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ぼくしのめがね

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アメリカは理論主義、日本は心情主義

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先日、日本のテレビを見ていたら、国際関係についての議論がされていた。ある評論家が、「日本は心情主義だが、アメリカは論理主義である」とし、双方の意見の解釈についての見解を述べていました。

私は、ああ、本当だ。これだー。と思わされました。

日本の文化は、conforming 他者と一体になろうとする、右へ習え文化です。悪く言うと、共依存を生みやすく、自分の領域が一体どこまでなのか非常に分かりにくいということになります。どこからどこまでが、自分の権利なのか、自分の責任範囲はどこまでなのか。

たぶん、日本に住んでいる日本人なら、めったにこんなことすら考えないのだと思います。それが自然なのですから。

この他者とどこまでも一体化していくために、「空気を読む」という能力が発達していきました。空気を読んで何でも先回りして物事を判断して動きます。また、相手の心情を察することが最大の美徳とされ、また他人にそれを無言で要求する文化があると思います。

また、流暢に話す人よりは、朴訥としている方が信用されるというのです。

ですから、日本の裁判では、論が立つ弁護士よりも朴訥としている方が、勝訴するのだそうです。とつとつと話す裏にある心情を読み取っていただけるからなんでしょうか。日本では、日本語のたどたどしい宣教師も喜んで受け入れられます。ありがたくそのお話しも聞きます。ただし、何を言っているか理解していなくても、ありがたく聞き、日本語的に論が成り立っていなくても、受け取ります。それは、話し手のの心情を巧みに読み取りわずかに伝達された話の論説と一緒に受け取っているからです。

一方アメリカは、違います。

論理ありきです。同じ例で行くと、英語がたどたどしくて、パブリックスピーチをしても、受け取ってもらえるかどうか、疑問です。
よく知っている関係なら必死で聞いていただけると思いますが。この人が何を考え、何を思っているのかということを伝えられなければ意味がないのです。ですから、朴訥としている弁護士が有利だなんていう考えは全くありません。

どころか、その人の論点がどこにあるのかの方が重要ですし。その人の言論を聞いて信用できるかどうかを判断します。流暢でも朴訥でも言っていることが`論説が薄っぺらくては受け入れられませんね。

また、アメリカは、自分の身は、自分で守るという個人主義の国でもありますから、他人との境界線がはっきりしています。自分の責任、他人の責任の持ち分がはっきり分かれています。

日本のように、まだ先輩が働いているから、仕事はきりあげられるけれど、残業するというような、後輩に先に帰られる先輩の心情を察して意味の無い残業をするというようなことはないのです。

さて、私はアメリカで牧師をしていますが、この二つの文化をどう自分の中でも、人に対しても適用して行くかが、駆け出しの8年前は難しかったことでした。

よく、アメリカ人の先輩牧師から、「あなたは、聖霊様の役割をしようとして、神と人の間に割って入っている」と言われました。「あなたは、神ではなく、人なのよ。それ以上その人の問題の中に入ってはダメ」と境界線を引かれました。
「それは、ミニスターとしてのあなたの驕り」「罪よ」とまで指摘されたことでした。

私は、日本の文化をミニストリーに持ち込んでいたことに全く気がつきませんでした。

今となったら、よーく分かります。
具体例が書けないので、読んでいる人にはわかりづらいかもしれませんが。。。

アメリカの文化が良い、とか、アメリカの教会文化の方が聖書的だと言っているのではありません。ある分野においては、日本の教会の方がよく優れている分野もあります。

私の言いたいことは、私がどんな文化の中に生きているか気がつくことがミニストリーをする上で非常に役に立ち、個人の霊的成長、個人の信仰の成熟に役に立つということです。ひいては、他人の信仰を助けるためにもなります。

なぜなら、アメリカ文化に疑問を感じるとき、自分の持って生まれた日本の文化に疑問を感じるとき、戻るところは、聖書の文化になるからです。

真理が何と言っているか。

イエス様なら、こういうとき、どうされるか。ということに帰るからです。

如何せん、文化と言うものは、自分の身体や考えに染み付いているものですから、身体が自然に動いてしまいます。頭が自然にそっちの方向に動いてしまうものです。

ですからこそ、聖書に
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ロマ書12章2節) とあるのですね。

心と言うのは、原語では、Mindマインド、すなわち、私たちの考え、決断を下す場所です。そこを一新しないと、神様の御心は分からないというのです。

今日も、新しい気持ちで神様の御前に行きます。神様、どうぞ、私の考え方を変えてくださいと。神様のものの見方で、天の御国のやり方で、今日もミニストリーができますように。私の考え方を拡げて下さい。と、お祈りするものです。

皆さんは、自分の育った文化の中や、異文化の中で葛藤することはありませんか?


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東京都議会セクハラ野次☆日本の文化?

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私は、アメリカにいますが、日本のニュースは毎日チェックしています。

日本を知るため、日本のために祈るためです。

最近、残念なニュースがありました。それは、東京都議会で女性議員が質問中、男性議員からひどい野次が飛んだことです。

少子化や不妊治療などについての支援に関する質問でしたが、そこへ、「早く結婚した方がいいんじゃないか」「(子どもを)産めないのか」などという内容の野次でした。また、その野次につられてどっと他議員からの笑い声も聞かれました。

アメリカ生活も長くなってきた私には、本当に驚きすぎて、理解に苦しむ野次でした。

海外から記者たちのコメントに、これが日本社会の女性差別を端的に現しているとあった。

私もそれに同意します。

私は、異文化の中で宣教、牧会しています。日本人、アメリカ人を対称にミニストリーをしています。すると、アメリカ文化、日本文化にキリスト教に相反する文化があることに気づきます。また日本文化をただしていかないと、御国的な考え方がなかなか信徒の心に入らないことを体験しています。
文化と言うものは、人と、歴史が作り上げたものです。良い面もあれば、悪い面もあります。良い面は、その国、国民の長所として大切にすればいいと思いますが、悪い面すなわち神様の真理、ご性質にあわないものは手放したらいいと思います。

