2015年2月8日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/u22jqevk9pE
ヨハネ8章 1-12
1 イエスはオリーブ山に行かれた。2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
★敵(悪魔)の策略
6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。6 This they said, testing Him, that they might have something of which to accuse Him.
律法学者とパリサイ人は、何とかして、人気のあり優しく権威に満ちたイエス様の働きをやめさせたかった。イエス様を牢屋にぶち込みたかった。何とかあらを探そうとしていた。そして、彼らは、イエス様をわなに掛けることに決めた。
彼らは、姦淫の現場で女を引きづり出した。不倫の現場に行って、現行犯で女だけを捕まえてきたのだ。当時の律法では、このようなことをするものは、男女両方とも石打の刑で殺されるはずだ。男性は、いったいどこに行ったのだろうか。
今まで、罪人と食事をし、罪を赦し、病人を癒してきたイエス様。病気も罪原因、また汚れているとみなされていた。そのまるで罪に甘く見えるイエス様が今度はなんと言うかと試したのです。
もしも、簡単に赦したら、律法、聖書の教えを軽んじることに、また裁き、目の前で石打の刑にするなら死刑件を持たないのでローマ帝国に対する越権行為となります。どっちに転んでもイエス様を告発できる材料になると考えたのです。
告発するのが、彼らの目的です。
これは、サタンの性質に非常に似ています。サタンは、わたしたちを罪に訴え、罪悪感を持たせ、恥を持たせようとしてきます。そして、自滅に追い込もうとするのです。クリスチャンであっても、恵みの法則を知らないなら、この落とし穴に入ってしまいます。
★罪
罪の自覚が恵みへの飢え渇きをもたらす。
この女は、不倫の現場で捉えられたため、その辺のものを身にまとい髪は乱れ、なんとも無残な姿で人々の前に座らされていただろう。誰の目にも彼女は罪人である。人の視線が突き刺さる。そして、現行犯だから、石打の刑で死ぬことは決まっている。このような恥を人の前でさらされるならいっそのこと、今殺して欲しいと思ったに違いない。彼女は、自分の罪と直面していた。そして、死を目前にして、どうしてこんな人生をたどるようになってしまったのかと、その罪の原因を見つけていたことだろう。しかし、もはや、救われる余地はなかった。
彼女にとっては、自分の罪への対決・直視が、真の意味で自分自身を知ることであり、恵みのはじめ、恵みの認識の第一歩となったのである。
★まさかの赦し
V6….しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。This they said, testing Him, that they might have something of which to accuse Him. But Jesus stooped down and wrote on the ground with His finger, as though He did not hear. 7 So when they continued asking Him, He raised Himself up and said to them, “He who is without sin among you, let him throw a stone at her first.” 8 And again He stooped down and wrote on the ground.
イエス様は、指で地面に何か書かれたとあります。ある人は、姦淫の女を責めていてる人たちの罪を一つ一つ書いていたとも言い、ある人は、恵みについて書いていた。。。とも言います。本当は、何を書いていたのでしょうか。イエス様の、このポウズ、一呼吸あいたところに、人々の心に光が当てられたようです。イエス様のおられるところに、臨在のあるところに心に気づきが与えられるものです。being convicted by their conscience
「罪の無いものが最初に、彼女に石を投げなさい。」
この言葉は、この女の心も、責めている人の心も刺し通しました。
一人また一人と、去っていきました。最後にイエス様だけが、残りました。イエス・キリストは完全な神であり、完全な人であります。聖く、罪の犯したことの無い方です。イエス様だけが、この女に石を投げることができたのです。
女は、死の宣告をされ、びくびくしていたでしょう。今石が飛んでくるかと身をすくめていたでしょう。そして、それは、当然のことであったのです。
イエス様と、この女は、二人だけで向き合いました。
私たちは、みな、一度死に死後に裁きを受けることが定められています。(聖書) 生きているときに、彼女のようにイエス様と一対一で向きあうことがなかったとしても、必ず、死後に向き合い、生前の罪に対して申しひらきをしなければならないのです。
しかし、聖書は次のように言っています。
ヨハネ3:16-17
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life. 17 For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him.
イエス様が来られたのは、わたしたちを裁いて滅ぼすために来たのではなく、救うために来られたのです。
★恵みの生活への招き
ところが、イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」“Neither do I condemn you; go and sin no more.”
この女は、命を取り戻しました。イエス様と一対一で向き合い、自分の罪を赦していただいたのです。
恵みのdefinition …恵みとは、わたしたちが価しない、全くのプレゼントです。
彼女が生きることは、全くの贈り物なのです。これが、イエス・キリストの与える私たちへの命なのです。私たちは、人生をやり直すことができるのです。私たちは、新しい命をいただいて生きることができるのです。これが、私たちの最大の感謝です。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」“Neither do I condemn you; go and sin no more.”
