2015年5月24日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/SeG93kIh-78
1列王記19章1-4
1 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。
2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、4 自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
今日の箇所は、預言者エリヤがバアルの神とバアルの預言者たちと直接対決し、大勝利をした直後のできごとでした。聖書を読んで新しい方のために。。。 エリヤは、450人のバアルの預言者たちを相手に、二頭の雄牛を用意し、互いの神に祈り神自身にいけにえに火を付けてもらおうというものだった。エリヤは、自分のいけにえに水をまき火がつきにくいようにまでしました。そして、バアルの預言者たちは、祭壇の周りを踊りまわったり、身体を傷つけたりして祈りましたが、彼らの祭壇には何もおきませんでした。一方エリヤの方のいけにえには、真の神によって火が付きました。民はみな真の神をあがめました。
このような大勝利の後、アハブ王の妻イゼベルによる殺害予告をされるのです。そして、あのように勇敢に何者をも恐れず、真の神に信頼していたエリヤは、恐れて逃げるのです。
エリヤは、立派に大事業を終えたばかりでした。皆さん、私たちは、今日このお話を通して学びたいと思います。私たちは、アンドロイドでも機械でもなく、大いなる真の神を信じているとはいえ、生身の人間なのです。大きなプロジェクトを終えた後はどっとつかれるのです。まして、神の霊によって用いられ、霊的な働きをした後は、なおさら、どっと疲れがでるものです。私も、日曜日の夜は、どっと疲れて夕食をつくる気にならないものです。皆さん方も、神様を信じている神の勇士たちです。神様にあって事業を成した後、また継続的に長く神様のために働くには、どのように養われ、回復していったらいいのでしょうか。聖書に従って、三つの点についてみて生きたいと思います。
① 肉体の養い Nurture Your body
1列王記19章5-8
5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。
6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。
8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた
★休息と滋養は、私たちの元気の源
エリヤがイザベルを恐れて逃げたとき、神様は、エリヤを責めませんでした。どうして信仰が無いのかとも言われませんでした。逃げるなとも言われませんでした。神は、天使を送って、エリヤに食事をさせました。そして、エリヤはまた眠り、また起き、天使に食べさせてもらいました。エリヤを選んで用いた神様は、エリヤのことを誰よりもよくご存知でした。エリヤが心身ともに疲れきっていたことを知っていました。また、その余裕のなさから、イザベルを恐れたことも分かっていました。そして、まだエリヤのする仕事があることも知っていました。それゆえ、彼の肉体をまず休ませ、食べさせたのです。そういえば、エリヤは、バアルの神との直接対決のとき、寝ずの対決だったのではないでしょうか。バアルの預言者たちは、夜通し踊り身体を傷つけながら大声で祈っていましたし、それをエリヤは見ていました。
私たちも、体が資本です。体がなければ、私たちは、神のために働くことはできません。いくら、強い心を持っていても、体がなければ、その表現のしようがありません。聖書は、「私たちの身体は、聖霊の宮」であると言っています。
二、三ヶ月ほど前に、栄養学の通訳を頼まれましたが、とても興味深いことを話していました。私たちは、体のためだけに食べているのではなく、脳のためにも食べているということ。良い脂質と良い糖質は脳に必要であると。それらを食べると脳が幸せになり、落ち込みにくくなるというのです。また、一方で、コーヒーなどのカフェインや、砂糖、揚げ物などの油による脂質は、早く脳を幸せにするが、すぐにそれが消えてクラッシュしてしまい、脳を逆に落ち込ませてしまうようです。精神的にも大変栄養は大きな役割をもっているのです。自分の体を休めるなどということは、日本の牧師たちには、二の次にしてしまいがちだと思いますが、何を食べるか、よく睡眠をとり身体を休めるということは、十分霊的なことなのです。
もし体、精神が疲れがちであれば、食生活と睡眠を振り返ってみてはいかがでしょうか。また、体が疲れているとき、判断力が鈍っているのかもしれません。元気なときにはしないような決断や、発言をしてしまうものです。
② たましいの養い Nurturing Soul
1列王記19章9-10
9 彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は、「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられた。
10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らはいのちを取ろうとねらっています。」
★心の傷を吐露するエリヤ
これが彼の隠れた問題であり、彼を徹底的に疲れさせ恐れさせた原因であった。
エリヤは、神に話しかけられ、言いました。「私は熱心に神に仕えてきた」「イスラエルの民は、預言者を剣で殺し、私だけが残りました。今は、私まで殺されそうです。」と、苦々しさいっぱいです。エリヤは、大勝利を取ったのではなかったでしょうか。確かに、イスラエルの民は、真の神をないがしろにし、預言者を殺し、祭壇を壊したかも知れません。しかし、かの大対決で、真の神の勝利により、民は、主をあがめたのではなかったのでしょうか??
エリヤには、心の傷がありました。自分の友達預言者たちがどんどん殺され、自分の一所懸命の働きが本当にしんどく感じ、孤独感を持っていたのです。神様がかえりみてくれるかどうか分からないほど、孤独感に苛まれていたのです。
これが、エリヤのうつ状態の隠れた原因です。
私たちは、心で信じているとおりに自分の人生を持って行きます。エリヤは、この思いを引きずっていたために、逃げ出し、引っ込み、もう自分なんていっそのこと殺して欲しいと言いだします。あんなに大成功を収めた人がです。エリヤは、神様に対して、苦々しい気持ちがあったのです。「どうして?」と言う思い。「この仕事は大変すぎる」と言う思い。神が付いていれば、百人力以上であるにもかかわらず、孤独感、自分で全てを背負わなければいけない気持ちになりました。これは、神様に対しての裁きを持っている人が陥り易い姿です。
神は、あえてエリヤに心のうちを話させました。私たちのたましいの癒しは、ここから来ます。人に話すのでもない、神に知ってもらうときに、私たちのたましいは、満足を得、そして、神からの癒しを受け取ることが出来ます。
今日皆さんにお勧めします。辛いとき、しんどいとき、後ろ向きになるとき、あなたのたましいに癒しが必要です。養いが必要です。ぜひ、神様に心のうちを全部、感情を含めて注ぎだしてください。神は、必ず癒しをもたらしてくださいます。
③ 霊の養い Nurturing Spirit
1列王記19章11-13, 18
11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。
13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかかめず、バアルに口づけしなかった者である。」
★霊を養うには Nurturing your spirit
神の声を慕い求めること、神の声を聞くこと、神の約束を受け取ること
もう一つ、神様のあって私たちに必要な養いというのは、霊の養いです。霊の養いについては、あまり語られてこなかったのかもしれません。けれども、これが一番大切なことです。どんなにコンピテント有能になっても、物事が上手にできるようになっても、霊的に養われ、満足していなければ、人は迷ってしまうのです。私たちの霊を養うには、ただ一つ、神の声を聞くことです。
エリヤは、主の臨在を感じながら、主を求め続け、神の声を聞こうと神を追いかけました。主は、風の中にも、地震の中にもおられませんでした。火を見たけれども火の中にもおられませんでした。
ここで、何を見るでしょうか。それは、エリヤの注意深く耳を澄まし、目を開き、主をとらえようとする姿です。
まず第一に、この姿勢が必要です。私たちは、一度聞こうとして聞こえなかったらあきらめてしまうのではないでしようか。エリヤは、風の中でもない、地震でも、火でも無いと、主を目を開いて、耳を開いて追いかけ続けたのです。
神様を慕い求めましょう。あなたがその目と耳でとらまえるまで。主は、探すものに見つけられます。愛する者を愛されます。
そして、ついにエリヤは、神のかすかな声を聞きました。神の声は、時々、かすかな声であります。日常、ふとしたときの小さい声であることが多いのです。大きなイベントで神を求めるのもいいですが、日常の何気ないときに主の声を聞いてみてください。
そして、彼はまた心のうちの傷を口にします。私たちは、たましいのレベルの傷とまた更に深い霊的な傷を取り扱われる必要があります。彼にとって、この傷の癒しは、完成します。
主は、また、彼を責めることもなく、とがめることもなく、諭すこともなく、彼の心のうちを聞き、彼を受け入れておられます。
そして、神は、なすべきことを語られ、約束をエリヤにされます。
バアルにひざをかがめない7000人を取ってあると。なんという励ましでしょうか。エリヤは、孤独などではないのです。
みなさん、神の声に耳を傾けましょう。それがあなたの霊を養う方法です。また約束をもらうまで、ひつこく神様に耳を傾け続けようではありませんか。私たちが神の約束を受け取るなら、これ以上強いことはありません。