ミニストリーの中で真理に対する一番の障害がその人の来た国の文化だったりするのです。

と、すれば、このセクハラ野次問題。私たちクリスチャンにとっても人事ではありません。ただ一人のこころない野次を飛ばした一人の人の問題でもなさそうです。

日本人のものの考え方の根底に流れているものがあるのではないでしょうか。

それが、もしかしたら、信仰に影響してはいないでしょうか。それが、もしかしたら聖書の読み方に影響してはいないでしょうか。それが、牧会に影響していないでしょうか。

聖書の中には、たくさんの信仰の女性たちが出てきます。中でも、新約聖書ではイエス様も、直接大きく賞賛した人たちがいました。高価な香油のつぼを割った女性や、子犬でもテーブルから落ちたパンくずはいただきますと言った信仰ある異邦人女性ではなかったか。
イエス様は、井戸のそばで、サマリヤの女に話しかけたのではなかったか。
それらは、全て、現代の日本以上に女性が低く見られている時代の中での出来事だったのではないですか。

とすれば、イエス様は、私たちのお手本ですから、
私たちもこの世の流れに流されてはいけません。この世に住んでも、この世に属してはいけません。神の御国に属するにふさわしい行動をとって行きたいと思います。

この時代になっても、このような言動を公にする人がいるのか。。。とあきれる野次騒動である一方、日本人クリスチャンとして、神様の前に日本のために悔い改めて祈りたいと思います。



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礼拝/神殿の土台

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2014年6月22日日曜日礼拝

音声はyoutubeから、http://youtu.be/ON7It-HH2O0

聖書箇所
Ⅱサムエル24章,Ⅰペテロ2章9節, ロマ12:1

Ⅱサムエル24:1-2
さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。2 王は側近の軍隊の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、その民を登録し、私に、民の数を知らせなさい。」Again the anger of the LORD was aroused against Israel, and He moved David against them to say, “Go, number Israel and Judah.”2 So the king said to Joab the commander of the army who was with him, “Now go throughout all the tribes of Israel, from Dan to Beersheba, and count the people, that I may know the number of the people.”

Ⅱサムエル24:18-25
その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、主のために祭壇を築きなさい。」19 そこでダビデは、ガドのことばのとおりに、主が命じられたとおりに、上って行った。
20 アラウナが見おろすと、王とその家来たちが自分のほうに進んで来るのが見えた。それで、アラウナは出て来て、地にひれ伏して、王に礼をした。
21アラウナは言った。「なぜ、王さまは、このしもべのところにおいでになるのですか。」そこでダビデは言った。「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を建てるためです。神罰が民に及ばないようにになるためです。」アラウナはダビデに言った。「王さま。お気に召す物を取って、おささげください。ご覧ください。ここに全焼のいけにえのための牛がいます。たきぎにできる脱穀機や牛の用具もあります。王さま。このアラウナはすべてを王に差し上げます。」アラウナはさらに王に言った。「あなたの神、主が、あなたのささげ物を受け入れてくださいますように。」
24しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた、主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。18 And Gad came that day to David and said to him, “Go up, erect an altar to the LORD on the threshing floor of Araunah the Jebusite.” 19 So David, according to the word of Gad, went up as the LORD commanded. 20 Now Araunah looked, and saw the king and his servants coming toward him. So Araunah went out and bowed before the king with his face to the ground.21 Then Araunah said, “Why has my lord the king come to his servant?” And David said, “To buy the threshing floor from you, to build an altar to the LORD, that the plague may be withdrawn from the people.” 22 Now Araunah said to David, “Let my lord the king take and offer up whatever seems good to him. Look, here are oxen for burnt sacrifice, and threshing implements and the yokes of the oxen for wood. 23 All these, O king, Araunah has given to the king.” And Araunah said to the king, “May the LORD your God accept you.” 24 Then the king said to Araunah, “No, but I will surely buy it from you for a price; nor will I offer burnt offerings to the LORD my God with that which costs me nothing.” So David bought the threshing floor and the oxen for fifty shekels of silver. 25 And David built there an altar to the LORD, and offered burnt offerings and peace offerings. So the LORD heeded the prayers for the land, and the plague was withdrawn from Israel.

Ⅰペテロ2:9 
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるたるためなのです。But you are a chosen generation, a royal priesthood, a holy nation, His own special people, that you may proclaim the praises of Him who called you out of darkness into His marvelous light;

☆ 神の怒り

V1 さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。Again the anger of the LORD was aroused against Israel, and He moved David against them to say, “Go, number Israel and Judah.
再び主の怒りが燃え上っていたとあります。そして、主がダビデを動かして。。。と書かれていますが、同じ記事が、Ⅰ歴代誌21章にありますが、そこでは、サタンがダビデを誘惑したとかいてあります。聖書には神は人を罪に誘惑されないとはっきり書いています。ですから、ここでの解釈は、主の許しのもとでそれが行われたということです。しかし、すでに主の怒りがあったと言いますから、主は、ダビデの心の中のおごり、人々の高慢さを見て取ってすでに怒っておられたのです。私たちの心というものは、御しにくいものです。私たちの信じていることが態度になり、私たちの態度が結局行動になります。私たちの心で信じていることが神様からずれていたら、態度がずれ、行動が変わります。そして、それは、行動のみを正そうとしても、なかなか難しいのです。ダビデは、誘惑される前から、心が罪に向かっていたのでしょう。
私たちもそういうことはありませんか。自分の心にあることをまっしぐらに追い求め、神様をそっちのけにしているとき。そのような時は、人から止められても諭されても、気が変わることはありません。現に、ダビデは、v3で、ヨワブになぜそのようなことをするのかと問われますが、気を変えることなく、聞く耳もたず、ヨワブを説き伏せます。

(私の証し)

☆ ダビデの罪

ダビデの罪は、心の中に信じているものから始まりました。それが、罪の行動に向かわせたのです。ここで、なぜ国民を数えることが罪深いことだったのか説明します。
それは、当時、人口調査をするということは、数えられた人は、数えた人の所有となることを意味しました。ですから、本当なら、イスラエルは、主の民であって、イスラエルの王は、主の民を任されている羊飼いであるはずですから、主の民だとして、一人ひとり数えた人に対して贖いをしなければいけませんでした。(出エジプト30章)しかし、ダビデはそれをしませんでした。
これは、大変な高慢を意味しています。

私たちも、功績や成功を重ねるときに、神様の力でここまで来たのに、あたかも自分がすごいからここまで来たと、勘違いしていまうことがあります。成功すればするほど、ダビデのような過ちに陥りやすいのではないでしょうか。

