remain in you, and that your joy may be full.
神様の御心を成すときに、必ず報酬がある。その食物のようなもの。おいしい食べ物は、また食べたいと思うでしょう。神様を愛するように導く食物。喜びがある。喜びがある人は神様をさらに探求するに至る。
ただ、自分のやりたいことを実現させる、達成させる。自分のミニストリーをやるのではない。「遣わされた方のみこころ」を行うことである。今日、神様の御心がどこにあるのだろうか。ということに気をとめて日々生きたいものだ。天の「喜び」と言うものは、自分だけのものではなく、父なる神と共有するものである。
b) 徹底的な依存
祈りについて、次のように書かれている箇所がある。
ヨハネ15:7
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。If you abide in me, and my words abide in you, ask whatever you wish, and it will be done for you.
ヨハネ15:11
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。“These things I have spoken to you, that My joy may remain in you, and that your joy may be full.
祈りが聞かれるのは、私たちに喜びが満ちるためである。また、父なる神もまた祈りを私たちに聞くことで喜びが溢れるという。
私たちは、信仰生活の中でなぜ喜びが少ないのか。なぜ、祈りの生活に喜びが無いのか。
一つは、やはり、神の声を聞いて従う。というより、形にとらわれている。信仰生活が宗教的儀式になってしまっている場合。また祈りについては、祈っても応えられない。大体、祈っていることの大部分は、もう応えられていることが多いい。あとは、信じて、その通りに行動したらいい。まだ、応えられていないことのために祈りましょう。まだ、自分の知らないことを神様に祈って聞いてみたりしてはいかがでしょうか。
◎「喜び」があるなら、この世のものは、空ではない。
ヨハネ4:32、34
イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。・・・イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」 But He said to them, “I have food to eat of which you do not know.”……..34 Jesus said to them, “My food is to do the will of Him who sent Me, and to finish His work.
この食べ物は父の喜びです。この喜びがあるならば、空の空と言われるこの世の中で。空しく生きる必要はありません。この喜びをともに味わいながら生きて行きましょう。
ぼ