主は、一度も、エリヤを見捨てたことがなかったのではないでしょうか。しかし、エリヤの側で、勝手に孤独に感じ、もう見捨てられた、死ぬしかないと思ったのではないでしようか。
主によって強められましょう。
体、たましい、霊全てにおいて。この三つの分野がいつも健康で、主によって養われている人は、強いのです。
★人間のエナジーゲージ
1テサロニケ5:23
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
車のガソリンタンクのゲージのようなものを想像して下さい。私たちには、肉体、心/感情、霊の三つのゲージを持っているとしましょう。全てがFull に傾いていなければ、人間という存在は、壊れてしまうのです。走り続けることは出来ません。
★ゲージのバランスチェック 調整
朝起きて、何があなたを引っ張っているでしょうか。
体でしょぅか。 ああ、頭が痛い。足が痛い。だから今日はあれが出来ない、これが出来ない。。。。 体があなたを引っ張って一日を始めます。
心/ 感情? ああ、今日も上司に会いたくない。仕事いやだなぁ。。。起きるなり、いやな人の顔が浮かぶ。 感情があなたを引っ張り、一日を支配します。
霊? 朝起きて、ハレルヤ! 神様に感謝感謝。賛美の歌が湧き上がる。何が起きても揺るがない一日になります。
一日が人生に発展します。私たちは、何に引っ張られて生きているのでしようか。
理想的なのは、霊、心/感情そして体の順番です。 大きくの人は、心・感情が一番、次に体、そして霊が最後に来ています。このバランスでは、エリヤのように疲れきり、死んでしまいたくなってしまうのです。。。
2015年5月3日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/Fw218LVODTA
先週は、ソロモンの繁栄を通した証しについてお話ししました。今週は、そのソロモンが神様から離れていく様を見て行きたいと思います。このソロモンの罪によって、最終的に国が分裂し、そして、それぞれ敵国に支配されることとなってしまうのです。
①富を多く持ちすぎたための惑わし
1列王記10:14, 15
一年間にソロモンのところに入って来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。15 このほかに、交易商人から得たもの、貿易商人の商いで得たもの、アラビヤのすべての王たち、およびその地の総督たちからのものがあった。The weight of gold that came to Solomon yearly was six hundred and sixty-six talents of gold, 15 besides that from the traveling merchants, from the income of traders, from all the kings of Arabia, and from the governors of the country.
ソロモンのところには、諸外国から金が贈られて来ました。毎年、ざっくりとした計算で言うと、三トン近くの金がやってきていたのです。ソロモンの食器から何から全て金でつくられていました。また、ソロモンは、贈り物の金だけでも三トンあるのに、それに満足せず、まだ、金を購入していたのです。
ソロモンは、その知恵と繁栄によって神を指差し、神を証しし、そして、周りの国々を祝福することが彼の召しであったのではないでしょうか。多大な富を得たソロモンの心はだんだんと鈍っていきました。自分のために富を蓄えるようになって行きました。それは、何を意味しているのでしょうか。それは、富を自分にもたらす、神に信頼するのではなく、富自体に信頼するようになっていったのではないでしょうか。
富があなたの神に成り代わらないための秘訣は、持っているもの、与えられているもので満足し、絶えず感謝することです。感謝は心に満足と幸せをもたらします。心が満ち足りていることこそ、富のわなに落ちない秘訣です。足りない、足りない、もっともっとと思うことがわなの始まりです。
②兵力、力の惑わし
1列王記10:26
ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。 And Solomon gathered chariots and horsemen; he had one thousand four hundred chariots and twelve thousand horsemen, whom he stationed in the chariot cities and with the king at Jerusalem.
ソロモンは、戦車と騎兵を集めました。そして、戦車を動かすため、騎兵が乗る馬もたくさんたくさん集めました。ソロモンは、軍事費に大量のお金をつぎこんでいました。これは、何を意味しているでしょうか。ソロモンの父ダビデは、石一つで、敵の大男ゴリアテに勝利したのではなかったのでしょうか。それは、神がダビデについていたからではないでしょうか。
昔も現在も、優秀な軍を持つことは、強い国の条件です。アメリカは、どこの国よりも軍事費を費やしているのではないでしょうか。これは、ある意味、世界の常識とも言えるかもしれません。
しかし、これがソロモンの心を神から遠ざけています。ソロモンは、神よりも、世で言われている力の方を信頼するようになっていったのです。
みなさん、お金があり過ぎるのも問題なのかも知れません。お金があるから、戦車や馬を大量に買うことができ、それで安心しようとする。。。無いほうが、よかったのかも知れません。神を信頼するしかないのですから。。。。しかし、これは、神様からの試験ですよね。無いときもそうですが、あるときこそ、どのようにそれを用いていくのか。。ここに個人の本当の信仰が現れるものです。
③女(性)による惑わし
1列王記11:1-5
ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。2 この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならな い。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離 れなかった。3 彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。
4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。5 ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。But King Solomon loved many foreign women, as well as the daughter of Pharaoh: women of the Moabites, Ammonites, Edomites, Sidonians, and Hittites— 2 from the nations of whom the LORD had said to the children of Israel, “You shall not intermarry with them, nor they with you. Surely they will turn away your hearts after their gods.” Solomon clung to these in love. 3 And he had seven hundred wives, princesses, and three hundred concubines; and his wives turned away his heart. 4 For it was so, when Solomon was old, that his wives turned his heart after other gods; and his heart was not loyal to the LORD his God, as was the heart of his father David.
3節に、「その妻たちが彼の心を転じた」とあります。ここで、惑わしの中にいたソロモンの心が決定的に、転じてしまいます。それは、女性によってでした。彼は、そばめをあわせて1000人の女性をはべらせていました。そして、その女性たちは、外国からも多く来ていました。彼女たちは、それぞれに異教の神々をもって来、礼拝したのです。真の神の神殿のそばで、いろいろな異なる礼拝が繰り広げられていたのです。
ソロモンは、この女たちを愛し、この女たちと心一つになることは許しても、神と心一つになることは拒んだのです。
あなたの心の中心に座っているのは誰ですか。神様ですか。それとも、自分ですか。自分が座れば、結局は、欲のおもむくままの生き方となります。どんなに綺麗にとりつくろってもです。
★ 神に立ち返ろうとしなかったソロモン
1列王記11:9-10
主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、10 このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。So the LORD became angry with Solomon, because his heart had turned from the LORD God of Israel, who had appeared to him twice, 10 and had commanded him concerning this thing, that he should not go after other gods; but he did not keep what the LORD had commanded.
