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ぼくしのめがね

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水曜日のバイブルスタディ 詩篇52

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みなさんこんにちは。毎週水曜日の朝10時半からやってます、バイブルスタディのおすそわけです。ちなみに、昨日みんなで食べたランチはチキントルティーヤスープでした。また写真をとるのを忘れました。



詩篇 52篇



指揮者のために。ダビデのマスキール。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た」と言ったときに



1 なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。



2 欺く者よ。おまえの舌は破滅を図っている。さながら鋭い刃物のようだ。



3 おまえは、善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している。セラ



4 欺きの舌よ。おまえはあらゆるごまかしのことばを愛している。



5 それゆえ、神はおまえを全く打ち砕き、打ち倒し、おまえを幕屋から引き抜かれる。



6 正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。



7 「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」



8 しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。



9 私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。



ダビデが、サウル王からいのちを狙われているとき。この詩篇の背景は、Ⅰサムエル記21, 22章にあります。 ダビデが祭司アヒメレクに会いに行きます。祭司はこのダビデを励まし、パンを与えて食べさせ、そして何の武器ももってないダビデに祭司アヒメレクはダビデがかつて倒した、ゴリヤテの剣をわたした。ちょうどそこに、エドム人ドエグがいました。ということは、彼は、改宗して神を礼拝する人になっていたということでしょう。しかし、このドエグは、この後、サウルにダビデがアヒメレクに会いにいっていたと告げ口をします。そして、このあと、大変なことになります。サウルはアヒメレクとダビデが組んで謀反を企てているとし、祭司たちを殺せと命じます。しかし、家来たちは神の人を殺すことができず、躊躇します。しかし、このエドム人ドエグは、85人の祭司たちに撃ちかかって殺してしまいました。なんという悲惨な出来事でしょうか。

その時の、ダビデの詩です。



一節から四節までは、この神をも恐れないドエグのしたことに対する、怒りと神様はきっとその罪に報いられると表現しています。



そして、八節から一転して、



「しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みにより頼む。」



と宣言しています。



ダビデは、このような事態のなかにおいても、決して神の守りを疑うことはありませんでした。自分は、神の家の外のものではなく、神の家の内にうえられているものであると宣言しています。 私たちも、何か困難にことに遭遇するときに、自分が何者であるか、自分のアイデンティティがしっかりしていると、あらゆる疑いの思いから解放されます。

このあと、ダビデのもとに、ひどい殺戮現場から逃れてきた、アヒメレクの息子をひきとります。そして、「私といると安全だ」と言い切ります。サウルにいのちを狙われているダビデとともにいて、どうして安全といえたのでしょうか。それは、ダビデの確信にあります。ダビデは、自分は神の家に植えられているものだという確信と、世界で一番強い全知全能の神のうちにいるなら、安全だという確信があったのです。



私たちも、この世の中にあって、このように宣言し、人々を助け、救いに導くものでありたいと思います。それは、私たちの信仰、神にある確信、アイデンティティから始まるのです。



ダビデは、更に、自分は「オリーブの木のようだ」といいます。オリーブの木というものは、年中みどりの葉をつけているそうです。いのちと豊かさの象徴ですね。神の家にあって、つねに青々と葉を茂らせるいのちにあふれている存在であると、このような悲惨な試練のなかで、宣言することができています。



そして、「世々限りなく、神の恵みにより頼む。」と、宣言しています。



私たちは、試練そのものに気をうばわれたり、誰がどうした、何がこうなった、何がない、これが足りない、なかなか状況がかわらない、ということに目をとめれば、不平不満、疑い、不信仰と、落胆、うつになります。



