一昨年世界遺産に登録された「富士山」登録に値することは明白だが、 昨今の觀察・検証資料では、「大噴火」が懸念されてる。 自然のちからの凄さを思い知らされている事象、一寸心配だ。 遺産登録に「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」とある。 相模湾中心だが、富士山が見せてくれる表情は、癒やしそのもの。 芸術の源泉か??オランダの画家、フィンセント・ファン・ゴッホの油彩の絵画。 「タンギー爺さん」の画の背景は、日本が占めてるではないか!! パリのロダン美術館で観た時、我が子が富士山!!ってさけんだ思いでがある。 背景に描かれている浮世絵は東京文京区千駄木の「いせ辰」の版画が基だとか! 背景の浮世絵、、、「ジャポニスム」が当時の欧州の芸術に影響を与えていた。 そんな画人に感化され更なる芸術を生み出した「板画」。 巨匠棟方志功師は、富士山が好きで鎌倉山のアトリエ先から遠望され?? 「つよいですねぇ、かてない」って語って居られた。 師は、晩年視力が極度に落ちていて心の中で見て居られたか。 2月5日誌「富士山」
「神奈川の屋根」と呼ばれる丹沢山地、県土面積の約6分の1を占める山塊。 山岳信仰(山伏)の修験道場でもある(現在でも修験者は居り修験道もある)。 中でも登山・観光として名を馳せている「大山(おおやま)」。 その麓の名刹「宝城坊さん」、正しくは、高野山真言宗日向山宝城坊日向薬師。 奈良時代初頭の霊亀2年(西暦716年)、僧行基により開山された。 僧「行基」が熊野を旅していた際、薬師如来のお告げで、 相模国(現在の伊勢原市)に、日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)を開山。 本尊、薬師瑠璃光如来(鉈彫り国重文)真言「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」。 奈良時代に盛んになり、全国に広がっていった「薬師信仰」。 薬師如来は、東方瑠璃山(とうほうるりせん)に在って現世のご利益を願う尊(ほとけ)。 日向山霊山寺は、勅願寺とされていたが民衆の篤い信仰を受け今日まで法燈が受け継がれてきた。 人々の心の安らぎ、和やかさ、健やかさのご加護を願う尊(ほとけ)として信仰を篤くしている。 日向薬師としての歴史はふるく、鎌倉期には将軍頼朝や北条政子も参詣しているとある(吾妻鏡)。 この名刹ヘは、若い頃文化財等の収集と記録保存で参加させて頂いていた。 本堂の裏手より30分ほど登った所に洞穴があり、日向薬師奥の院と称されていた。 奥の院にまっすぐ上がる道は、現在通行禁止になっている。 以前は、この奥の院(洞穴の奥)に虚空蔵(こくうぞう)菩薩が祀られていたが、 現在は本堂脇の霊樹のなかに祀られている。以前にも増して霊験あらたかになった! 虚空蔵菩薩は、丑・寅年生まれの人の守り本尊とされ牛・虎一対の像が社の入り口を守っている。 「虚空蔵」とは、アーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、 広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味。 そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。 その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、 これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。 京都嵐山の法輪寺では、13歳の少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かる「十三詣り」なる行事が行われている。 ***ウィキペディア***より引用。 近世の地誌『新編相模風土記稿』によれば、近世の日向薬師には別当坊の宝城坊を含め13坊があり、それ以外にすでに廃絶した坊もいくつかあったと記載されていることから、往時の規模がしのばれる。また、山内には七所権現社や東照宮などがあり、神仏習合の信仰が行われていた。 明治時代初期の廃仏毀釈によって多くの坊舎が失われ、本堂(薬師堂)、鐘堂、仁王門などをわずかに残すのみとなった。現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊が寺籍を継いでいる(別当坊とは、山内の最高位の僧が住む坊のこと)。21世紀の現在も「日向薬師」として病気平癒、特に眼病に霊験ありとして信仰を集める。また、山内の自然環境が良好に保持されていることから、ハイキングコース、健康保持増進や心の安らぎの場として人気を集めている。 2月4日誌「丹沢山地・宝城坊」