ソロモンと、ダビデの違いは、ダビデは、自分の罪が示されたなら、即座に立ち返り悔い改めたことです。ソロモンは、二度も神がじきじきにソロモンに現れたのに、心を変えることはありませんでした。
あなたの心に神様がノックすることがあります。目を覚ましなさいというノックかもしれませんし、開けてください、私を入れてくださいというノックかも知れません。また、コンコンという軽い音かもしれませんし、ドンドンドンと大きなノックかも知れません。。。でも、あなたは、その心の扉を開けますか。それとも聞かなかったふりをするでしょうか。その音を聞いたら、ぜひ開けていただきたいのです。神様が必ず、素晴らしい道に案内してくたれるからです。
★ 神を信頼する生き方のすすめ
新約聖書の中に、ソロモンの名前を引用した次のような言葉があります。
マタイ6: 28-34
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。“So why do you worry about clothing? Consider the lilies of the field, how they grow: they neither toil nor spin; 29 and yet I say to you that even Solomon in all his glory was not arrayed like one of these. 30 Now if God so clothes the grass of the field, which today is, and tomorrow is thrown into the oven, will He not much more clothe you, O you of little faith?31 “Therefore do not worry, saying, ‘What shall we eat?’ or ‘What shall we drink?’ or ‘What shall we wear?’ 32 For after all these things the Gentiles seek. For your heavenly Father knows that you need all these things. 33 But seek first the kingdom of God and His righteousness, and all these things shall be added to you. 34 Therefore do not worry about tomorrow, for tomorrow will worry about its own things. Sufficient for the day is its own trouble.
イエス様は言われます。野のゆりは、働きもしないが、神様が美しく着飾らせてくださっているではないか。きょうあっても、明日は炉に投げ込まれるようなはかない野の草さえこのように装ってくださるのだから、ましてあなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか。。。と。あのような栄華を極めてソロモンでさえ、野のゆりのようには着飾っていなかったと。。。。
だから、生活のことで心配するのはやめなさい。と。
働かないものを着飾らせてくださる神に信頼しなさい。そして、神の国とその義とを第一に求めなさい。
V34 明日のことを心配するのではなく、今日、今を神を信頼して、今の一秒をしっかり信仰によって生きなさい。ということです。
そうです。神様が私たちに勧めている生き方は、信仰を持って生きることと、今を生きることなのです。
私たちには、富があるでしょうか、ないでしょうか。世の力に頼りますか、神に頼りますか。神より愛するものがありますか。それら全ては、心配からきていることに気づいてください。
ぼ
2015年4月26日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/cUclrZW1iFg
1列王記10:1-13
ときに、シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、やって来た。
2 彼女は、非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と、非常に多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来た。彼女はソロモンのところに来ると、心にあったすべてのことを彼に質問した。
3 ソロモンは、彼女のすべての質問を解き明かした。王がわからなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つなかった。
4 シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、
5 その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たち、および、彼が主の宮でささげた全焼のいけにえを見て、息も止まるばかりであった。
6 彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。
7 実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。
8 なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。
9 あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行わせられるのです。」
10 彼女は百二十タラントの金と、非常にたくさんのバルサム油と宝石とを王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったほどに多くのバルサム油は、二度と入って来なかった。
11 オフィルから金を積んで来たヒラムの船団も、非常に多くのびゃくだんの木材と宝石とをオフィルから運んで来た。
12 王はこのびゃくだんの木材で、主の宮と王宮の柱を造り、歌うたいたちのために、立琴と十弦の琴を作った。今日まで、このようなびゃくだんの木材が入って来たこともなく、だれもこのようなものを見たこともなかった。
13 ソロモン王は、その豊かさに相応したものをシェバの女王に与えたが、それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。彼女は、家来たちを連れて、自分の国へ戻って行った。
さて、今日の箇所は、素晴らしい神殿や宮殿を建て、国をよく治め、繁栄したソロモン王のお話しです。ソロモンは、神様の計画の中を歩んでいました。ソロモンは、あまりの知恵の深さとその繁栄に、周りの人々、国々が驚いたほどでした。今日は、外国、シバの女王(現在のアラビア半島のイエメンあたり)がその名声を聞きつけて、わざわざイスラエルに見に来る場面です。
ソロモンの繁栄は、ソロモンの深い知恵の故ですが、この知恵は、どこから来たのでしょうか?
★ ソロモン即位時の主への願い 「知恵をいただくこと。」
1列王記3:11-13
神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、12 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。13 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのなかであなたに並ぶ者はひとりもいないであろう。
★ソロモンの富と繁栄の出所は、神であった。
祈りは聞かれる。何を祈るかが問題。あなたは何を祈りますか。祈りとは、天で起きていることと同意すること。天とあなたが一致するとき、物事が開かれる。ソロモンは、神のみ心、民を正しく裁き、国を治めるために必要な知恵を求めた。その神からの知恵のおかげで、全世界からの注目を集めた。これは、神のみ心であった。
みなさん、あなたの人生の成功は、あなたの祈りの時間から始まるのです。祈りによっ て、あなたの人生が切り開かれるのです。
★ 「主の名に関連して」
1列王10:1 ときに、シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、やって来た。Now when the queen of Sheba heard of the fame of Solomon concerning the name of the LORD, she came to test him with hard questions.
イスラエルの周りの国々は、イスラエルの国の素晴らしさに驚愕していた。あまりの知恵の深さとその繁栄ぶりに、これは、人間業ではないと分かった。これは、神に違いないと回りに感じさせていたのである。
シバの女王も、そのうわさを聞きやって来た。一節には、はっきりと、「主の名に関連して」ソロモンの名声を伝え聞き。。。とある。ソロモンに興味を持ったのではなく、ソロモンを用いて国を統めている神に興味をもったのである。
★ 証しとは
シバの女王は、心にある全てのことをソロモンに聞きました。そして、ソロモンが応えられないことは何一つありませんでした。女王は、彼の知恵と、宮殿と、従者たちの服装と態度、主の宮の全焼のいけにえなどをみて息も止まるばかりでした。
V6-9
そして、あなたにつく人たちはなんて幸せなんでしょう。。。。と言い、
最後に、v9
「主はほむべきかな」Blessed be the LORD your Godと主を賛美しています。
神を知らない外国の女王が、神を賛美しだすのです。
みなさん、証しとはこのようなことです。
私たちは、無力無能でいいのです。ただ、私たちの人生に働いている神様の素晴らしさが現れることが証しなのです。
ソロモンは、そのために神に選ばれ、神に用いられたのです。
彼の召しは、全世界に神の素晴らしさを証しすることでした。
あなたの人生の目的はなんでしょうか。あなたは、神につくられました。そして、聖書は、神の似姿に創造されたと書かれています。あなたは、創造主を指差しながら生きているでしょうか。
自分は、知恵がなく無力であるが、神に頼り、祈ることによって、力があたえられ手いるだろうか。祈りが聞かれる奇跡を体験しているだろうか。
全ては、あのソロモンがしたように、一つの祈りから証しの生活が始まるのです。
★ 神の豊かさは、人を祝福するためにある
V13 ソロモン王は、その豊かさに相応したものをシェバの女王に与えたが、それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。彼女は、家来たちを連れて、自分の国へ戻って行った。13 Now King Solomon gave the queen of Sheba all she desired, whatever she asked, besides what Solomon had given her according to the royal generosity. So she turned and went to her own country, she and her servants.
わたしは、この箇所を読んで、二匹の魚と五つのパンを思い出しました。イエス様が五千人以上をこの小さな一人の人のお弁当で満たされたとき、みんなが満腹して、なおも12かごにあまりがあった。というお話しです。
神様は、有り余るほどにわたしたちを満たされるのです。その目的は、他の人々を神の富で祝福すること。満たすことです。
ソロモンは、シバの女王が求めたものは何でもその望みのままに与えました。
それは、神から来ている富であることを知っているからでした。ソロモンは、神にあって富をストゥワート管理することを心得ていたのです。
全ては、ひとつの祈りから始まりました。この祈りは、あなたの人生を祝福します。あなたは、神に祝福されます。そして、今度は、あなたが人々を祝福していく責任があたえられるのではないでしょうか。
あなたは神の豊かさに恵まれていますか?
あなたは、今日何をもって人々を祝福しますか?
