紀元節の日付は、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされる日。 (辛酉年春正月庚辰朔) 「辛酉年春正月庚辰朔」をグレゴリオ暦にすると、紀元前660年2月11日に当たる。 「建国記念の日 2016/2/11」
年間予定表を見ていたら「祝日」が、随分と増えたって気がした。 「祭日」「祝祭日」とか云われるが、単に休日を意味してるのだろう? かつては祝日に国旗を掲げたものである。昨今は殆ど見かけなくなった。 皇室祭祀令が廃止されるまでは、皇室で儀式や祭典を行う日を「祭日」と言った。 「国民の祝日に関する法律」が制定され、「祝日」だけの表現に変わり、 表記的に「祭日」が無くなったと思う人は少ないだろう、気にも留めない。 今は、祝日以外に国の定めた休日に「振替休日」と「国民の休日」がある。 年間を通して見ると休日が、とても増えた・・・良いのか悪いのか!?! 伝統的慣例の正月休み等、色々な伝統行事が全国各地で見られる。 だが各地で古くから行われてきた風習が、消えつつあるように感じる。 その一方、催事的に異国から入ってきたものが、増えている。 経済効果はあるだろうが、日本古来よりの庶民文化が脇に押しやられたと感じる。 節分も終わり久しぶりに身近の「森」を散歩した。野の草花は、未だ眠っていた。 林床は、綺麗に下草刈りされ殺風景だった。管理され過ぎているやに映る。 「森」の中に移築保存された古民家(農家)の入り口柱に面白い竹竿を見た。 旧暦の12月8日と2月8日は、「事始め、事納め」とする風習が各地であった。 「事」とは、コトノカミという神様を意味している。 神様を祀る日を「事八日(ことようか)」と呼び、12月8日と2月8日に神事が行われてた。 コトノカミは地域によって色々と特色があり地域の生活環境と密接に関係している。 年を司る「年神様」とする地域では、12月8日が「事始め」で2月8日が「事納め」、 農業の神「田の神様」とする地域では、12月8日は「事納め」で2月8日が「事始め」であった。 ここ「森」をはじめとする周辺地域は、かつては殆どが農家であったようだ。 農作物の豊穣や無病息災を祈願する風習、「お事汁」と呼ばれる味噌汁を食べる風習もあった。 「従弟煮(いとこに)」とか「六質汁(むしつじる)」とも呼ばれている。 具材は様々、ダイコン、ニンジン、ゴボウ、サトイモ、アズキ、コンニャクの6種類が具材。 土から取れるものなら何でも良いとされ、事八日の日をつつしみをもって過ごす日とされていた。 画像のように目籠(めかご:目を粗く編んだ、物を入れる竹籠のこと)を軒先に吊るす慣わしもあった。 目籠は神様が訪れるための目印となるように吊るした、と資料にある。 また、一つ目小僧などの妖怪が、沢山の目をもつ籠に驚いて逃げ出すようにとの魔除けでもあった。 無病息災を祈願する現れで、邪気が妖怪として表される民話に通じる。 すべてのものに神霊が宿っていると信じていた往古の日本人、物を大切に扱う心を生みだした!! 節分にして然り!! 事八日の呼び方も色々あったようだ。「ヨウカゾウ」「ヨウカゾー」「ヨウカドー」「師走八日」等。 神奈川県内で云われる妖怪は、一つ目小僧がほとんどで妖怪撃退法なる言い伝えも残っている。 事八日の晩には空を一つ目小僧が通って家人に危害を加えるので、籠通しを屋根の上に置いて警戒した。 子供には連れて行かれぬよう「今日は一つ目小僧が来るから早く寝るように」といって早く寝かせた。 家に災難をもたらす悪霊が通るので、前日の夜に籾(もみ)をとおす大きな目のトオシ、 あるいはクズキカゴを一つ、庇(ひさし)や屋根の上にのせたり、竹竿の先に掛けておいたという。 事八日に現れる妖怪と伝わる「一つ目小僧」の他に「ミカリ婆さん」という妖怪の名前もあったと言われている。 このミカリ婆さんという妖怪も「一つ目小僧」と同じく一つ目の妖怪。 ケチとも食いしん坊ともいわれており、火を咥(くわ)えてやってきて、火事を起こすこともあるとか。 