しかし、ダビデの心の柔らかいのは、数えた後で、良心のとがめを感じたところです。悪いことをしたと悟ったのです。

However, ダビデは、この罪の結果として、国民70万人が病気で死ぬことになりました。
王であるダビデの罪の影響力は、70万人の死であった。新約の私たちも王である祭司(Ⅰペテロ2:9)と呼ばれている。私たちの影響力も小さくないことを自覚したい。

ダビデは、自分のしたことで民が死んでいくのを見て更に悔いました。

☆ 悔い改めと代価
 
… 預言者ガドが送られて、エブス人アラウナの土地に主のための祭壇を築きなさいと導かれる。アラウナは、V22 自分の持ち物をそのためにただで使ってくださいとダビデに差し出した。しかし、ダビデは、v24 「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」“No, but I will surely buy it from you for a price; nor will I offer burnt offerings to the LORD my God with that which costs me nothing.”
と答え、代価を払って祭壇を築いた。

そして、この場所が後に、ソロモンが神殿を建てる場所となった。この場所はモリヤの山だった。この出来事が、のちの神殿の霊的な土台となった。

☆ 新約の私たちが学ぶことは、礼拝の土台とは何か。

祭壇…神への捧げ物を置く場所。礼拝の場所。贖いの場所。罪あるものは、神に近づけない。動物の死による罪の贖いがあってこそ、神に近づける。そこで初めて礼拝ができる。

礼拝…仕える、仰ぐ、捧げるなどの意味がある。土台は、贖い。 
高価なものを捧げることが含まれていた。アブラハムはイサクを。また、ダビデも費用をかけずに礼拝を捧げたくないと言った。

ダビデが祭壇を築いたのは、モリヤの山であった。ここは、アブラハムがイサクを捧げるよう命じられたところであった。アブラハムがその神の声を聞いたときに、アブラハムは、それが最高の礼拝を意味することを悟った。なぜなら、犠牲が大きい。最善の最高の、唯一の最愛の者を神のために捧げることであったからです。しかし、アブラハムがイサクに手をかけようとしたとき、神が供え物の雄羊を備えて下ったことから、「主の山に備えあり」アドナイ・イルエと呼ばれた。この意味するところは、主を礼拝するつまり、罪を解決するためには、供え物が必要だ、そしてそれは、私たちに払いきれない大きなものである。神ご自身が、その供え物を用意してくださるというメセージが込められていたのである。全人類にとって、それは、イエス・キリストを意味するのである。

ダビデのこの祭壇の場所が、後の神殿の場所となった。神への祭壇が礼拝の土台となった。その土台は、自ら費用を出した、自分にとって価値のある自分の犠牲を伴うものであった。
その土台は、自分の罪を悔いたところからであった。神と和解するために、犠牲を払った捧げ物が必要となった。

私たちは、神にとって、最高の捧げ物をもって贖われた。買い戻された者たちです。イエス・キリストの十字架の贖いによって、いつでも自由に神様に近づくことができる。
そして、この旧約新約に共通しているのは、この土台、価値のある犠牲、キリストに向かわせる、悔いた砕かれた心である。神は、この悔いた心を非常に尊んで下さる。

ダビデの時代は、旧約、私たちは新約の時代に生きている。私たちの礼拝の質というものは劇的に変わった。罪のための贖いをし続ける行為はもう終わった。私たちにとっての礼拝というのは、ロマ12:1生きた供え物として、神の前に捧げられたものとして生きるということである。礼拝の土台は、イエス・キリストである。

我々は、贖いを土台に礼拝する。贖われるために最高のものを捧げるのではなく、最高の者によって贖われたから、最高のものを捧げる、最高の生き方をするのです。ですから、我々は、イエス・キリストの価値を見失ったら、礼拝のライフスタイルを失ってしまう。何が私たちのために捧げられたかが、礼拝の土台であるから。

ロマ12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。Therefore, I urge you, brothers and sisters, in view of God’s mercy, to offer your bodies as a living sacrifice, holy and pleasing to God—this is your true and proper worship.

私たちは、ダビデのように王である祭司です。日々礼拝することが私たちの特徴です。

皆さんは、礼拝の土台がありますか。罪の問題が解決されていますか。また、罪の問題を自分で解決しようともがいていますか。イエス・キリストに解決があります。イエス・キリストを罪の解決者、解放者、救い主として受け入れませんか。あなたには、生きるべき生き方があります。生きていること自体が神への礼拝だと言える人生が待っています。

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真理 ☆

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今日、私の師匠。クリスチャンカウンセラーK先生とおしゃべりをしているとき、
彼女が下記のような深遠な言葉をシェアしてくれた。

"Truth always appears negative at it's first appearance". by Bob Mumford

真理というものは、常に、初めにきいた時は否定的に聞こえるものである。という言葉。
わー、本当だ。

特に、自分自身に関わることは、特にそう。自分の話し方、物事のやり方、癖など、人に指摘されるととってもいやな感じを持ったりするものだ。

しかし、よくよく考えてみると、当たっている。つまり、真理だということが分かる。

ならば、今度は、どう受け止めるか、ということが重要になる。

そして、受け取ったならば、今度は感謝するようになる。言ってもらってよかった。

気がつくことができて良かった、と。それは、その言葉を受け取ることによって、自分が良いように変わったからだ。

人から、言われる言葉もありがたい。第三者にしか見えない自分と言うものは、必ずある。

そして、聖書の言葉もありがたい。何かと自分自身に気づきを与えてくれる。それは、聖書を読んで、自分の心に照らすとき初めて起こることだ。

例えば、次のような言葉を読んだとする。

また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ人への手紙 5:2)

私の心を照らしてみる。私は愛に歩んでいるか。。。いや、自分のことばかりを大切にして、愛の出し惜しみをして歩んでいる。と言うことに気づく。ああ、イエス様のように、愛するために生きたいと思う。
そして、今日の一日の行動が変わってくる。

真理は、心を照らさなければ、意味がない。

私たちは、何気なく、人の話しを聞き、聖書の言葉さえ何気なく読んでいるかもしれない。けれども、それを心に照らさなければ、自分は変わらない。

みみざわりなめんどくさい言葉を私たちの心の耳は、避けているのかもしれない。
だから、ずいぶん長い間真理が聞こえなくなってしまっているのかもしれない。

今日、また神様に祈ろう。どうぞ、私の耳を開いてください。
私は、真理の言葉が聞きたいのです。
私の本当の姿を知りたいのです。
そして、イエス・キリストの似姿に変わりたいのです。