イエス様は、恵みの生活へ招いておられます。あなたの罪は、赦された、だから行って、今度は決して罪を犯さないように。
彼女は、自分の罪を手放すことができた。
彼女は、文字通り肉体の命が救われた。助けられた。そして、もう一つ、心の奥底、霊にも命を取り戻したのです。彼女は、天国につづく永遠の命をいただいたのです。これからは、罪を犯さずに歩んでいこうという新しい恵みの生活に招き入れられました。
みなさん、罪と言うのは、なぜ、やめられないかと言うと、罪を愛しているからやめられないのです。罪を犯すことによって、自分自身への何らかの見返りがあるから、みな罪を犯すのです。どうしても彼女が姦淫の罪をやめられなかった。それは、悲しみ、苦しみ、寂しさ、幼いときのトラウマ、を紛らわすためだったかも知れません。また、何かの復讐心からそれをしていたのかもしれません。罪には、根っこの問題があるのです。それを皆隠したり、紛らわしたりするために罪を犯すのです。そして、そこから離れられなくなる。
しかし、死を目の前に突きつけられたとき、彼女は、罪を手放すことができました。
恵みの生活に招きいれられたのです。
イエスはまた彼らに語って言われた。V12「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」12 Then Jesus spoke to them again, saying, “I am the light of the world. He who follows Me shall not walk in darkness, but have the light of life.”
恵みの生活とは、光の中を歩むことである。死の束縛から解放されたのだから、人生全てをキリストに捧げて生きるという世界。自発的に愛からキリストに従うという人生。罪の奴隷から解放されるが、律法や善悪、決まりごと、宗教の奴隷となり、主人が変わるだけの奴隷ではない。自由の中を歩むことだ。これが恵みの法則。人生丸ごと神様に捧げる。
結婚関係のようなもの。相手を愛しているなら全てのことは正しい。律法のイラストレーション。旅行から帰ってきて、迎えに来た妻にキスをするべきか、ハグだけにするべきか、どこにキスをするべきかなどと悩んでいる人がいたとする。愛して結婚しているのだから、これらに関して悩むことは、全て間違い。愛してすることは、全て正解。また二人の関係の中で育ててきたものがある。その流れでオッケー。
もう、律法に縛られることはなく、死と刑罰を恐れる生活ではない。愛による生活です。
聖書の中に次のような言葉があります。
ロマ5:20-21
20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。Moreover the law entered that the offense might abound. But where sin abounded, grace abounded much more, 21 so that as sin reigned in death, even so grace might reign through righteousness to eternal life through Jesus Christ our Lord.
ロマ2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。Or do you despise the riches of His goodness, forbearance, and longsuffering, not knowing that the goodness of God leads you to repentance?
神の優しさがわたしたちを悔い改めに導きます。イエス様は、あなたを裁くために来られませんでした。救うためです。手を広げて待っておられます。
恵みの生活を受け取りましょう。
ぼ
今週日曜日のメッセージの聖書箇所です。
今週の記事は、とても有名な姦淫の女の箇所です。
来週またここからのメッセージをのせます。
みなさんは、この箇所を読んだことがありますか?
読まれて、どんな感想を持つでしょうか?
ヨハネ8章 1-12
1 イエスはオリーブ山に行かれた。2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」〕12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
But Jesus went to the Mount of Olives.2 Now early in the morning He came again into the temple, and all the people came to Him; and He sat down and taught them. 3 Then the scribes and Pharisees brought to Him a woman caught in adultery. And when they had set her in the midst, 4 they said to Him, “Teacher, this woman was caught in adultery, in the very act. 5 Now Moses, in the law, commanded us that such should be stoned. But what do You say?” 6 This they said, testing Him, that they might have something of which to accuse Him. But Jesus stooped down and wrote on the ground with His finger, as though He did not hear. 7 So when they continued asking Him, He raised Himself up and said to them, “He who is without sin among you, let him throw a stone at her first.” 8 And again He stooped down and wrote on the ground. 9 Then those who heard it, being convicted by their conscience, went out one by one, beginning with the oldest even to the last. And Jesus was left alone, and the woman standing in the midst. 10 When Jesus had raised Himself up and saw no one but the woman, He said to her, “Woman, where are those accusers of yours? Has no one condemned you?”11 She said, “No one, Lord.” And Jesus said to her, “Neither do I condemn you; go and sin no more.”12 Then Jesus spoke to them again, saying, “I am the light of the world. He who follows Me shall not walk in darkness, but have the light of life.”
ぼ
今日、興味深い記事を読みました。
リンクは、こちら http://matome.naver.jp/odai/2135018587581844401
日本は、自殺者が多いことが世界でも有名です。しかし、近年、韓国がその数をはるかに上回っていると他の記事から読んで認識していました。
が、実は、そうではなかったようです。
日本では、遺書が書かれている原因不明の死のみ、自殺とカウントするのだそうです。
また、二十代、三十代の若者の死で、死因の第一位は、自殺なんだそうです。
海外の皆さんにも、よく日本を訪問して言われることがあります。日本は、とても歴史があり、古いものと新しいものが融合したとてもおもしろい世界。景色も美しく、街も綺麗に掃除されている。人々は、みな親切で正直だ。。。けれども、電車の中でみる人たちの顔に生気がない。みな希望のない表情をしている。それを見ると辛い。。。と。
この自殺者・死因不明死の数の多さ。。。。
心が痛みます。
小さい箱からでては、たたかれてしまう社会。人と違っていては、変な目で見られる。。。
自己主張ができない。
自分らしく生きられない。
器用な人が得をする。不器用なら輪に溶け込みきれない。。。輪がなければ、いきづらい。。。
そういう世の中でしょうか。
日本人の人たち。自分を愛してほしい。自分のユニークさ素晴らしさを楽しんで生きて欲しい。どうどうと、自己主張して自分の考えに自信をもって生きて欲しい。
自由の中を生きて欲しい。
心が解放されてほしい。。。。
と、願います。
この記事は、とってもショックでした。
日本に希望を!! 心に悩みを持っている方々に光を!