ぼ
2015年4月19日日曜日バイリンガル礼拝 http://youtu.be/6glP4_PCajU
1列王記8:14-30
14 それから王は振り向いて、イスラエルの全集団を祝福した。イスラエルの全集団は起立していた。
15 彼は言った。「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて言われた。
16 『わたしの民イスラエルを、エジプトから連れ出した日からこのかた、わたしはわたしの名を置く宮を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町をも選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。』
17 それで私の父ダビデは、イスラエルの神、主の名のために宮を建てることをいつも心がけていた。
18 ところが、主は、私の父ダビデにこう仰せられた。『あなたは、わたしの名のために宮を建てることを心がけていたために、あなたはよくやった。あなたは確かに、そう心がけていた。
19 しかし、あなたがその宮を建ててはならない。あなたの腰から出るあなたの子どもが、わたしの名のために宮を建てる。』
20 主は、お告げになった約束を果たされたので、私は父ダビデに代わって立ち、主の約束どおりイスラエルの王座に着いた。そして、イスラエルの神、主の名のために、この宮を建て、
21 主の契約が納められている箱のために、そこに一つの場所を設けた。その契約は、主が、私たちの先祖をエジプトの地から連れ出されたときに、彼らと結ばれたものである。」
22 ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に差し伸べて、
23 言った、「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。
24 あなたは、約束されたことを、あなたのしもべ、私の父ダビデのために守られました。それゆえ、あなたは御口をもって語られました。また御手をもって、これを今日のように、成し遂げられました。
25 それで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束して、『あなたがわたしの前に歩んだように、もしあなたの子孫 がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に着く人が、わたしの前から断たれない』と仰せられたことを、ダビデのため に守ってください。
26 今、イスラエルの神。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたみことばが堅く立てられますように。
27 それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
28 けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。
29 そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。
30 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください。
列王記について ソロモンが、ダビデのあと王権につきます。BC961 そして、今日の箇所は、ソロモンがダビデに与えられた神の神殿を建てるという事業を完成させた場面からです。
ソロモンの神殿というのは、たいそう素晴らしく、大きく、きらびやかであったようです。なかなか、聖書を読んでいてもイメージがつかめにくいかと思いますので、ビデオを見て神殿の内外をみてみたいと思います。
ソロモンの神殿体験ビデオ 五分間 https://www.youtube.com/watch?v=OShPNTaCSsU&index=8&list=PLCg7q92sxkYz7BE5BmWnMtGdm46hr9NrW
★選ばれたダビデ
v16『わたしの民イスラエルを、エジプトから連れ出した日からこのかた、わたしはわたしの名を置く宮を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町をも選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。』16 ‘Since the day that I brought My people Israel out of Egypt, I have chosen no city from any tribe of Israel in which to build a house, that My name might be there; but I chose David to be over My people Israel.’
この神殿建設のビジョンというのは、ソロモン王の父ダビデから始まりました。ダビデは、自分が美しい神殿に住んでいるのに、神が住むところが幕屋では申し訳ないと思ったのです。もっと素敵なところに住んで欲しいと思ったのです。
みなさん、先週、先々週に続いて繰り返します。神は、神を愛する者に見出され、神は神を愛する者を選ばれるのです。ダビデは、神を愛するがゆえに、神殿を建てたいと思ったのです。自分よりも神に良い思いをして欲しかったのです。自分よりも神を高く上げたかったのです。
神には、住む家は必要なかったのですが、このダビデの心を非常に愛されました。
★ダビデの生き方
しかし、ダビデは、戦いで多く血を流しているので、神の聖なる神殿を建てることをゆるされませんでした。その代わり、ダビデの息子にはそれが出来ると神に言われました。だからと言ってダビデは、建てることをやめたのではありません。
V17 それで私の父ダビデは、イスラエルの神、主の名のために宮を建てることをいつも心がけていた。17 Now it was in the heart of my father David to build a temple for the name of the LORD God of Israel.
ダビデは、神殿を建てることは許されなかったが、いつも心がけていたというだけあって、建てる以外のことは、ダビデが生きている間に出来ることはみな整えたのです。
資材をそろえ、金をそろえ、豪華な神殿を建てるための自分に出来る限りのことを尽くしたのです。
それはなぜでしょうか。それは、神を愛していたからです。
神を愛している人は、その行動に神への愛があらわされます。
★ソロモンの祈り
8章を通じてソロモンの公の祈りが続きますが、ソロモンがはじめに祈ったことが二つあります。それは、大変重要なことであります。
① 神の約束のゆるぎなさに基づく祈り
V24-26 24 あなたは、約束されたことを、あなたのしもべ、私の父ダビデのために守られました。それゆえ、あなたは御口をもって語られました。また御手をもって、これを今日のように、成し遂げられました。
25 それで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束して、『あなたがわたしの前に歩んだように、もしあなたの子孫 がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に着く人が、わたしの前から断たれない』と仰せられたことを、ダビデのため に守ってください。
26 今、イスラエルの神。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたみことばが堅く立てられますように。
ソロモンは、神の父に約束されたことが揺るがず、完成されたことに感動をもって祈っています。そして、そのように、続けて神様の誠実さで守られますようにと言う祈りをしています。
みなさんは、神が約束を果たしてくださったと、体験されたことはありますか。その体験をした人は、強いのです。どんなに難しいことがおきても、あの時、約束を守ってくださった誠実な神様が今回の困難にも打ち勝たせてくださると信じ、耐える力を与えてくださるからです。神様の誠実さは、私たちの力であり、よりどころです。ソロモンは、約束を守られる神に信頼をおいています。
まだ、そんな経験の無い人も、ある人も、この誠実な神様に信頼しませんか?
② 神がともにましてくださるようにとの祈り
V27-30 27 それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
28 けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。
29 そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。
30 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください。
ソロモンは、全人類の願いを声に出して神に祈っています。神は、大きすぎて、いくら人間的に見て豪華で大きな宮でも、神を入れることなどおこがましいことです。しかし、私たちは、その神の生きた臨在に触れたい、そして、私たちの祈りを聞いて欲しい、と思っています。夜も昼も御目を開いて、わたしに目を留めてほしい。すなわち、絶えず、わたしとともにいて、わたしを見守っていて欲しい。ということです。
わたしは、まだ神様をはっきり知らないとき、誰かも分からない、どこかにいる神様によく祈ったものでした。助けて下さい。と。不安なとき、怖い目にあった時、口をついて「神様」と叫んだものです。これが、人間の本当の心の叫びなのではないでしょうか。
この心の渇き、三千年前のこの時も、同じだったのです。そうして、この祈りは、現代ではかなえられているのです。
★ソロモンの祈りの完全な成就 イエス・キリスト
コリント人への第一の手紙第6章19-20節に「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって。。。」とあります。
新約のわたしたちは、誰でもキリストを自分の救い主と信じるなら、私たちの内側に神様の霊が宿られるのです。すなわち、私たち自身が、文字通り神の宮、神殿となるのです。つまり、昼も夜も常に神がともにいてくださるのです。
どこか遠くにいて、叫ばなければ祈りが聞かれないのでもありません。今、ここに、ともにいてくださるのです。
★新約の私たちの生き方
ダビデは、生きている間、彼の夢であった、神殿をつくる準備をしました。私たちは、ソロモンのように神にお願いしなくても、神を信じたときから、神が住まわれる神殿となっています。
さあ、どのように生きるべきでしょうか。
ロマ12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。beseech you therefore, brethren, by the mercies of God, that you present your bodies a living sacrifice, holy, acceptable to God, which is your reasonable service.