今日の真理はなんでしょうか。

心を開いて聖書を開きます。アーメン



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アメリカ事情☆乞祈祷 June '14

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先週、日本のドラマを久しぶりに見ました。

今は便利なもので、インターネットで過去のドラマをまとめてみることができます。私は、「生まれる。」というドラマを見て、感動しました。私も、身ごもったとしたら超高齢出産の部類ですし、私の夢は小さいときから母になることでしたから、妊婦テーマのお話しには興味がありました。今までにも、ドキュメンタリーなども見ました。本当に、新しい命の誕生は、母子ともに命がけですし、素晴らしい感動があります。生まれて来てくれただけで、ありがとう。産んでくれてありがとうという感謝の気持ちがあふれますね。

最近ショッキングな事実を知りました。

アメリカの有名な食品、飲料会社が堕胎された赤ちゃんの細胞・肉を味付けの調味料にして使っていると言うのです。また、化粧品会社も、若返り成分として使っているということをニュースで知りました。

アメリカには約三億の人が住んでいて、堕胎は年間121万件。毎日3315人の赤ちゃんが殺されています。ちなみに日本の人口は、アメリカの半分、堕胎の数は年間40万件です。件数としてはさほど大差はありません。

アメリカという国は、どこまでも利益優先、資本主義の極みのような国になってしまったと愕然としました。倫理はどこに行ってしまったのだろう。。。

一度、堕胎のドキュメンタリー映画サイレントスクリームを見たが、バケツに無造作に積まれている小さな赤ちゃんたちの山がっ映った。むごかった。誰かが、この赤ちゃんの山を見て、商売になるというアイディアに行き着いたのだろう。それが、味付けの調味料を作る会社と化粧品会社。。。。

ある人は、私たちも動物の脂を使うし、動物を食べていると言って反論した。
でも、私たちは、動物じゃない。人間だ。動物とは違う。神様の息のかかった、永遠霊を持った存在です。

どうぞ、アメリカのために祈ってください。

アメリカは、自由の国です。言論の自由は保障されています。日本とは自由の度合いがはっきり違います。しかし、自由の中をどう生きるかということは、しっかりとした思想がなければいけません。その思想は、神の言葉ではなかったのでしょうか。アメリカでは、必ず、大統領は聖書に手を置いて誓うのではなかったですか。神の指針なしには、無法状態です。

中国でも、堕胎した赤ちゃんからとった肉でサプリメントを作っていたと問題になっていましたが、アメリカと中国と何が違うんでしょうか。

利己主義、利益優先は、神の言葉の真反対を行きます。神は、誰でも人の先に立つものは、みなのしもべになりなさい。と言われます。殺してはならない。と言われます。自分を愛するように隣人を愛しなさい。と言われます。神は愛です。と、愛のないものには神は分からないと。

私は、心から憂います。悔います。

どうぞ私と一緒に祈ってください。この国が悔い改めに導かれるように。

驚くことに、統計では、堕胎された赤ちゃんの親の宗教は、60%がカトリックを含むクリスチャンというくくりの人たちです。残念です。

ぜひお祈りください。

日本にも入ってきていると思いますが、殺された赤ちゃんの味付けを使っている会社、製品は分かっているだけで下記の通りです。

PEPSI BEVERAGES ペプシ社のもの
- All Pepsi soft drinks 全てのペプシドリンク
- Sierra Mist soft drinks
- Mountain Dew soft drinks マウンテンデュー
- Mug root beer and other soft drinks
- No Fear beverages
- Ocean Spray beverages オーシャンスプレー
- Seattle’s Best Coffee シアトルズペスト
- Tazo beverages  タゾティー
- AMP Energy beverages
- Aquafina water   アクアフィーナ
- Aquafina flavored beverages
- DoubleShot energy beverages
- Frappuccino beverages  フラペチーノ
- Lipton tea and other beverages リプトン紅茶、他の商品
- Propel beverages
- SoBe beverages
- Gatorade beverages
- Fiesta Miranda beverages
- Tropicana juices and beverages トロピカーナ

NESTLE PRODUCTS ネッスルの商品
- All coffee creamers   コーヒークリーマー
- Maggi Brand instant soups, bouillon cubes, ketchups, sauces, seasoning, instant noodles  マギーのスープ、固形スープ、ケチャップ、ソース

KRAFT – CADBURY ADAMS PRODUCTS クラフトの商品、ガム
- Black Jack chewing gum
- Bubbaloo bubble gum
- Bubblicious bubble gum
- Chiclets
- Clorets
- Dentyne
- Freshen Up Gum
- Sour Cherry Gum (Limited)
- Sour Apple Gum (Limited)
- Stride
- Trident

CADBURY ADAMS CANDIES カッドバリーアダムスの商品 ガムやグミ
- Sour Cherry Blasters
- Fruit Mania
- Bassett’s Liquorice All sorts
- Maynards Wine Gum
- Swedish Fish
- Swedish Berries
- Juicy Squirts
- Original Gummies
- Fuzzy Peach
- Sour Chillers
- Sour Patch Kids
- Mini Fruit Gums

OTHER CADBURY ADAMS PRODUCTS あめちゃん
- Certs breath mints
- Halls Cough Drops

NEOCUTIS PRODUCTS しわとりクリーム
This company produces anti wrinkle creams that contain cells from a 14 week gestation aborted male baby. Following is the list of the creams, but we recommend a full boycott of all Neocutis Products.