と今日も祈ります。
ぼ
2015年2月1日日曜日礼拝音声は、http://youtu.be/F-CcCMEIvL8
ヨハネ7章
V1-2
その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。After these things Jesus walked in Galilee; for He did not want to walk in Judea, because the Jews sought to kill Him. 2 Now the Jews’ Feast of Tabernacles was at hand.
V37-39
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。On the last day, that great day of the feast, Jesus stood and cried out, saying, “If anyone thirsts, let him come to Me and drink. 38 He who believes in Me, as the Scripture has said, out of his heart will flow rivers of living water.” 39 But this He spoke concerning the Spirit, whom those believing in Him would receive; for the Holy Spirit was not yet given, because Jesus was not yet glorified.
背景は、仮庵のまつりのとき
★仮庵の祭りについて
仮庵の祭りは、イスラエル三代祭りの一つで、最も喜びに満ちた祭りです。収穫の時期でもあり、収穫を祝い次の年の豊作も願いながらの祭り。イスラエル人が出エジプト後、40年間荒野でテント暮らしをしていたことを記念する祭り。
人は肉体という「仮庵」に 70~90年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える一週間としてお祝いしているということです。
祭りは、過去のことを覚えるだけでなく、未来に起きることを期待しても行われる。イスラエルの全ての祭りは将来起こるであろうことの意味が含まれている。
仮庵は、主イエスが地上に来られた事を象徴する祭りでもあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネによる福音書1章14節)この「住まわれた」は、「仮庵となられた」ということを意味します。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事により、神と人との和解をもたらされました。仮庵の祭りは、和解の祭りでもあります。
また、世の終わりの時、キリストの再臨を示すものです。
★祭りの特徴
安息から始まり、安息で終わる8日間の祭り
◎テント…実際に、荒野でのテント生活を思い出して、テントで寝泊りする。また、肉体は仮の住まい、地上での生活は仮の住まいであることを味わう。またやがて再臨されるイエス・キリストとともに住むことを思いめぐらす。
◎踊り…仮庵の祭りの特色は、喜びです。祭司たち、宗教指導者たちがリードして踊りました。マイム・マイムの原点になりました。町中に踊りの輪が広がるそうです。なんという喜びにあふれた光景でしょうか。躍り上がって喜ぶという言葉がありますが、踊りは、私たちの喜びの一番の表現ですね。
◎水くみ…喜び溢れるこの祭りの頂点となるのは、水汲みの儀式です。シロアムの池から水をくみ上げ、神殿に運び上げるというものです。また、収穫の時期ですから、来年の雨乞いの意味も込められているそうです。
★型と本物
先に述べたとおりこの祭りは、将来実際に来る、本物のことと比べて、本物を象徴する型であります。クッキーの型を見れば、焼き上がりの本物のクッキーを想像できます。それと同じように、型は本物の影です。本物が本当の意味を持つのです。
今日の聖書の箇所は、ちょうどこの仮庵の祭りのときのことです。イエス様が祭りに来られました。そして、一年のうち一番喜びに溢れ、踊りや賛美のある盛大な中、仮庵の祭りで祝われ、期待されている救い主本人が居合わせているのです。また、七章に書かれているとおり、イエス様という方について、うわさや議論が広まっていた、イエス様理解に混乱があったのです。
祭りのクライマックスに喜びをもって水を汲んでは運んだ。後に来る素晴らしいことを想像しながら、水をくんでいたはず。
私たちも、いろいろな事を願って自分を満たそうと努力する。二週間前にも話しました。みんな、自分を満たそうとして、何かを達成しようとして生きています。しかし、本物に出会わなければ、意味が無いのです。私たちも、祭りという宗教行事を繰り返してしている民のようになってはいませんか。本物が心にありますか。満たさせていますか?
★ イエス様の招き…生ける水の川
いよいよ、祭りの最後の日、クライマックスのときに、イエス様は立ち上がって大声で言われました。V37 。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。“If anyone thirsts, let him come to Me and drink.
水は、シロアムの池から汲まれて、神殿に持っていかれました。なんという象徴でしょうか。この水汲みの儀式は、神殿が壊されるまで続いていたそうです。今現在の神殿とはなんでしょうか。新約聖書では、神殿は私たちの身体をさしています。なんという象徴でしょうか。
普通、ラビたちは、座って教え、立ち上がって話すことはありませんでした。また、大声を出すこともありませんでした。イエス様は、立ち上がって、大声で言われました。「わたしのもとに来て飲みなさいと。」切迫感を持って、みなに聞いて欲しいという気持ちが現れています。
V38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」38 He who believes in Me, as the Scripture has said, out of his heart will flow rivers of living water.”