生きた供え物… 生き方を神にささげる。
ダビデは旧約の時代に、神を愛して、神殿建設の資材を集めました。あなたは、どんな生き方をしますか。
ぼ
2015年4月12日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/kmOmNCWH4C4
ヨハネ21章15-19
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上 に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの 小羊を飼いなさい。」16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたの で、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼 に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
今日は、復活イエス様が取り分け時間をとられ、癒しに導いたペテロのお話しから学んでいきたと思います。
★ 自分に絶望する時
神を愛して、自分に失望することは、いいことです。そこから、素晴らしい命が生れます。土の器に宝が入っていることを思い知らされるからです。また、自分から出るもので成功するのではなく、神が私たちを用いてくださることがよくよく理解できるからです。
イエス様の死後、弟子たちは、みんながっかりし失望していました。そんな弟子たちに復活のイエス様が出会ってくださり、弟子たちは、喜びに沸きあがりました。恩師の十字架刑というある種のトラウマから解放される必要があった弟子たちに、イエス様は、ビーチで魚を弟子たちにふるまいともに食事をすることで愛を示しました。
この中で、とりわけ絶望している弟子がいました。それは、ペテロです。ペテロは、イエス様に顔向けできない失敗をしていたのでした。そして、もう弟子としての働きなどする資格がないと考えて、自分を赦せずにいたことでしょう。ペテロは、復活のイエス様に出会ったけれども、何か悶々とするものがあったのでしょう。「わたしは、漁に行く。」と言い出します。もとの、漁師の職に戻ろうかと思ったのかも知れません。
ペテロの失敗… 他の誰が躓いても、自分だけは躓かないと豪語しておきながら、イエス様が官邸で痛めつけられているときに、人に、あなたもナザレのイエスと一緒にいたひとですねと尋ねられて、三回もそんな人は知らないと言ってイエス様を否定したこと。
マタイ26:33, 69-75
33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない」と言った。73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。74 すると彼は「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあとのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
★ イエス様の愛のもたらす癒しと回復、そして、再任命
今日読んだ箇所の通り、イエス様は、ペテロに面と向かって尋ねられました。「ヨハネの子シモン、あなたは、わたしを愛しますか。」ヨハネの子シモン。というのは、フルネームです。いわば、エリック・スティーブン・モーガードと呼ぶようです。こんなふうに親が子を呼ぶ時は、みなさん、分かりますよね。大事なことを言うときです。アメリカでは、叱られるときによく言われますが。。
以前にも言いましたが、ギリシャ語では、「愛」するという言葉に、三つの種類があります。エロス、肉体の愛。フィレオー、友愛。そして、アガペー、最高の愛。神の愛。一方通行の愛。
イエス様は、ペテロに、最高の愛、アガペーの愛でイエス様を愛しますか。と問われています。
ペテロの心は、どうだったでしょう。できることなら、そうしたいですが、そんな最高の愛をもって愛せるかどうか、もう約束は出来ない。。。と思ったことでしょう。
そして、イエス様に応えました。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」ペテロは、友愛の愛でイエス様を愛し続けることは、イエス様ご自身がよくご存知です。と応えます。
イエス様は、「私の子羊を飼いなさい。」と言われます。これは、漁師からイエスの弟子そして、羊飼いに転職しなさいというものではなく、羊とは、聖書では人間を現すものです。かつて、「人を取る漁師にしてあげよう。」と言われたイエス様が、マタイ16:15-20「あなたの名前は、ケパ。この岩の上に教会を建てる。。」と言われました。イエス様は、人々を霊的に養う仕事、牧師の仕事をしなさい、とペテロに任命しているのである。
イエス様は、同じ質問をもう一度します。またペテロは、応えます。アガペーで愛せるかどうか分からないけど、フィレオーで愛します。イエス様は、「わたしの羊を牧しなさい。」と任命します。
そして、もう一度イエス様が質問しました。 三度目です。ペテロの心は二重に痛みました。それは、ほんの一週間ほど前に、三度イエス様を知らないと否定したからです。
イエス様は、三度愛するかと聞かれました。
自分を三度否定したとペテロを叱ったり、責めることなく、三度、愛するか、と聞かれたのです。それは、ペテロをはじめに召したとおり、教会を建てるものとして用いるためでした。
ペテロの失敗で、ペテロの神様からの計画はなくなったりしなかったのでした。
みなさん、私たちは、私たちが気をつけて必死で全てうまくやらなければ、神様の計画を台無しにしていまうと、びくびくしながら神様に仕えます。
しかし、これは、全くの見当違いなのです。
神様は、私たちの失敗よりも大きいのです。私たちの考えよりも、神様の計画は、ずっと大きく、高いのです。
私たちは、失敗にフォーカスし、自分自身にフォーカスし、足りないことばかりに絶望ますが、神様にとっては、そんなことは、問題ないのです。
神様にとって、唯一つ大切なことは。
「わたしを愛しますか」
ということのみです。過去に大きな失敗があっても、人間的に未熟でも、おっちょこちょいでも、立派でなくても、賢くなくても、イエス様を愛するなら、神様のために働く資格があるのです。それを見失わないように。イエス様は、三回、私を愛しますか。と聞いているのです。
もう一つペテロの心を痛めたことは、
三度目にイエス様が、「わたしを愛しますか。」と言った時は、フィレオーの愛で、友愛で愛しますか。とレベルを下げて聞かれたのです。
イエス様は、今、あなたが持っている愛で良いから、背伸びしないでいいから、今持っている最高のもので、イエス様に従いなさい。と言われているのではないでしょうか。
この、会話を通して、ペテロの心は新たにされたはずです。過去の失敗からくる傷から癒され。新しく、主に仕えていける喜びに満たされたのではないでしようか。
★ あなたは、イエス様を愛しますか?
私の仕えているホライズンカレッジに、ある学生がいます。その学生は、英語から始めて、もう二年以上いるのですが、初めは、イエス様を信じているかわからない感じでした。けれども去年年末からどんどん変わり始めました。心や、考え、習慣が変えられていきました。聖霊のバプテスマも先学期に受けました。先週一緒に祈る機会があったのですが、彼は、本当に主を自分の主として、愛し、あがめていました。そして、主を愛します、と祈っているうちに、神様から、将来のビジョンや働き、使命について示されるようになりました。本人は、「自分は、普通の信者でいるだけで良いんです。」と祈りますが、主を愛すれば、愛するほど、ビジョンが示されるそうです。
イエス様は、能力のある人や、意気込みの強い人を求めているのではないのです。神様の心を理解する人、神を愛する人を今日も求めています。そのまま、ありのままで、神様に従いはじめたらいいのです。今もっているもので十分ですから。
イエス様に代わって、みなさんに今日聞きます。
「あなたは、イエス様を愛しますか。」
ぼ
2015年4月5日イースターバイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/D9VBuwL3iOI
聖書箇所 ヨハネ20章
あなたは、今日どのようにイースターを迎えますか。
イエス様の復活の証人たちのリアクションから学んで見たいと思います。ヨハネの20章は、最後の節によると、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」 But these are written that you may believe that Jesus is the Messiah, the Son of God, and that by believing you may have life in his name.