撃退方法も「一つ目小僧」と同じく、目の多い籠を竿先や屋根、玄関に掲げるほか、 小麦や庭に落ちこぼれた米などで団子を作って出入り口に刺していたという話も。 又、呼び名も地域によって、「メカリ婆さん」「メカーリバーサン」などと呼ばれていたとあった。 「消えゆく風習」、現代社会になじまないか?? 否、そうでもないって思うのだ。 各家や地域で語り継がれ「厄や、災いを寄せ付けない」催事的な要素ではなくどの家も真面目に真剣に行っていた。 医療が今ほど進んでいない時代、家主や子どもが亡くなれば家の繁栄にも影を落とす。 疫病が蔓延すれば、村ごと消滅する可能性も十分にあり得た。季節的に流行りやすい時期でもある。 その災いを妖怪に例え、妖怪よけの行事を行うことで災いを遠ざけることであった。 現代社会にその風習は、ほとんど見られない。それを知る者すら少くなった。 便利になった生活が、当たり前の時代、催事に浮き足立ち、風習や慣わしを重んじることが少なくなった。 伝承的民俗行事を消してはいけない、せめて教え示し継がれることを望むのである。 昔の暮らしの中に、現代社会に喰う心の病に光明をもたらすかも知れない。 目の前に広がる光景。新たに葺き替えられた茅葺屋根と竹竿・籠に教えられる事が、あった。 「大和市泉の森・民家園 2016/2/07」
今年も又、成人を祝って(肖ってか!!)寒中神輿が開催された。 それにしても“神輿女子”!!壮観だった。 大人達(睦仲間)の想いは、いかばかりかっていつも思う。 大人社会、政治の社会は、何とも不可思議!?! あの甘利氏が・・・! 脇が甘かった。。。 それにしても週刊誌の存在?? 身近な新成人に送りたい言葉「反観合一」。 真摯におもって止まない。 「藤沢市片瀬東浜 2016/01/17」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 正月は、駅伝観戦??で始まるのが近年の過ごし方。 元旦のニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝競走大会)は、 日本を代表する長距離選手を見れる年頭の実業団オールスター戦!! 同時に社名宣伝、看板効果も大きい。 続く2・3日には、東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)が開催される。 こちらは、関東ローカルのみの大学で競う大学駅伝、学生組織が主宰している。 駅伝は、日本で生まれた独自の競技方法、ユニークな競技ではないか。 団体競技、襷リレーという「和」的感覚。走者は、重責だが選ばれし戦士。 でも箱根駅伝って毎回と言ってよい程に悲惨なことが起こる。 今年も気温が高めだったためか、脱水症てき症状も見られたが・・・。 その度に、駅伝有害論が出てくるが事象的評論家が好き勝手を言ってほしくない。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 昨年の正月、ブログルで「駅伝」について色々と記した。 拝借画像だが、箱根駅伝の往路5区、青山学院大学の選手の追い抜き場面。 その時の追いつかれた駒沢大学の選手、抜かれただけでは無く、 ゴール間近かで低体温症になりフラフラ朦朧と、それでもゴール出来た。 この駒大の選手《馬場翔太(現4年生)君》あれから1年間、如何に過ごして来たか? ちょっと気になっていた。大学生という前途ある若者でもある。 更に選手層が厚い駒大だ。埋没してないとよろしいが。。。!気になるところであった。 * * * * * 今年の箱根駅伝、事前出走一覧に「馬場」の名前がない。補欠登録だ。 厳格な駒大監督の目に止まらなかったか、今年は!?! それとも作戦か?? 各大学の選手層は、程々にあつい。本番選手に選ばれるのも大変な事だ。 リベンジの山上りか?と思ったのだが、今年はダメ!!選手層は厚い駒大だから。 ところが、復路の選手変更発表を見て驚いた。8区にエントリーされている。 8区は、復路の重要な区間、そこを任された。実際に観戦に行かねば、と出かけた。 沿道では、一瞬で選手は走り去って行く。