しかし、神の恵みを数え始めるとき、感謝が沸き起こります。

感謝が沸き起こると、信仰が引き上げられ、信仰が引き上げられると、希望があたえられ、そして、忍耐して神のなさることを待てるようになります。



ダビデが、続いて詠っているとおりですね。



九節 「私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。」



私たちも、頭で理解できない、難しい問題にぶち当たったとき、試練や悪いことに巻き込まれたとき、その問題に目をとめることをやめ、恵みを数えましょう。

落ち込むとき、足りないものを数えるのではなく、いま与えられているものを数え、感謝しましょう。

そうするとき、せっかちな現代社会に住んでいるクリスチャンである私たちに、忍耐が与えられます。



この世は、すべてめまぐるしい速度でまわり、クリスチャンたちでさえ、早い解決、早く結果を見たいとあせることですが、神の時をまてなければ、神のみ業をみることができません。



神の人でありたいと願うならば、神のなされることを待ち望みましょう。



ダビデの経験した、詩篇52篇の祝福が皆さんの上にありますように。神様のめぐみが注がれますように。お祈りしています。




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ソウルメイトになるために ③

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水曜日バイスタ Adoration Prayer

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みなさん、こんにちは。



昨日のバイブルスタディでは、愛の祈り/ Adoration Prayer について学び、実践しました。



愛の祈り/ Adoration Prayer とは、私たちを花嫁とみなしてくださってる主と愛の関係を構築していく祈りの生活です。



私たちは、ご主人様にお願いする立場でなく、花嫁の立場を神様に与えられています。花嫁として神様と深い交わりをもつことをどれほど、神様は望んでおられることでしょうか。



この祈りは、み言葉をそのまま用いて祈っていく祈りです。

み言葉に同意するときに、神様の力が解き放たれます。自分のうちにもそとの世界にもですね。



そして、み言葉に表されている神のご性質にもとづいて、神をほめたたえていきます。そして、祈り進むうちに、私たちの心が神のみ言葉の力によってたて上げられ、満たされ、そして、神のみ心にそって世の中のためにとりなしの祈りに導かれます。



昨日は、Ⅰヨハネ4:16-19 までを皆さんで祈りました。



16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、まあ信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。



17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。



18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。



19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。



そして、次の項目にそって祈ってみました。 上から、み言葉に同意し、書かれていることを宣言していくうちに、自然に神をほめたたえ、そして悔い改めやとりなしに導かれます。これをしなくっちゃと思わなくても、大丈夫です。



- 同意の力 (アモス3:3) 



 例) 神様、あなたは、愛です。またその愛の中に私たちは入れられています。あなたは、愛によって、私たちを粉この世にあってキリストのようなものにしてくださいました。あなたをほめたたえます。ありがとうございます。あなたの愛は恐れをしめだしますから、ありがとうございます。などなど。。。。



- 宣言



例) 私たちは、恐れません。私たちは罪からの刑罰から解放されたからです。私たちは、愛するものとされました。などなど。。。。



- 悔い改め



例) 神様、私は、あなたの愛の中に入れられ、恐れと関係のないものとされているのにもかかわらず、悪魔の言葉に同意してしまい、恐れを自分の中にはいることをゆるしていることを赦してください。あなたのみ言葉に同意し、愛の中にいきます。などなど。。。。



- 感謝



- 賛美と礼拝



- 神のご性質に従って願う



例) 神様の愛がわたしだけでなく、また私を通して私の仕えている家族、地域、国に神様の愛が解き放たれますように。私の家族から恐れが締め出されるように。シアトルから恐れが完全に閉め出されるように。

私たちも、あなたがまず私たちを愛してくださったように、まず、自分から愛することを隣人にたいしてはじめることができますように。などなど。。。。



愛の祈りは、わたしたちの霊を神様に近づけると思います。決して形式ではなく、これをすればさえということではなく、神様との関係が深められるきっかけとなるのではないでしょうか。



信仰生活がまんねり化している方、ぜひ、祈りの生活をたてなおしませんか。

世の終わりが近づいています。

私たちはますます、整えられた花嫁となる必要があります。



祈りの生活は、花嫁と花婿の大切な語らいのとき、交わりのときです。



みなさんの祈りの生活がどういう形にしろ、祝福され、いきいきした命あふれるものとなり、みなさんがキリスト者として、神の霊にみたされて日々歩めますように。お祈りします。