-Bio-Gel Prevedem Journee
-Bio-Serum Lumiere
-Bio Restorative Skin Cream

VACCINES 予防接種
-MMR II (Merck)
-ProQuad (MMR + Chickenpox — Merck)
-Varivax (Chickenpox — Merck)
-Pentacel (Polio + DTaP + HiB — Sanofi Pasteur)
-Vaqta (Hepatitis-A — Merck)
-Havrix (Hepatitis-A — Glaxo SmithKline)
-Twinrix (Hepatitis-A and B combo — Glaxo)
-Zostavax (Shingles — Merck)
-Imovax (Rabies — Sanofi Pasteur)

****I posted about fetal tissue in vaccines last year if you are interested in learning more.

OTHER MEDICINES 他の薬
-Pulmozyme (Cystic Fibrosis — Genetech)
-Enbrel (Rheumatoid Arthritis — Amgen)

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罪から来る結果 The consequences of a sin

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2014年6月1日日曜日礼拝

音声はyoutubeから、 http://youtu.be/c8DHIskr1NE

Ⅱサムエル13-16章

テーマ聖句 Ⅱサムエル15:30

ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。So David went up by the Ascent of the Mount of Olives, and wept as he went up; and he had his head covered and went barefoot. And all the people who were with him covered their heads and went up, weeping as they went up.

先々週は、世代にわたる祝福の話しをダビデの生き方から話しました。今回は、世代にわたる罪の呪い/結果についてお話したいと思います。これもまたダビデの人生からみていきます。

世代にわたる祝福と呪いについては、数々の聖句が旧約聖書にありますが、一つ読みますと、

出エジプト20:5,6

5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。you shall not bow down to them nor serve them. For I, the Lord your God, am a jealous God, visiting the iniquity of the fathers upon the children to the third and fourth generations of those who hate Me, 6 but showing mercy to thousands, to those who love Me and keep My commandments.

罪の結果が、次の世代、また次と四代までわたるということですが、

私たちは、アダムとエバから罪の性質を引き継いできています。二歳の子でも誰にも教えられなくても嘘を付けるようになります。私は、五歳の時に父親と別居しました。妹はその時生まれたばかりでした。妹は、全く父と一緒に暮らしたことがないのですが、妹が一番父に似ています。やさしいところ、人に対して寛容で分け与えるところ、そして、怒りのポイント、枕元に本を積んで寝るところ。本を最後まで読まないところなどなど。人は、一緒にいるから似てくるのかと思いますが、血すじというものは、それ以上のもののようです。

今回の箇所は長いのであらすじを説明します。

13-16章のあらすじ

★ダビデの罪

人妻バテシェバと罪を犯し、その夫を殺す。ダビデは、神の前に悔い改めた。しかし、このことを良く思っていない人たちが多くいた。自分の息子たちも含めて。これが全ての始まりであった。神は、赦されたが、ダビデは、罪からくる結果に付きまとわれることになる。
みなさんも、経験があるのではないでしょうか。人と仲たがいして、神の前に悔い改め、神に赦されますが、相手の人との信頼関係は、また一から立て直すことになりますね。

ダビデの罪の影響で、自分の家庭で事件が起きる。
異母兄弟アムノンがアブシャロムの妹タマルを犯す。ダビデは、激しく怒ったが(13:21)、このことに対して何も対処をしなかった。アブシャロムも何もしなかった。二年後までは。。。二年後に、アブシャロムは、アムノンを殺害する。ダビデは、悲しみ、怒った。(13:30)

Ⅱサム13:39 ダビデ王はアブシャロムに会いに出ることはやめた。アムノンが死んだので、アムノンのために悔やんでいたからである。And King David longed to go to Absalom. For he had been comforted concerning Amnon, because he was dead. 

37節では、ダビデはいつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでした。David mourned for his son every day.

ダビデは、バテシェバとの罪、そして、その子の死の後、消極的になっているのがみえる。羊の毛の刈り取りの祝いにも出て行かない。そして、自分からアブシャロムに会うこともやめた。聖書には書かれていないが、「いつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでいた]ということから、かなりの葛藤があったのだろう。自分の罪の結果が、自分の子の死に続き、どんどん広がっていくのをみるため。バテシェバとの第一子の死の時は、子どもの死後、すっきりとして食事をしている。自分の罪の結果と裁きを受け取り、悔い改めもし、前にすすんでいる。しかし、今回は、自分の罪のせいで、子どもに影響が出てしまったそして、子どもの一人が死んだということで、親としてかなりの辛さがあったのだと思われる。

ダビデは、アムノンの罪と、アブシャロムの罪に対して、何も対処しなかったことが伺えるが、一体どんな気持ちで沈黙していたのだろう。

★アブシャロムの罪

アブシャロムは、兄弟を殺した。そして、その後、巧みに人々を騙し、父の王座をのっとることになる。15章、16章。反乱をおこした。

子どもと言うものは、理不尽なことが起きた時、どうしたらいいか、いつも指導、裁きを求めている。理不尽なことが起きた時、親がどう対処しているかを見たい。それが、人生の知恵となる。アブシャロムは、父の裁きを望んでいた。父らしいことをして欲しかった。

ダビデは、自分の罪故に、子どもの失態に繋がったと思っていただろう。バテシェバにしたと同じことを子どもがしたわけだ。裁きにくかったのかもしれない。

父の裁きを見られなかったアブシャロムは、父を恨み、自分が今度は、裁き主となるべく自ら王となった。

アブシャロムについていった人たちは、ダビデ王についてよく思ってない人たちであった。やはり、ここでもバテシェバとの罪がここにも影響していたのだった。

また、ダビデは、15:31 で、ダビデの信頼していた部下アヒトフェルがアブシャロムの謀反に加担していることを知る。ダビデは詩篇にもこの辛さをつづっている。このアヒトフェルは、バテ・シェバの祖父でした。このアヒトフェルAhithophelは、後にアブシャロムに、ダビデのそばめたちのところに入るように助言している。ダビデのしたことに対する復讐だ。

★ダビデは逃げた

Ⅱサムエル15:10-11 -14

ダビデは、バテ・シェバの子どもの死の後、かなり弱腰になっていた。戦いにも出なくなり、人とは距離を置き。アブシャロムの反乱に対しては、自分の町を守らずに、要塞があるにも関わらず、町から逃げた。

どうして、直面対決しなかったんだろう。と思う。これも、自分の罪の結果を悔やんでのことなのだろうか。わが子と戦い血を流すよりは逃げる方を選んだ。

ダビデは、このときにも多くの詩篇を書いている。 
詩篇4,11,41,42,55,61,63

神様だけが隠れ場、神様による頼むと詠っている。神様への心の叫びがつづられている。詩編3を読んでみましょう。

そして、ここでテーマ聖句にかえります、 Ⅱサムエル15:30

詩篇三篇の、そのような気持ちでオリーブ山を泣きながら登った。ダビデは、神の前に悔いていた。そして、悔いてあからさまに泣ける心の柔らかい人であった。なりふり構わず、神の前に踊ったダビデは、なりふり構わず、神の前に悔いて泣いている。
私たちは、みな完全な人は一人もいません。人間ダビデの生き方に共感できるのではないでしょうか。

一つ、学べることは、たとえ自分の罪のために苦しんだとしても、神様にしがみついて生きることができるということです。神様を求め、また礼拝し続ける。

★新約の私たちには、どのような恵みがあるかご存知ですか?