今時、「庚申(コウシン)信仰、庚申さん」等と言ってもピンと来ないだろう。 信仰の由来を語れば長くなる、で略。 簡単に言えば道端信仰で、江戸期にはかなり盛んであったらしい。 “庚申”干支(エト)でいう“カノエサル”、60年周期で巡ってくる。 それ故、還暦・・めでたい日でもあった。 今でも様々な所で石仏として目にすることはあるだろう。 集落の外れ、街道沿い等々、道しるべでもあったと思える。 山懐・裾の奥深くにも存在する。 おもしろいことに、石仏の碑文等を見ると、神仏混交であったことが伺える。 庚申信仰の礼拝対象、仏教では『青面金剛』、神道系は『猿田彦』。 こんな名称が使われている。どちらにしても「猿」が楽しい。 遊び心と猿・・信仰!?!チョット不謹慎か? 2月3日誌「丹沢山地・日向裏道」
うめ (梅) バラ科(Rosaceae) 学名:Armeniaca mume (Prunus mume Sieb. & Zucc. f. mume) 別名:コウブンボク(好文木)、コノハナ(木花)、カザミグサ、ハツナグサ、 観賞用園芸種、カンコウバイ(寒紅梅)、ミカイコウ(未開紅)、 白花園芸種、ギョクエイ(玉栄)、ヤエカイドウ(八重海棠)、ミヤコニシキ(都錦) 今や数百種あるのでは?? 野に彩りが少ない季節にあって楚々とした美しさを魅せる「梅花」。 紅梅・白梅、そんな中に地名的に豊後梅がある。 その地、「豊後」には並々ならぬ熱い視線を向けて来た。 人生恨むことなかれ ひと知るなきを 幽谷深山 花おのずから紅なり ・・・三浦梅園・・・ 今なお鉄道が通っていない国東半島、江戸の昔は、いかなる地であったか!?! 昭和の時代に参っても素朴な所であった。 そんな自然豊かな地に、江戸期に富士山の如く孤高・崇高な学者があった。 儒学と洋学を調和させ独自の自然哲学で大宇宙の原理を解明しようとした偉人。 江戸中期の自然哲学・博物学者、思想家とも伝えられている。 独学独想で構築された論理は、「条理学」と称され今日に在っても輝いている。 現在の大分県国東市安岐町富永で生まれ、学問の師はいない。 本名は晋(すすむ)、梅の花を愛で自ら「梅園」と名乗った。 旧宅には、夥しい原稿が残っており実物を拝すると実に難解だがその量には圧倒される。 孤高の真理探究、当時、僅かな西欧の自然科学論文は、漢訳され中国から長崎に渡来していた。 梅園の論理を読むと西欧の実証的な学問方法を貪っていたやに見えるが、 その実は、東洋の「陰陽の法則」を独特の論理構成でまとめている。 自然界現象に規則性を見い出し、これを「条理」と名付けた。 物理を梅園は、数学・数式によらず、緻密な図形を基に思索に耽っている。 梅園が自分の思想を述べた著作には畢生の大著「玄語(げんご)」のほか、 「贅語(ぜいご)」と「敢語(かんご)」があり「梅園三語」と呼ぶ。 この三著作が梅園の思想の骨格を成すもの。だが、生前に印刷されたのは「敢語」だけ。 当時の多くの学者に受け入れられなかったのだろう。あまりにも難解であったが故に。 難解な余り、梅園自身それを他の学者に理解を求めていない。 梅園は近隣諸藩の仕官の招聘を固辞し、生涯、三回の旅行を除いては死ぬまで郷里を離れず、 学問と思索の日々に没頭している。 梅園の学問は、天文事・物理・医学・博物・政治・経済・文学に及び百科事典的なものまで在る。 それらのすべては、天地万物の条理を究めていくために必要なものだったのだろう。 旧宅等に生涯をかけて著した原稿はいまも残っており、思索を重ねた屋敷も残されている。 「理窟と道理との辨」 『理窟と道理とへだてあり。理窟はよきものにあらず。たとへば親羊をぬすみたるはおやの惡なり。 親にてもあれ惡は惡なれば直に訴ふべしといへるは理窟なり。 親羊を盗しは惡ながら、親惡事あれば迚子是をいふべき樣なしとてかくしたるは道理なり。 人死してはふたゝびかへらず、歸るべきみちあらば、なげきても歎くべし。 かへらぬみちなれば歎きて益なしといへるは理窟なり。 人死して再かへらず、歸るべき道あらば歎ずともあるべけれど、かへらぬ路こそ悲しきなど歎くは道理也。』 