イエス様の親しくしていた人たちは、みな、がっくりしていました。あの優しいイエス様、権威のあるイエス様、この世の中を変えてくれると思っていた素晴らしいリーダーが十字架の上で死んでしまったのです。弟子たちも、家の中に閉じこもり、人々に弟子だと言うことで責められるのではないかとびくびくしていました。イエス様の十字架に最後までついて行った女性たちも悲しみでいっぱいでした。
①マグダラのマリヤ ヨハネ20:1,2, 16, 17
v1,2 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
v16, 17 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
イエス様の復活の第一証人。となった。マグダラマリヤは、七つの悪霊から解放された女である。彼女は、多く赦され、多くイエスを愛する者となった。イエス様に解放されて以来、イエス様の行くところについて行き伝道していたのだそうです。
マリヤのイエスへの尊敬と愛は行動の伴うものであった。マリヤは、夜が明けていの一番で、主の墓に駆けていった。愛は、私たちに行動を起こさせます。そして、イエス様は、一番に、そんな主を愛するマリヤに現れてくださったのです。
みなさん、主を愛するものは、必ず主を見つけます。
そして、マリヤは、イエス様にすがりついた。もう、どこにも行かないで下さいと言わんばかりです。
しかし、イエス様は、「わたしにすがりついては、いけません。」と言われました。
マリヤは、目の前に見えているイエス様にすがる人生から、見えないイエス様とともに歩む人生に変えらることに導かれます。私たちも、はじめ教会に行き始めたとき、全てのことをメンターのような人に教わり、いろいろと手取り足取り教わったりします。しかし、一生その人についてその人を通して神様を知るのではなく、ある時、見えない神様と自分との二人の関係をしっかりと築くようになります。そして、聖霊様によって導かれ、歩んでいくと言う道を知っていくのです。
マリヤも、目に見えているイエス様にすがることを卒業し、この後に来る助け主聖霊様とともに生きる道に導かれていくのです。
②ペテロとヨハネ ヨハネ20:3-9
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。8 そのとき、先に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
二人とも驚いた ペテロは、誰かが体を取って行ったにしては、亜麻布の残り方がおかしいと、不思議に思った。しかし、ヨハネは、「見て、信じた」とある。この後も、ヨハネは、あまりにもその事実に圧倒されたのか、みなに主が復活されたのだとは言わなかったが。。。
ヨハネは、空の墓を見たときに、聖書の言葉が成就したことを悟ったのでした。
V9 聖書のことばを理解していなかった。did not understand from Scriptureとあります。心の中に入っていなかったので、見ていることが何であるかが分からなかった。
私たちも、頭の中にある聖書の言葉が、目の前に起きていることと、結びつけることができなければ、なんの悟りも得られないのです。
私たち、クリスチャン生活の大切なことは、神の言葉を心に蓄え、そして、それを人生に適用することです。適用がなければ、何も起きないのです。
③トマス ヨハネ20:24-29
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
弟子の一人のトマスは、あいにく復活のイエス様が他の弟子たちに現れた時に、居合わさなかった。トマスは「見るまで信じない」と言いました。また、「イエス様の傷に手を差し入れて確かめないと信じない」と言いました。
皮肉なものではないでしょうか。マグダラのマリヤは、12弟子でもないけれども、心からイエス様を愛し、どこにでもついていく人でありました。復活の朝も、朝早く走って墓に行きました。そのマリヤは、一番にイエス様にあいます。しかし、トマスは、弟子たちとも一緒にいなかった上、親しい友達であるほかの弟子たちが、復活のイエス様にあったという証言を信じませんでした。そして、8日の後、やっと本物のイエス様にあうことになるのです。トマスは、疑いの心をどうも持ち続けていたようです。十字架で死刑にされたリーダーにがっかりし、弟子たちとも一緒におらず、ひねくれていたのかもしれません。この疑いの心が8日もイエス様に出会うことを遅れされたのです。
イエス様が復活したのは、事実なのです。けれども、イエス様に実際であった弟子たちは、喜びに包まれており、トマスはまだ失望の中にいます。
私たちに、何を教えているでしょうか。聖書の事実も、実際のイエス様の存在にも、目が開かれていないなら、その人は、失望の中にい続けることができるのだ、ということではないでしょうか。
それが、同じ弟子であっても、です。
み言葉を覚えていない→み言葉を忘れる→心の目で見ない→不信仰・信じない→失望・希望をなくす
というサイクルの中に人は、陥ります。もし、今、みなさんの中で希望が持てない、がっかりしている、将来が信じられないなどと言う方がいたら、第一に神様のみ言葉を心に入れることからお勧めします。
第二に、日々の生活の中で、み言葉が言っていたことを探すことをお勧めします。そうすれば、少しの進歩、小さい奇跡にも気がつきます。そして、結果を見なくても、結果を信じることが出来るようになるのです。
トマスは、イエス様に出会いました。そして、イエス様は、トマスに傷跡にさわらせてあげまました。トマスは、納得します。
そして、イエス様は、言われました。「見たから、信じたのですか。」「見ずに信じるものは幸いです。」と。Because you have seen me, you have believed; blessed are those who have not seen and yet have believed.
さあ、今日は、イエス様の復活をお祝いするイースターです。み言葉を心のうちに蓄えましょう。そして、よく心の目を開いて、み言葉と見ているものを一致させましょう。そして、イエス様を信じましょう。
ぼ
2015年3月29日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/irHRWrVLNuw
今日は、イエス様がいよいよ十字架に付けられましたところからお話ししたいと思います。イエス様は、散々鞭で打たれて、弱っておられました。もう十字架に付ける前に本当は死んでいてもおかしくないくらいに弱っていました。そして、他の犯罪人とともに十字架に付けられました。
そして、息を引き取るまでに七つの言葉を話されました。
ユダヤ文化では、数字や文字にも意味があります。7というのは、完全数です。完全に完成されたということです。
イエス様が話されたこの最後の七つの言葉に私たちに重要なメッセージを含んでいます。
① 赦しの大切さ
ルカ23:33-34
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。When they came to the place called the Skull, they crucified him there, along with the criminals—one on his right, the other on his left. 34 Jesus said, “Father, forgive them, for they do not know what they are doing.” And they divided up his clothes by casting lots.
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」, “Father, forgive them, for they do not know what they are doing.”
イエス様は、罪もないのに、人々にあざけられ、リンチを受け、馬鹿にされました。名誉も尊厳もひったくれもありません。そのような時に、人を赦したのです。赦せないようなことがあったときに、赦したのです。
そして、この言葉は、全てを終えて、最後に赦すと言ったのではなく、まず第一に赦したのです。
これは、イエス様がこの地上に来られた目的がはっきりと示されているのではないでしょうか。
ヨハネ3: 17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him.
イエス様は、私たちがまだ罪人であるときに、このように取り成されました。この第一の言葉は、私たちに「赦し」の大切さを教えているのではないでしょうか。
私たちも赦すものとなりましょう。
② アイデンティティを自分のものにすること
ルカ23:42-43
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」42 Then he said, “Jesus, remember me when you come into your kingdom.”43 Jesus answered him, “Truly I tell you, today you will be with me in paradise.”
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」“Truly I tell you, today you will be with me in paradise.”
二番目は、隣にいた犯罪人がイエス様が御国に行かれたとき、思い出してくださいと言ったことに対しての言葉です。ここで、イエス様は、二つのアイデンティティについて騙っておられます。
まず、イエス様は、あなたに、イエス様を受け入れるなら、あなたもパラダイスにいるのです。ということを言われました。あなたは、地上に属するものではなく、永遠に属する、天に属するものとなるのです。ということです。
また、もう一つは、神の子としてのアイデンティティです。イエス様は、むごい肉体的、精神的虐待を受けました。身も心もぼろぼろだったはずです。普通なら、人と言うのは、ここで、自分の尊厳、アイデンティティを失いそうになりましす。しかし、イエス様は、このような状態で、罪人の一人として十字架刑にかかっているその場所で、隣の犯罪者に対して、「今日あなたは私とともにパラダイスにいる」と宣言できたのです。イエス様は、はっきりと、自分がどこから来て、何のためにきているか、自分の地上の目的をはっきりと知っていたからです。
もう一つのメッセージは、あなたは、自分の人生の意味を知っていますか? 自分のアイデンティティをしっかり持っている人は、このように強いのです。
③ 両親・家族を大切にすること
ヨハネ19:26-27
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。27 それからその弟子に、「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。When Jesus saw his mother there, and the disciple whom he loved standing nearby, he said to her, “Woman, here is your son,” 27 and to the disciple, “Here is your mother.” From that time on, this disciple took her into his home.
「女の方。そこに、あなたの息子がいます」“Woman, here is your son,”
イエス様は、ご自分が死ぬ前に、しっかりと、自分の母を自分の友達に託します。母のことをよろしく頼む。母よ、どうぞ、この人を自分の代わりと思って世話になってください。と。
みなさん、私たちの神は、家系の神です。アブラハム、ヤコブ、イサクの神とご自分を紹介される神は、家族、家系を大切にします。キリスト教になったから、家族の反対にあい、家族と断絶するのは神様の御心ではありません。産めよ増えよ、地を満たせと言われた神様は、あなたの家系全体を祝福したいと思っておられるのです。
イエス様のもう一つのメッセージは、神が大切にされているように、あなたの家族を大切にしなさいということです。
次の三つの言葉は、人間最大の三つの恐れに打ち勝つために語られました
④ あなたは、決して見捨てられない 恐れその一、人に見捨てられる・孤独
マタイ27:46
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。About three in the afternoon Jesus cried out in a loud voice, “Eli, Eli, lema sabachthani?” (which means “My God, my God, why have you forsaken me?”)