★イエス様 

イエス様は、ダビデの家系、ダビデへの神様の約束の成就。永遠の王位を持つ方。

この方も、30節のオリーブ山を登られた。

十字架に掛けられる前にゲッセマネで祈るためであった。。
非常な悲しみを持ちながら、この山を登った。

ダビデは、自分の罪の結果を悲しんで泣いた。しかし、イエス様は、私の罪、あなたの罪、全人類の罪の結果を背負って、登られ。その罪の結果を悲しみながら、登られた。

私たちの希望は、最終的な罪の結果は、イエス・キリストが請け負ってくれたということを受け入れるときに与えられる。

ガラテヤ2:20

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。I have been crucified with Christ; it is no longer I who live, but Christ lives in me; and the life which I now live in the flesh I live by faith in the Son of God, who loved me and gave Himself for me.

私たちは、どのように世代にわたる罪の結果・呪いから自由になれるのでしょうか。自分の中に、どうしようもない、親のいやな部分とそっくりなところはありませんか。また家系の中に繰り返される問題、罪の傾向はないですか。それを見つけたときが、解放の時です。それにきづくなら、それを先のみことばに適用することができます。

私の家系と私の罪として、罪を告白し、キリストの十字架の業による赦しを受け、その繰り返される罪の呪いは全部イエス様が引き取ってくれたことを信じ、宣言し、金輪際この罪とは無縁であることを宣言し祈るのです。

それだけで本当に変わるのかと思うかもしれませんが、本当に変わります。私たちの神様は超自然的です。そして、真理に従うなら、そのとうりにしてくださいます。キリストの血は、どんな問題にも有効です。

私たちは、大胆に恵みの御座に近づくことができる。赦していただける。また、罪の結果はイエス様が引き受けてくれたから、この罪とは金輪際無縁であると宣言することができる。そして、聖く生きることができる。ここに、私たちの希望と実際的な力があるのです。イエス様を信じましょう。



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真理の力 The Power of The Truth

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シー・エス・ルイスの言葉に次のような言葉があります。

“If you look for truth, you may find comfort in the end; if you look for comfort you will not get either comfort or truth only soft soap to begin, and in the end, despair.” ~C. S. Lewis

「もしも、あなたが真理を求めるなら、あなたは最終的に慰めを得るようになるだろう。つまり、もしもあなたが慰めを求めるならば、慰めも真理にもどちらにも到達しないであろう。それは、柔らかくなった石鹸を手でつかもうとし、まるでそれが手からするすると出て行き、結局は手の内に何も残らないのと同じである。」

これは、本当だと思った。私は、若いころ、慰めを必死で探した人間でした。それは、心の傷から来ていました。誰か私をわかって欲しい。誰か私の傷を癒して欲しい。私を受け止めて欲しい。自分を慰めると思われることには何でも手を出したものだった。
お酒を朝まで飲んでみたり、タバコをすってみたり、異性に求めたり、友人関係に求めてみたりした。けれども何一つプラスにならなかった。

そして、クリスチャンになった。

クリスチャンになって、耐えられない試練が何度か来たが、とうとう、もうこれだけは無理だと思ったとき、また、慰めをひたすら求めている自分に気がついた。

それに嫌気がさした時、神様のことばが心に刺さった。

真理とは、諸刃の剣のように鋭い。私の思いや、過去、傷、全て切り分けることができる。
真理に向き合うことは、自分に向き合うことでもある。
そして、真理を愛し、真理に従うときに、癒しと解放を経験した。
真理に向き合うことは、決して簡単なことではない。自分の汚さを目の当たりにするから。

しかし、真理に従う者には、イエス・キリストの恵み、赦し、そこからくる癒しと解放が約束されている。

今日、このシー・エス・ルイスの言葉を目にしたとき。ああ、本当だ。と私の過去を思い出した。
そして、いかに神の真理が素晴らしいか。
それは、鋭い諸刃の剣のようであるが、私たちに蜂蜜のようにも甘い。
この二面がある。

神の真理を恐れ、深入りしたくないという人もいるかもしれない。でも、それは、もしかしたら、自分をあまり見つめたくない。という心理からきているのかもしれない。

神は、信頼するものを決して失望させるかたではない。

神様の真理を求めていこう。

私は、今日そう思った。

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世代にわたる祝福Generational Blessing

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2014年5月18日日曜日礼拝
音声は、Youtube から、http://youtu.be/KjGkDXwF8Qs

聖書箇所
Ⅱサムエル6章13-15 
主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。 ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。

Ⅱサムエル7章1-2 
王が自分の家に住み、主が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、2 王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」

Ⅱサムエル7章8-16
 今、わたしのしもべダビデにこう言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。9 そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。10 わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。不正な者たちも、初めのころのように重ねて民を苦しめることはない。11 それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに主はあなたに告げる。『主はあなたのために一つの家を造る。』12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。15 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

人は、いろんな星の下に生まれる。ある人は、それを不公平だと言う。タラントの話しも、ある人には5タラント、ある人には1タラント。私たちは、代々続くクリスチャンホームで生まれた人もいれば、貧しく暴力の耐えない家族に生まれることもある。神は、公平だろうかと思う人がいる。ある人は、この世でいわゆる成功といわれるものを手にするのに簡単に手にできる人もいれば、この世の成功に達するにはスタートラインが程遠い人もいる。

私が、救われたころ、クリスチャンホームの良く祈られている人は、違うなとすぐ分かった。彼らはの上には不思議な守りが見えた。教会の車を運転していて、動かなくなった。祈ったり何をしても無理。そして、クリスチャンホームの11才の少女が鍵を回してみたらエンジンが動きだした。不思議な守りを感じた。その子のお母さんが祈っている姿が心の目で見えた。