テレビ観戦の方が選手の表情はわかる。 だが実観戦の臨場感は、やはりいいですね。。。!馬場君の表情すこぶる良かった。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 競走と言うことからして勝ち負け、代表に選ばれる、等々は致し方無い。 だが駅伝は、「和」団体競技だ。そして学生には、学年ということもある。 駒大の馬場君、4年生で学生最後の駅伝だ。この1年間、苦しんできたことだろう。 過去に色々とアクシデントに見舞われた競技者を傍観してきて思いは複雑だった。 今回の馬場君、快調に走ってる。その姿からは昨年のことは微塵も感じられない。 一駅伝フアンとして、よくぞ復調した、と思わず“馬場君いいぞ”と叫んでいた。 爽やかに観戦出来た。沿道の整理・警備をしている方々のご尽力には頭が下がる。 今年は、勝負どころの遊行寺坂では無く今少し戸塚中継所に近いところで観戦。 観戦場所のすぐ後ろに警備に携わ白バイ隊が待機してるところであった。 そんな光景をながめながら昔を思うと色々と。 古く運営監理車・監督伴走車が自衛隊のジープ・自衛隊員が協力してた時代がある。 我が母校は、久しく箱根駅伝に出ていない。 ライバル??W大としんがりを争っていた^^)懐かしい。防衛大学校もでていた。 今年の箱根駅伝観戦は、昔を思い出させてくれた楽しい観戦だった。 1月10日、産経ウエブサイトの【スポーツCatchUp】を見て感動した(下記全文)。 《葛藤、感謝、使命感…駒大・馬場翔大 山の「失速」から1年、挑んだ最後の箱根駅伝》 1年前の悪夢をぬぐい去ってみせた。1月2、3日に行われた第92回東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)で、 駒大の馬場翔太(4年)は8区を2位の好走でチームの総合3位に貢献した。 前回は山上りの5区で低体温症に陥って失速。首位に立っていたチームは往路4位、総合2位にとどまり、 一時は陸上競技をやめることまで考えた。「本当に山あり谷あり。すごくいろんなことを学んだ箱根だった」。 特別な思いで臨んだ大学最後の駅伝は、納得のいくレースとなった。「自分らしい走りはできたかなと思う」。 往復217.1キロの終着点となる東京・大手町。 総合3位でゴールした10区の中村佳樹(3年)をチームメートとともに出迎えた馬場は、すがすがしい表情を見せた。 任されたのは終盤に難所の遊行寺坂が控える海沿いの8区(21.4キロ)。補欠からの当日エントリーだったが、 駒大としては予定通りの起用で、馬場は目標タイムを1時間4分50秒に設定していた。 ただアクセルを早く踏み込みすぎて失速した前回の反省と、1月とは思えない気温上昇を考慮し 「遊行寺坂が始まってからが勝負」と冷静に判断。前半はペースを抑え、最終的に1時間5分22秒で走りきった。 区間賞の下田裕太(青学大2年)には1分1秒及ばず、チーム順位も上げられなかったが、 実力者の柳利幸(早大4年)らを抑えて堂々の区間2位。 ふらつきながら懸命に足を運び、ゴール直後に倒れ込んだ前回とは一転、9区の二岡康平(4年)に笑顔でたすきを渡した。 「欲を言えば区間賞を取りたかったし、10区に渡るときに(総合優勝した)青学大の背中が見えるくらいにはしたかった」。 それでも「沿道から『駒沢』だけじゃなく『馬場』って名前も呼んでいただいて。 すごく幸せを感じたし、この1年、支えてくれた方々にお礼を言いたい」と感謝を口にした。 気になることがあった。昨年12月11日の練習公開日、馬場は「5区を走りたい気持ちはある。 ただ、5区でなくてもリベンジはできる」と慎重に言葉を選んでいた。 雪辱に燃える馬場の気持ちをくんだ大八木弘明監督は、走る区間の選択権まで与えていた。 「8区を走ることになった経緯を教えてください」。そう尋ねると、馬場のつぶらな瞳から涙があふれてきた。 「最後の年、もちろん5区を走りたい気持ちはあった。自分にとっては『箱根=5区』」。 2年で初めて走った際には、区間3位の1時間19分54秒をたたき出した実績もある。 