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福音のはじめ The beginning of the gospel

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2014年7月5日日曜日礼拝 音声はyoutube よりhttp://youtu.be/5qHZGm0C0vY

聖書箇所
マルコ1章1-4, 14-15 

マルコ1章1-4 
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

マルコ1章14-15 
ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

●背景 

 四福音書にはそれぞれ、テーマと誰宛に書いているかが違いますが、マルコは、「しもべとしてのキリストが描かれている。」また、異邦人に向けられて書かれている。ですから、今までの律法や、神の知識なしに読む人が分かるようにかかれている。神の知識の無い異邦人、日本人もそうですが、何が彼らを信じるに至らしめるのでしょうか。それは、やはり、力。キリストが一体わたしに何をしたのか。私と個人的にどんな関係があるのか。わたしは、イエス様のされたことを見て、この方を好むか。さあ、一緒に読んでいきましょう。

●福音の初めは、信じることではなく、悔い改めることであった。

バプテスマのヨハネが悔い改めを説き、バプテスマを授けていた。また、イエス様も、「悔い改めて、福音を信じなさい。」と言われた。私たちは、福音と聞くとき、信じないと救われない、と思うのではないでしょうか。実のところ、悔い改めないと救いはない。福音を受け取ることはないのです。

●福音とは

キリストのついての啓示、教え。良い知らせ、救いのためのニュース、イエス・キリストのなさったこと
〇福音 evaggelion ユアンゲリオン ギリシャ語

●悔い改めとは

〇悔い改め メタノイア ギリシャ語  考えが変わること。悔い改めた人は、その人の行動の目的が変わるので、行動の変化が見れる。

罪から180度方向転換し、反対方向に歩み始めること。

私たちは、なぜ、悔い改めるのでしょうか。赦されるために悔い改めるのでしょうか。それても、救われたいから悔い改めるのでしょうか。
これは、神を恐れることを抜きには語れません。

○「神を恐れること」とは

それは、罪が示されたから、罪を徹底的に自分から話す必要があるからです。また、神を敬うがゆえに悔い改めるといってもいいでしょう。神が分からない人は、悔い改めが分かりません。人に迷惑をかけていないなら、また人に責められていないなら、自分の罪もあって仕方がないと思うのが人の考えです。しかし、神の存在を認め、神を敬う人は、「神の愛することを愛し、神の憎むことを憎む」のです。ですから、神の水準に合わせて、自分を吟味し、罪が認められたら、自分から手放したいと思うのです。
ですから、私たちは、悔い改めるのです。
そして、罪とは真逆の方向に歩みはじめるのです。

私の証し…

教会に来るまで、漠然と私は罪ある人間だとは分かってた。悪い人間だと。しかし、警察に捕まるようなことはしていないので、罪人だとは思ってなかった。教会に行きはじめ、神様のことを信じるようになった。神様の愛に触れられて、もっと神様に近づきたいと思った。また、一方で、今まで分からなかった私の罪、というより、罪の根源、根っこのようなものに悩むようになった。教会の人たちと接したり、聖書の話を聞くたびに、心がちくちく痛んだ。そして、完全にそれらを手放したいと思うところまで至った。

しかし、ある人たちは、心がちくちくするので、教会に行くのをやめて、前の生活、心の痛まない生活に戻る人たちもいます。心がちくちくすることは、よいことなのです。それが無ければ悔い改めに導かれないからです。もしも、心が罪を示されてちくちくするなら、手放すことをすればいいのです。それが悔い改めです。

それでは、質問します。あなたは、悔い改めましたか。あなたは、悔い改めの経験を持ちますか。今も悔い改めていますか?

神を恐れることの正反対が宗教です。

宗教とは、自分の力で神に到達しようとする努力です。宗教には神への怖れがありません。自分の力で到達しようとしているのですから。宗教は、人を変えません。自分の精進のための努力が増すだけです。しかし、神を恐れるところからくる、啓示、そして、その啓示への応答、すなわち、悔い改めは人を全く変えます。
あなたの考え方が変わるからです。考えが変わると私たちの態度が変わり、私たちの態度が変わると私たちの行動が変わるからです。また、素晴らしいことは、神様は、心で悔い改めた人には、それを真逆の行動に移す時、それができるように助けて下さるのです。それが、キリスト者のもっとも身近な奇跡です。

私たちの行動が変わっているでしょうか。もしも、教会に通っていない人と、同じことで悩んだり文句を言っているのだったら、私たちの行動は変わっていません。ということは、私たちの考えが変わっていないのでしょう。すなわち、悔い改めに導く啓示がない。ひいては、神を恐れていないといえるでしょう。

●「時が満ち、神の国は近くなった。」神の国に入ること

神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさいとイエスは言われました。すなわち、悔い改めなければ、神の国には入れないということです。神の国とは何でしょうか。国ですから、王である神が完全に支配されている場所であり、病もなく悲しみもなく、涙はすべて完全に慰め主なる神にぬぐってもらえる場所です。

イエス様は、ヨハネの三章でニコデモにこう言っています。ヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」3 Jesus replied, “Very truly I tell you, no one can see the kingdom of God unless they are born again.”

新しく生まれなければ、神の国は見ることができない。見えないというのです。私たちは、悔い改めるとき、何が起きるかというと、Mind/考え/心の刷新が起きます。考えが180度変革します。そして、この世の領域から、神の領域に考えが移されるのです。そして、今まで見えなかったものが見えるようになるのです。まるで新しい人になったかのようです。考えというものは、私たちの行動を支配しているからです。

例: 文化の例。ある文化の中に生きていたら、その文化の範囲を超えてみるということはなかなかできない。アメリカに来た頃、自己主張をすることが本当に難しかった。自分でなくなるような感じがした。文化の殻を破っていく必要があった。私たちのマインドも、調度そのようです。考え方を変えるというのは、本当は非常な労力がいるものなのです。

ですから、神の国というのは、古い人・古い文化しか分からない人にはには見えないというのです。

そして、神の国に入ること、これこそが神様の私たちに提供している生き方なのです。イエス様も言われました。「神の国が近づいた」と。世の文化から、神の国の文化に入りましょう。と招かれている。

イエス様の意図している悔い改めは、罪から離れるだけではなく、神の国に入る、神の国を見ることができる両方の意味を持っているのです。

これが、福音のはじめだとしてマルコ書に記されています。マルコ書は、仕える姿で来られたイエスキリストの業が多く記されています。これらは、神の国を表しています。

私たちも、神を恐れ、日々、形だけでの信仰ではなく、悔い改め、考え方が刷新され、神の国の業をイエス様とともにこの世にもたらすものとなりましょう。


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