世代にわたる祝福generational blessingというのは、そのようなもの。自分が稼いだものでない祝福。生まれ持って与えられた祝福、神の好意、守り。私が幼いクリスチャンの時、これは、私にはあまりないなぁ。。。と感じていた。

しかし、私が神様を信じることができたのも、私の先祖がどこかで神を求めたからである。母の家系は特に信心深い家系であり、父個人がそうであった。あらゆる宗教に関わった。

私たちの神は、永遠の時間の中にいる神。また、世代にわたる視野をもって、家系を大切にする神である。私たちは、“自分の成功”この世的であっても、ミニストリーにおいても、に捕らわれ易いが、神様の目には、私の家系にも目をとめておられる。そして、私たちの、この地上の短い人生の目的は、自分のためにだけあるのではない。私たちの次の世代を祝福するためにある。まだ自分の子供がいない人にも当てはまる。自分の姪、甥、親戚にもこの祝福は渡されていっているのを私はみています。(私の友達未婚だが、甥が最近救われた)

神は、公平である。神は心を見られる方であるからだ。

今日の箇所ダビデは、神様からの圧倒的な恵みを受けます。ダビデは、自分でもこの章の祈りの中で言っていますが、彼は、かつて貧しい羊飼いでした。当時羊飼いは身分の低いものでした。7:18で、私の家が何であるからというので、と言っている。特別な家系でもなかった。

神には、身分や地位、家柄は関係なく、私たちに世代にわたる祝福を与えられる。

それでは、神の祝福を次の世代に渡すには、何が大切になってくるのでしょうか。

★神の見ておられるのは、心。

① 忠実さ Obedience, faithfulness, faith  マタイ25:14-29 タラントの話し。自分に任されたものの範囲で、忠実さが求められる。

② 豊かさ、二マイル精神/来た時よりも美しくの精神/言われてないことまでする精神(日本人の精神に似ているではないか!) Generosity, 二倍の働きをする優秀性   マタイ5: 41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。

★1,忠実さ

先週も話しましたが、ダビデは早い時期に王として選ばれ、油注がれた。その油そそぎを運ぶことができた。彼は、特別家が裕福だったのでも、前の王、サウルの親戚だったわけでもない。神から分け与えられたタラントを忠実に使い尽くした人です。
そのタラントを使うには、信仰が必要でした。ゴリヤテを倒すとき、持っているものを最大限に用いました。用いるためには、信仰が必要でした。また、神様への従順が必要でした。

★2,豊かさ

ダビデは王となりました。ダビデは、神を愛していた。また神の臨在を愛していた。神の箱を運ぶこととした。ダビデは、王と言う身分となり、神を敬う上でより大きな舞台platformを得ていた。私たちもそれに気がつかなければいけない。何かのタイトルに達することが私たちの目的ではない。そのタイトルが与えられたなら、なお神を敬い続けていくべきである。
ダビデは、神の箱を運ぶのに、盛大な形をとった。正しい形で運ぶのなら、レビ人に命令して全てをやらせても良かったはずだ。しかし、彼は、自ら指揮をとり、すばらしい音楽家たちを集め神に賛美を捧げながら、盛大にやった。六歩すすむごとに牛を一頭ほふった。自らも踊った。これは、神への従順というよりも、神様への愛から来たことであった。聖書の規定以上のことをした。
想像を絶する豊かさです。動物を用意する係りの人はさぞかし大慌てだったでしょうね。

v1,2  王が自分の家に住み、主が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、2 王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」

安息のときには、人の心は神に向かないものである。
ダビデは、数々の試練を乗り越え、戦いもひと段落し、安定を感じた時、神へいかに奉仕するかを考えていた。自分が与えられることよりも、自分が神に何かを捧げることを求めた。これこそが、神を礼拝する姿勢です。

★ダビデの神を愛する心が生み出したもの

神はダビデに二つのことを約束されました。①国に安息を与えること。神のために永遠の家を建てたかったダビデは、神に②ダビデに永遠の家を建てると約束をされた。Ⅱサムエル7章8-16
神は、世代にわたる祝福をダビデの家系にもたらした。イエス・キリストの誕生によって完全に成就した。今日私たちはこの証しを見ている。

★ダビデは更に神を敬うことを続けた

主への感謝の祈りが更に耐えない Ⅱサムエル7:18-29(スコットの証し)
神殿の資材を集めることを自ら選び、できる限りの準備をした。

◎ 私は、このメッセージを準備しているとき、いかに私たちの教会員が神をよく敬う人たちであるかということを思いました。これからも、続けていきましょう。私たちの家族だけでなく、この教会に出入りする全ての人たちが全て神様からの世代にわたる祝福を受け取れるように。祈りましょう。


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ダビデ三度目の油注ぎ David’s third anointing

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2014年5月11日日曜日礼拝

音声は、Youtube から、http://youtu.be/-6uaMH36QRc

聖書箇所
Ⅱサムエル5:1-5

イスラエルの全部族は、ヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「ご覧のとおり、私たちはあなたの骨肉です。2 これまで、サウルが私たちの王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのは、あなたでした。しかも、主はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる。』」3 イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来たとき、ダビデ王は、ヘブロンの主の前に、彼らと契約を結び彼らはダビデに油をそそいでイスラエルの王とした。4 ダビデは三十歳で王となり、四十年間、王であった。5 ヘブロンで七年六か月、ユダを治め、エルサレムで三十三年、全イスラエルとユダを治めた。

〇ダビデ三回目の油注ぎを受ける。

★油注ぎとは

ヘブル語では、「油を注ぐ」以外にこすりつける、塗りつける、聖める、捧げる。“聖別する”という意味。また、神の臨在の注ぎ。聖霊の注ぎの意味。じつは油注ぎの第一の目的は、あなたを聖めることです。しっかりこすって、汚れを落とすことで、英語のスクラブ(scrub)にあたります。また、神の能力、神の臨在の象徴として油を注がれた。