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」“My God, my God, why have you forsaken me?”
イエス様は、父なる神に見捨てられました。私たちの罪を身に背負い、人にも神にも罪人の一人として数えられたからです。イエス様は、黄泉、すなわち地獄の待合室まで下られたと書いてあるとおりに、この後死んで葬られるのです。
しかし、聖書には、「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない」Never will I leave you; never will I forsake you.という言葉がありますね。
イエス・キリストが私の代わりに神に見捨てられたから、信じる私たちには、決して神様はお見捨てにならないのです。
私は、神様を信じる前、いつも友達や恋人、また職場の人たちに嫌われないように、捨てられないようにと恐れながら生きていました。しかし、神様を信じてから、そのような恐れから解放されました。たとえ、人が私を捨てても、神様は決してキリストによって、私をお捨てにはならないからです。
⑤ 霊の渇きからの解放 恐れその二、不足・不満
ヨハネ19:28
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。Later, knowing that everything had now been finished, and so that Scripture would be fulfilled, Jesus said, “I am thirsty.”
「私は渇く」“I am thirsty”
イエス様は、初めから父なる神様とおられた方です。いつも愛、喜び、平安で満たされていました。私が、初めてクリスチャンになって思ったことは、「わーーなんて、全てが美しいんだろう。全てをいとおしく感じる。」「クリスチャンになる前の生活を考えると、まるで空気の無いところで生きているかのように、苦しく感じる」と思いました。愛、喜び、平安に満たさされる経験をしたからでした。
イエス様は、逆を行かれたわけです。空気のある世界から、無い世界へ。。。今まで渇いたことのない、霊が渇いたのです。そして、「私は渇く」と叫ばれたのです。
人間というものは、いつも将来について心配しています。明日食べものが十分にあるだろうか、着る物、住むところがあるだろうか、将来の仕事、幸せが来るだろうかと、いつも何かが足りないことを心配して生きているのではないでしようか。
イエス様は、究極の飢え乾きを体験しました。精神的にも、肉体的にも、霊的にもその渇き、足りなさは、限界を超えていました。
それは、私たちが二度と渇くことが無いために、イエス様が渇きを体験してくださったのです。誰でも、イエス様のところに繰るならば、その人は二度と渇くことがないのです。イエス様を信じる者には、二度と渇くことの無い生ける水の川が腹から流れ出るようになるのです。不足、不満はなくなるのです。
⑥ 義のための代価は払われた 恐れその三、変わることが出来ない、どうしようもない自分
ヨハネ19:30
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。When he had received the drink, Jesus said, “It is finished.” With that, he bowed his head and gave up his spirit.
「完了した」”It is finished”
何が完了したのでしょうか。それは、罪が赦されて、神に義・正しいもの、罪の無いものとみなされるための、いわば、罪の負債を帳消しにするための代価をはらいきった。ということです。
人間のもう一つの恐れは、自分が変われないこと。自分のどうしようもなさです。
イエス様は、この不可能を可能にされました。心の変革、生き方の変革を可能にされました。
本当は、私たちは、滅び行く罪人でした。本当は、罪人なのですから、イエス様が受けた罰を受けて地獄に行くべきものだったのです。地獄行きをまぬかれるには、いわば莫大な保釈金を払わなければいけないのです。そのいわば保釈金、罪の代価をイエス様は、十字架の死で全て払ってくださったのです。永遠の死から永遠のいのちへ変換されました。死から命に変わるのです。不可能が可能になったのです。そうすれば、どんなにあなたが難しい人でも、キリストにあって、キリストに従うならば、すっかり帰られることが出来るのです。ここに私たちの人生の希望があります。
イエス様は、完了したと言われます。あなたも、変われます。と言われているのです。
そして、最後に生き方の奨めをされました
⑦ 神に委ねた人生の奨め
ルカ23:46
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。 Jesus called out with a loud voice, “Father, into your hands I commit my spirit.” When he had said this, he breathed his last.
「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」“Father, into your hands I commit my spirit.”
イエス様の最後の言葉となりました。いよいよ息を引き取る際に言われました。わが霊を御手にゆだねます。と。人間の一番の恐れは、死に対する恐れです。みんな、お金持ちになるために一生懸命働きます。そして、富を得た人の次の願いは、死なないことです。将来の医療の発達を信じて、たくさんのお金をかけて死んだ体を冷凍にする人もいます。
イエス様は、完全にご自分の霊、全存在を神様の御手にゆだねました。そして、黄泉にくだられるのです。しかし、もうすぐイースター・復活祭ですが、3日後に蘇られます。永遠なる方が、死になど繋がれることはないからです。
それは、誰でもこの復活のキリストを信じるならば、永遠のいのちが与えられるようになるからです。イエス様は、死ぬことさえ、惜しみませんでした。それほど、父なる神を信頼していたのでした。イエス・キリストを信じている人の強さは、死に対する恐れがないことです。死の向こうには、永遠のいのちが待っているからです。
ですから、昔、日本でも、キリスト者の迫害があり、踏み絵などで、つかまった人が殺されましたが、みな、輝いて死んで行ったと記録されています。
しかし、私たちの霊を神様にゆだねる、ということが必要になります。
もうすぐ来週は、イースター・復活祭ですが、復活祭のときの聖書の言葉に次のような言葉があります。
ヨハネ11:25, 26 今、生きていて私を信じるものは、死んでも生きるのです。And whoever lives and believes in Me shall never die.
死んでも生きるのイースターを日常化するにはどうしたらいいのでしょうか。それは、自我に死ぬことです。私たちは、生きれば生きるほど、人生の困難の中心は、自分自身であると気づきます。自分の内側が難しいので、物事がうまく行かず、幸せや満足感が薄い。。。。イエス様は、自分の全てを父なる神にお渡ししまた。生きるも死ぬも、あなたのものです。どうぞ、好きなようにしてください。とお任せになりました。
私たちも、自分の夢、自分のやり方、自分自分と言う思いをおいて、神様のやり方に委ねるときに、命を体験し、自由になるのです。
永遠のいのちの入り口がここにあります。永遠の命は、日々の生き方です。心を決めて、神様に全てをゆだねて、イエス様を信じませんか?
さあ、イエス様からの最後の七つのメッセージ、
一番大切なこと、赦すこと、あなたのアイデンティティをしっかりもつこと。
そして、家族を大切にすること。
三つの恐れからの解放の約束。
そして、生き方の奨めでした。
もうすぐイースターこれらのことを黙想しながらお迎えしたいと思います。
ぼ
2015年3月22日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/y2xP2rKRzFA
ヨハネ19:1-16
そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。
2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるために彼らに引き渡した。
いよいよ、イエス様が十字架に掛けられる日が近づいて来ました。イエス様は、当時ユダヤの地方を支配していたローマの総督ピラトに引き渡されます。
今日は、イエス様を十字架に掛けた人たちについて注目してみたいと思います。
① 群集
時は、過ぎ越しの祭。大勢の人たちが祭を祝うためにエルサレムに来ていた。
ローマの総督、裁判官であるピラトは、イエス様に罪を認めないので、釈放したかった。18章では、イエス様を釈放しようと試みたが、群衆は、イエス様ではなく大罪人バラバを釈放するように求めた。
また、この群衆を扇動していたのは、祭司長などの宗教指導者たちであった。宗教者たちは、イエス様が妬ましかったので、イエス様をのぞきたかったのである。
19章でも、群衆は、「除け、除け、十字架につけろ」と何度も繰り返し叫んでいる。
群衆と呼ばれた人たちが、イエス様に会いに行ったのではなかったのだろうか? 群衆と呼ばれた人たちが、癒されたのではないか? イエス様の教えに耳を傾けたのではないか? また、満腹になるまでパンと魚をふるまってもらったのではなかったのだろうか?