この祈りは、いろいろなところでされていますが、有名なところで、www.ihop.org/prayerroom/ の二十四時間祈りの部屋のライブストリームでみることができます。

ここでは、賛美と祈りが二十四時間捧げられていますが、その多くがみ言葉を直接歌っていたり、祈っていたり、宣言したりしています。ご参考までに。






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アメリカ事情☆乞祈祷

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今朝のデボーションの聖書の箇所に、出エジプト20:17 「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならない。」という言葉がありました。



先日、またまた夫が「えらいこっちゃ」と言いながら帰宅しました。何があったかというと。夫の職場にいつもお得意様でくる、女性客がいるそうなんですが、彼女は病気らしく、前にも彼女の話は聞いていました。



その日も、彼女が来たらしいのですが、なんと、その日は、顔に大きなあざやこぶを作って、大変な様子で来たそうです。



「いったい何があったの?」 と聞くと、彼女は「昨日レイプされたの」と言ったそうです。



夫は腹がたって仕方がなかったそうです。



そのあと帰り道、一人の女子留学生が英語もあまり分からず、バスを待っていたそうで、最後のバスが、運転手のミスで彼女をとりのこして発車してしまい、なすすべもなく彼女は困っていたそうです。それが最後のバスだそうで、夫と回りにいた人たちは、いろいろと手を尽くして彼女が無事に家に帰れるようにしたそうです。「あんな目にあったらかわいそうだと思って」と、いつもより少し遅く帰宅した夫が話しました。



私は、カウンセリングをアメリカ人にもしますが、このような性的な罪の犠牲者にたくさん出会います。その多さに驚きます。うんざりするほどです。その中には、父親、母親、おじ、祖父、兄弟、近所のおじさん、などという近い存在から性的虐待を受け続けてきた人もいたり、悪魔礼拝の儀式に使われるいけにえとして、小さいときから、繋がれて生活し、つなぎをとられるときは、儀式として性的虐待をされるときだ。。。といったことや。。ひどい話しを山ほど聞きました。



この国って。。。。。いったいどこまで。。。



日本でも、多少は聞きましたが、ここまでの多さではありません。日本でも最近はふえているのでしょうか。



アメリカの性犯罪の多さは、いったいどこからくるんでしょうか。

最近も、こどものときに誘拐されて長い間監禁されて、性的虐待を受け続けてきた女性が解放されましたね。ジェイシー・ドゥガードさん。



また誘拐されて、売春婦にさせられる人たちも多いです。

日本で行方不明者のチラシを見ることはありますが、この国の行方不明の子どもたちの数の多さとは比べ物にならないと思います。こころが痛みます。



アメリカの文化は、全てのものがセクシャライズされているように感じます。また、セクシーであることは、いいこと、ほめ言葉だったりします。小さい子どもたちの、ビューティコンテストも、大人顔負けの、色っぽいコスチュームでウインクしたり投げキッスをしたり。。。。。何かがちょっと、違う。あまりにも、子どもたちをセクシャライズしすぎている気がする。。。



ポルノ産業も、盛ん。ポルノもインターネットが普及し、見えない世界の大きな問題となっています。中毒が家庭を崩壊し、キャリヤも失うこともあります。深刻な問題です。



人間はどこまで、わがままになってしまったんでしょう。初めのみ言葉のように、隣人のものを欲しがる、うばっても自分のものにする貪欲さなのでしょうか。。。



人の罪とは恐ろしいものです。



この国には、またポルノを無くそう。ポルノ中毒者を解放しよう。とか、子どもたちを助けよう。健康な家族を助けよう。カウンセリング、セラピーといろいろと発達もしています。それだけ、ニードが大きいからです。