聖霊の注ぎは、何のためか…神の御心を成すための能力が与えられる

  旧約聖書で、神の働きを行うために油注ぎを受ける人は、祭司と、王と、預言者の3種類の人々でした。

 彼らが頭に油を注がれたのは、神に選ばれて任命されるとき、一度だけです。

〇ダビデは三度油注ぎを受けた。
  私たちは、ここから何を学ぶことができるでしょうか。

① 油注ぎⅠ例外はダビデで、彼はまず若い頃に密かに預言的に油を注がれた

Ⅰサムエル16:12-13
 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

② 油注ぎⅡ  後にユダ族の王として

Ⅱサムエル2:4
そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油をそそいでユダの家の王とした。ヤベシュ・ギルアデの人々がサウルを葬った、ということがダビデに知らされたとき、

③ 油注ぎⅢ 後にイスラエル全体の王として

Ⅱサムエル5:3 
イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来たとき、ダビデ王は、ヘブロンの主の前に、彼らと契約を結び彼らはダビデに油をそそいでイスラエルの王とした。

 しかし神からの任命は1回目の油注ぎだけで、残り2回は人々からの段階的な追認・公認の意味です。

★ 召しと働きに関して

神からの召された油注ぎは、ダビデが王となるずいぶん前のことであった。油を召しの完成と達成まで、運び続ける。持ち続けることが必要である。ダビデの前の王、サウルは、油を運ぶ能力を失ってしまった。油注ぎは、自分のための物ではないことを忘れてはならない。神からの使命を全うするため、神のため、人のためのもの。で、あれば、その器としての人物は、「神に対する敬意」があり、「謙遜」であり、「人格がある」人でなければならない。Honor, Humility, Character

・敬意…ダビデは、神に油注がれてたサウルに手をかけようとはしなかった。また、サウルとその家族、サウル側の人たちにに対する敬意が人々に証しされていた。

(Ⅱサム3:36,37アブネルの死に関して; 36 民はみな、それを認めて、それでよいと思った。王のしたことはすべて、民を満足させた。37 それで民はみな、すなわち、全イスラエルは、その日、ネルの子アブネルを殺したのは、王から出たことではないことを知った。

・謙遜さ…旧約の穀物の捧げ物 粉々に砕かれた小麦粉に油をまぜる。この捧げ物は、神への奉仕の象徴である。粉は粉々にしなければならない、それは、隅々にまで油が行き届くように。また、粉々に砕かれたキリストの象徴。ダビデも多く試され、心が粉々になった。『砕かれる』経験をいくつも通った。私たちも、何か試練に合うときに、それを悪いこととのみと受け取らずに、神にあってどう自分が成長できるかと考えるべきだ。神の謙遜さに学ぶべきだ。

マタイ11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。Take My yoke upon you and learn from Me, for I am gentle and lowly in heart, and you will find rest for your souls.

・人格…患難は忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す
(ローマ5:3-4 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。And not only that, but we also glory in tribulations, knowing that tribulation produces perseverance; 4 and perseverance, character; and character, hope.)

そして、油注ぎが人格を作るのではない。油注ぎの目的である、召しに生きるために、神に従順していく時に人格ができるのです。

すなわち、苦しみの中でヨブが、ヨブ42:5私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。“I have heard of You by the hearing of the ear, But now my eye sees You. この目であなたを見るまでは分からなかったという。実際に苦難を通る中で、神と一対一の関係、やり取りを通して、本当の意味で神を知ったということです。 

どれだけ神を知ってることがあなたの人格となります。

また、神からの油注ぎ、召しがあるからといって、それが人の承認を得るのではなく、召しに従うあなたの人格が人々の承認を得させるのです。

V1 骨肉 ……. イスラエルの全部族は、ヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「ご覧のとおり、私たちはあなたの骨肉です。

V2 サウルとのことを人々はちゃんと見ていた…… これまで、サウルが私たちの王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのは、あなたでした。しかも、主はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる。』」

神は、ダビデの心を見られ、召された。しかし、人は行いを見る。人には本当に心を見ることが難しい。心にあることが行動にでる。行動を見るまでは、人にはわからない。「行いの伴わない信仰は死んだも同然だ」と、ヤコブ書に書いてある。(ヤコブ2: 17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。Thus also faith by itself, if it does not have works, is dead.)

★新約の私たちの油注ぎ 

私たちも、神様の御用のために召されている。召しを握っているか。また油そそぎを受けているだろうか。また、人からの承認を受けているだろうか。承認を受けるために物事をするのではない。あなたの心と行動がつながっているときに人からの油注ぎがくる。召しと行動が一致しているだろうか。

ヨエル書2:28のように、{その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。“And it shall come to pass afterward That I will pour out My Spirit on all flesh; } 全ての人に神の霊が注がれている時代。捕らわれ人に解放を、赦免、癒しのために
神への奉仕のために油そそぎが必要。新約の私たちは、日々与えられる。

※ 聖霊のバプテスマ=新約時代の「油注ぎ」は、一度で完全な体験です。しかし、一度でそれっきりで終わりではない。日々、聖霊の満たしは与えられる。また、必要なときに、神の働きをするために必ず満たしは与えられる。

そして、私たちの油注ぎも、敬意、謙遜、人格がなければ、持ち運び続けることができないのです。

聖霊の満たし。満たされ続けることと、人格を聖められていく責任を知り。聖められ続けることを求めていきましょう。


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ゴスペルフラで踊った賛美

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昨日のゴスペルフラで、K先生が新しい賛美を日本語で用意してくれた。
この曲を聴いていると、しみじみじーんとするものを感じ、心が熱くなった。
この曲は、もう10数年前になるかな、まだ若く駆け出しの献身者のときによく教会で歌ったものです。
今、もう一度うたってみると、本当に涙がこみ上げます。
神様がいかに、私たちを愛しておられるのか、また一人ひとりの存在がいかに尊いことか。
今まで、教会に出入りされた一人ひとり、出会った人一人ひとりの存在が素晴らしくて、心がじーんとします。
皆さんのことを思っています。
そして、今日も祝福がありますように。
この曲をまだ聴いたことが無い方は、ぜひ、youtube などで検索してください。すぐに出てきますよ。もともとは、韓国の方の作詞作曲です。

「君は愛されるため生まれた」

君は愛されるため生まれた
君の生涯は愛で満ちている
君は愛されるため生まれた
君の生涯は愛で満ちている

永遠の神の愛は
我らの出会いの中で実を結ぶ
君の存在がわたしには
どれほどおおきな喜びでしょう

君は愛されるため生まれた
今もその愛 受けている
君は愛されるため生まれた
今もその愛 受けている

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