◎心の奥底…ユダヤの世界では、腹を指している。これは、人の感情の奥深いところにある座。みんな感情の満たし、解決を求めて、水を汲んでいるのではないでしょうか。この憎しみさえなくなれば。この孤独感さえなくなればと言った課題があり、その解決のために、何かをしている。あるいは、忘れるために忙しく働いているかもしれない。あなたの、悲しみの源、苦しみの源が泉となって生ける水の川が湧き出ると言っているのです。
そして、イエス様は、招いておられます。「誰でも渇いているなら、私のところに来てのみなさい」今、自分を満たそうとしていることをやめ、イエス・キリストのもとに来なさいと。他の誰のところでもなく、イエス様のところへ。
宗教でもなく恋人でも、家族でも、仕事でも、地位でも、お金でもない。イエス様のところです。
私を信じる者は、。。。その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出ると、イエス様は言われます。
あなたの腹の奥底の感情、問題、その場所をイエス様に明け渡すとき、イエス様がこの感情、問題を解決してくださると信じるとき、奇跡が起きる。その感情の深みから命の水が沸きでる。
39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。But this He spoke concerning the Spirit, whom those believing in Him would receive; for the Holy Spirit was not yet given, because Jesus was not yet glorified.
これは、聖霊の注ぎのことを言っていいると言われています。今、詳しい話をしませんが、今の時代誰でも、信じるならば、この神の霊による満たしが与えられます。
他の聖書の箇所に
1コリント2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。 For what man knows the things of a man except the spirit of the man which is in him? Even so no one knows the things of God except the Spirit of God.
と、ありますが、あなたも言葉にできない、内面のうめきのような思いさえ、神の霊は知っておられます。その満たしを受け取りましょう。
★あなたも受け取りませんか
受け取るには、信じることが必要です。信じる以外は、ほかに何もする必要はないのです。自分の心の深みにある感情にイエス・キリストをお迎えし、お任せし、自分の心に来てくださるように、信じましょう。
ぼ
この日曜日は、
ブリッジズインターナショナルという、留学生のための働きをしている
ミーガン・タップさんが、ゲストとして教会に来てくださいました。
そして、ご自分の体験から、聖書の言葉を分かち合ってくださいました。
ミーガンさんは、幼いときから、たくさんの人が救われたらいいのにという気持ちを持っていました。
ある日、家の近くをいつも通る韓国人の留学生がいました。
彼女を助けたいと思ったけれども、言葉も通じないし、どのようにしたらいいか分かりませんでした。けれども、勇気をもって、話しかけるうちに、親しくなり、そして、宿題をみてあげるようになりました。時々は、言葉が通じないので、お互い辞書とにらめっこの時もありました。
しかし、この経験が後の決断の助けになります。
大学を終えて進路を決めるときに、神様のために働こうと思いました。
何の経験も無い、何の知識もない、自分が何ができるかもわからないような自分にこんな大役ができるのかと思いました。しかし、次の聖書の言葉が思い出されました。
エレミヤ1:5-10
「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ―」9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」
まだ、十代であったであろうエレミヤに語られた神の言葉です。
神は、この経験も知識もない、若いエレミヤに、偉い人、王や、祭司のところに行って腐敗を指摘し、彼らを正す言葉を語れと言っているのです。
エレミヤは恐れたに違いないです。
しかし、エレミヤは従いました。
この箇所を読んで、ミーガンさんも神様に従う決心をしました。
聖書の中に次のような言葉があります。
1 コリント 1:27-31
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。31 まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
自分が立派だから、よい説得力を持つのではなく、自分は何者でもなく、普通の人間であるが、こんな自分だからこそ、神様のなさることが引き立つのだと。
私がしていることを見て、周りの人が、これは神のみわざだとしか言いようがなく、神をあがめるようになる。
そのことのために、毎日主に仕えている、という事でした。
ミーガンさんは、大学を去年卒業し、また結婚したばかりです。
とても初々しい、若さに溢れた素直な方で、聞いている皆さんも、神様のみことばがすーっと心に入ったようでした。
私も、初心に帰らされた思いです。
私ではなく、キリスト。
私は、土くれに過ぎないではないか。できなくて当たり前。
しかし、全てのことを可能にしてくださる神に信頼し、従うときに、神の栄光を見る。
そこにかけてやっていこうじゃないか。
つぶやかず、あきらめず。愚かに見えても、不器用なやり方であっても、
ひたすら、神様に従っていこう。
と思わされました。謙遜にさせられました。
熟練もいい、知恵もいい。
