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ダビデ三度目の油注ぎ David’s third anointing

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2014年5月11日日曜日礼拝

音声は、Youtube から、http://youtu.be/-6uaMH36QRc

聖書箇所
Ⅱサムエル5:1-5

イスラエルの全部族は、ヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「ご覧のとおり、私たちはあなたの骨肉です。2 これまで、サウルが私たちの王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのは、あなたでした。しかも、主はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる。』」3 イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来たとき、ダビデ王は、ヘブロンの主の前に、彼らと契約を結び彼らはダビデに油をそそいでイスラエルの王とした。4 ダビデは三十歳で王となり、四十年間、王であった。5 ヘブロンで七年六か月、ユダを治め、エルサレムで三十三年、全イスラエルとユダを治めた。

〇ダビデ三回目の油注ぎを受ける。

★油注ぎとは

ヘブル語では、「油を注ぐ」以外にこすりつける、塗りつける、聖める、捧げる。“聖別する”という意味。また、神の臨在の注ぎ。聖霊の注ぎの意味。じつは油注ぎの第一の目的は、あなたを聖めることです。しっかりこすって、汚れを落とすことで、英語のスクラブ(scrub)にあたります。また、神の能力、神の臨在の象徴として油を注がれた。

聖霊の注ぎは、何のためか…神の御心を成すための能力が与えられる

  旧約聖書で、神の働きを行うために油注ぎを受ける人は、祭司と、王と、預言者の3種類の人々でした。

 彼らが頭に油を注がれたのは、神に選ばれて任命されるとき、一度だけです。

〇ダビデは三度油注ぎを受けた。
  私たちは、ここから何を学ぶことができるでしょうか。

① 油注ぎⅠ例外はダビデで、彼はまず若い頃に密かに預言的に油を注がれた

Ⅰサムエル16:12-13
 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

② 油注ぎⅡ  後にユダ族の王として

Ⅱサムエル2:4
そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油をそそいでユダの家の王とした。ヤベシュ・ギルアデの人々がサウルを葬った、ということがダビデに知らされたとき、

③ 油注ぎⅢ 後にイスラエル全体の王として

Ⅱサムエル5:3 
イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来たとき、ダビデ王は、ヘブロンの主の前に、彼らと契約を結び彼らはダビデに油をそそいでイスラエルの王とした。

 しかし神からの任命は1回目の油注ぎだけで、残り2回は人々からの段階的な追認・公認の意味です。

★ 召しと働きに関して

神からの召された油注ぎは、ダビデが王となるずいぶん前のことであった。油を召しの完成と達成まで、運び続ける。持ち続けることが必要である。ダビデの前の王、サウルは、油を運ぶ能力を失ってしまった。油注ぎは、自分のための物ではないことを忘れてはならない。神からの使命を全うするため、神のため、人のためのもの。で、あれば、その器としての人物は、「神に対する敬意」があり、「謙遜」であり、「人格がある」人でなければならない。Honor, Humility, Character

・敬意…ダビデは、神に油注がれてたサウルに手をかけようとはしなかった。また、サウルとその家族、サウル側の人たちにに対する敬意が人々に証しされていた。

(Ⅱサム3:36,37アブネルの死に関して; 36 民はみな、それを認めて、それでよいと思った。王のしたことはすべて、民を満足させた。37 それで民はみな、すなわち、全イスラエルは、その日、ネルの子アブネルを殺したのは、王から出たことではないことを知った。

・謙遜さ…旧約の穀物の捧げ物 粉々に砕かれた小麦粉に油をまぜる。この捧げ物は、神への奉仕の象徴である。粉は粉々にしなければならない、それは、隅々にまで油が行き届くように。また、粉々に砕かれたキリストの象徴。ダビデも多く試され、心が粉々になった。『砕かれる』経験をいくつも通った。私たちも、何か試練に合うときに、それを悪いこととのみと受け取らずに、神にあってどう自分が成長できるかと考えるべきだ。神の謙遜さに学ぶべきだ。

マタイ11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。Take My yoke upon you and learn from Me, for I am gentle and lowly in heart, and you will find rest for your souls.

・人格…患難は忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す
(ローマ5:3-4 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。And not only that, but we also glory in tribulations, knowing that tribulation produces perseverance; 4 and perseverance, character; and character, hope.)

そして、油注ぎが人格を作るのではない。油注ぎの目的である、召しに生きるために、神に従順していく時に人格ができるのです。

すなわち、苦しみの中でヨブが、ヨブ42:5私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。“I have heard of You by the hearing of the ear, But now my eye sees You. この目であなたを見るまでは分からなかったという。実際に苦難を通る中で、神と一対一の関係、やり取りを通して、本当の意味で神を知ったということです。 

どれだけ神を知ってることがあなたの人格となります。

また、神からの油注ぎ、召しがあるからといって、それが人の承認を得るのではなく、召しに従うあなたの人格が人々の承認を得させるのです。

V1 骨肉 ……. イスラエルの全部族は、ヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「ご覧のとおり、私たちはあなたの骨肉です。

V2 サウルとのことを人々はちゃんと見ていた…… これまで、サウルが私たちの王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのは、あなたでした。しかも、主はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる。』」

神は、ダビデの心を見られ、召された。しかし、人は行いを見る。人には本当に心を見ることが難しい。心にあることが行動にでる。行動を見るまでは、人にはわからない。「行いの伴わない信仰は死んだも同然だ」と、ヤコブ書に書いてある。(ヤコブ2: 17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。Thus also faith by itself, if it does not have works, is dead.)

★新約の私たちの油注ぎ 

私たちも、神様の御用のために召されている。召しを握っているか。また油そそぎを受けているだろうか。また、人からの承認を受けているだろうか。承認を受けるために物事をするのではない。あなたの心と行動がつながっているときに人からの油注ぎがくる。召しと行動が一致しているだろうか。

ヨエル書2:28のように、{その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。“And it shall come to pass afterward That I will pour out My Spirit on all flesh; } 全ての人に神の霊が注がれている時代。捕らわれ人に解放を、赦免、癒しのために
神への奉仕のために油そそぎが必要。新約の私たちは、日々与えられる。

※ 聖霊のバプテスマ=新約時代の「油注ぎ」は、一度で完全な体験です。しかし、一度でそれっきりで終わりではない。日々、聖霊の満たしは与えられる。また、必要なときに、神の働きをするために必ず満たしは与えられる。

そして、私たちの油注ぎも、敬意、謙遜、人格がなければ、持ち運び続けることができないのです。

聖霊の満たし。満たされ続けることと、人格を聖められていく責任を知り。聖められ続けることを求めていきましょう。


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