この国のために祈ってください。神様の力が必要です。子どもたちが守られますように。神様にある性のすばらしさがとりもどされますように。
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ソウルメイトになるために ②

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ソウルメイトになるために ①

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アメリカ事情☆乞祈祷

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先日、夫がふんふんっっ頭に湯気をたてながら、帰宅。今日は、町を歩いていて二人の人のために祈ってきたと。。。一人は、友達の友達の息子さん。手を怪我していたそうで、ランチのときにみんなでお祈りしたそうです。

もう一人の人は、夫がスターバックスに入ろうとしたら、しまってて入れなかったそう。

そこへ一人の男性がきて、スタバは今日はメーデーの騒動を避けるために、はやくしめたようだよ。と。

はぁ。あなたスタバの関係の方? と夫が聞くと、その人は、身の上話をし始めたそうです。これってよく、夫によくおきることなんですよね。。。

その人は、弁護士をしているそう。そして、十年前に離婚をして、離婚を期に、自分の身体をいたわらなくなり、不摂生が続き、あるとき、ついに心臓発作を起こしたおれてしまったとのこと。心臓は、その後、自分の心臓だけでは生きていけないことに。

そして、特別な機械をつけるようになったそう。

ところが、あまりに高い医療費に、完全にブロークしてしまい。つまり、貯金がすっからかんになったそうです。

その上、心臓という持病を抱えているため、医療保険に新しく加入することができなくなってしまったそうです。アメリカの医療保険は、日本の車の保険のようだと説明すると、イメージがわきやすいと思います。つまり、事故を起こした人の保険料があがるように、病気のある人の保険はあがりますよね。利用率があがりますから、それで、しかも、大きな病気を持っている人は、保険会社がうけいれたくないんですよね。

その人は、心臓のために病院にかからないといけないのに、かかれないと悩みを私の夫にスタバ前で打ち明けたのです。

夫は、私はクリスチャンです。あなたのためにお祈りしてもいいですか。と聞いたそうです。彼もルーテルのクリスチャンだそうで、ぜひお願いしますということで、

道端ミニストリーとなったそうでした。



アメリカに住んでいていつも腑に落ちないのは、医療のこと。

病気の人ほど、医療が必要なのに、お金がかかりすぎる。。。。

私も一度救急にいたったら1400ドル、日本円で12万円くらいかな。。。も請求されました。そして、あとから、医者にかかったお金、レントゲン代、レントゲンを取った人へのお代等々。。。あとから、あとから、請求が来ました。



この国って。。。。

このシステムって。。。。

と思わざるおえません。



神様が、夫が道端で祈った人に癒しをもたらしてくださいますように。

そして、多くのアメリカの人たちを癒してくださいますように。

そして、神様の御心にかなう、よい医療とシステムがこの国に与えられますように。

今は景気が悪いので、困っている人はたくさんいます。。。



祈りが必要です。



日本にいるみなさんは、こんな事情がアメリカにあるとは、想像しませんよね。



こちらでは、ランダムに行きたい病院にぱっといくのではなく、自分の持っている保険をとってくれるお医者さん、病院にいかなくてはいけないんです。

それから、自分の保険のプランでカバーされていないものは、自費になります。

ですから、よく病気を持っている人は、あとこれこれしかカバーされないから、と心配して、しょっちゅう保険会社に電話して、確認しないといけなかったり。。。

病院にかかってしまってから、保険会社から、あなたのこれこれの治療費は払いませんと支払いを拒否されたり。。。



日本人の感覚としては、病気の人には何も考えずに養生してほしいと思いますが、病気の人は、とっても忙しいのです。。



このへんも覚えて、お祈りくださったらありがたいです。

いつもご支援感謝します。



by bokushi


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水曜日のバイブルスタディ

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昨日は、水曜日。いつもの、女性のバイブルスタディが午前中ありました。10:30amから集って、賛美、そして、聖書を読み、分かち合い、祈りとランチを食べて交わりをしています。昨日は、Adoration Prayer の学びと実践をする予定でしたが、参加人数が少なかったため、延期にしました。ということで、これなかったみなさん、安心してください。来週以降に延期します。テキストブック、もってきてくださいね:) ;)