でも、若さから来る情熱と、ひたむきな態度というのも
インパクトがあります。
初心を忘れずに、心新たにやっていきましょう。
みなさんは、どんなパッションを持っていますか。
初心に帰ることはありますか。
みなさんの今日の仕事に祝福がありますように。
ぼ
昨日の日曜日は、アメリカシアトルは、フットボールで湧き上がってしました。
シーホークスが二年連続スーパーボールを目指して、奮闘していました。
私たちは、日本人礼拝の後、一人のもう死を目前にしている人の願いごとをかなえに病院に行って来ました。
彼女は、私たちホライズン教会の英語礼拝に来ておられるおばあさんの、娘さんの義理のお母さんでした。
彼女の名前は、サンディさん、がんが転移してしまい、もう手の施しようがないとのこと、延命措置も外し、あと2日以内には天国に行くだろうとのこと。
延命措置を外す前に、彼女は、イエス・キリストを救い主として信じ、心にイエス様を受け入れました。そして、死後永遠の命をもって天国で生きる希望をもらったのだそうです。
彼女の最後の願いは、誰か彼女のために歌って欲しいということでした。
その願いを知った、主人エリックは、とても使命を感じました。彼は、歌うことにパッションを感じていて、また誰かの役に立つことをしたいと思ったのです。私も一緒に歌うということで、あわてて、英語の賛美歌の本を手に車に乗りました。
病室では家族がそろっていました。サンディは、意識があるのかどうか分かりません。とても苦しそうに音を立てて息をしていました。
私が祈り、エリックが大きな声でろうろうと賛美歌を歌いだしました。
一人もクリスチャンのいない病室でしたが、一人、また一人と泣き出し。なんともいえない神様の臨在に包まれました。
サンディは、うっすら目を開け、家族の話によると、目をきょろきょろさせていたそうです。家族たちは、サンディにそのような反応があったことがとても嬉しかったようです。
エリックは、いつくしみ深き友なるイエス、驚くばかりの、イースターの曲、イエスその名に、などと次々と歌いました。
歌詞から流れる、神様のメッセージ、慰め、力をこれほど私は感じたことがありません。そして、こんなにストレートに人の心に入っていくのをみたことがありません。
私は、部屋が暗いのと、小さな英語の歌詞が読めなかったので、ひたすらハミングをしていましたが。。。
まるで、病室を天使たちが取り囲んでいるように感じました。全く暗い雰囲気がありませんでした。またサンディも部屋にいる天使たちの踊るのを目で追うかのように見えました。
とても短い訪問でしたが、神様の愛をご家族も私たちも一緒に感じるときとなりました。
もう、今日、今、彼女は旅立ったかもしれない。
けれども、また天国で再会できる。「昨日見た天使はどうだったの?」 と聞いてみようと思う。
人生は、何が起きるか分からない。自分に定められた月日の数すら分からない。けれども、ゴールを目指して生きている人には確信がある。
喜びがある、希望がある。
たとえ、希望を見出したのが、残り3日の道のりであっても。。。。
私は、サンディの中に、沸き立つ喜びを見ました。
明日あるいは、今日本当に死んでしまう人のように感じませんでした。
シーホークスが最後まで、あきらめずに、自分たちを敗者とはせず、勝者として戦い抜き、最後20秒で逆転したこの日、
同じドラマを病室で見させてもらいました。
サンディ、ありがとう。
そして、天国でもっと話しましょう。
ぼ
2015年1月18日日曜日礼拝音声は、http://youtu.be/f9L2T8Ejpqg
ヨハネ4章3-30, v39
今日の箇所は、聖書のなかでも有名な個所です。よく、素晴らしいカウンセラーとしてのイエス様の例として引用されたりします。さて、今日は、一人のサマリヤ人の女性がどのようにしてイエス様に出会っていったか見ていきたいと思います。その中で、神様は私たちに語って下さることがたくさんあります。
このサマリヤの女性が、イエス様に出会ってから、三つの覚醒がされ、真の意味で最後にイエス・キリストというお方に出会います。そして、その出会いが、彼女の恥を完全に取り去り、彼女を通して町中がイエス様を信じるほどになっていくのです。
① イエスとの出会い v3-10
主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」―ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。―10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人を求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
V4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。But He needed to go through Samaria
この短い言葉は、多くのことを表しています。そもそも、当時ユダヤ人はサマリや人と付き合いをしなかった。それは、歴史をさかのぼって、アッシリア捕囚Assyrian captivity of Israelの後、北イスラエルと異邦人との混血がすすんだ民族であり、自分たち独自の祭壇をゲリジム山に設け、宗教的にもイスラエルと対立していた。宗教的に混血を嫌うユダヤ人から、邪道perversionとみなされ嫌われていたのです。イエス様とその一行は、近道とは、いえ、サマリヤをと通って行かなければならなかったということなのです。
v7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。7 A woman of Samaria came to draw water. Jesus said to her, “Give Me a drink.”