とてもおもしろく読める。常用漢字体に置き換えると、 「理屈と道理との弁」 理屈と道理と、隔てあり。理屈は、よきものにあらず。 たとへば、親、羊を盗みたるは、親の悪なり。 親にてもあれ悪は悪なれば直(すぐ)に訴ふべし、といへるは、理屈なり。 親、羊を盗みしは悪ながら、親、悪事あればとて、子、是(これ)をいふべき様(やう)なしとて隠したるは、道理なり。 人死しては、再び帰らず、帰るべき道あらば、歎きても歎くべし、帰らぬ道なれば歎きて益なし、といへるは、理屈なり。 人死して再び帰らず、帰るべき道あらば歎かずともあるべけれど、帰らぬ路こそ悲しき、など歎くは、道理なり。 ・・・・・本文は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに入っている・・・・・ 日本を代表する「富士山」と同様に博物学者(思想家)として歴史上でも高く聳える偉人であろうか。 梅園先生に直接お話をお聞きしてみたい衝動に駆られる。 「反観合一」と言う哲学の奥義を!?! 梅の記述では『古事記』(712)・『日本書紀』(720)・『風土記』(early 8c.)には見られない。 最古のものは、葛野王(かどののおう、669-705)が作った「春日鶯梅を翫(はや)す」詩(『懐風藻』)。 江戸期以前は、上流階級の人々の庭木であったのかもしれない。 流離いの俳人、 芭蕉(1644-1694)の句に、 むめが香に追もどさるゝ寒さかな 春もやゝけしきとゝのふ月と梅 忘るなよ藪の中なる梅の花 菎蒻(こんにゃく)のさしみもすこし梅の花 梅若菜まりこの宿のとろゝ汁 やまざとはまんざい遅し梅花 等々あるが、何とも言えぬ風情が漂う。 一尺に足らぬ木ながら百あまり豊けき紅梅の花こそ匂え 紅梅の散りたる花をわが手もて火鉢の燠(おき)のうへに焼きつつ (1940,齋藤茂吉『のぼり路』) 梅に懷いをはせた歴史上の偉人、学ぶにも多過ぎる。 2月2日誌「藤沢市・長久保公園」
各地から梅の便りが聞こえてくる様になった。 しかし早朝の景色は、冷え冷えとしている。 東北へ参る回数がおおくなった。 彼の地の極寒さは、当たり前だと思うが雪が異常に多い。 それに比べると、首都圏の寒さなど苦にならない。 雪のない環境では、霜柱が寒さを感じさせてくれる。 2月1日誌「自宅」
少数部族(血族)が今も尚、存在する・・・『遊牧の民「BEDOUIN」』。 古くは、農耕の民が不毛な土地に家畜を連れて移動したのが、ベドウィンであった。 ベドウィンを往古より「アラブ」と呼んでいたらしい。コーランの「アラブ」はベドウィンを指す。 ベドウィンの言葉が、正統的なアラビア語とも言われ、最も純粋なアラビア語とも言われる。 ベドウィン社会は、血縁関係を尊重し、多くの小部族が、複雑に絡み合っていた。 部族主義を排除し、唯一の神「アッラー」による共同体を目論んだのが「イスラム」の原点。 イスラム原理主義、禁欲主義・連帯意識と言った価値観はベドウィンによって培われてきた。 地域領土の「領有権争い」、宗教哲理に基づくとは乖離した争いが昨今の中東ではないか。 相対する双方、どちらにもくみするものではないが・・・(正直、わからないのが本音)。 先般のISLE組織の蛮行は、狂気の沙汰でしょうに。 ISLE組織側の主張、シャリーア(イスラム法)を基に活動してると主張しているが、 イスラム教徒からすれば、「イスラム教を詐称しての犯罪集団」と憤慨されるはもっともな事だ。 山賊・・海賊・・を大きくした集団・組織の様に見える。。。! 扨、さて・・、今回の「報道」を垣間見ていて疑問に思う事がある。 邦人のお二人が、「拘束」されてる姿ばかりが報道されていた。 テロリストに拘束されている、見れば分かることだが、 何故にこのお二人が、危険な紛争地に足を踏み入れたか、しっかりと解説されていない。 而して斯様な事件が起きると、被害者として美談で終わってしまう。チョット不可思議だ。 報道機関(新聞・雑誌・放送機関)所属の記者とフリージャーナリストの差異。 フリーと言えどもなんでも許される(潜入取材)ものでもあるまい。 更には、報道の自由を謳って、取材に出かけたいとする人も現われた。 今件は、外務省が旅券(パスポート)の返納を命じ、渡航は出来なくて幸いであった。 今回のような取材者は、従軍取材とは違って勝手にどこへでも入り込む。 「危険」を通り越して「無謀」としか思えない。売名行為的といわれても仕方あるまい。 