ですので、いつもどおり詩篇を読むことになりました。昨日の箇所は詩篇51篇でした。



17節 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。



罪を犯し、そして砕かれた心で神様の前にでているダビデの姿がうたわれている詩篇51篇です。みなさん、いろいろシェアしてくださいましたが、やはり、なんと言ってもこのダビデの姿勢に感動し大いに学ばされました。



「神へのいけにえは。。」と、ありますが、旧約時代には自分の罪のために動物が身代わりにいけにえとして神に捧げられました。人間と言うものは、ともすると、罪を犯したら動物を捧げよう→動物を捧げたので大丈夫→動物さえささげておけば大丈夫と言う風に、ただ宗教行事をするだけで、心が伴わないことになりやすものではないでしょうか。



しかし、ダビデは、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」だと言っているんですね。神に対して死んだのは動物ではなく、彼の心だと。彼の心は、罪の重みに気づき、自分のどうしようもない汚れた現実に打ちのめされて、心が砕かれた。心が死んだというのです。その上で、「神よ。あなたは、それをさげすまれません。」と言っています。ダビデは、神の心を知っている人ですね。神は、動物を捧げてもらいたいのではなく、私たちの心が変わることを一番願っておられます。そして、悔いた心を神は決してさげすまれたりなさらないのです。



このダビデは、続けて「10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」と歌っています。神こそが、彼を清め、回復させてくださることができると言うことを知っているのです。



私たちは、どうでしょうか。学びのときに、「まな板の上の鯉になる」という話しがでました。若い人には、この表現は難しいようですが。。。。はは。



ダビデにとって、罪は、神様との関係の妨げにはなりませんでした。むしろ、どんどん神様のふところに飛び込んでいますね。神の裁きは、最善であり、神は自分を正しく生きれるように助けてくれると信じていたからです。

神様との距離の近さがうかがえますよね。神様を信頼して、「まな板の上の鯉」状態で、私を煮ても焼いても結構です。私をあなたの料理のしやすいようにさばいてください。と言う態度です。これが神への信頼。神との近さです。



そして、もう一つは、自分の罪を憎み、その罪から離れる覚悟のたる態度と言えるでしょう。



私たちは、ともすると、隠れた罪にしがみつきはしないでしょうか。罪を犯したとき、さらに神様に近づけなくなったりするでしょうか。その場合は、私たちは、まだその罪を憎んでいないのです、その罪から離れる覚悟もないのです。罪が神とあなたの間にあって、あなたと神の距離を遠くしているのです。

それは、神よりも罪を愛しているともいえます。また罪は自己中心ですから、自分自身を愛しているということになります。



口先だけで、私は良くなりたい、変わりたいということは簡単です。しかし、罪を愛することをやめ、きっぱり捨てる覚悟をし、そしてまな板の上の鯉となって、神様のふところに飛び込むことが大切です。



「砕かれた心」が大切です。罪=自分・自意識・自己中心に対して心が死ぬことがなければ、まな板にはのっかれません。結局、私たちの成長の妨げは、自我なんですよね。。。。



神様は、良い方ですから、まな板の鯉を上手に料理しておいしいあなたに育ててくださいます。これなしには、私たちには、成長の道はありません。



みんなで、まな板の上の鯉になろう! と励ましあい。祈りあい、ランチを食べたのでした。。。。。



今度、またランチの写真のせますね。。。。皆さんの上に、神様の豊かな祝福がありますように!!!




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こちらシアトルです。

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こちらシアトルです。
みなさん。こんにちは。特に、日本にいるみなさん。いつも、お祈りと支援をありがとうございます。これから、ぼちぼちこちらの様子をブログと言う形で発信していきたいと思います。
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Takako Molgardさん

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