イエス様は、ここで、妙な時間帯に水を汲みに来た一人の女性に話しかけている。当時の文化では、ユダヤ人がサマリヤ人に進んで話しかけることはなかった。また、男性が女性に話しかけることはなかったはずである。また、普通の人が水をくむ時間に来ない人、つまり、何か人の目を気にする必要のある問題のある、ややこしい人と簡単に想像できる、この問題のありそうな女性に話しかけたのです。
★私たちに何を教えているでしょうか。
イエス様は、あなたに個人的にあうために出てこられる。民族を超えて、常識を超えて、宗教を越えて、あなたがどんなに人の目から嫌われていようと、99匹の羊を置いて一匹を探すためにでていく神様。あなたのところへでていってあなたを探す方。
みなさんが今教会に来ているのも、偶然ではない、イエス様があなたに出会おうとしていらっしゃるのです。
この女性に話しかけ、水を求めたイエス様に対して、この女性は、びっくりして、「どうして、サマリヤ人の女のわたしに飲み水をお求めになるのですか。」と聞き返している。するとイエス様は、
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人を求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
と言われました。あなたは、知らないから求めていなだけだけど、知っていいたなら求めている神である、わたしに生ける水を求めたでしょう。。。。と。
私たちが神様を意識しない、イエス様を知らない時から、イエス様の方では、私たちを探して、また遠く離れたどこにいても探して会いに来てくださる。私の場合は、日本にいるとき、どうしようもなく人生に挫折in a setbackを感じていた時、アメリカから一人の青年を海を越えて送って下さり、その人を通してイエス様は、私を探し出してくれました。
あなたにも、そんな経験があるでしょう。まだ、あなたが神様のことなど何も求めていない時に、向こうから近寄ってきてくれた。。。
私たち教会も、イエス様の心をくんで、出ていくもの、誰かを探すものになりたいものです。
② 内なる求めへの覚醒 生ける水 v11-15
11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
女は、イエス様が言っているのが、自然界の水だと思っていました。バスターダッグが先週霊の目覚めを絵にして書いてくれましたが、霊の世界に目覚めていない時、人は、一生懸命自分の見えている世界で、物事を考え吸収しようと思います。教会に来ると、道徳的ないいお話しが聞ける。とか、ユダヤの世界、またその他のキリスト教的な芸術、文化理解の助けになると考えたりし、教会に来ることに興味を持つ方がよくいらっしゃいます。それは、魂の領域の満たしのみで満足しようとする姿勢です。この世がオファーできるのは、魂の領域までです。霊の領域までは行きません。そして、自分の魂の領域の理解の限界を超えていることに出くわすと、急に教会が嫌いになるということになります。。。
この女は、それ以上のものをデスパレイトに求めていたようです。もう自分の人生は、自分ではどうしようもないと分かっていたと思われます。
人は、心の中にぼっかり穴があいているような感覚を持っている。聖書では、永遠への思いといわれているものだ。人は、毎日それをうめようとして生きている。私も若いときに、自分の将来、自分自身を探そうとしてたくさん小説を読んだり、映画をたくさん見たり、多くの外国を見ようとしたり、もっといい恋人、もっといい仕事についたら満たされるのではないかとも考えた。
この女性も、一生懸命自分を満たすためにあくせくして、疲れていただろう。この女性の場合は、男性に取り付くことで自分自身を満たそうとしてた。男性こそが、自分を満足させると信じているが、ことごとく裏切られていたのだ。そして、その生活に嫌気がさしていたのであろう。
「先生、その水、永遠のいのちへの水をください」と、イエス様にお願いしました。続けて聖書を読み進めると。。。
③ 罪への覚醒 v16-19
16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
彼女は、はっとしたはずです。イエス様が、ぴしゃりと彼女の問題を預言的に言い切りました。しかも、傷つけない形で。。。彼女は、同棲をいろいろな男性と繰り返していたのです。これは、明らかな罪でした。結婚関係以外の性的な関係は、当時厳しく裁かれました。彼女は、近所でも有名なふしだらimmoralな女でした。彼女の罪のサイクルを明らかにしました。
私たちは、自分の罪のサイクル、何が自分を神様から遠ざけているのか、何が自分にとっての、偽の神、すなわち偶像になっているか分かるまで、成長しません。また魂の癒しもきません。
この女は、イエス様の言葉によって、はっきりとさとったのです。自分は、今まで間違ったものを追いかけて自分を満たそうとしてたということを。。。
④ 宗教と伝統の問題 v20-25
20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」21 イエスは彼女に言われた。「私の言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。22 救いはユダヤ人から出るものですから、あなたがたは知らないで礼拝しています。23 しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
この女にとって、今すぐにでも欲しい生ける水であるが、心にわだかまりとなっている宗教と伝統の問題をイエス様にぶつけた。サマリヤ人として育ってき、ユダヤ人といつも対立関係にあったのですから、無理もないでしょう。また、こんな宗教問題について対立しているユダヤ人と議論するということは、タブーだったことでしょう。
しかし、イエス様は、その問題をはっきりと示されました。宗教ではない、伝統ではない、理屈や伝統による礼拝ではなく、心から、しんから変えられた人たちが神を礼拝する時が来ていると。場所じゃない、やり方じゃない。神は、霊だから、神を礼拝するものたちも霊によって礼拝しなければいけない。霊が死んでいる状態でなくて生きている状態、すなわち生ける水を飲んだ状態で礼拝するのだ。と。
⑤ イエスとの真の出会い v26-30, 39
26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」30 そこへ、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
V39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
イエス様は、面と向かって、この女性に、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と答えられた。真の神と面と向かって答えをいただいた、この女性にこれ以上の説明は必要なかった。彼女の心の中には、すでに命の水があふれていた。彼女は、今まで、人目をさけて隠れるようにして生きていたのに、大通りに出て行って、人目をはばからず、みんなにこのイエス様を証しするようになった。
これが、生ける水を受け取った人のしるしです。変えられた人は、過去にもう縛られていません。恥ずかしくないのです。イエス様との真の出会いが、彼女を変えたのです。
私たちは、今どこにいるでしょうか。イエス様にぶつけたい問題があるなら、イエス様に直接聞いたらいいでしょう。イエス様との面と向かっての出会いがあるでしょうか。それを求めてください。あなたは、すでに探しあてられています。見つけられています。あなたにもう語り掛けられているはずです。
“13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」”