イエス様は、このような人たちに十字架につけられたのでした。
イエス様のことを見聞きし、興味を持ち、また癒されたり、良いことを体験するが、個人的な関係を持っていなかった。そして、いとも簡単に、宗教指導者たちの掛け声に従ってしまう。
イエス様が殺されようが、どうなろうが、自分とは関係がない。と思ったのです。良いことを見聞きしたり体験したけれども、個人的な関係がないならば、イエス様の十字架の痛みは、彼らに何のインパクトもないのです。
ですから、リーダーの掛け声一つに何の考えもなく、さーっとついて行ってしまうのです。いわば、真理に対して無関心な人たちです。思想のない人たちと言っていいのかもしれません。
イエス様は、このような、天の御国、真理、真の神様、宗教よりも愛に生きる、などということに無関心な人たちに十字架につけられたのです。
一つ目は、真理に無関心な人たちでした。
② ピラト
ピラトは、前々から会いたいと思っていたイエス様にやっと、こんな形で会えました。18章では、イエス様にいろいろと質問しています。そして、イエス様をだんだん求めるようになりました。「真理とはなんですか」とも聞いています。真理の探究者となりました。
また、イエス様を求めていますし、この良い人をどうしても罪に定めたくありませんでした。だいいち、罪を認められなかったからです。そして、イエス様をどうにか助けようと考えました。18章では釈放しようと試みたが、結果バラバが釈放されてしまいます。
先ほどの、聖書箇所を読んでも分かるように、ピラトは、ユダヤ人とイエス様の間を行ったり来たりします。そして、どうするか、判断に困っています。それは、なぜでしょうか。彼には、イエス様を生かすという権威があったのではないでしょうか。なぜ、こんなに困らなければ奈良なのでしょうか。
彼は、自分の信念、また神や真理よりも、自分の生きている世界、住んでいる領域において面目を保ちたかったのです。
ユダヤ人を満足されたい。また政治的にも丸く治めたい。そして、何より、最後の決め台詞となつたのは、ユダヤ人のこの言葉でした。
ヨハネ19:12-13
こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
ピラトにとっては、カイザルに対する忠誠心を疑われるくらいなら、この罪のない人を殺した方がましだったのです。つまり、カイザルの気持ちを害するくらいなら、一人の罪のない人を死刑にするほうが良かったのです。
みなさん、真理を選ぶときには、犠牲が伴うことをピラトは知らなかったのです。自分が犠牲を払ってまでも、真理を手には入れたくなかったということです。
聖書の箴言の書には
神を喜ばせることよりも、人を喜ばせることを選ぶなら、罠にかかります。というような言葉があります。究極的には、真理を得るには、人に嫌われたくないという自分を取るか、神を取るかという選択になるのです。
③ 父なる神、御子イエス様の従順な姿
さて、もう一人イエス様を十字架にかけた人がいます。それは、この聖書の箇所には直接的にでてきていませんが、父なる神様です。
ヨハネ19:10-11
そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。
ピラトが釈放したくて、自分には権威があるんだぞ、と言い出しました。するとイエス様は、「上からの権威でなければ、ピラトでもイエス様の生死に関する権威は何もない」と、おっしゃいました。すなわち、イエス様が十字架にかかられるのは、上からのことだとおっしゃいました。人間の手にかかっているのではない、というのです。
イエス様は、父の計画にもくもくと従われました。何を聞かれても、自分の有利になるようなことは言わず、静かに従われました。イエス様は、何の罪も犯していないのに、極悪人がつけられる十字架につけられようとしているのです。平手打ちをされ、つばを吐きかけられ、人々に馬鹿にされ、笑われました。しかし、決して、自分の面目を保つために、何一つ自分を守るために口を開くことをされなかったのです。
どうしてでしょうか。
それは、私たちの罪を背負うためでした。私たちが罪赦されるためでした。私たちが永遠の命を持つためでした。
神様は、私たち人間をお造りになりました。私たちに素晴らしい宝物を一人ひとりのうちに与えました。しかし、私たちには罪があります。それは、ピラトのような、また群集のような、私、わたしがかわいいという、真理に無関心な心です。
神は、そんな私たちを救われたいと思われたのです。
ですから、本当は、罪人である私が受けなければいけなかったその刑罰をイエス様に負わされたのです。そして、誰でもこのイエス様を信じるものには、罪が赦され、永遠のいのちが与えられるようにされたのです。
イエス様は、この父なる神の計画にもくもくと、けっして自分を守ることもなく従われたのです。
ピラトと違うのは、イエス様は、真理のために多大な犠牲を払われたのだということなのです。
それは、後の日に、多くの実りを見るためでした。そして、実際そうなりました。私もイエス様を信じて救われました。それは、私を信仰に導いてくれた人の命も救いました。そして、私の家族を救いました。また、私を通してたくさんの人に伝われました、今も、伝わり続けています。
さあ、みなさんに質問します。あなたは、今日のメッセージの誰に当てはまりますか。真理について無関心な群衆でしょうか。また、真理を求めているが、最終的に、神よりも人を選んでしまったピラトのようでしょうか。
いずれにしても、真理を受け取るには、犠牲が伴います。群衆と言われている一人が、もし、あの時、宗教指導者にノーといったならば、そこで救われていたでしょう。ピラトが、たとえカイザルに背いたと言われても、あの時、イエス様を求めつづけたのならば、イエス様に出会い、真理を悟ったでしょう。
イエス様に出会うには、何がしらの犠牲が伴うのです。
しかし、私たちの払う犠牲は、イエス様の払ってくれた犠牲に比べたら、比べものにならないくらい小さいのです。
その犠牲を払ってイエス様に出会いませんか。
もうすぐイースターです。今日のこのことを心に思いめぐらしながら、今週一週間すごしましょう。
ぼ
三人のアップ写真。たっくさんお話しして、たっくさん働いてくださいました。。。あと、たくさん食べました。笑
私たち、小さな開拓教会、しかも異国の地。何が嬉しいかというと、助っ人です。。。
南大阪福音教会から、一日私たちの教会を訪問してくださった方がありました。
しかも、旅先のアイダホの東端からわざわざグレイハウンドバスに乗って夜行でシアトルに来てくださいました。
朝9時くらいについて、早速我が家に来てくださいました。一時も休むこともなく、ひたすら、夜7時くらいまで私のお手伝いをしてくださいました。
すっごく助かりましたーーー。
しかも、働いている間、いろいろとお話を聞きました。
どのように神様にであってクリスチャンになったのか。
どのように家族がクリスチャンになったのか。
神様にお祈りすると、いつもきかれること。。
たくさんの奇跡的な神様からの助け、導き。。。
本当に励まされました。
改めて、神様は生きているんだなー。どんな祈りにも耳を傾けてくださっているんだなーと感動しました。
そして、彼は、ゆっくり眠ることもなく、朝、三時半に家をでて、飛行機に乗りました。
頭が下がります。
今度シアトルに来る時は、ゆっくりしていって欲しいです。
私も今度はよくおもてなしをしたいと思います。
しかし、人一人の人生の体験って豊かですねーーー。
人って素晴らしい。神様ってすばらしい!
ぼ
礼拝後、しずかさんと
先月、今月と日本からの訪問者が多いです。
先月ベイビーシャワーをして、赤ちゃんのお祝いをした方のお母様が日本から三週間来られていました。
お母様はクリスチャンで、毎週礼拝に来てくださいました。
とっても素敵な方で、もっとゆっくりお話しができたり、どこかお連れで来たりしたら良かったのですが、
お母様もお孫さんたちと、娘さんのお世話で忙しくされていました。
今度来られた時は、ゆっくりと過ごせたらと思います。
住んでいる国が違っても、なんだか近く感じる出会いでした。
ぼ
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