だが昨年11月に行われた山道を使っての適性テストで満足な結果が残せず、 大八木監督が与えた2度目のチャンスでも記録は伸びなかった。 「5区を走りたい気持ちと、チームに迷惑をかけちゃいけない気持ちで揺れた。 最後はチームの役に立ちたいと思い、自分から『8区に』と監督に言いにいった。すごくつらい決断だった」。 苦悩と葛藤に直面した日々は、まだ鮮明な記憶として残っていた。一方で馬場はこうも言った。 「8区に回って間違いではなかったと思う。監督、コーチ、メンバー、マネジャー…。 支えてくれたすべての人にありがとうと言いたい」。重い決断を知ったチームメートは彼に寄り添った。 マラソン元日本記録保持者で、今年度からチームに加わったOBの藤田敦史コーチは、 気分転換に8区の下見へと連れ出してくれた。 何より大きな支えになったのが家族の存在だ。3人きょうだいの末っ子。 女手一つで育てあげた母親の文子さんを過去2回の山道では見つけられなかったが、 今回は母親が沿道で掲げた「翔大」の横断幕がはっきりと目に飛び込んできた。 「1人で3人を育てるのがどれだけ大変だったか…。でもほかの子と同じように習い事もさせてくれたし、 何不自由なく生活させてくれた」。 昼間に事務の仕事をこなし、夕食をつくってからパートに出かける母親の姿に「倒れるんじゃないか」 と心配したことも1度や2度ではない。ただ姉を通じて「インターハイとか、大会の応援で、いい観光をさせてもらった」と、 母親が自分の走りを励みにしていたことも聞かされた。 前回の箱根駅伝の翌日には、駒大の最寄り駅で見送った馬場に「諦めずに走り切ったことを誇りに思うよ」 と告げて列車に乗り込む母親の姿があった。心に穴が空いた状態で実家に連れて帰れば、競技から離れてしまうかもしれない-。 地元・岡山にあえて帰省させなかった文子さんの親心を、馬場は少し時間がたってから感じ取った。 同じ22歳の男子大学生の多くがそうであるように、母親に頻繁に電話したりはしない。 それでも感謝の思いを伝えようと、数年前にはAIの名曲「ママヘ」のCDにメッセージを付けて贈ったこともある。 大学卒業後、NTT西日本に入社して競技を続けられることが決まると、 「これから親孝行していけるな」と喜びをかみしめた。 「あきらめない姿勢を後輩に伝えたかった」という最後の箱根駅伝。 子供の頃、テレビで見た箱根のランナーに憧れた記憶から 「今度は自分が小さい子に夢を与える番」という気持ちもあった。 「人生のターニングポイント」。厳しさも喜びも与えてくれた「天下の険」の思い出を胸にしまい、 実業団での新たな陸上競技人生をスタートさせる。(奥村信哉) ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 上記の記事を読んでいて、大学、否、学生・生徒競走者の現実が見えてくる。 指導者も選手たちも互いに学び成長するのだと感じ入る。 ただ単に、燃え尽き症候群などと、言ってほしくないほしくないのである。 今は、陸上長距離界の指導者だが、現役時代は、日本期待の星だった瀬古利彦氏。 大学生時代、恩師中村清監督が彼らを激励するのに、母校の校歌を歌って居られた。 テレビ完全生中継などなかったラジオ時代の話だ。 今は、テレビ完全生中継されることが、良くも悪くも選手に影響している。 大会当日・前日の各選手は、すこしばかりの体調不良報告などしないだろう。 心情的には理解できる。全国生中継されるのだから。 しかしながら、駅伝が、日本のマラソン界をダメにした等と暴言を履くのを許せない。 駅伝の効用は、地道だが徐々にでている。東京オリンピックには、センターポールを賑わしてほしい。 「横浜市戸塚区俣野にて」
今年は申年です。 三猿=見猿・聞か猿・言わ猿、 その真逆を行こうぞ、今年は^^)。 扨、さて、ブログで何を考えよう。 昨年戦後70年を以って日本に変化を見る。 其の続きを今年は考えよう!! 花と猫とイヌとの対話の中に何かを見つけたい。 色々・・ワイワイガヤガヤ、と。 本年もよろしくお願い申し上げます。