生ける水を飲みましょう。受け取りましょう。
ぼ
ヨハネ三章一節から十二節
1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
この聖書についてよく勉強していたパリサイ人のニコデモという人は、イエス様の偉大な奇跡を見聞きし、イエス様は、偉大なことをするので神からのものだと思って、イエス様に質問しにきました。
そこで、イエス様は、ニコデモにこのように答えました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
奇跡を見て、これは普通じゃない、人間よりも優れた大きな方のされることだと分かることはできる。しかし、『神の国』のあり方、『神の国の心』を見るには、新しく生まれなければならないという。
ニコデモは、「そんなこと、どうしてできるのか、もう一度母の胎にもどるのか」と聞き返している。
「新しく生まれる」 というのは、上より生まれるという意味がある。
神によって、人間界と違う領域で生まれる。神の霊によって神の世界に生まれるということ。
すなわち、死んでいて昨日していなかった、人間の中にある霊が生きるようになることです。
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
上より、新しく生まれるということは、水と霊によって生まれるということです。
水は、悔い改めのバプテスマを意味しています。心から自分の罪を悔いてバプテスマを受けるなら、罪が赦されます。
また、真に悔い改めた人は、神様の霊、見えない力が自分を変えることを体験します。
今まで、きずかなかった罪にもっと敏感になったり、神の国について、霊の世界について認識することができるようになる。
それは、自分も霊の存在として生まれ、また神の霊を内にやどすものとなったからです。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
とあります。肉の領域で、認識できる、神の世界と霊の領域で見る神の世界というのには、格段の違いがあります。
肉の領域では、見たつもり、理解したつもりでしかありません。
よく、教会に何ヶ月、あるいは、何年か通って、もうキリスト教は分かった。といって、教会に来なくなる人がありますが、
本当は、何も分かっていないのです。
霊によって生まれなければ、見えないことの方が多いのです。
神は、悔いた砕かれた心を決して蔑まれません。と詩篇にあります。
神様を本当に求める心で神様に近づく者はかならず、神様を見出します。
また心が変えられます。
それが、悔い改めによって私たちにもたらされる神の奇跡です。
みなさんも、ぜひ、聖書を読むとき、ただの霊気史書としてではなく、自分のこととして読んでみましょう。
そして、人は決して変わらないものだ、自分は、変わらないという思いではすに構えて読むのではなく、自分の心を照らす光として読みましょう。
神様を求めましょう。
ぼ
一月四日の礼拝で、みなさんでお節とお雑煮を食べ、書き初めをしました。みなさんいいのができましたね。
2015年1月4日新年礼拝
ルカ11: 34-35
からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。
35 だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
The lamp of the body is the eye. Therefore, when your eye is good, your whole body also is full of light. But when your eye is bad, your body also is full of darkness. 35 Therefore take heed that the light which is in you is not darkness.
箴言29:18a
幻がなければ、民はほしいままにふるまう。Where there is no revelation, the people cast off restraint;
私たちは、自分の目に見えるものに従って生きる。目に見えるものによって、心を暗くしたり、明るくする。目は心の明かりです。
あなたは何を見て生きていますか?
多くの人々は、自分の過去を見つめながらの生きているそうです。過去に縛られ、過去の経験から、物事を考え判断し。またトラウマで苦しんでる。
また、そうでない人たちは、将来を見つめて、不安と怖れと心配の中、そうならないようにびくびくしながら生きているかのどちらかだそうです。
なかなか、今、現在をしっかり見つめて生きている人はいないと言われています。
また、先ほど読んだ、他の聖書の箇所には、「幻の無い民はみな滅びる」とあります。
この箴言の箇所のrevelation とは、日本語では幻や夢と訳さされている。英語では、啓示。私たちにとって一番大切なのは、これです。これが無ければ、現在に集中して生きられないのです。そして、これがあるときに希望があるのです。
私たちは、希望に根ざして物事をみなければ、目が明るくならない。目が開かれません。
そして、この希望の土台となるのは、神様です。神様の素晴らしさ。Goodness of God. です。
もし、私たちが、自分自身に目を向け、自分の過去を土台として夢を見ようとするなら、夢を見ることができません。また希望もありません。目が見えなく、また身体が暗くなることでしょう。
私たちは、自分にあるものを土台にして夢を見る必要がないのです。私たちを造り、私たちの父である神様、私たちに良い計画を持っている神様、私たちを愛しておられる神様、全てを可能としてくださる、愛に満ちた良い神様に希望をもって夢を見ましょう。
良い神様が私たちを助けてくださるとすれば、何を今年はいただきたいですか?
2015年、希望をもって毎日生きて生きたいですね。
今年の夢を書き初めにしましょう。(このあと、みなさんで書き初めをしました。)
ぼ
2014年12月28日日曜日年末礼拝 音声は、http://youtu.be/Kj3vK2y0-6I
Ⅰペテロ4:7-11
7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべて のことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。
7 But the end of all things is at hand; therefore be serious and watchful in your prayers. 8 And above all things have fervent love for one another, for “love will cover a multitude of sins.” 9 Be hospitable to one another without grumbling. 10 As each one has received a gift, minister it to one another, as good stewards of the manifold grace of God. 11 If anyone speaks, let him speak as the oracles of God. If anyone ministers, let him do it as with the ability which God supplies, that in all things God may be glorified through Jesus Christ, to whom belong the glory and the dominion forever and ever. Amen.