国の対処、予防措置を講じた行政機関は、批判されるものでは断じてない。 又、他方では、政治の場で野党の質問内容の低次元・的外れさには呆れ驚く。 枝葉末節なことばかりで本質を突いていない。 報道機関や政治家の質が落ちているとしか思えない。 かつての戦場ジャーナリストは、従軍報道であった。それ故、ある部分護られていた。 今回の様に、敵陣に潜入!?!し報道することは、無謀としか言い様がない。 今事件では、邦人お二方が「捕虜」として利用された、無分別・無差別テロ組織に。 「報道機関」ってなんだろう?? 大手メディア・下請けフリージャーナリスト。 こんな縦位置関係が、多いのではないか、と想像してしまう。 然るにご都合的に編集作業で真実と乖離した報道がなされるようになってしまった。 事件報道が、バラエティー番組の延長的に映るが、偏見だろうか??? 外交・国際社会、身近な隣国の関係にしても報道の仕方がどこかおかしい!?! 領有権争い、勝てば官軍・・負ければ賊軍、歴史がものがたっているではないか。 戦後・半世紀にわたって「平和主義国家」を標榜してきた日本。 右翼・左翼・・中道、個々人の主義主張は自由に発せられてきた。 敗戦国からの出発、半世紀を以って「憲法論議」ができるところまで来た。 それと相俟って、隣国との領有権問題、「一触即発」状態の今である。 日本は、法治国家、民主主義国家である。 だがしかし、非論理・非合理的に・・・脅威に晒されている時、 傍観・傍観、耐え忍び、されるがままで良いのか??って思う。 この半世紀、隣国とは、折にふれて謙虚に対処きたではないか?? その上で、負い目的に耐えに耐えてきた。我慢の限界である。 是は是、非は非でしっかりと主張しなくてはいけない時が来た。 与野党問わず、もっと真摯に審議しろって、言いたくなる。 現象面ばかり報道するメディア、「過去の歴史認識」をもはっきりと声を出すべきだ。 「戦争」とは、武力に寄るものだけではない。 行政者(官僚)、国政者、マスメディアも。。。!! 本質をしっかり提言する役目担っていることを忘れんでほしい!! 1月31日誌「1月の出来事」
青森県・五所川原市、津軽三味線等、独特の文化があちこちでみられる。 この地域で趣ある冬の風物誌、何はさておき「津軽鉄道のストーブ列車」だろう。 風情と言えってしまえばそれまで。だが、だるまストーブの姿、どこか神々しい。 寡黙である。石炭のまろやかな炎、煙突から伝わる暖かさ。 その土地に住む者に取っての足だが、今や観光名物になっていた。 車内は、厳冬の荒野を遮る様に実に暖ったかだ。 昭和5年開業という「津軽鉄道」、開業当時からこのストーブ列車はあったらしい。 乗車した日は、生憎の天候、車窓からの景色はなかった。 それ故か、思うことが次々と脳裏をかすめる。自分の世界を広げられた。 地方創生って、下から構築してこそ活きてくる。 國が地方に向かうのではないですね!! 20km程の距離、50分足らずの時間だったが思いは広く大きく膨らんだ。 津軽三味線・・・夏の「立佞武多(たちねぷた)祭」。 庶民の隠れた「力強さ」から見えてくるもの、「文化」をしっかりと考えたい。 その土地土地に生きる慣わし、一般的には理解できないこともある。 しかし、それが故の固有の文化に通じる。方言にして然り、奥深い。 1月30日誌「青森・津軽鉄道」
冬の寒空に「ビュンビュン」と音を立て舞う大凧。 今でも大凧あげ大会が、神奈川県内でも数カ所、開催されてるようだ。 日本の伝統的な大凧、見てるだけで勇壮である。 子供の頃、正月といえば「凧揚げ」「独楽廻し」を楽しみ夢中になったものだ。 男の子の遊び方、時代とともに変わってきたが、外で身体を動かすことが少ないよ。 爺のぼやきかも知れない。でも伝統的な遊びは残ってほしい。 季節季節の風物誌としても。 最近は、「カイト」と称されて色々なものが売られている。 僕らは、自分で作った。なつかしく思い出す。 冬の、正月の思い出。海岸は凧揚げの人々でいっぱいだった。 子供時代を思い出させてくれた光景!! こんな感じが・・・・今風なのか??? 1月29日誌「藤沢・片瀬西浜」
冬場は、海水が綺麗で透明に透けて見える。 波打ち際から1~2メートルのところを魚たちが泳いでいる。 手で捕まえられる距離だが、動きは素早い。 大きなタモを使えば捕まえられるかもしれない。 お子さんが手づかみに挑戦!! 寒さをもろともせず、、、ジャブジャブと。。。! 1月28日誌「藤沢・片瀬西浜」