来年のために祈っているときに与えられた聖書の箇所。神様は、2015年私たちの驚くような栄光を見せてくださる。そして、拡大Expand することを示された。このExpansion 拡大は、大きく広がることだけではなく、成熟することも意味している。そのために、このみ言葉が示された。これは、私たち、日本人教会にもぴったり語られていることです。また、2014年に教会で学んできた土台をもとにできる内容です。今日は、私たち教会に与えられている主のみ言葉として、この言葉を受け取っていきましょう。
神様の栄光のために仕えるために
①v7 祈り
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。But the end of all things is at hand; therefore be serious and watchful in your prayers.
万物の終わり、イエスキリストの再臨が近づいている。終末論については、また詳しく違う機会にするとして、私たちは、神とともにこの世を治めているだろうか。神とともに創造的な働きをしているだろうか。私たちは、神の協力者です。祈りこそ、神様とともにものを創造し、世を治める鍵です。私たちは、時間をとりわけ、祈りの奉仕のために心を整え、実を慎むべきです。
また、個人としてだけではなく、教会は、キリストの花嫁であるが、教会はキリストの似姿になっているか? Meekであるか。教会としてキリストを愛し待ちわびるものであるか。群集をさけ、一人退き祈っているか。
個人的な祈りの時間を大切にする。また、教会としての祈り会をもつ。
②v8 愛し合う
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。And above all things have fervent love for one another, for “love will cover a multitude of sins.”
愛することについて、二つの側面
一、熱心にfervent
愛することについて、私たちはよく話を聞きますし、みなさんとても愛のある方ばかりだと思います。一つ今日考えたいのは、「熱心に愛し合うこと」です。これは、積極的に愛するということです。私とエリックのバナナブレッドの証し。一つの積極的な愛が、人の心を溶かす力がある。行き当たりばったりもいい、しかし、前もって用意し、取り分ける神様への十分の一献金のように、取り分けられて示される愛には力がある。
二、多くの罪を覆うcovers multiple of sins
私たちの死っている多くの罪をおおった愛は、イエスキリストの十字架の愛です。イエス様は、ご自分の犠牲をして、全人類の罪を覆いました。その根本にある動機は、愛でした。私たちの愛は、赦しでもあります。私たちが赦す時、相手の人は神にも赦されるとあります。罪を甘やかすことを言っているのではありません。罪を憎んで人を憎まず。です。人を赦していくとき、神様の愛が流れていくのです。
来年、積極的に人を愛し、人を赦すものとなりましょう。
③ v9 もてなし hospitality
つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。Be hospitable to one another without grumbling.
先日吉田先生ご夫妻が久しぶりに来られましたが、私たちの教会としてのおもてなしの態度を感謝してくださいました。私は、とても励まされました。人は、よくもてなされるとき、そこにいることを歓迎されているように感じますし、自分が来たことを喜んでくれる気持ちがします。居心地がいいです。受け入れられている気持ちがします。
聖書は、もてなすことを何度も勧めています。聖書には、アブラハムもみ使いをもてなしたことが書かれています。アブラハムという人は神様に対する信仰がしっかりしていただけではなく、人に対しても並外れて親切な人であった。
また、もてなす心は、単に人に対するものに留まりません。神様の臨在をホストする能力のことでもあります。聖霊様は、ご自分が歓迎されているところに留まられる。私たちは、歓迎されていないなら、もてなしが無いところには、長くいたいとは思わないし、二度と訪れたいとは思わないだろう。神様の臨在、聖霊様も同じです。私たちは、人をもてなす時、聖霊様をもてなすことを学ぶのです。
つぶやかないで、というのが鍵です。つぶやきは、もてなす心、雰囲気をつぶしてしまいます。お客さんにすぐに感じ取られてしまいます。
来年は、みなさんにチャレンジします。積極的にもてなしましょう。家に人を招く、家庭を開放してスモールグループをするなど。
④v10-11 あなたの存在が他の六つの賜物の人たちを祝福する
10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべて のことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。As each one has received a gift, minister it to one another, as good stewards of the manifold grace of God. 11 If anyone speaks, let him speak as the oracles of God. If anyone ministers, let him do it as with the ability which God supplies, that in all things God may be glorified through Jesus Christ, to whom belong the glory and the dominion forever and ever. Amen.
今年、賜物について学びました。賜物は、自分のためにあるのではなく、ほかの六つのためにあります。互いに仕えるために賜物があります。なぜなら、互いに愛し、尊敬し、仕えるときに、私たちは一つとなり、七つの賜物すべてをもつキリストのあり方をこの世に示すことができるからです。あなたの成長が他の賜物の人たちの祝福となるのです。。今年、自分が何の賜物で、何が成長の鍵であるかを学びました。来年は、ぜひ、それぞれの成長に心を配り、成長を目指しましょう。成長スケールというものもあるので、自分が今どのくらい成長しているか知りたい方は、私まで聞いてください。
祈ること、愛すること(積極的に愛すること、赦すものとなること)、もてなすこと、自分の賜物を成熟させること。これらを心にとめ、新しい年を祈りつつ迎えましょう。
大みそかは、教会で恒例の年越し祈り会があります。また、一月最初の礼拝は、恒例のお雑煮、お節、書初め礼拝です。神様に新しいビジョンをもらって一年を始めましょう。
ぼ
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